ヨウコさんが亡くなって、4年半。
折にふれてヨウコさんの言葉や姿が浮かぶ・・・という時期は、いつの間にか過ぎたらしい。気がついてみたら、ヨウコさんの思い出と言えそうな記憶は、雲散霧消という言葉が浮かぶような、うっすらとしたものばかりになっている。
私の実の母親である「ヨウコさん」のことは、距離が近過ぎるせいか、これまであまり書こうと思わなかった。
それでも、6年前に「ショウコさんの戦争」という記事をこのブログで書いた際、ふと戦争にまつわることだけは、ヨウコさんについてもいつか書けたら・・・と思った。(今回のこの「ヨウコさんと戦争」というタイトルは、そのとき下書きファイルに残したものだ)
ヨウコさんは、昭和7年(1932)3月に生まれた。
「正真正銘、戦中派よ、私は。生まれたときが満州事変、小学校は支那事変、女学校は大東亜戦争~って、もう次から次へと戦争ばっかり」
調べてみたら、なるほど・・・大袈裟とばかりも言えない。(父(大正15年生まれ)曰く、「僕なんかは、それでもまだ”戦前”の雰囲気を覚えてるけど、ヨウコさんはそういうものが全く無いんだな。生まれたときから、ほんとに”戦争”なんだよ。あれはちょっと・・・可哀想やな」)
私が高校生のとき。小さな国旗の模様が散らばっている安価な綿生地を見つけて、洋裁の上手なヨウコさんに、パジャマにしてもらおうと買って帰ったところ・・・ヨウコさんは膝の上にその生地を広げながら、小さなため息をついた。
心配になった私が、「どうかした?」と聞いてみると
「なんでもない。ただね・・・」
「まさか、こんな時代が来るとは、思ってもみんかったんよ。これって”鬼畜米英”の旗やから(苦笑)」
そんなモノが寝巻きの模様になるなんて、考えてもみなかった・・・と言われた私は、困惑して、オソルオソル「ヘン・・・かな?」
「いや、いいと思うよ。この3色(米英仏のトリコロール)は、きれいな取り合わせやから」
ヨウコサンの口調はあっけらかんとしていたけれど、それでもしばらくは、黙って生地を見ていた。その後は寸法を測ったり、デザインを考えたり・・・と、普段どおりの洋裁風景になったのだけれど。
ヨウコさんも折にふれて、「あの戦争」の話をする人だった。
TVで、新しいカタカナ語が出てきたりすると
「戦時中は『敵性語』っていうんで、 英語は使っちゃいけなかったのよ。ぜ~んぶ漢字に置き換えて、ヘンな日本語になってた」
「学校でももちろん、教わらない。だから今でも、英語は全然わからない」
文法を知らないという意味なのかな・・・と、当時の私は軽く考えた。実際には、ヨウコさんも普通に外来語を使っていたし、戦後の洋裁学校では「横文字」の専門語がたくさんあった筈・・・と。
ところが、そもそも(英語に限らず)各教科とも、「戦時中」のアレコレに時間が取られることもあって、授業時間は少なめだったのだという。
本人としては、「女学校時代、ロクに勉強をしていない」という、かなり根深い劣等感のようなものがあったのかもしれない・・・と、ずっと後になって、私も気づいた。「当然教わるべきものを、自分たちは教わらなかった」上に、「落ち着いて、自分で勉強できるような環境からは、程遠かった」のが、負けず嫌いのヨウコさんには悔しかっただろう・・・とも。
生来、虚弱と言われていたヨウコさんは、女学校へ行ってからも
「学科の日は、クタクタでよく家で寝込んでたわ。だって『勤労奉仕』のときには、絶対行かなきゃダメだから」
「『勤労奉仕』を休んだりすると、『操行不良』ってことになって、通知簿の『操行』の欄が『甲』じゃなくなっちゃう。そこは、後で試験で取り返すなんてこと、出来ない」
・・・優等生じゃないといけなかったの?と聞いてみると
「違う違う。裏に『非国民』ってのがついてくるのよ」
私の驚いた顔を見て、ヨウコさんは言葉を続ける。
「だから、バケツリレー(とは言わなかったけど。敵性語だから)も、竹槍訓練も、そりゃあみんな一生懸命やったよ。でもねえ・・・」
ヨウコさんの顔が不満げになる。
「空襲警報が鳴ることもあったけど、どう考えても、こんな田舎に爆弾落とすなんて思えなかった。ムダじゃないの、もったいない。福井まで持ってって落とした方が、よっぽど意味があるわけでしょ」
「なのに、そんなときもノロノログズグズしてると、”非国民”なの」
理屈に合わないことはいくらもあった・・・とヨウコさんは言う。
「たとえば、学校に『御真影(ごしんえい)』ってのがあってね、火事とか空襲の時には持って逃げなきゃいけないんだけど、普段は直接見るのも『不敬』に当たるって、納めてある場所の近く通るときは、頭を低くして急ぎ足で・・・って。何か特別の機会だと、みんな最敬礼させられる。練習するのよ、お辞儀の仕方」
早口になっていたヨウコさんは、そこでふと我に返ったように
「でも・・・そんなのただの写真じゃないの。終戦後はどうなったのかしら、あのゴシンエイ」
それにね・・・と、話は続く。
「イヤだったのは、『連帯責任』。町内のことも、学校でも、一事が万事、これなの」
「班の誰かが何かしたら、全員の『連帯責任』だって言って。いっぺん、それで真冬に外に立たされたわ。雪降ってるっていうのに、みんな並んで」「何したの?」「さあ、忘れた。どうせ大したことじゃないし」
「でもね・・・今思うと、あの頃の先生たちって、どっかヘンだったんじゃないかな」
「たとえばね、物凄く寒いときに、全校生徒、校庭に整列させて、上半身裸で『乾布摩擦(かんぷまさつ)』させたりする」
「わたしはちょっと前まで小学生~って感じだったから、まだよかったんだけど、上級生たち(もちろん女子ばかり)は・・・イヤだったろうと思うよ」
「で、あれだけ言いたい放題、ヒトのこと悪しざまに言って”罰”を与えたような先生たちが、戦争に負けた途端、手のひら返すみたいに大人しくなったんだから・・・一体何だったのかしらね、戦争中のアレは」
「教科書にいっぱい、墨塗ったわ。教えてた人たちって、ああいうの、どう思ってやってたんだろ・・・って、子どもだって不信感のカタマリになるの、当たり前でしょ」
『勤労奉仕』ってどんなことするの?と尋ねると・・・
「私たちは農作業が多かったわね。おかげで今でも、田んぼの起こし方とか、畝の作り方とか、天秤棒の担ぎ方とか、身体が覚えてる。最後の頃は、自分でもお百姓が出来るんじゃないかって思ったくらい」
「最初はね、ほんとにひどかった。田舎の方に住んでて、普段から手伝ってる子たちとは雲泥の差・・・って、まあ当然なんだけど。畝を立てようとしても、デレデレでれ~って崩れてきちゃうし、そもそもクワの使い方がわかってないし。そんなこと何もしたことないんだから」
「肥え桶も担いだわよ。でもロクに歩けない。重たいし、バランスが取れなくてよろけるばっかりで」
コエオケなんてよく担げたね、ハズカシクなかった?と、私が聞くと
「恥ずかしかった。もう、顔から火が出るってあのことだわ」
「あ、でもあんたが言うような意味じゃなくて、一人前の仕事が出来ないってことが、本当に情けなくて、恥ずかしかった。他の子は出来るのにって」
「でもね、何日かそうやって通ってるうちに、大抵のことは出来るようになるの。最初どうなることかと思っても、大丈夫、やってるうちに出来るようになる。ちょっと自分でも感心した(笑)」
ただね・・・と、ヨウコさんは古い記憶を探るような眼になって
「一度だけ、あれは悪かったのかなあ・・・って思ったことがあるのよね」
「食料増産のため・・・って、普通の畑に出来ないような山にも、蕎麦を植えたの。山全体が蕎麦畑になったんだけど、蕎麦の花って、遠くから全体として見ると、結構きれいなモンよ」
「学校から一日がかりで、遠くの山まで出かけていって・・・」
「春植えて、秋に収穫」
「・・・で、全部刈り終わったら火をつける」
「へぇ~燃やすんだ」と驚く私に
「うん、焼畑するの」
「でも、うまくやらないと大変。煙に追われて、逃げるハメになったりする」
そこまで来て、ヨウコさんは笑うのをやめて・・・
「あのときは、火をつける前、まだ全部刈り取ってないのに日が暮れてきちゃったのね」
「鎌の使い方にちょっと慣れてきた・・・ってのも悪かったんだと思う。急げ急げってせかされて・・・」
「私が大きく横にはらった鎌が、近くに居た同級生に当たったの。たぶん太ももの辺りだと思うんだけど、本人も何も言わないし、みんな急いでるし、もんぺ脱いで、傷口調べられるような場所もないし・・・で、結局そのまま作業続行。終わったら大急ぎで下山して、みんなバラバラに家に帰っちゃったから・・・」
「相手の怪我がどれくらいだったのか、今もわからない。多分、わたしの父親が”後始末”をしたんだと思うんだけど、結局、何も言われなかった」
「でもね、はっきり”手応え”があったのよ。巨大なカマボコでも切ったみたいな。わたしの思い過ごしじゃない。それなのに・・・何が何だかワカラナイまま・・・誰も何も言わなかった」
ヨウコさんは、特に罪悪感というほどのものは感じていない様子で、その同級生とも、その後話す機会は無かったと言った。私はただ、「カマボコを切った」という言葉で、頭の中が真っ白になったのだけを覚えている。
ヨウコさんは、やや特殊な育ち方をした人かもしれない。
何人もいた兄弟たちは、幼いうちに次々と病気で亡くなり、「虚弱」で、あまり期待されることもなかったヨウコさんんだけが、生き残ったのだという。祖父母からは当然のように溺愛されたが、本人はそれをあまり喜んではいないようだった。
「着物だの何だの、降るほど買ってくれるんだけど、私が欲しいというものは買ってくれない。向こうの思い込みで、与えられるだけ」
「自分が悪いことしたと思っても、『ごめんなさい』って言葉の使い方を教わってないから、なんて言ったらいいのかわからない。ただ猛烈に、父親の機嫌が悪くなってるだけ。物凄く腹を立ててるのは明らかなのに、向こうも怒ったり叱ったりはしないの。ただ黙って堪えてる・・・周囲もたまったもんじゃなかったと思う」
「女学校を卒業する前、医者になるか洋裁の方に進むかって話になったとき、出来るものなら、私は医学の方に行きたかった。でも、こんな田舎で、戦争で、何も知らないまま女学校出たような人間が、都会で他の人と伍してやっていけるのかどうか・・・全然自信がなかった」
「あのとき、親が一言、背中を押してくれてたら、大丈夫だ、絶対お前ならやっていけるって言ってくれてたら・・・って、後から随分思ったわ。でも、父親は『お前の好きにすればいい』としか言わない」
「そう言われたら、洋裁はキライじゃなかったし、何より自分の手に負えそうな世界だったから、私も楽な方へ行っちゃったのよね。でも、親の方も逃げたんだって思った」
・・・など、など、など。
そんなヨウコさんにとって、「あの戦争」の日々が本当はどういうものだったのか・・・こうして書いていても、やはり私にはわからない。(というか、書いてみてわかったのは、ほとんどそのことだけだ)
ただ、人一倍感じやすい子どもが、生まれたときから13年間、「戦時という日常」の中に居たということ。それは、その子の「人間」としての土台に、多くの傷を負わせただろうということだけは、私にも想像できる。そして、それを吐き出し、多少の修復を図るためには、相当の時間が必要だったのだろうとも。
ヨウコさんのことを書くのは、私にはやはり難しい。
それでも、ヨウコさんが「戦争」を語る際の明快な口調、くるくる変わる表情、なのに思いつめた真剣さのこもる、暗い視線・・・そういった「情景」を、思いつくだけここに書いてみた。
何が書きたかったのかは、結局自分でもわからないままだけれど、書いて残せる(この先も自分が読める)ことで、私はどこか慰められる部分があるのかもしれない。
少なくとも・・・この記事を書いている間は、元気一杯だった頃のヨウコさん(なにせ娘の私が高校生とすると、本人もせいぜい40才)に、久しぶりに会っているような気がした。
高校卒業と同時に家を出て、疎遠になっていった私にとっては、一緒に暮らした「最後の頃」の姿で、もう一度会うことが出来たのは・・・やっぱり嬉しい。
ここまで来て、思い出したことがある。
ご主人を長年の病気で亡くした初老のヨウコさんと、まだ幼い子を2人抱えて、転職を繰り返す夫と「20年に10回引越しをしていた」頃の私の会話だ。
私が疲れて見えたのだろうか・・・ヨウコさんは、私と2人きりになったとき、あのある種真剣な?眼差しで忠告してくれたのだと思う。(ヨウコさんは真面目に言っているのか、その場の気分でからかって?いるのか、わからないこともあるヒトだったけれど、そのときは珍しくも「本気」に見えた)
ヨウコさんは言った。
「自分のことは、どんなときでも、自分で決められるようにしておかないとダメ」
「手綱をヒトに渡しちゃダメなの。 どんなにメチャクチャに言われようと、主導権は自分で握ってないと」
「そうね、ほんとにそうだよね」と、口では答えながらも、内心「そうもいかないんだよね・・・現実は。アナタみたいにはいかないんだよ」と思っていた私は、ふと思いついて訊いてみた。
「どうしてそんな風に思うようになったの?」
そのときの私は、自分のことなどどうでもよかった。ヨウコさんの口調、眼差しがあまりに真剣で、ヨウコさんのポリシーの核になるようなモノを聞いている気がして、その方に「神経がいってしまった」のだと思う。
ヨウコさんは普段から、「人もなげ」な言動で敬遠されていて、機嫌が悪いときの彼女については、「怖い」とはっきり口にするオトナたちも珍しくなかった。「ひとり娘」で、「お嬢さん」で、怖いもの知らずなだけだという人もいたのだろうけれど、そういう批評・批判・下世話な噂?など、ヨウコさんは全く問題にせず、とにかく「いつも自分で決めている」人には見えていた。
だから、そのときのヨウコさんの表情は忘れられない。
一瞬、不思議そうに私を見て、ごく当然のことを口にする態度で彼女は言った。
「そりゃあ、戦争に遭ったからよ」
「ショウコさんの戦争 ・・・・・ 『紙屋悦子の青春』」
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/33b02ba0d9b5e263a77ca0c2ef858688
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