感想は、「2月上旬の映画鑑賞」http://blog.goo.ne.jp/ms-gekkouinn/e/be8fb9cfa1efa6d62c450a0bc1f917a6に記してありますので、ここでは、映画の深読みは避けて、本作に出演している主演&他の印象的な役者さんをストーリーに準じて取り上げたいと思います。
パーティで出会い恋に落ちる二人。女は女優の卵、男は「仕事は?」と尋ねられるがはぐらかす。セールスマンか何かだが、人生において仕事に特に意義を感じていないらしい。やがて普通のサラリーマンだと分かる。ただし、1950年代のアメリカの。
場面は変わり、それから数年後。
いきなり劇場の場面。ディカプリオが花束を持って劇場にかけつける。舞台にたっているのは彼女ケイト・ウィンスレット。けれど、観客席からは、「彼女、期待したほどじゃないわね」といった声・・・・
二人は結婚し郊外にマイホームを持つ夫婦になっていた。ということは、結婚後も女優への「夢」は続いていたことが分かる。けれど・・・・、公演への評価は芳しくはないことは誰よりも当事者が分かるものだ。ディカプリオは何とか褒めて彼女を喜ばそうとするが、逆効果。
楽屋を出て外に向かう二人のこのシーン、女と男に交互にライトがあたるシーン、実に演出、撮影が見事だなあと。
劇場を出てからの車の中の二人、
まるで離婚寸前の男と女かと見紛う程の雰囲気に緊張するシーンで、この夫婦の間にある苛立ちとストレスがどっと伝わってきます。
冷静になろうと努力する二人ですが、それぞれが抱いているストレスはそれぞれ別のものながら、根っこには二人のあり方への懐疑と不安と不満が苛立ちと怒りなって現れた場面。愛している相手だからこそ分かってほしいとお互いに望んでいる。愛しているからこそ話したいこと、あるいは話したくないこと話せないこともあるが、愛の形が変わればそれらもやがて変わっていく。
二人のそれぞれの表情を捉えたこの冒頭の車でのシーン、とても印象的な映像でしたね。
夫を送り出した後の女の後姿。恋に落ちてときめくままに将来は薔薇色のはずだったのが、現実は毎日、食事を用意し家の掃除をし、洗濯をし子供の世話・・・・どうして溜息が出るのか。どうして押しつぶされそうな気分になるのか。
一方、夫は毎朝駅まで車を運転し列車の乗って会社に出勤する通勤族。
会社の同僚たちも同じ。特に生きがいというわけでもない仕事を「男だから」「一家の主だから」ということで家族の生計のためにやっている。楽しみと言えば、ランチや会社のあとの仲間との一杯・・・・あるいは、出世。
通勤に1-2時間はかかっているだろう家路ながら、帰宅すれば、いまの暮らし、つまりは結婚後の「お約束の暮らし」「かくあるべきだとされる在り方」に窒息寸前で苛立っている妻が待っている。「あなただって、やりたいことがあったはず」と責め立てられる夫ディカプリオとしてはたまらない。けれど、二人は愛し合っている。話し合った末に、「結婚とはかくあるべきもの」「夫婦はかくあるべし」と迫るもの(同じような暮らしをしている隣近所の人々、そうした考え方を普通だとして受け入れている地域や時代)から脱出し、家も車を売りパリに移住する決意をする二人。そこでは、ディカプリオは家族のために働くのではなく、勉強したり自分の人生の生きがいや遣り甲斐を見つけ、妻であるケイト・ウィンスレットが高給の秘書となって家族を養うという。
隣近所にその挨拶にいく二人。話を聞かされた人たちは皆一様に驚いて笑って祝福しながらも顔をこわばらせる・・・・
計画を実行に移し始めてからの二人はラヴラヴ・・・・特に妻は生き生きとし始める。そうこうしているうちに、夫は堕胎の道具を見つけて妻に険しい顔を見せる・・・「いままでいったい何人俺の子供をトイレに流したんだ」と。「普通の母親なら、母親になった女性ならこんなことは絶対しない」と詰め寄ります。
郊外に瀟洒なマイホームを持ち、二人の可愛い盛りの子供たちにも恵まれ、男には給料のいい仕事があり専業主婦の女は美しく魅力的。傍目には何の不満もない理想の夫婦と見えている男と女ながら、二人の本音が炸裂するシーンです。「子供たちは愛している。けれど、」ここで子供を産んでしまったら、もう自分の人生を取り戻せない!「子供を持つならパリで産みたい!」と懇願する妻。
夫は会社にまだ辞表を出してはいなかった。迷いがあったから。そして妻の妊娠を契機に二人のパリ移住計画はキャンセルに。
叫ぶ妻・・・耳を塞ぐ夫。
とまあ、全編、この夫婦とその近所の夫婦の在り方を通し、個としての夢や野心や自由が結婚後の現実の中で失われていくことへの思いが、男(夫、父親、外で働く人)の、女(妻、母親、専業主婦)の、それぞれの思いを相手に届かない台詞や叫び、微妙に揺れ動く表情や激しく溢れ出る感情の表出によって、これでもかというほど畳み込んで描かれていきます。キャッチコピーそのままに「運命の二人」と言ってしまえばそれまでながら、それでは、「運命」というのは、自分か相手を破滅させないではいられないという意味になる。
ストーリーは、こちらをご覧戴くとして、
⇒http://www.r-road.jp/story.html
この映画は、サム・メンデス監督にとって”個人的に”思い入れのある作品なのでしょう。私にとっては、それ以外にコメントのしようがない内容でした。テーマ自体が1960年代-70年代かと思ってしまったほどで、いまこうした内容が身に染みる方がいらっしゃるとすれば、おそらくは団塊の世代の女性たちではないかなぁと個人的には思いました。本は、早川書房から出ています。ご参考までに。
以下、印象に残った出演者。いずれもいい味を出していたと思います。
夫を演じたディカプリオが勤める会社のボス。仕事が彼の目に留まり、いっきに引き上げられることになる。このボス役の彼が実にアメリカ的な会社重役を演じていました。ジェイ・0・サンダース(Jay O. Sanders)、肉がついて貫禄もついてきましたね。
二人に満足いく新居を案内して以来、行き来するようになった婦人を演じていたのは名女優キャシー・ベイツ(Kathy Bates)
彼女が演じているのは、ごく普通のアメリカの善良な家庭婦人ながら、彼女こそ当時のアメリカの「かくあるべし」というモラルや価値観を象徴する大いなる母像として、いわゆる個を圧迫する存在の象徴として登場。そこに象徴される偽善の鎧は鉄壁。
そんな「りっぱな」母親に過保護に育てられ、自立し損ねて精神を煩ってしまった「自慢の息子だった」はずの息子の成れの果てを演じているのがこちら。
マイケル・シャノン(Michael Shannon )。脳に電気治療まで施され精神病院に入院していたキャシー・ベイツ演じる婦人の息子の役。彼の言葉は「狂人」のものとされるが、実は、主演の二人が隠している本音に突き刺さる言葉を吐くという役どころ。原題の感覚でいえば、まともなのは、この息子だけということになるかもしれない。どこかで観ている俳優なのだが、思い出せなかった。
そして、キャシー・ベイツ演じる婦人の夫であり、精神を煩ってしまった息子の父親役を演じたこちら・・・ラストの大写しで映し出されるこの夫に象徴される表情こそ、この映画の隠されたテーマかもしれない。リチャード・イーストン(Richard Easton)という俳優さんですが、凄い表情を見せてくれていました。
そして、忘れてならないのは、ディカプリオたち夫婦の隣に住み家族ぐるみの付き合いをしているこちらの男女。
ちゃんと主婦業をこなしアメリカの中流家庭の模範的婦人となっている妻を演じているのは、キャスリン・ハーン(Kathryn Hahn)という女優さんですが、二人のパリ移住計画を聞いた後、一人になったときに泣き崩れるシーン・・・・夫に何故泣くのかと聞かれて泣くしかない姿は象徴的。彼女もまた、多くのものを諦め抑圧された中で平穏に暮らす一市民であることを物語っています。
仲のよい夫婦、いつも妻をいたわりこれまたアメリカの中流家庭の夫を見事に演じていたのがこちら。
デイヴィッド・ハーバー(David Harbour)、映画『007慰めの報酬』でもちらっと出ていましたが、隣の普通の夫婦、良き夫婦の夫を演じていますが、彼が演じるこの夫も心の中に秘めた思いがありました。切なくなるほど悲しく罪深い思い。この映画をご覧になる既婚の男性には、思い当たるものがあれば辛いかもしれませんね。
この映画は原作に忠実に制作されたとのこと。原作は読んではいませんが、おそらくいろいろな読み方が可能でしょう。男性と女性では感じ方や読み方がかなり異なる一つかもしれませんが、私はこの映画は女性よりも男性のための映画、男の方により染み入るのではないかと感じますね。 ただ、後味の悪い映画なので、娯楽嗜好の方にはおススメしません。