月光院璋子の映画日記

気ままな映画備忘録日記です。

「悪魔の呼ぶ海へ」

2008年05月04日 | ◆ア行

2000年製作のアメリカ(フランス、カナダ合作)映画。
監督は、キャスリン・ビグロー。


今回初めて観た映画ながら、観始めて小一時間ほど経った頃か、いきなりこの監督は女性じゃないかと思ったら、まさに当たりだった。

スェーデンからの移民としてアメリカニューイングランド諸島の孤島に移り住んで来た男女、その何もない孤島の廃墟のような家屋で起こった100年前の惨殺事件。
その事件を取材するフォトジャーナリストの主人公が、事件の真相を推理していくうちに犯人の心理にシンクロしていく。サイコサスペンスタッチの文芸モノといっていいのだろうけれど・・・、グウィネス・バルトロー主演の『抱擁』というイギリス映画を、思い出してしまった。


現代と過去の物語がシンクロを起こすという点では同じだが、映画「抱擁」では、それぞれに恋愛という関係で課題を持つ二人の詩文学の研究者が、取材の対象である過去の二人の詩人の謎解きに迫っていくという点で時制の軸足がはっきりしていた。そのため安定感があったが、この映画では、そこがちょっと複雑だ。

ヨットで過ごす二人の女と二人の男が現代の時制に属するけれど、その帰属が映画の軸足となっているとは言いがたい。しかも彼女の中でリアルと想像とが交錯し、事件を推理し想像された世界の次元と時制が、彼女の中で交錯し混乱していく・・・・
あれでは、自分がどうなってしまったのか分からないと叫びたくもなるというものだろう。


最初、まず、ヨット上に揃う4人の関係が分からない。
他の男女が海で愉しそうに泳いだり日光浴をしたりして休暇をくつろいで過ごしているのに、ヨットの上でやたらとカメラのシャッターを切っている女が一人いて、同じくヨットのキャビンから物憂げで何やらいわくありげな表情の男が一人出てくる。それがショーン・ペン演じる男。彼は何者?

フォトジャーナリストの女に扮したキャサリン・マコーマックの目線は、そのショーン・ペンと彼の視線の先を捉えてやまない。が、彼女のシャッターを覗いているときの目は、なぜかだんだんときつくなっていく様子、その微妙な変化は見ものです。
もっとも、カメラのレンズを覗かないときの目にも、何やらきつい棘がありなぜだろうと感じさせられます。


事件の≪取材≫に来たという彼女。ヨットの上でも本や資料を読んでいることが多く、ヨットの上でそんなことをするかという突っ込みはしないで見ていくと、この女性は作家かと思われてものの、相変わらずカメラのシャッターをパシャパシャ切る。
つまり、フォトジャーナリストかノンフィクション作家なのかもしれない。と分かるものの、イマイチ4人の関係が分からないまま、映画は進んでいきます。

ショーン・ペンは、会話の中身から高名な詩人だと分かる。ロマンティストで奔放な情熱家である反面、気難しく自己中心的。つまり家庭的じゃないが、知的で才気走った感性がある男という役どころだろうか。
その彼の表情と視線を、カメラのレンズは執拗に捉えていくのですが、シャッターを切っている女はなぜ彼にそんな気持ちを抱いているのだろう・・・・と謎が深まっていく。

そんな二人と比べると、詩人のショーン・ペンと違って彼の弟はあまり屈託がないように見える。一緒に来た恋人と昼も夜もべったりながら、本を読みカメラのシャッターを切る彼女に気配りも見せる。気になる存在なのだろうか・・・・。が、彼はさほどたいした役柄じゃないというのが何となくわかる。

その弟の恋人役をエリザベス・ハーレイが演じている。
彼女は肌の露出もだんだん大胆になっていきますが、と同時に、映画の進行と共に不思議とだんだんきれいになる。その辺りも、見ものです・・・・

なぜなら、それは、キャサリン・マコーマックの目線で捉えられた彼女であり、美人ではあるけれど、他にこれといった性格設定もない彼女が、だんだんと媚態を見せたり魅惑的な視線をショーン・ペンに向かって投げかけていくようになります。けれど、現実には弟の恋人であり、夜にはベッドも共にしている間柄。

そんな彼女が魅惑的な女としてカメラのレンズでクローズアップされていく。そういうふうに映し出された彼女の姿は、まさに写す側の心がそう見ているということの証左。
レンズで捕らえられた彼女の像が変化してくるということは、そのまま写す側の心理に変化が生じていることを意味している・・・・嫉妬のような猜疑的な目には、ドキリとさせられるほど。

そんなカメラマンの心の変化を捉えるもう一つの目が、
この映画の監督の眼だということに映画が始まって小一時間経った頃に気づかされた。



極端に直接的な会話が少ないにもかかわらず、映像は饒舌に心理描写をしてくれるようで・・・・煮詰まった感情が投影された映像とボヤケた心の行方。それゆえに見ているこちらもまるで船酔いしているかのような不安定な気分で息苦しくなります。

この映画に漂う独特の重さは、対象を捉える複数の目線、その目線によって顕されるもの、それらがカメラを覗き込む女の心の目で再構築され、現実なのかどうかわからなくなる。言い換えるなら、独り相撲ともいえるかもしれない状況・・・・そこに、彼女が想像し再現する100年前の事件の世界が重なってくる・・・・いわば、そうした心理に重層構造そのものにあるのかもしれない。

夜のヨット上で4人のパーティ。そのときビキニ姿でワインを傾けながら、エリザベス・ハーレイはショーン・ペンとキャサリン・マコーマックに向かって、「お二人は、世界をイメージし自分の世界を作るというところで、お互いに共通しているところがあるんですね」というようなことを語る。それも、意味深長な予兆を示唆する言葉だなあと。


意味ありげなショーン・ペンの表情も、そういう意味では、映画の中で副次的な存在だとそのとき考えさせられる・・・
なぜなら、この時点でショーン・ペンは、詩の朗読をしたり、詩についてのコメントをちょっと口にするだけで、ほとんど黙っている。彼自身は何もイメージせず世界もイメージしてはいないし、そうしたことに関心も示さない。常にカメラの被写体である、女の推理を聞かせられる役目・・・・・この辺りだろうか、二人は夫婦だということがわかってくる。

この映画は、女の映画だと感じますね。真のヒロインは、100年前その孤島で実際に起こったらしい実に面妖な事件の主役の女性を演じるサラ・ポーリーといってもいい。
もっとも、そこでのドラマは、その事件を取材し真相を推理するキャサリン・マコーマックが思い描いたもの・・・・裁判記録を読み進めながら、事件を推理していくキャサリン・マコーマック。

事件に対する集中力ゆえでしょう。だんだんと事件の中の人物の心理とシンクロを起こしていきます。ショーン・ペンに求められ互いに求め合おうとするのに、そんな彼を拒んでしまう。二人は夫婦なのだと判明してきます。

しかし、100年前に遡ってドラマは進む。
彼女は、少なくともこの映画展開にあって牽引車的存在になっていく存在だ。惨殺事件では二人の女が殺され唯一生き残った女が、このサラ・ポーリー。

惨殺されたのは、彼女の実の姉と義理の姉。
しかも犯人は二人を斧を振り下ろして惨殺した後、サラ・ポーリーが窓から逃げ去った家の中でお茶を飲んでいるという事実。そんなことってあるのだろうか。水ではなく、湯を沸かしてお茶を飲んでいる!なぜ?

この惨殺事件で唯一殺されず逃げて助かったとサラ・ポーリー。キャサリン・マコーマックは彼女が裁判で証言した話や手紙や日記などを読み進めていく・・・・サラ・ポーリーが演じる女性の輪郭が、それに伴いはっきりと描かれていくようになると、映画は俄然≪静≫から≪動≫へと転換し、生き生きとしてきます。

すると、100年前の惨殺がフラッシュバック!のごとく白昼夢となってその断片が目前に立ち現れて、ますます事件の真相(あくまで彼女の推理・・・)究明に取り憑かれていく過程で、夜突如として真相が見えてきた100年前の惨殺事件の登場人物に心も頭もシンクロしていくキャサリン・マコーマック・・・

ここにきて、やっと映画は本流のサスペンスになっていきますが、そこまでが実に長い・・・・・。

いずれにせよ、この映画は女性映画といっていいのではないかと。キャサリン・マコーマックとサラ・ポーリーのガチンコ映画です。

 



 


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