ヴェルディ:歌劇「椿姫」~ 仰ぎ見るような作品

ヴィオレッタ: 中村恵理
アルフレード: マッテオ・デソーレ
ジョルジュ・ジェルモン: ゲジム・ミシュケタ、他

指揮: アンドリー・ユルケヴィチ
演出・衣装: ヴァンサン・ブサール
新国立劇場合唱団
東京交響楽団
(2022.3.21 新国立劇場)

「椿姫」は、世界のオペラ・ハウスで最も多く上演されている作品であり、多くの女性たちを泣かせてきた作品でもある。特に第3幕の死の床の場面では、切々とした音楽が涙腺を緩ませ、お涙頂戴ものの代表といってもよい。
しかしこのオペラ、では強面の評論家筋から一段低く見られているかというと、断じてそうではない。多くの理屈っぽい評論家がヴェルディの中で最も好きなオペラに挙げている。私も「椿姫」はヴェルディの中で最も好きな作品の一つであり、このあまりにも立派な作品のことを思えば思うほど、ヴェルディという人に対する尊敬の念が高まる。ヴェルディという偉大な作曲家の代表作の一つとして、まさに仰ぎ見るような作品なのだ。

良く知られたストーリーは、次のようなものだ。
(第1幕)高級娼婦ヴィオレッタは、今日も夜会で享楽的な生活を送っている。そんな時、田舎出の純真な青年アルフレードから真剣な恋の告白を受ける。
(第2幕)2人はパリ郊外に居を構え、幸福な生活を送るようになる。ところがある日、アルフレードの父ジェルモンの訪問を受ける。ジェルモンは、刹那的な生活を送る息子の将来を心配し、ヴィオレッタに別れて欲しいと懇願する。ヴィオレッタは激しく抵抗するが最後には泣く泣く承諾し、置き手紙を残して家を去る。それを読んだアルフレードはヴィオレッタが変心したと思い激怒、ヴィオレッタを追って夜会に行き、そこでヴィオレッタを口汚く罵る。
(第3幕)結核を患うヴィオレッタは、寂しく死の床にある。そこへすべてを父親から聞いたアルフレードが急遽外国から帰り、父親も立ち会う中で、ヴィオレッタは息を引き取る。

まず今回のブサールによる演出だが、新国立の「椿姫」としては2回目のものだ。その割には驚くような仕掛けがないなあと思っていたら、第3幕では、アルフレードとジェルモンが紗のカーテンの裏に隠れて、ヴィオレッタが何か幻影たちと話しているようなのだ。これは読み替えのようでもあるが、ヴィオレッタが孤独の中で死ぬというのは、あまりにもしっくりとするので、ひょっとしてと思い原作を読んでみた。案の定、原作ではアルフレード(原作ではアルマン)も父親も立ち会わず、一人で死んでいく。彼が事情を知るのは、父親からではなく、死後のヴィオレッタ(原作ではマルグリット)の日記などからだ。だから今回の演出は、原作の雰囲気を伝えるものとして、一定の価値を持つものと思う。

それよりも何よりも、「椿姫」の演出で最大の見どころは、父親ジョルジュ・ジェルモンをどう扱うかだ。
「椿姫」の物語を、ヴィオレッタという女性一人の悲劇と見る人たちにとっては(たぶん女性の多くがそうだろう)、ジョルジュ・ジェルモンは敵役でしかない。ジョルジュ・ジェルモンは、因習的な価値観からヴィオレッタに対し別れ話を持ち出した張本人であり、この別れ話さえなければ悲劇は起こらなかったというほどの人だ。演出でも、あくまでヴィオレッタ一人の悲劇と捉えれば、この父親を悪く描くことにより悲劇性は強まると考えて不思議はない。
では、ジョルジュ・ジェルモンという人は本当に悪人なのだろうか。断じて否だ。もし、ジョルジュ・ジェルモンを悪人として描いたならば、それはヴェルディではない。
では、ヴィオレッタはなぜ父親から切り出された別れ話を受け入れたのだろうか。ヴィオレッタにそうする動機はなく、頑なに断ることも出来たはずだ。それは、台本(原作でも)を読めばわかる。ヴィオレッタが別れようと決心したのは、自分の存在のために娘さんの婚約が取り消されようとしているということを父親から聞いたからだ。この父親は、自分の娘の幸福を考えている。ヴィオレッタはこの時、自分の前にいる父親が悪人ではないと知った。そして最初の印象として威圧的と感じていたその人に対して、次第に心を通わせて、尊敬の念をさえ抱くようになる。その時のヴィオレッタの言葉はこうだ。「清らかな娘さんにお伝えください。あなたの幸せのために、一人の女が犠牲になったと」。そして最後には「自分は弱い。どうか私を自分の娘のように抱いてください」とジェルモンに懇願する。ジェルモンはそれに応えて、ヴィオレッタを抱き、額に口づけをする。
あるバリトン歌手がこう語っている。「もしジョルジュ・ジェルモンを悪人として描くのであれば、私は出演を拒否する」。当然だろう。そういう演出家は、「椿姫」もヴェルディもまったく理解していないのだ。ヴィオレッタが別れ話を受け入れた理由は、原作にはっきり書いてある。それは、世の中に特に何らの良いこともしていない自分が、世の中からたった一つでも尊敬されることがあるとすれば、この父親の娘さんのために、アルフレードと別れることだと思ったからだ。
ヴェルディは「椿姫」のオペラ化に際して、原作にはない改変を行っている。それは、第2幕で別れることに同意した時に、父親ジェルモンに、① アルフレードに自分を罵らせないこと、そして②すべてが終わった時にアルフレードに真実を話すこと、の2つを約束させる。前者は、次のカジノの場でアルフレードがヴィオレッタを罵った時に、父親が突然現れアルフレードを激しく𠮟りつけることで実行される。これを、ジェルモンが感情に任せて息子を叱ったなどとと思ってはならない。ジェルモンは、ヴィオレッタとの約束を守り、アルフレードの罵りからヴィオレッタを守ったのだ(原作ではアルマンがマルグリットを罵り続けることが、後々まで彼女を苦しめる)。後者も、後日守られて実行され、それによって、上述のように、第3幕でアルフレードは外国からヴィオレッタのもとに駆けつける。そしてその時父親は、自分は取り返しのつかない間違いを犯してしまったと告白し後悔する。

ジョルジュ・ジェルモンが、ヴィオレッタとの間にかわした2つの約束を守ることは何かメリットがあったのだろうか。それは、ジョルジュ・ジェルモンが、義理の娘ヴィオレッタとの間に心が通じて、彼女が払ったあまりにも大きな犠牲に少しでも報いたいと思っていたからだ。ジョルジュ・ジェルモンという人は、ヴィオレッタの名誉のためには何でもした。それはこの時代、この状況下でできる最大のことだった。これらジェルモンが示す人格の高潔さこそがヴェルディであり、すべての人が善意で行動しながら、それでも悲劇が起こるのがヴェルディのヴェルディたる所以だ。ジョルジュ・ジェルモンとは、ヴェルディその人だと思う。

第3幕でヴェルディが加えた点をもう一つ挙げよう。それはヴィオレッタが最後の最後に、もし清らかな娘さんがあなたに愛を捧げるのなら、その人と結婚してくださいというくだりだ。この期に及んで、こういうことを言う必要はあるだろうか。ヴェルディ自身は最初に結婚した相手を20代の時に病気で亡くしている。そしてその後、オペラ歌手の女性と同棲するが、長い間、結婚はしなかった。この言葉こそは、その亡き妻から最も聞きたかった言葉だったろう。これは、ヴェルディが「椿姫」の物語を自分自身の人生と重ねていたのだろうと推測させるに十分なものだ。

主役を歌った中村恵理は、前半はコロロトゥーラの技巧は安定しているもののやや単調に感じたが、第3幕はたっぷりと盛り上がった情感で聴かせた。「椿姫」は新国立は2019年にも取り上げているが、私はその時は見送った。ジェルモンを全く知らない人が歌っていて、ジェルモンだけはたっぷりとした声量で、堂々とした威厳さと包み込むような情愛を表現するベテランの外国人歌手で聴きたいと思ったからだ。今回のミシュタケは、可も不可もなし。「プロヴァンスの海と陸」は熱唱したが、そのエネルギーを、その前のヴィオレッタとの二重唱で聴きたかったような気がした。ウクライナ人の指揮者ユルケヴィチも、特別びっくりするようなところはなかったが、可も不可もなし。
毎回書くが、特筆すべきは世界最高レベルの合唱団だ。どんな公演でも、この合唱団がある限り、オペラの舞台の醍醐味を堪能できる。今回もその思いを強く持った。

「椿姫」を初めて知ったのは、中学2年の時にベルリン・ドイツ・オペラが来日し、その公演をNHKが放送した時だ。ピラール・ローレンガー、フィッシャー=ディスカウ、フェルッチョ・タリアヴィーニという配役で、指揮はロリン・マゼールだった。「椿姫」は、その時上演された「さまよえるオランダ人」と並んで、私が最初にオペラを好きになった作品だ。だから、特別な思い入れがあるが、映像では何度も見ているが、実舞台で観るのは実は初めてだ。
CDでは、ムーティ指揮スコット、ブルソンによる名演を長く愛聴してきたが、私がCDで聴くのは、ほぼ第2幕の長大な二重唱に限られる。この二重唱によって私は、「椿姫」というオペラは、父親ジョルジュ・ジェルモンの、実の娘と義理の娘(ヴィオレッタ)という2人の娘との間の深い情愛の物語、背景に非常に大きな社会的コンテキストを持った深い情愛の物語だと、今日まで理解している。この二重唱には人生のすべてがある。この行き場のない社会性こそが、「椿姫」というオペラを仰ぎ見るほどの高みに押し上げている所以だ。

コロナでキャストの変更があり心配された公演ではあったが、ふたを開けてみれば、最後はヴィオレッタを始めとする歌手・演奏者に対するスタンディング・オベーションだった。

 

(追記)小説「椿姫」
デュマ・フィスによる小説。文庫で400ページほどの物語だが、最初の300ページはアルマン(アルフレード)とマルグリット(ヴィオレッタ)の愛の生活を描いている。物語が急速に展開するのは、300ページあたりで父親が田舎から訪ねて来るところからだ。私自身は、19世紀フランスのロココ調の雰囲気を残す時代の空気を楽しんだ。そしてそこに、現代では失われた何かしらの懐かしさも覚えて、幸福な時を過ごした。悲しい話だが、いい小説であり、読後感は悪くない。

映画「椿姫」
グレタ・ガルボ主演の古典的な白黒映画。何も面白くない。小説をベースにしているとしても、これは「椿姫」ではない。父親は敵役で、娘の結婚のことは何も話さない。なぜ別れるのかというと、マルグリットによるとアルマンのためという。なら好きにならなければいいのにと思ってしまう。どこか男っぽいところのあるグレタ・ガルボも違和感がある。

結局「椿姫」では、歌劇「椿姫」が一番出来がいいし、だから一番多くの人に愛されているのだと思う。

 

 

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