ブルックナー: 交響曲第8番ハ短調 ~ 歓喜の交響曲

ブルックナー: 交響曲第8番ハ短調(ノヴァーク版/第2稿)

マレク・ヤノフスキ指揮
ベルリン放送交響楽団
(2015年日本公演、サントリーホール) 

 素晴らしいブルックナー体験だった。
演奏終了後、万雷の拍手で何度も何度も指揮者が呼び出され、いつまでも席を立つ観客がいなかった。団員が散開したのちも帰ろうとしない観客が拍手を続けたので、指揮者だけが呼び出された。いい演奏会だと思った。
世界のオーケストラを見渡して、決してトップAクラスには分類されないベルリン放送交響楽団が、このオケにしか出来ないブルックナー演奏をしたことが何よりも価値があり、観客に満足感を与えたのだと思う。それは私が聴いたどの8番よりも健全な演奏であり、ブルックナーという作曲家に対する見方が変わるほどの健康で開放的な音楽だった。こういう演奏者と観客との相互作用の結果としての充実感は、なかなか録音を通しては得られないものだ。

第8番は、完成された中では間違いなくブルックナーの最高作であり、音楽史上、交響曲という音楽形式の頂点に位置する作品の一つだ。この曲は、「金管交響曲」と言っていいほど金管楽器が活躍する。だから私は、これをぜひ外来のオーケストラで聴きたいと思っていた。その矢先に、ベルリン放送交響楽団が来日してこの曲を演奏するというので聴きに行くことにした。

ブルックナーの交響曲がプログラムを持っているかどうかということは、それ自体問題だが、8番に関してはブルックナー自身が幾らかを語っており、私自身、これがプログラムを持った音楽であることを疑ったことはない。
第1楽章については、コーダのトランペットのフレーズについて、ブルックナーは「死の宣告」であると言い、コーダが力を弱めて終わることを「諦め」と言っている。このトランペットのフレーズは第1主題のリズムそのままだから、第1主題も同様の意味を持っているだろう。私はこれを「死(あるいは病、または闇)」と捉え、対する第2主題をその反対の「治癒力(あるいは生、または光)」と捉えてきた。そして第1楽章全体を、病とそれに対する治癒力との闘いと考えてきた。
また第2楽章については、ブルックナー自身が主部を「ドイツのミヒャエル」、中間部を「ミヒャエルは田舎で夢を見る」と述べている。だから私はこの楽章を、病を得る以前の人生の壮年期を表していると見てきた。
緩徐楽章の第3楽章については、私なりに、野人の自然との対話、あるいは病の回復の過程と考えてきた。金管による後半の盛り上がりは、病が完全に回復したことを示しているというように聴こえる。
ところが、ここまではいいのだが、第4楽章の勇壮な第1主題について、ブルックナーは「オーストリア皇帝とロシアのツァーの会見のファンファーレ」と述べているのだ。これでは、1~3楽章の内面的な性格と整合性がとれない。
ということで、この第4楽章の位置付けがどうしても分からなかった。言葉を変えて言えば、第4楽章そのものが理解できなかった。

今回の演奏会で、このあたりの疑問がかなり氷解したように思う。
ブルックナーは、ベートーベンの第9を崇拝していた。このあたりはワーグナーと同じだが、崇拝の程度は比較にならない。だから、ブルックナーの交響曲は、少なくとも第2番以降は基本的に、形式的には全て第9のコピーだ。例えば第1楽章冒頭の原始霧とか、緩徐楽章が2つの主題を交互に変奏するところとかだ。
ところが、第9と言うのは、合唱が入る第4楽章は、全く器楽曲の形式を持っていない。だから、第9の1~3楽章はコピーできても、第4楽章はコピーしようがない。しばしば、ブルックナーの交響曲の第4楽章が弱いとか、印象が薄いと言われるのも、こういったことと無関係ではないだろう。
それで第8だが、ブルックナーは、この交響曲で初めて、形式だけではなく、「苦悩を通じて歓喜へ」というベートーベンの第9の「内容」もコピーしようとしたのではないだろうか。第9でも、苦悩の部分に当たる1~3楽章は内面的だが、第4楽章は突然に「人類愛、兄弟愛」のような所へ行く。苦悩は個人的、内面的でも、歓喜は集団的、爆発的なのだ。だから、第8の第4楽章は、オーストリア帝国の繁栄が、1~3楽章の内面的な部分の上に立つような形でフィナーレを形作っているのではないだろうか。第4楽章で1~3楽章の主題が回顧されるというのは第9の特徴だが、この第8ではブルックナーとしては初めてこれがコピーされる。むしろ内容をコピーしたことから、これも必然だったと言えるだろう。
第8は、ブルックナーが初めて、ベートーベンの第9の全体、すなわち形式と内容の両方をコピーした、いわばブルックナーの「歓喜の交響曲」 だ、というのが、この明るい音色で演奏された演奏会を聴いて私が持った感想だ。

フル編成のオーケストラは、期待以上の膨よかな音色を持っていた。放送オーケストラというのは、無色透明な音色を持っているところが多い。それに対して、ここは最初の弦の出だしを聴いた段階で、豊かさを感じる素晴らしい音色だと思った。低音弦は特に厚みがあって、聴きごたえがあった。
お目当てであった金管は、全く素晴らしかった。8本のホルン(4本がワーグナー・チューバ持ち替え)の丸みを帯びた分厚いハーモニーは、惚れ惚れするほどだったし、女性を交えたトランペット陣も、響きに鋭さ、力強さがあった。木管も、オーボエにせよフルートにせよ、これらの金管に負けずに伸び伸びとした響きを聴かせた。

指揮のヤノフスキは、日本では全く人気のない人だ。ネット上でも、クセのある指揮をするような書かれ方をしているので、いくらか心配もしたが、全くの杞憂に終わった。楽曲解釈に個性を感じるようなところまでは行かなかったが、この人の良さは随所に十分に感じることが出来た。
最近の日本の指揮者は、構成力を重んじ、最初に力をセーブして、最後のクライマックスの効果を巧みに弾き出すようなスタイルが多く、これはこれで悪くはない。しかし、ヤノフスキはそのような小技はしない。オケは、第1楽章から全開だった。だから、楽曲全体が徐々に盛り上がっていくようなドラマ性を持つようなことはない一方で、4つの楽章が作り出す音楽の流れが自然で、オケの響きの中にどっぷりと浸かっていることが出来る。木管のフレーズがたっぷり歌うように吹かれるのは、解釈と言うより、たっぷりとした響きそのものを目指しているように感じて、それがこの演奏の方向性だと思った。オーケストラが実によく鳴るのだ。第2楽章はやや速めのテンポで、絡み合う声部が巧みに処理されていたところが印象に残った。
そして第4楽章。まるで、交響曲の終楽章と言うのは、明るく開放的に響いてこそ聴衆は満足して帰ることが出来るのだ、と言うかのような健全な明るさを持っていた。そして私は、まったくそれに共感できるような気がしたし、この終楽章はそのように書かれているのだということにも共感できるような気がした。第8で、4つの楽章がこれだけ均整がとれて形式美を感じることは稀だ。
ヤノフスキのもう一つの美徳は、オケが一体となって一つの楽器のように響いていたことだ。楽団員が一丸となって演奏していた、という表現がぴったりだ。そしてそのことがあまりにも自然に行われているので、このオケが一つの集団として現在、非常にいい状態にあるのだということを感じた(つまり、雰囲気がいいのだ。このあたりは、なかなか日本のオケから感じることがない)。

今回は、久しぶりに学生時代の友人と一緒だった。演奏会の後の、アルコールを交えて閉店までのブルックナー談義も楽しかった。

 

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