ベルディ:「ドン・カルロ」(イタリア語5幕版)

フィリッポ2世: ジョン・ハオ
ドン・カルロ: 山本耕平
ロドリーゴ: 上江隼人
宗教裁判長: 加藤宏隆
エリザベッタ: 横山恵子(安藤赴美子の代役)
エボリ公女: 清水華澄 他

指揮: ガブリエーレ・フェッロ
演出: ディヴィッド・マクヴィカー
合唱: 二期会合唱団
管弦楽: 東京都交響楽団
(2014年2月23日 東京文化会館) 

 歌劇「ドン・カルロ」は、この日、「史劇」から真の「悲劇」となった。

一般にベルディの「ドン・カルロ」は、シラーの戯曲「スペインの王子ドン・カルロス」に基づく史劇(歴史劇)と考えられている。理由は、史実をベースにしていること以上に、主人公が死なないからだ。
このオペラは最後に、ドン・カルロが、国王と宗教裁判長の衛兵に捕えられそうになったときに、先帝カルロス5世の声によってカルロの身が霊廟に導かれれるようにして終わる。死が暗示されているとは言え、明確ではない。聴衆は、「えっ、何が起こったの?」「それからどうなったの?」と思いつつ、不思議な感覚の中に残されて終わる。この居心地の悪さは、「ドン・カルロ」というオペラを鑑賞するうえでの最大の問題といってもよかった。
今回の公演では、ドン・カルロは衛兵に殺されて終わる。フランドルの独立を求めた自由主義者ドン・カルロとロドリーゴは、世界に君臨する権力者フィリッポ2世と宗教裁判長により殺されるのだ。これはイタリア・オペラの定石通りの悲劇であり、これにより聴衆はこのオペラが何をどう描き、誰にとっての悲劇なのかという全体像を理解することが出来る。
それもこれも、全ては天才演出家マクヴィカーのなせる技だ。 

シラーの原作「ドン・カルロス」というのは、ゆるやかに史実によっているという。カルロの婚約者が父と結婚したため義母となるという事実もあったらしい。その史実によれば、ドン・カルロは国王に捕えれてから死んでいる。だから今回の解釈は事実を大きく変えるものではない。このあたりが、マクヴィカーの凄いところだ。
またベルディも本来的にはこのオペラをドン・カルロの死をもって終わりたかったのが、シラーに敬意を払ったがゆえに、死を予感させつつ終わるという折衷的な現行の台本となっていると想定することも可能だ。
私は今回の演出にほとんど違和感を感じない。むしろ、初めてシラーやベルディが描きたかったものが理解できたような気がした。 これは旧秩序に立ち向かう、熱烈な自由主義者のドラマなのだ。

5人の主役級の歌手は、水準が揃っている。「ドン・カルロ」をダブル・キャストで組んで、特段の不満が出ないというのは、日本のオペラ界の歌手層の厚さを感じさせるに十分だ。
この5人の役の中で一番興味が向かうのがフィリッポ2世だ。ベルディの魅力の一つに、「登場人物の人格的な高潔さ」というのがある。その点でいうと「ドン・カルロ」は最右翼で、特に大きな権力を持ちながら深い孤独に苦しむフィリッポ2世のような人物は、ベルディにしか描けない。中国に生まれ東京芸大に学んだジョン・ハオはこの大役をよく勤めてまずは無難な出来だった。
全体の歌手で最も良かったのは、小柄な体ながら情熱に燃える王子にふさわしく実に堂々とした歌唱を聴かせ、一方ではエリザベッタに対し恋焦がれる人間的なドン・カルロを描いて見せた山本耕平だ。エボリ公女を歌った清水華澄も、振幅の大きな感情をよく表現しながら高貴さも失わずに印象に残った。楽しみにしていた安藤赴美子はインフルエンザで横山恵子が2日連続で出演。声楽的には伸びのある声で完璧と思うが、やや平坦で、今一つ細やかな情感が伝わって来なかった。天の声の全詠玉は、無垢な声に思わず聴きほれるほど美しい歌唱だった。

指揮のカブリエーレ・フェッロは、部分部分を手堅く積み上げていくような指揮で、格調が高いのは魅力だが、オペラ全体のエネルギーのうねりのようなものが感じられなかった点が残念だ。史劇としての「ドン・カルロ」は、一見したところ誰が主人公なのか分からないほどのモザイク的な劇だが、そこに一本の悲劇としての筋を通したのがマクヴィカーの演出だとしたら、指揮と演出はかみ合わなかったことになる。指揮に強い推進力があったら、ずいぶんと感動的な公演になったのに、と思ってしまった。
東京都交響楽団は、いつも聴く東京フィルハーモニー管弦楽団のようなチャーミングな音色の魅力もオペラチックな雰囲気も感じさせない代わりに、非常にシンフォニックな響きでスケール感の大きな演奏が素晴らしかった。特に金管の強靭な響きは、東フィルからは聴けないものだ。円熟期のベルディの素晴らしい音楽を堪能できた。

この公演で最も楽しみだったのは天才・鬼才マクヴィカーの演出だ。その期待は100%満たされた。
この人はコベント・ガーデンの「サロメ」 で驚くべき解釈を見せた。それは単に奇をてらったようなものではなく、深い教養に裏付けされた作品の本質に迫るものだった。マクヴィカーがここで見せた解釈もまた、オペラという芸術に対する深い理解に裏付けされたもので、「ドン・カルロ」というオペラの本質に迫るものだ。ここで得られた知見は、これからこのオペラを鑑賞するうえで、ゆるぎない基盤を提供してくれるだろう。
マクヴィカー自身はカーテンコールに現れなかったし、プログラムには演出補という人が写真入りで紹介されているから、現場指導は演出補がしたのかも知れない。5幕全体を通じて舞台装置が同じというのはやむを得ないとはいえ大きな制約には違いない。上述のように、指揮とは微妙なズレを感じた。しかし、それでもこの演出はこのオペラに新しい光を与えていて見事だ。
世界のオペラ・ファンは、この天才演出家から目が離せない。 

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