バイエルン国立歌劇場:ワーグナー「タンホイザー」

領主ヘルマン: ゲオルク・ツェッペンフェルト
タンホイザー: クラウス・フロリアン・フォークト
ヴォルフラム: マティアス・ゲルネ
エリーザベト: アンネッテ・ダッシュ
ヴェーヌス: エレーナ・パンクラトヴァ、他

指揮: キリル・ペトレンコ
演出: ロメオ・カステルッチ
バイエルン国立管弦楽団、バイエルン国立歌劇場合唱団
(2017年9月25日 NHKホール)

 次期ベルリン・フィルの首席指揮者に決まっているペトレンコ、初めてこの役を歌ったフォークトなど話題性にこと欠かない公演。ペトレンコの指揮は、噂に違わず細部まで神経の行き届いたもので、うねるような音楽でありながら全体としての構成感もしっかりとしており、まずは満足のゆくものだった。フォークトは、よく通るハリのある声による、声量的にも出演者中随一と思えるような朗々とした歌唱で、期待通りといってよかった。
そして、ヴォルフラムを歌ったゲルネ。私はこの歌曲で高名な歌手が第一声を発した瞬間から、その深い精神性を感じさせる声と歌唱と佇まいにしびれた。私にとってこの日最大の収穫は、このゲルネのヴォルフラムを聴けたことだった。そしてそれは、「タンホイザー」というオペラ全体について考えさせられることともなった。

「タンホイザー」のストーリーは、一見したところ単純だ。ヴェヌスのもとで肉体的快楽に耽るタンホイザーが、それに飽きて故郷に帰って来る(第1幕)。そこで自分を思い続けるエリーザベトを前にして歌合戦に参加するが、ヴェヌスを称える歌を歌ったことから、追放されて贖罪のためローマへ行く、という罰を受ける(第2幕)。タンホイザーのためにエリーザベトは祈り続ける。タンホイザーはローマへの巡礼から帰り、友人のヴォルフラムにローマからの許しは得られなかったと述べると、エリーザベトの昇天が示唆され、奇跡が起こってタンホイザーは救済される(第3幕)。

このような「タンホイザー」を、字句通りに上演して、そのストーリーに共感する現代人が多いとは思えない。それでも人々が「タンホイザー」を観に劇場まで足を運ぶのは、その音楽、特にその巡礼の音楽がもたらす精神の純化のカタルシスとも言うべきものを体感したいと思うからだろう。この音楽はこのオペラが、表面的なストーリー以上の何か普遍的なものを持っていると感じさせるに十分なほど感動的なものだ。
そして多くの演出家が、このオペラを様々に解釈してきた。かつてのバイロイト、そして最近のバイロイトの演出はそれらの成果の代表的なものだ。
そして今回の、ミュンヘンで賛否両論を巻き起こしたといわれる新演出。私はこのオペラは、バイロイトの方向の解釈以上のものはないだろうと思っていた。まずはそうでないことに驚いた。この演出は、基本的に原作のストーリーに沿った、「読み替え」も「創作」もないものだ。そしてそれがそれなりの成果をもたらしていることにさらに驚いた。

まず私が着目するのが、ヴェヌスとエリーザベトの関係。この演出で、ヴェヌスは大きなダブダブの着ぐるみを着て、これ以上ないというほどに醜い。周りの女性も同じような姿ですべて醜い。普通の男は近づきたいとは思わないだろう。エリーザベトは清純で、美しい。原作の対立するキャラクターを、さらに浮きだたせたような感じだ。いずにせよ、バイロイトとは一線を画したものであることが分かる。
終幕は、タンホイザーとエリーザベトが両方とも死んで、死体は次第に腐乱し、何万年後には灰となり、そして奇跡が起こって救済されることが示唆される。永い時間の中のドラマとしたことは目を引くが、原作の延長上にあるものだ。
この演出が話題を呼んだのは、冒頭のシーンだ。序曲が演奏されている間、弓を持った薄着の女性が何人も現れ、舞台の奥に描かれた大きな「目」に向かって次々と矢を放つ(ミュンヘンの舞台ではトップレスだったようだが、東京ではそこまではいかなかったように思う)。この矢の意味は不明だが、ヒントが第2幕に出てくる。ヴェヌスを称えたタンホイザーが非難される中、ヴォルフラムがタンホイザーに向かって矢を放ち、タンホイザーはそのあと、その矢を背中に差されたまま歌うというシーンがある。この時の矢は、「宗教的な道徳」を意味すると解釈されるから、最初の女性の矢も、好奇の目でトップレスの女性を見る男の目を、道徳的に咎めていると解釈できるかもしれない。第2幕では、裸の衣装をまとった何人かの女性が、思わせぶりの動作をして舞台の背景として踊る。エリーザベトを前にしても、タンホイザーはヴェヌスを忘れられないことを現しているのだろうか。
これらの目を引く工夫があったにせよ、全体としては、保守的とも思える解釈と言えるだろう。

そして、さらにその印象を決定づけるのが、神々しいまでのゲルネの歌唱だ。
このオペラでワーグナーは、ヴォルフラムのパートに甘く美しい抒情的な旋律をちりばめた。「オランダ人」のダーラントやエリックを持ち出すまでもなく、ワーグナーのオペラで抒情的な旋律を与えられるのは、善良だが深みの欠ける脇役だ。ヴォルフラムは恋敵のはずのタンホイザーを迎い入れ、エリーザベトに再会させている。歌合戦では、熱心に純愛を称え、タンホイザーを誰よりも非難し、エリーザベトの気持ちを思いやり、最後にはエリーザベトの最後を看取っていることがほのめかされている。ヴォルフラムは、善良な友情と、敬虔な宗教心と、深い慈悲心に満ちた人物だ。どんな大歌手が歌っても、空気のような脇役として聴き過ごしてしまいそうな役だ。
それが、ゲルネの歌唱で打ちのめされた。
第1幕で戻ってきたタンホイザーを迎い入れる場面から、このバリトン(バス・バリトン)の高貴な精神性は、この公演全体を支配した。第2幕の歌合戦での、純愛を称える空疎な言葉を並べた歌の不思議な素晴らしさはどうだろう。この歌を聴いて、この人が言っていることは正しいのではないかを思えるほどの見事な歌唱だ。そして深く感動的な第3幕の「夕星の歌」。すでに第1幕で、ヴェヌスに溺れるのはどうかしていると思わせるばかりの醜さを見ているから、観客はこんなに高貴な歌を聴くと、ヴォルフラムという人が神の言葉を代弁しているのではないかと思えてくる。そして「タンホイザー」全体が、タンホイザー+エリーザベト+ヴェヌスという恋愛心グループと、ヴォルフラムという信仰心の対立ドラマではないかとさえ錯覚する、それほどまでに抜きんでた存在だった。この目新しさもありながら、内容的には保守的な解釈に感動できたのは、一重にこのゲルネの歌唱の説得力に負うところが大きいと思う。

タンホイザーを歌ったフォークトについては、立派に役をこなしたという以上のものではないだろう。この甘さは、当たり役ローエングリンではいいだろうが、もう少し複雑なキャラクターを持つタンホイザーでは物足りなさも残る。だが、こんな立派な歌唱はめったに聴けるものではない。
そして誰もが聴きたかったペトレンコの指揮。どんな細部にも魂を入れ、それでいて全体の構成もどっしりとした、フィナーレにはしっかりと盛り上げて手ごたえある音楽作りをしたところは、やはり並みの指揮者ではない。ラトルとは別の、新しい風をベルリン・フィルに吹き込むだろう。
それよりも、バイエルン国立管弦楽団。もともと私はバイエルン国立歌劇場の公演を見るのは3回目だ。以前の印象でも、どっしりとした重量感はあるものの、やや乾いた潤いの欠けた音色という印象を持っていた。それは、今回の公演でも変わらない。第1幕などは、イマイチ本調子ではないのではと思うほど印象が良くなかったが、それは第3幕のあたりにはほぼなくなった。しかし、本国ではシーズン中だからどの程度のメンバーだったのかは知らないが、これなら新国立で日本のオケでもと思う瞬間はあった。

バイエルン国立歌劇場は、ワーグナーとは縁が深く、やはり特別な歌劇場だ。そういう意味でも、特別な公演だった。

 

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