黛敏郎: 歌劇「古事記」(日本初演)

イザナギ: 甲斐栄次郎
イザナミ: 福原寿美枝
スサノヲ: 高橋 淳
アマテラス: 濱田理恵
語り部: 観世銕之丞

指揮: 大友直人
演出: 岩田達宗
合唱: 新国立劇場合唱団/日本オペラ協会
管絃楽: 東京都交響楽団
(2011年11月20日 東京文化会館)

 黛敏郎にも古事記にも興味があるから期待して観たが、何とも後味の良くない公演だった。東京文化会館のほとんど満席といってよい聴衆も、幕が降りてから、戸惑っている様子だった。
指揮も、管絃楽も、歌手も、合唱も、何も問題はない。メリハリがきいて、要所要所で演奏は盛り上がった。問題は、作品そのものだ。

歌劇「古事記」は、リンツ州立歌劇場の委嘱により作曲され、1996年に同劇場で初演された。ドイツ語の台本は、ドイツ文学者中島悠爾氏による。
全体はプロローグと4幕およびエピローグからなり、第1幕は夫婦神イザナギ、イザナミによる「国生み」の話、第2幕はアマテラスの「天の岩戸」に姿を隠す話、第3幕はスサノヲによるヤマタノオロチ退治、第4幕はニニギノミコトの「天孫降臨」、語り部がプロローグとエピローグで、国の生成と誕生を簡潔に語る、といった構成だ。
黛敏郎は1997年に他界しているから、当然に最後のオペラ作品で、1976年初演の「金閣寺」に続く2作目だった。

古事記というのは、前半は神話だ。このオペラはその前半を題材としている。神話というと、ワーグナーの「ニーベルンクの指輪」を想い出させる。だから、一見すると、オペラとしては妥当な題材と考えてしまう。私も、当初そう思った。しかし観ていて、ほとんど感情移入できない自分に気がついた。理由は2つある。
(1) 「指輪」がゲルマン民族のルーツとも言うべき位置づけなのに対して、古事記が扱っているのは日本民族のルーツではなく、天皇家のルーツだ。「指輪」では、生々しく性格描写された神々の滅亡と人間の時代の到来が示唆されるが、古事記では、神が降臨して地上を治めることになったと説かれる。およそ、大衆芸術・娯楽作品としてのオペラの題材には似つかわしくない。
(2) 有名な場面のつなぎ合わせで出来事は描かれるが、およそ人物像は描かれない。説明的な合唱が中心になるので、何か古事記の内容の教育を受けているような気分になる。ワーグナーのオペラのようと言うよりは、性格的には、旧約聖書の出来事を題材としたヘンデルのオラトリオに近いだろう。ここに登場する人物はみな、何の感情も持っていないかのようだし、ストーリーの展開はもっぱら合唱に委ねられるから、歌手に衣装を着せて演技させる意味は何なんだろうと思ってしまう。

そして、音楽。良く言えば分りやすく、悪く言えばありふれている。何か映画音楽を聴かされているような分りやすさ。それ自体は、もちろん悪いことではない。しかし、愛も恋も、友情も絆も憎しみも、喜びも悲しみも悩みも、何にも出てこない中で、何に感動すればよいのか分からない。
もし仮に天孫降臨の音楽が盛り上がって感銘を受けた人がいたとしよう、その次に、私たち日本人は何をすればよいのだろう。ましてや、ドイツ人には、何を期待したのだろう。聴衆として後味が良くなかったのは、このためだ。

私の手元には、黛敏郎の若き日の作品、「涅槃交響曲」と「曼荼羅交響曲」のCDのがある。特に外山雄三指揮NHK交響楽団による声明を使った涅槃交響曲など、ものすごい盛り上がり方で、全編にわたって圧倒される。
黛敏郎は、團伊玖磨、芥川也寸志と並び称されたが、その中では一番才気立っていて一目置かれていたように思う。世界的な名声も高かった。「作曲家黛敏郎は、晩年はテレビ司会者になった」というのはひどい言い方と思うが、少なくとも、普遍的な価値のあるものを音楽で表現して聴衆を感動させる、という行き方からは離れたという印象を持った。

音楽が分かりやすく響いたのは、大友直人の指揮によるところも大きいと思う。要所要所で盛り上がって、聴きやすかった。東京都交響楽団も、そういう指揮者の意図によく答えていたと思う。
しかし、カーテンコールでの歌手には、いったい何に対して拍手していいのか聴衆としては戸惑った。何人かの歌手は声はよく出ていたが、歌手は声を出せばいいってもんじゃないだろう。このオペラの中に、何か歌い上げる人間感情があったかどうか、歌手に訊いてみたいような気がした。
ただ、戦後を代表する作曲家によるオペラ作品に実際に触れる機会を得たことは、どんな印象をもったにせよ、貴重な機会ではあったと思う。

 

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