シェーンベルク: 「グレの歌」

ヴァルデマール:トルステン・ケール
トーヴェ:ドロテア・レシュマン
山鳩:オッカ・フォン・デア・ダムラウ
農夫:アルベルト・ドーメン
道化師クラウス:ノルベルト・エルンスト
語り:サー・トーマス・アレン

指揮:ジョナサン・ノット
東響コーラス(合唱指揮冨平恭平)
東京交響楽団
(2019.10.6 ミューザ川崎シンフォニーホール)

 20世紀音楽の革新者シェーンベルクの初期の大作「グレの歌」の、総勢400人という大規模な演奏者・歌唱陣・合唱団による公演。最後はホール全体が地響きを立てるかのような大音響で、ほとんど空前絶後の音楽体験だった。
ミューザ川崎シンフォニーホール開館15周年を記念しての公演というが、この曲を取り上げ、これだけの歌唱陣を揃え、そしてそれを見事に統括した指揮者ノットの功績がまず称えられるだろう。

私はこの曲は、シェーンベルクが「トリスタンとイゾルデ」で代表されるドイツ・後期ロマン派の音楽様式・管弦楽法を完全にマスターしたことを誇示するために書かれた、いくらか保守的なものと理解していた。いわば初期シェーンベルクを「最後のロマン派」として位置付ける作品と思っていた。今回の公演で、それが誤りだと知った。この曲は、20世紀音楽を切り拓いた革新者による、19世紀ドイツ後期ロマン派に対するいわば「死亡診断書」であり、はっきりとそこからの、特にその思想からの決別を図っていると思うようになった。

全体は3部からなり、物語はグレの地に展開する。全体として「トリスタンとイゾルデ」と似ており、一見するとロマン派そのものだ。
第1部は夜。ヴァルデマール王はトーヴェと道ならぬ恋をしているが、トーヴェは嫉妬した女王に殺される。第2部はごく短く、ヴァルデマール王が自己の運命を嘆き神を呪う。第3部は夜明け前、死んだヴァルデマール王が亡霊となってやはり亡霊となった兵士たちと夜空を彷徨う。王は、力づくでもトーヴェと天国で一緒になると誓う。その後、地上に朝が訪れて花が咲くことが語られ、合唱が太陽の光を讃えて終わる。

オーケストラの編成は大きい。ほんとうに大きい。フルートとピッコロで8本、ホルンが10本、弦は作曲者による指定があり、第1、第2ヴァイオリンとも20。通常のオーケストラの2~3つ分だ。シェーンベルクはこのために53段の楽譜を特注したという。今回はこの指定を守っているようで、楽団員が舞台の前後左右いっぱいに広がった様は壮観だった。合唱は3つの男声4部と混成8部。女声は最後の5分ほどの曲にしか出てこないが、これが素晴らしい効果を放つ。
後期ロマン派は一体に楽器編成が大きくなる傾向があるが、それでもこの編成は、およそ私が知る楽曲の中で最も大きなものの一つだ。シェーンベルクは、なぜこんな大きな編成を要求したのか。これが音楽的な理由だけによるものとは思えない。この曲の内容は、言ってみれば一組の男女の悲恋物語でしかない。
後期ロマン派というのは、世紀末芸術だ。世界が終末を迎えるという時代精神を支配したのは、夜の闇であり、死への憧れだった。ワーグナーにしてもマーラーにおいてもそうだった。しかし死がすべての問題の解決である限り、生には救いはない。音楽の革新を目指した野心家シェーンベルクがまず目指したのは、この死への憧れという思想そのものの克服だっただろう。この曲も、第3部の途中まではこの後期ロマン派の世紀末思想を引っ張っている。
しかし最後の語りから混声合唱にいたる部分で歌われるのは、眩いばかりの朝の太陽の光であり、地上に咲き乱れる花々の生命力だ。シェーンベルクにとってこの曲は、それまでのすべての世紀末芸術を墓穴に放り込むものでなければならなかったに違いない。だからそれまでのどんな音楽よりも大きな編成を持ち、どんな音楽よりも大きな音で高らかに遠くまで響かなければならなかった。世紀末という夜は明けたのだ。

では、新しい音楽の音楽語法とはどのようなものか。
最後の合唱を導く語りは、「シュプレッヒ・ゲザンク」を呼ばれるもので、これ自体がシェーンベルクが発明した唱法の革新だった。この部分は、すでに20世紀音楽を開拓していると言える。
そして無調。(さらにそれをバッハに立ち返って徹底した12音技法。12音音楽は、少なくとも死への憧れを持っていない)

今回のプログラムで、ノットという人が、アンサンブル・アンテルコンタンポランの音楽監督をしていたことを知った。ブーレーズの流れをくむ、20世紀音楽の第一人者とも言える。そのことがよく納得できるほどに、今回の指揮は隅々に至るまでどのフレーズにも迷いがなく、自信に満ちていて素晴らしかった。12音といえども、後期ロマン派の延長と捉えれば、この人のレパートリーには一貫性があると言えそうだ。
歌手陣は世界のトップクラスを揃えた。特にレシュマンの巨大なオーケストラに負けない声量と、低域の豊かな音色が印象に残った。ダムラウ、ドーメン(なんとバイロイトのヴォータン歌いだ)、エルンストはみな豊かな声を響かせて良かった。アレンは巧みな歌唱を示したと思うが、この役は演劇の役者も演ずるから、それに対抗して個性を披露するようなものではなかった。ただヘルデン・テノールのはずのケールは声量が足りなく、オーケストラに隠れるというよりは、全く聞こえないところさえあったのは残念(大きな拍手からして、席によっては違った印象になったのかもしれない)。
合唱団は素晴らしかった。アマチュアというが、4月から新国立劇場合唱団の指揮者になったという冨平恭平のもと、新国立同様に、非常に迫力ある合唱だった。
東響は編成からしても本当に大きな音。最後は、本当にホール全体が振動するのを感じた。こんな経験は初めてだ。弦はさすがに分厚いが、それであればこそ今一つの透明感を求めたくなった。また、ここの木管楽器はくっきりした音色で良く響くから、ソロでも全く聴きおとりがしない。金管の力強さはさすが。拍手は30分続くかと思ったが、団員が早々に散会したのが残念。拍手をする方も、くじかれてしまったが、指揮者、歌手たちには惜しみない拍手が送られていた。
指揮者、歌手陣はこの曲を演奏するのにほとんど理想的な配役。非常に大きな満足感を味わった。

 

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