ドビュッシー: 歌劇「ペレアスとメリザンド」~ 印象派? 幻想派?

ペレアス: ベルナール・リヒター
メリザンド: カレン・ヴルシュ
ゴロー: ロラン・ナウリ、他

指揮: 大野和士
演出: ケイティ・ミッチェル
東京フィルハーモニー交響楽団
(2022年7月17日 新国立劇場)

まさか「ペレアスとメリザンド」で、こんな知的な刺激に満ちた舞台が見れるとは思わなかった。
ゴローがメリザンドと泉のほとりで出会うまではよかったが、ゴローがメリザンドを連れて城に帰ってくるところでメリザンドが同じ服を着た黙役と2人になるところから分からなくなり、そのまま最後まで歌手のメリザンドと黙役のメリザンドを不思議な気持ちで見続けた。それは非常にスリリングな過程であり、大野和士(と東フィル)の物語をなぞるような、変化に富んだ演奏がこの不思議さを盛り上げて、公演全体の満足度は非常に高かった。

「ペレアスとメリザンド」は、オペラの台本としてはそれ自体が純粋に文学的な価値を持つ数少ない例だ。後にノーベル文学賞を受賞することになるメーテルリンクによる筋書きは、おおよそ以下の通りだ。
(第1幕)狩りに出て迷ったアルモンド国の王子ゴローは、泉のほとりにメリザンドを見つける。彼女は、自分の名前以外は何も覚えていない。ゴローはメリザンドを妻とし、城に帰ってきて、腹違いの弟ペレアスに会う。
(第2幕)ある日、ペレアスがメリザンドと庭園で遊んでいるとき、彼女はゴローから貰った指輪を井戸に落とす。それに気づいたゴローは、2人に探しに行くよう命ずる。
(第3幕)ペレアスとメリザンドは次第に親しくなる。それに気づいたゴローはペレアスに対し、メリザンドが母になる身であり自重するように言う。
(第4幕)2人の愛はますます深まる。2人の逢瀬の場を捉えてゴローはペレアスを殺す。その時、メリザンドも傷つく。
(第5幕)メリザンドは瀕死の床にある。ゴローはメリザンドに許しを請うが、一方でペレアスとの間で罪があったかを問う。答えが曖昧なまま、メリザンドは子を産み、国王は「今度がこの子が生きるのだ」と言う。
細部は明確であるが、いつごろどこであった話なのか、メリザンドはどこから来たのかなど、肝心なことは何一つ分からない不思議な世界だ。

私はドビュッシーと言うと、漠然と「印象派」というふうに理解していた。しかし作曲家自身は印象派と呼ばれることを強く拒否したというし、唯一の完成されたオペラ「ペレアスとメリザンド」も「象徴主義」(サンボリズム=symbolisme)の演劇と言われる。反対側に対置されるのは、自然主義、写実主義で、印象派はその延長上にあるとされる。象徴主義は絵画で言うと幻想絵画の系列に属し、ラファエル前派から始まり、ルドン、モロー、クリムトなどがこれに入る。これにアール・ヌーヴォーなども入れるとしたら、非常に大きな芸術上の潮流であり、いわゆる世紀末芸術をすっぽりと包み込むような流れと言ってよいだろう。印象派絵画が昼の外光をイメージさせるとしたら、これらの象徴主義や神秘主義は夜の暗闇をイメージさせる。
今回の「ペレアスとメリザンド」を観て、一番近いと思うのはこれらの画家や、時代がやや下るが同じベルギーの幻像画家たちで、デルヴォーやマグリットだ。オペラ「ペレアスとメリザンド」を観るにしても、今回の演出を観るにしても、ドビュッシーを印象派として捉えるよりも、象徴派として捉えるほうがはるかにしっくりと来る。

メリザンドが2人出て来ることの意味は、プログラムに演出家自身が語っているし、劇の最後でメリザンドが眠りから目覚める場面があることからもはっきりとしている。もう一人のメリザンドは、メリザンドが夢に見ているもう一人の自分なのだ。
劇「ペレアスとメリザンド」を特徴づけているのは、ペレアスとゴローの間で揺れ動き、ゴローに対する愛情はとうの昔に失われているのに、それをはっきりと伝えられないメリザンドと言う女性のもどかしさだ。今回の演出では、この点がかなりはっきりと描かれていた。つまり、4幕のペレアスとの逢瀬の場面では、下着姿になってかなりはっきりと激しい愛情の交換が描かれた。ソプラノのブルシュは現代ものを得意としているらしくて、感覚は非常に現代的で何の違和感もない。第5幕で、ゴローはメリザンドに対して、ペレアスとの間で罪を犯したのかを執拗に問い詰め、メリザンドは曖昧な返事しかできないが、この場面を目のあたりにした聴衆にとってはそれは決して曖昧ではない。
それに輪をかけているのが、黙役によるもう一人のメリザンドで、死にゆくメリザンドをそばに立ちながら眺めている。そこにいるのは、自分を表現できない弱々しい女性というよりは、むしろペレアスに対する愛情を貫いた強い女性という印象を持った。

今回の演奏で最も印象的だったのは、指揮者の大野和士だ。演奏が始まるや、まるでレントゲンか何かで音の構造を見せられているような解像度の高いものだった。そしてどの場面をとっても、場面の持つ必然性を説得力を持って説明するかのような演奏。このオペラは、「静かで何も起こらないオペラ」と思われがちだが、第4幕では殺人も起こり、音楽はそれなりに盛り上がる。全体は簡潔で平易なフランス語で書かれているが、そのフランス語の語るような歌唱を重んじたとしても、実は次々といろんなことが起こって、全体が石の建造物のように非常に巧みに構成されていることが理解される。このあたりは、ブーレーズの指揮で聴いても、非常にメリハリが効いていて迫力のあるスタイルに驚く。大野和士の指揮は、そういうことを想起させた。曖昧さを残さない東フィルの演奏も特筆すべきものだった。

歌手陣は理想的な歌唱を聴かせた。リヒターもナウリも十分な声量で、特にリヒターの生命力に満ちた歌唱は印象に残った。ヴルシュは、むしろ黙役よりもジェスチャーは大胆で、箱入りお姫様のイメージを打ち破るもの。
演出家は、イギリス人女性。「象徴主義」という私にとって未知の分野ということで、ここにどの程度の見識を持った人かが気になった。プログラム・ノートを読むと象徴主義演劇に豊富な経験と深い教養を持った人であることが分かったので、この人に着いて行って大丈夫と安心した。すべての場面に神経が行き届いていて、緊張感があり、最初に書いたように知的な刺激に満ちたものだった。

ドビュッシーはいくつかのオペラを書く計画を持っていたが、最後の未完の作はアメリカの作家エドガー・アラン・ポーの神秘的な「アッシャー家の崩壊」だった。ドビュッシーはフランス語の台本まで自作している。ドビュッシーを印象派の作曲家という固定観念では、決してこのようなことは理解できないし、「ペレアスとメリザンド」というオペラも理解できない。
印象派絵画と言うのは、日本で大変に人気があり、私も好きだが、あまり広がりを持った芸術運動ではなく、その直接の影響はほぼフランス(というかパリの画壇)に限られる。それに対して、象徴主義は、19世紀から20世紀にかけて国際的なコンテキストを持った芸術上の大きな流れだ。
では、ドビュッシーの音楽は象徴主義といっていいのかと言うと、それだけでは尽くされないだろう。結局、音楽史家の言う通り、片方では印象主義という新しい音楽を開拓した一方で、舞台作品などの分野では象徴主義を追求したというのが妥当なところだろうか。(なんせ、印象派はセザンヌを通してピカソを生み出し、そのピカソが20世紀絵画を切り拓く原動力となったのだから)(扉絵右は、デルヴォーの作品)

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