ブリテン: 「戦争レクイエム」

ソプラノ: アルビナ・シャギムラトヴァ
テノール: イアン・ボストリッジ
バリトン: アウドゥン・イヴェルセン
指揮: ダニエル・ハーディング
栗友会合唱団、東京少年少女合唱隊
新日本フィルハーモニー交響楽団
(2016年1月16日 すみだトリフォニー・ホール) 

 新日フィルの定期公演。新日フィルはブリテンの「戦争レクイエム」をレパートリーとしているようで、2008年にも公演しているが、今回はテノールに世界トップクラスのボストリッジを迎えているのが超目玉だ。
その歌唱は期待に違わぬ素晴らしいもので、終演後、ロビーで行われたCD販売・サイン会には長蛇の列ができ、私も迷った末に列に加わった(案外、ミーハーなのだ)。今、思い返しても、この人を聴けて本当によかったと思う。

「戦争レクイエム」は、第2次世界大戦中に空襲で破壊されたイギリス・コヴェントリーの大聖堂が、1962年に新たに建立され、その献堂式のために委嘱された作品だ。20世紀に書かれた戦争を題材とした音楽の中では最も成功したものの一つであり、現在でも世界中で演奏され、録音も多い。
音楽で戦争を題材とする場合には、音楽で戦争の何を表現するのかが問題になる。戦争の悲惨さや恐怖ということなら、音楽はおそらく最適のメディアではない。 そのような戦争音楽は、ほとんど成功していない。この曲がここまで成功したのは、この曲が音楽でしか伝えられないことを伝えており、それが人々を感動させるからだ。

曲は、通常のレクイエムのラテン語の典礼文を使用しており、I.永遠の安息、II.怒りの日、III.奉献文、IV.聖なるかな、V.神の子羊、VI.われを解き放ちたまえ、の6部からなる。ただしこの曲は構成上、次のような独自の特徴を持っている。

(1)ラテン語のテキストに加えて、各部に、イギリスの戦争詩人ウィルフレッド・オーウェンの英文の詩が挿入されている。
オーウェンは、第1次世界大戦に将校としてフランスに従軍し、多くの兵士が死んでいくの目の当たりにし、それらの死を、切り詰めたような簡素な言葉で詩に表現し、自身も25歳で戦死した。オーウェンの詩は、英語圏ではよく知られているようで、オーストラリアでは教科書にも載っているのだという。これらは、テノールとバリトンおよび室内管弦楽団によって歌われ演奏される。
例えば、第1曲で「永遠の安息を彼らに与えたまえ」と合唱で歌われたあと、テノールが「家畜が殺されるように死に続けるこれらの人々に、どんな弔いの鐘があるというのだろう?」(What passing-bells for these who die as cattle?)と歌い始めるといった具合だ。 

(2)「奉献文」での詩では、通常のレクイエムでは触れらるだけのアブラハムの挿話が、具体的に語られる。
これは、アブラハムが神への生贄として、天使の止めるのも聞かずに、長子のイサクを殺したという話だ(聖書とは違うらしい)。ラテン語の短い導入の後に、オーウェンの詩が歌われる。宗教的な狂信が、殺人や戦争をも正当化するすることのたとえなのだとしたら、興味深い。

(3)クライマックスは、最後の「われを解き放ちたまえ(リベラ・メ)」に来る。
多くのレクイエムは、「怒りの日」が最もドラマチックで、最後に行くに従い静かで内省的となる。この作品はオペラのように、音楽的にも内容的にも、最大のクライマックスは、「リベラ・メ」に来る。
そこに使われる詩は、オーウェンの全作品の中で最も有名だという「奇妙な出会い」と題されたものだ。この詩は、主人公が、塹壕に作られた野戦病院のような所で、前日、切り合いの死闘を戦って死に瀕している敵兵に出会い、互いに奇妙な友情を感じるという内容のものだ。そしてその敵兵は主人公に言う、「友よ、私はあなたが殺した敵なのだよ」(I am the enemy you killed, my friend.)。そして、「さあ、ともに眠ろう」(Let us sleep now.)と語るところで、合唱が「楽園にて」を歌い、最後に「永遠の安息」が歌われて終わる。
第1次大戦というのは、奇妙な戦争だ。いまだに歴史家は、この戦争が何を目的に戦われたのかを説明できない。そのような中で、多くの兵士が戦場に行き、ヨーロッパ人同士が殺し合った。しかしオーウェンが詩に書いているように、いったん戦闘を離れると、兵士同士には憎むべき理由はなかったのだ。
コヴェントリーの大聖堂を破壊した第2次大戦は、もう少し白黒がはっきりしていて、それは、民主主義が全体主義に勝利した戦争だ。少なくとも、そう理解することには大きな意義があって、2度と戦争を起こさないための最良の方法は、民主主義を機能させることだということになる(最近はこれが怪しいこともあるけど)。独裁者が国をまとめる最も安直な方法は、戦争を行うこと、ないしは戦争を煽ることだ。
「兵士同志、国民同士には憎むべき理由はない」というのは、この音楽が伝えているメッセージだと思う。
初演は、ブリテンの希望に沿って、テノールをイギリス人(ピーター・ピアーズ)、バリトンをドイツ人(ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ)が歌った。「リベラ・メ」の部分の詩は、この2人で歌われたのだ。(因みにソプラノはロシア人のガリーナ・ヴィシネフスカヤが予定されていたが、ビザが下りなくて実現しなかったという)

演奏は、何と言ってもボストリッジが、首を左右に大きく振って、詩と音楽に完全に入り込んでいるような入魂の歌唱を聴かせた。この人は、舞台に登場した時からこの音楽への集中力が尋常ではない雰囲気があった。ボストリッジは同郷の作曲家ブリテンを得意としており、この曲に対する共感度も高いだろう。もしかすると、日本でこの曲を歌うことに特別な意義を感じていたのかも知れない。「リベラ・メ」は元来の美声に加えて、アクセントの強弱も大きく、その思い入れの強い真摯で誠実な歌いぶりは今でも忘れられない。
ソプラノも張りのある声で、立派。ロイヤルオペラの来日公演では「ドン・ジョバンニ」のドンナ・アンナを歌って、その評判の高さを裏付けるようなよく通る声だった。バリトンは、声が柔らかく、テノールに押されがちだったのが残念。
オケは、金管(特にトロンボーン)が素晴らしい迫力。在京のオケで、これだけの迫力を聴かせるところは、めったにない。
ハーディングの指揮は、いつもの通り基調が明るい点は悪くないが、常識の範囲内に収まるところが物足りない。全曲を終えたあと拍手まで、非常に、非常に長い沈黙があった。

[付記]
今回の演奏会には、不満が一つあった。それは、歌手がオーウェンの詩を歌う時に、字幕がなかったことだ。もちろん、詩文だからすぐ理解できるとは限らないが、この曲で言葉の持つ力は大きい。私は十分予備知識を持って行ったが、それでも個々のフレーズの内容は心もとなくもどかしかった。(定期公演シリーズのプログラムには対訳があった。上の写真はそのプログラムで、左がハーディング、右は別の演奏会を指揮するトーマス・ダウスゴーです)

 

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ニューイヤー・コンサート 2016

ウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団
指揮: ヨハネス・ヴィルトナー
(2016年1月3日 横浜みなとみらい 大ホール) 

 ウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団は、1966年1月3日にヨハン・シュトラウス家の血を継ぐエドワルド・シュトラウスにより設立され、今年(この公演の日)で50周年を迎えるという。かつてはヨハン・シュトラウス2世自身が、その120年前に、ヨハン・シュトラウス管弦楽団を組んでいたから、その流れをくむものと言えそうだ。エドワルド・シュトラウスの死後は、ウィリー・ボスコフスキーが指揮をしていて、レコードも出ていた。 
この楽団は、もう30年以上に渡って日本ツアーをしているそうで、ニューイヤー・コンサートも毎年恒例になっている。

曲目は、オール・ヨハン・シュトラウス2世で、「こうもり」序曲に始まって、休憩を挟んでの後半は「美しく青きドナウ」で締め、アンコールに「ラデツキー行進曲」と、本場のニューイヤー・コンサートの型通りだ。
このオーケストラは、ボスコフスキーが指揮をしていた頃は、ウィーン・フィルに比べてどうしても響きが薄い嫌いがあったが、今回実演で聴いた限りではそういう印象はなく、しっかりした音作りをする団体だ。ただ、こぼれるようなウィーン情緒でうっとりさせる、というところまではいかない。それでも、指揮のヴィルトナーは元ウィーン・フィルのメンバーというだけあって、「ウィーンの森の物語」でのヴァイオリン・ソロの音色には、思わず聴き惚れた。
指揮者も楽団員も、茶目っ気があり、楽しいひと時を過ごした。

[ウィーンのニューイヤー・コンサート]
1月1日夜には、NHK教育放送でニューイヤー・コンサートの実況中継を見た(後半のみ)。
今年、指揮をしたヤンソンスは、乗りがいいのが特徴だが、これまでは格調の高さと微妙なところでバランスを取っていた。3回目の今回は、乗りのいいのはそのままで、格調の高さがあまり感じられなかった。来年は、ドゥダメルという。元気いっぱいのドゥダメルは、意外とドイツ音楽の王道も踏まえた人なので、どいいう方向性を出すのか楽しみだ。
近年のニューイヤー・コンサートを聴いて感じるのは、「このコンサートも、曲がり角を迎えているのではないか」ということだ。今年は、更にそのことを強く感じた。長くウィーン・フィルの首席コンサート・マスターを勤めてきたキュッヘルは、去年の定年が今年まで延長されたというが、退団が決まっている(今年のコンサートには出ていなかった)。この人は、団員に対する音楽的な厳しさも持っていたというから、ウィーン・フィルの格調を維持するのに寄与していただろう。
また、ウィーン・フィルは少しづつ女性を入団させているが、ついにというべきか、コンサート・マスターにも女性が加わるという。男性だけの団体にも良さはあって、少なくとも求心力や一体感は強いと思う。
ニューイヤー・コンサートというのは、コンサート・マスターであるボスコフスキーが指揮を取って始めたものだ。そもそもの成り立ちからして、オーケストラを聴いてもらうためのコンサートで、その性格は、どんなスター指揮者がバトンをとっても変わらない。主役は、あくまでもウィーン・フィルなのだ。
しかし、長くウィーン・フィルの中心にいて、ニューイヤー・コンサートの全盛期を作り上げたキュッヘル(格調と厳しさ)も、フルートのシュルツ(極上の幸福感)もいなくなって、その後継もすぐには見当たらないとなれば、誰がこのコンサートを引っ張るのだろうか。
女性を加えることのメリットは、何と言っても技術水準の維持・向上だ。音色的には、ベルリン・フィルもそうだが、儀礼的な緊迫感が薄れてややリラックスしたアットホームな感じになるように思う。
ニューイヤー・コンサートは、これからもヨハン・シュトラウスを中心にした格調高い路線を維持するのか、それともヨハン・シュトラウス以外の演目を増やして上質のホーム・コンサートのような方向になるのか、今年のコンサートを聴いてそんな感想を持った。

 

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