ベートーヴェン「交響曲第9番」他

ジャン・フランセ
ファゴットと11の弦楽器のための協奏曲

ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
交響曲第9番ニ短調「合唱付き」

指揮:高関健
ファゴット:大内秀介
ソプラノ:中江早希
メゾ・ソプラノ:相田麻純
テノール:宮里直樹
バリトン:大沼徹
合唱:東京シティ・フィル・コーア
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
(2021.12.28 東京文化会館)

1月のウィーンのフォルクス・オパーのニューイヤー・コンサートも、2月の二期会の「影のない女」の公演も、オミクロン株により外国人の入国が困難になったことにより中止。年末始は、このオール日本人によるコンサートだけになってしまった。第9を聴くのは、本当に何年振り(何十年ぶり)かだ。
外国人の入国に関しては、重症化率が低いとも言われており、世界的に類のない日本の対応はやり過ぎではという声もある。(二期会の損害は莫大なものになるらしい。さすがに気の毒な感じがして、チケット代は案内に応じて寄付とすることとした)

第9では、高関健の指揮は、非常に本格的なもので、メリハリがあって聴きごたえがあった。第4楽章になって合唱団が登壇するのだが、全員マスクをしている。歌う時は外すのだろうと思っていたところ、掛けたまま歌うのでびっくりしてしまった。確かに密で発声するのだから、そういうことかもしれない。歌手(さすがにマスクはしない)では、宮里直樹、中江早希が力強さのある声で良かった。オケは、音楽を聴かせようとする意志と意欲を感じさせるもの。

フランセの協奏曲は意外な組み合わせ。第9では、コントラ・ファゴットが効果的に使われているから、そういう連想かも知れない。フランス的な流麗な曲で、ファゴットも好演で楽しめた。

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ワーグナー: 歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

ハンス・ザックス:トーマス・ヨハネス・マイヤー
ポーグナー:ギド・イェンティス
ベックメッサー:アドリアン・エレート
ワルター:シュテファン・フィンケ
ダーヴィット:伊藤達人
エーファ:林正子
マグダレーネ:山下牧子、他

指揮:大野和士
演出:イェンス=ダニエル・ヘルツォーク
合唱:新国立劇場合唱団・二期会合唱団
管弦楽:東京都交響楽団
(2021年11月26日 新国立劇場)

 休憩時間を入れて約6時間の長丁場を、だれることなくまとめ上げた大野和士の指揮をまずは賞賛すべきだろう。ただそれが感動に繋がったかと言えば、それはそれで別の問題だ。
良かったと思えたのは2人の日本人女性歌手、山下牧子と林正子だ。特に山下牧子は、その生き生きとした演技と歌で、前半の舞台を引っ張った。林正子も第3幕では、控えめなエヴァの秘められた感情を一気に表現して強く心に残った。
コロナで延期され1年以上待たされ、会場をびっしりと埋め尽くした聴衆の反応もいまいちで、これだけの長時間の上演に対してカーテンコールが2回ほどというのは最小限というべきか。私自身は十分に楽しめたが、時間が長く感じられた、という声も当日の聴衆の中から聞こえた。

「マイスタージンガー」というオペラは、めったに上演されないが、私は嫌いではない。かつて昔、ロンドンでコリン・ディヴィスの指揮で聴いて、ストーリーはよく分かっていなかったと思うが時間を忘れるほどに楽しんで、後々までその記憶が消えなったことがある。
しかしこの「マイスタージンガー」というオペラ、特に独墺圏では上演に特別の難しさが伴う。言うまでもなく、このオペラには最後にドイツの民族主義を鼓舞する台詞があり、それがナチスによって政治利用された過去があるからだ。
現在ヨーロッパの主要な歌劇場での大作の上演は読み替えが主流となっていて、特にこの部分をどう扱うかという難しい問題がある。台詞自体には問題はないのだから、バイロイトにおけるカタリーナ・ワーグナーの演出(映像で観ることが出来る)のように、正面からこの問題に対峙してそれが一定の成果を挙げているものもある。今回は、ザルツブルグ・イースター音楽祭、ザクセン州立歌劇場との共同制作、ドイツ出身の演出家ということもあって、この点をどう考えるのかという興味はあった。

「マイスタージンガー」のストーリーは要約次のようなものだ。
第1幕。フランケン出身の若い騎士ヴァルターは、ニュルンベルクの教会でエヴァを見染める。エヴァは、聖ヨハネ祭の歌合戦の優勝者のものになることを知ったヴァルターは、歌合戦に出る決心をするが、その条件であるマイスターの資格を得る試験に失格する。
第2幕。失意のヴァルターは、親方ザックスのところに相談にくる。そこへやはり歌合戦でエヴァを獲得しようとしているベックメッサーが現れる。ベックメッサーの行動に対する誤解から、徒弟たちが大乱闘になる。
第3幕。男やもめのザックスは、幼いころからエヴァを見てきたことを振り返り、淡い思いを断ち切ろうとする。歌合戦が始まり、伝統的な形式をマスターしたヴァルターが優勝してめでたくエヴァと結ばれるが、マイスタージンガーの称号を拒否するので、ザックスは伝統を重んじるように諭し、ヴァルターも納得して、ザックスを讃える合唱の中で幕となる。

「マイスタージンガー」は、もともと悲劇「タンホイザー」と対になるべく構想された喜劇だ(私は今は悲劇「トリスタンとイゾルデ」と対になる喜劇と考えた方がいいと思う)。オーケストラの編成はワーグナーのオペラの中で一番小さいが、長さでは結果としてむしろ一番長くなった。ワーグナーは本来的に軽いこのオペラで、何をことさらに表現しようとしたのだろうか。考えられることを列挙すると、
①伝統のバール形式の楽曲が作られ改善される様子を描く、
②ハンス・ザックスという人物の淡い恋を通しての諦観の人生観を表現する、
③最後のザックスの台詞、「ドイツの国民も国を瓦解し、外国の力に屈するとき、(...)、外国のつまらぬがらくたをドイツの国土に植え付ける」「神聖ローマ帝国がもやのごとく消え去っても、聖なるドイツの芸術が我らの手に残るでしょう」といった民族思想を訴える、
となる。
①は、いずれにせよテーマとして描かれているが、興味深いが中心とまではいかない。それで、②か③かということになる。③については、ワーグナー自身がこの台詞を外そうと考えていたところが、コジマに説得されて翻意して残したということが伝えられている。私はワーグナーが本当に描きたかったのは、③ではなく、②であると思う。③の民族主義的な思想は、ビスマルクによるドイツ統一を3年後に控えていたことを考慮したとしても、あまりにも付け足しで、それまでのザックスの進歩的な考えに反して最後に突然に出てくるものだからだ。それまでのオペラ全体を支配しているのは②だ。しかし、③のインパクトは強烈で、ナチスによる政治利用がなかったとしても、これは民族主義オペラなのだろうかという印象が残るほどだ。

バイロイトでは、③を中心に据えてきたものが多いと思う。したがって、近年ではこういった過去を考慮した演出がなされてきた。カタリーナ・ワーグナーの演出は、ナチスによる政治利用をキャバレー文化のような一夜のバカ騒ぎに見立ててその残滓をザックスが燃やす場面が入れられて、改めてザックスの堂々とした演説につなげている。私は、これはこれでバイロイトらしい見ごたえのある演出と思う。
今回のヘルツォークの演出もある程度このライン上にあり、最後にヴァルターが優勝の盾を受け取ったあとに、エヴァがそれを破り捨てて、ヴァルターを従えて退場するところで幕となる。新しい文化を切り拓くことをヴァルターに期待すれば、そしてそれがザックスの本心と違わないと解釈すれば、それなりに説得力はある。ただ、幕切れに突然起こることなので、聴衆はややあっけにとられた感じがするし、後味が良くないのが欠点だ。

②の観点から上演された代表例は、グラインドボーンでの上演だろう(映像で観れる)。これはグランドボーンの小さな劇場の特徴を生かした、天才マクヴィカーの演出、劇場をよく知ったユロフスキ―(父親がボリショイの指揮者)の指揮によるもので、「人情噺 ニュルンベルクのマイスタージンガー」とも言うべきものだ。この演奏は私が知る限り「マイスタージンガー」の最高のものであり、特に第3幕など、とうてい涙なしには見れない。マクヴィカーの演出は、セリフの一つ一つを追うような細部にわたっての神経が行き届いたもので、ユロフスキ―の指揮もその演出とぴったり合った、やはりセリフの一つ一つを音楽でなぞるような表現力の豊かなものだ。第3幕で、甘美な旋律が続く中、感極まったエヴァがザックスに対して「もし私が自分で選べるのなら、あなた以外の人は選ばなかった。」と打ち明けるところは、この「人情噺 マイスタージンガ―」のクライマックスだ。この演出では、その後の最後のザックスの演説は、ベックメッサーに対する気遣いのあと、舞台上の民衆に紛れたまま等身大で語られ、力こぶの入った民族主義的な要素は消滅している。私はこの演奏を知って初めて、「マイスタージンガー」というオペラの神髄に触れた思いがして、同時にワーグナーという作曲家の素晴らしさも再認識した。

というわけで、今回の上演だ。大野和士はリズムの扱いに優れているから、「徒弟たちの踊り」などは大変楽しめた。ただ大野和士がこのオペラを、①②③のうちどれと考えていたのか不明だ。はっきりしているのは、私に関して言えば、感動は今一つ得られなかったということだ。3幕前半の甘美な旋律群に関しても、何も感じなかった。
しかしこのことの最大の理由は、むしろハンス・ザックスを歌ったマイヤーにあるとも言える。風采からすれば一定の存在感を示しそうな雰囲気もあったが、なにせ主役陣の中で最も声がなかった。そのことに尽きる。林正子は、上の「私が自分で選べるのなら」のところは良かった。本当に良かったのだが、ザックスのサポートがなく、一人で頑張ったという印象だ。ベックメッサーは性格をよく描写して良かった。ポーグナーも声があり良かった。しかしヴァルターは朗々と歌ったのは良かったが、性格描写はどうだろう。山下牧子は最初に書いた通り大変良かった。東響は、私の席からは音色にやや円滑さに欠けて聴こえたが、ワーグナー・サウンドは堪能した。演出は全体的には非常に良く工夫されたもので、スムーズに見れた。最後の盾を破る場面も、劇全体からは違和感はないのだが、なんせ唐突だった。

ニュルンベルクの街は一度訪れたことがある。古い大きな教会があったので、外から撮ろうと思ってカメラのファインダーを覗いていたら、通りがかりの頑固そうな婆さんにすごい剣幕で怒鳴られた。何を言ったのかさっぱり分からなかったが、どうせ「教会は見世物じゃないよ!」とでも言ったのだろう。特段イヤな感じは受けなかったし、いい思い出なのだが、ニュルンベルクがそういう婆さんがいることろだということは分かった。
歴史のさまざまな時点でその名を登場させたニュルンベルク。保守的な風土に若い騎士が新風を吹き込んで欲しいという意味では、共感するところもあった今回の舞台。しかしコロナで1年以上延期になるなどあまりにも条件が悪かった。次の上演では、ぜひともそれを感動に繋げてほしいものだと思う。

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