ベートーヴェン: 「フィデリオ」(新演出)~ 屈曲したオペラ

レオノーレ: リカルダ・メルベート
フロレスタン: ステファン・グールド
ドン・ピツァロ: ミヒャエル・クプファー=ラデツキー
ロッコ: 妻屋秀和
マルツェリーネ: 石橋栄実、他

演出: カタリーナ・ワーグナー
ドラマツゥルク: ダニエル・ウェーバー
指揮: 飯森泰次郎
東京交響楽団
新国立劇場合唱団
(2018年5月20日 新国立劇場)

 [ネタばれ] カタリーナ・ワーグナーとダニエル・ウェーバーの新演出による、圧倒的な感銘と感慨と感動をもたらす公演。
カタリーナ・ワーグナーによる演出なのだから、当然に「読み替え」を期待した。しかし、「フィデリオ」に読み替えは可能だろうか?
第1幕は大きな読み替えはなく、おおむね台本通り進行したので、その点では肩透かしを食らったような気になったが、第2幕は目が舞台にくぎ付けになった。同じ読み替えでも、単なる知的な遊びの場合もあれば、マクヴィカーの「サロメ」のように作品の本質に迫り大きな感動をもたらすものもある。今回は後者の例だ。
私はカタリーナ・ワーグナーの舞台は、実演はもちろん、映像でも見たことがない。バイロイトの演出はいい評判が聞こえなかったので、あまり関心を持たずにいた。ところが、演出を直接手掛けたわけではないが、総監督の立場で参加している「タンホイザー」を映像で見てから、考えが一変した。そこでの読み替え演出が持っている方向が、現代の世界が抱えている大きな問題に真正面からアプローチしていて、それが非常に大きな感動をもたらしていたからだ。「フィデリオ」のようなオペラでは、この方向性こそが重要だ。それは、期待を上回る果実となって眼前に顕われた。

「フィデリオ」は政治オペラだから、作曲者の意図は台本そのままではない。上演許可を得るために、作曲者はいくつもの妥協をしなければならない。だから、カタリーナ・ワーグナーの新演出を理解するためには、①台本の筋書き、②作曲者が真に意図した内容、そして③演出家がそこから表現しようとしたこと、の3つを理解する必要がある。さらに「フィデリオ」の場合は、作曲者自身が大きな改訂を行っているという事情が加わる。「フィデリオ」は、ベートーヴェン自身にとってさえ、屈曲した出自を持っているオペラなのだ。

① 台本の筋書
刑務所長ドン・ピツァロは、政敵フロレスタンを不当に投獄している。フロレスタンの妻レオノーレは夫を救出するため、フィデリオと名を変え、刑務所の看守長ロッコのもとで働くようになる。そこに、ロッコの娘マルツェリーネがフィデリオを男と思い込み恋するようになる、といった微笑ましいエピソードが入る。ドン・ピツァロは、大臣が極秘に視察に来るという情報を入手して、その前にフロレスタンを殺そうとするが、レオノーレがそこに立ちはだかる。ちょうどその時、大臣が到着してフロレスタンや囚人たちは釈放されて、喜びのうちに幕となる。
(全体はドイツの伝統的なジングシュピールで書かれており、それに則って「救出劇」という範疇に入れられる。イタリア・オペラのような悲劇・喜劇の分け方は当てはまらない。この点では「後宮からの誘拐」や「魔笛」と同じだ)。

② 作曲者の意図
この筋書きについて考えると、いくつかの点が伏せられている。フロレスタンが政治犯であることははっきりしているが、ここに登場する囚人たちはどんな罪を犯した人たちなのだろう。彼らはなぜ大臣によって赦免されるのだろう。大臣は刑務所長とどういう関係にあるのだろう。そもそも、到着するだけですべてが解決する「大臣」なる人物とは、いったい誰なのだろう。

一方、音楽的に見れば、ベートーヴェンは、この作品のために4曲の序曲を書いた。書いた順に並べると、「レオノーレ」序曲第2番、同第3番、同第1番、そして「フィデリオ」序曲となる。内容的には第2番、第3番が闘争的な激しさを持っているのに対して、第1番ではそれが薄れてやや散漫、それらに対して「フィデリオ」序曲は先行する3曲とは全く異なる曲想を持った音楽であり、書法は充実しているが重厚さはなくなって軽い、という特徴を持っている。作曲家が1つのオペラのために、4曲もの異なる序曲を書くというのは、音楽史にほとんど例がない。これは音楽的な理由によるものなのだろうか。
そこで再び思い起こされるのが、「フィデリオ」は政治劇だということだ。言葉で言うことが許されなかったことを、最も雄弁に表現できるのが序曲という器楽曲だ。だとすれば、これらの序曲は、ベートーヴェンがこのオペラで表現したかったことを最も直截的に表しているはずだ。これらの曲がここまで違うのは、ベートーヴェンがこのオペラで表現したかったこと自体が、変貌していったのではないだろうか。
改訂稿とこれらの序曲、そして初演年の関係は次の通りだ(序曲第1番は結局演奏されていない)。第1稿-序曲第2番(1805年初演)、第2稿-序曲第3番(1806年初演)、第3稿ー「フィデリオ」序曲(1814年初演)。序曲第2番と第3番は同時期なのに対して、「フィデリオ」序曲との間には8年の年月が流れている。世の中も、ベートーヴェン自身も、この間に大きく変わった。

ベートーヴェンが生まれたのは1770年、1789年に起きたフランス革命の時代に青春時代を送った。同時期の人に、前年の1769年に生まれたナポレオンがいる。ベートーヴェンのナポレオンに対する思いは、交響曲第3番をナポレオンに捧げるために書いたことによく表れている。
ナポレオンが行ったこと、それは「フランス革命のヨーロッパ全土への輸出」だ。ナポレオンはヨーロッパ各地で戦争に勝利し、因習に満ちた旧封建勢力支配層を倒して、ナポレオン法典を与えて民主的な法による支配を広めた。旧封建勢力の横暴に苦しむヨーロッパ各地の人々は、このナポレオンを熱狂的に受け入れた。
「フィデリオ」第1稿は、交響曲第3番「英雄」(1804年)と同じ時期に書かれた。初演当時、オーストリアはナポレオンと戦争をしていたから、ナポレオンを公然と賛美するオペラは書けない。しかし、「フィデリオ」に描かれた囚人とは旧勢力の圧政下に苦しむ人々であり、到着するだけで全てを解決する「大臣」とは、ナポレオンないしその配下の将官とも見える。「レオノーレ」序曲第3番は自由への闘争・自由への賛歌であり、もう一つの英雄交響曲なのだ。

しかし、いかにナポレオンが一見してフランス革命の自由・平等・博愛思想を信奉していたにせよ、ナポレオン自身はフランス革命を起こした人ではないし、フランス革命とイコールではない。旧封建勢力を倒したのちに行ったことは、自らが皇帝となってヨーロッパに君臨し国内的には専制政治を行い、征服した国々の支配者に自己の兄弟をあて、オーストリアの皇女を嫁としてハプスブルク家に名を連ね、その権威のもとに世襲制のボナパルト朝を打ち立てることだった(このどこがフランス革命なのかと人は思うだろう。ナポレオンとすれば、これらのプロセスが圧倒的な支持のもと、国民投票で行われたことがブルボン朝との決定的な違いだった)。
ナポレオンが近隣諸国と戦って勝利して得たものは、巨額の賠償金であり、これが敗戦国の犠牲のもとにフランスに巨額の富をもたらした。
「フィデリオ」第3稿は、このような新たな状況下で初演された。もうナポレオンに対するヨーロッパ全土の熱狂は過ぎ去っていた。ベートーヴェンは、フランス軍を破ったイギリスの将ウェリントンを讃えて、1813年に今はすっかり忘れ去られた短い管弦楽曲、交響曲「ウェリントンの勝利」(戦争交響曲)を書き、大喝采を受ける。ナポレオンによって「破壊された」国土を立て直すために列強が集まったウィーン会議(1814-15年)の場で、皮肉にもベートーヴェンの名声は頂点に達する。
ナポレオンの功績自体は誰も否定できない。しかし一方で、ナポレオンほど毀誉褒貶の激しい人物もいない。自由と平等と博愛を追い求めたベートーヴェンの理想は何も変わらないが、「フィデリオ」第1稿から第3稿までの間に、ベートーヴェンが目の当たりにしたのは、こういうことだった。

③ 演出家の意図
カタリーナ・ワーグナーとダニエル・ウェーバーが行った主な読み替えは、次のようなものだ。
まず、レオノーレとフロレスタンは、ドン・ピツァロよって受けた刺し傷によって最後には死ぬ(つまり救出されない)。そして囚人たちも解放されない。囚人たちは一見赦免されたかのように見えるが、別な牢獄に騙されて入れられるだけだ(囚人たちはフロレスタンのいる地下1階の牢獄より更に下の地下2階から、「囚人の合唱」の場も含めて、一度も上がってくることがなかった)。そして、大臣とドン・ピツァロはつるんでいて、これが彼らの思った通りの結末であったことが示唆される。
「レオノーレ」序曲第3番は、慣例どおり第2幕第2場の前に演奏されたが、第1場で傷を負って倒れたレオノーレとフロレスタンのいる地下牢の入り口は、序曲の前半部分で、ドン・ピツァロによってレンガが積まれてふさがれ、序曲の後半部分は、全く行き場のない閉空間を舞台上にして演奏された。行き場を失った「レオノーレ」序曲第3番の視覚イメージは強烈だった。

また今回の公演の特徴として、演出家のほかに「ドラマトゥルク」なる人がいて、カーテンコール(カタリーナ・ワーグナーも姿を見せた)の場でも演出家と同等かそれ以上の立場が与えられているように見えた。演出とドラマトゥルクの役割分担は不明だが、随所にドラマとしての推進力は感じた。地の台詞はほとんど省略され、オペラのような流れが出来て、結末もイタリア・オペラ的な悲劇だ。レオノーレは、恋心を歌うところでは女性服になり、夢見るマルツェリーネとの色彩の対比がもたらされ、これにより前半と後半の異質性から来るぎこちない流れがいくらか改善されていた。
最後は歌詞を変えずにストーリーを180度変えるわけだから、相当の演出上の工夫がいる(このあたりは、非常に分かりづらい)。

この驚くべき結末の解釈の最も驚くべき点は、これが第3稿初演当時のベートーヴェンの心象風景を最もよく表しているのかも知れないという点だ。むしろ、これこそがベートーヴェンの生涯を通じての唯一のオペラ「フィデリオ」の真の姿だともいえる。
絶望的な結末のように見えながら、私たちが今日享受している自由がいかに多くの闘いの後に獲得されたものであるかを示唆している点で、また依然として現代社会に大きな問題を投げかけているという点で、大きなカタルシスを感じさせるものだった。

飯森泰次郎の指揮は、全てにおいて満足できるものだった。また東京交響楽団は、ドイツもベートーヴェンも感じさせてくれる素晴らしい音を出していた。
そしてすっかり新国立の名物となった合唱団は、最後に素晴らしい迫力のある合唱を聴かせた。この合唱団の実力は、世界の歌劇場の中でもトップクラスだろう。
歌手では、グールドが素晴らしく力強い歌唱で、メルベートも特に最後は負けないほどの声を聴かせた。日本人の歌手陣も、負けない歌唱を示した。

今回は、客席にドイツ人が目立った。それも多くが正装だった。ドイツ語で「バイロイトの友の会」というような団体名が表示されたバスが、劇場横に止まっているのを帰りがけに見かけた。おそらく、ドイツからツアーが組まれたのだろう。クール・ジャパンではないが、日本のオペラも、海外からツアーが出るほどになったことを知らされたし、またそれに値する公演だと思った。
新国立は、この「フィデリオ」をレパートリーとすることを、世界に誇っていいと思う。

(注記)
ここでのベートーヴェンの表現意図も、カタリーナ・ワーグナーの解釈も、当然にいくつか考えられるものの一つにすぎません。これを観た方は、ぜひ先入観なしに楽しんでいただけたらと思います。

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オール・ベートーヴェン・プログラム

序曲「コリオラン」
歌劇「フィデリオ」から
 ーレシタティーヴォとアリア「悪者よ、どこに急ぐのだ」
 -序奏とアリア「神よ、何という暗さだ」
 -二重唱「ああ、えも言われぬ喜び」
序曲「レオノーレ」第3番

交響曲第5番「運命」

マヌエラ・ウール(ソプラノ)
ペーター・ザイフェルト(テノール)
指揮:チョン・ミョンフン
東京フィルハーモニー交響楽団
(2018.5.3 大賀ホール)

 チョン・ミョンフンという人は、すでに巨匠なのだ。私はこの演奏会を聴いて、はっきりとそう思った。昔のフルトヴェングラーの演奏会は、あるいはこういう雰囲気を持っていたのかもしれない。私は指揮者にカリスマ性を感じたというのは、初めての経験のような気がする。その意味で、忘れられない演奏会となった。

オール・ベートーヴェン・プログラムで、前半は歌劇「フィデリオ」が中心、後半は第5交響曲だ。いわゆる名曲コンサートのように見えるが、このプログラムにははっきりとしたメッセージが読み取れる。
前半だが、「フィデリオ」ハイライトのように見えて、「フィデリオ」序曲が演奏されずに「コリオラン」が置かれている。これによって形式的には、前半・後半ともに、悲劇的なハ短調で始まり、雄大なハ長調で終わる構成となった。そして内容的には、軽い「フィデリオ」序曲を排し、重い「レオノーレ」序曲第3番が前半の最後に置かれることとなった。これは、「フィデリオ」というオペラを解釈するうえで、決定的に重要なことだ。
そして後半は、「苦悩を通じて歓喜へ」を代表する第5となる。まずは、はっきりとした思想性が感じられる、このプログラムに唸った。

「コリオラン」は、普通に聴いていた。しかしフロレスタンのアリアの途中あたりから、体の内側から感動が沸き出てくるのを感じた。ミョンフンの指揮から出る、一つ一つの音からそういうものを感じ出したのだ。それは演奏会の前には、ほとんど予想もしなかったことだ。いったいこの感動は何なのだろう?
続く「レオノーレ」序曲第3番と第5交響曲は、外にエネルギーが向かった推進力の強い演奏。特に第5の第2楽章は、多くの演奏から感じる内省的な面影が、ほとんど感じないほどのものだった。

今、ベートーヴェンを演奏させて、韓国人が一番なのではないだろうか。例えばピアノのサンウーク・キム(Sunwook Kim)。私はこの人のベートーヴェンのピアノ・ソナタを、Spotifyでよく聴く。というより、最近はベートーヴェンのピアノ・ソナタは、この人以外では聴かないと言ってもいいくらいだ。それほどまでに、素晴らしい。
西側先進国で、ベートーヴェンというのは演奏するのも聴くのも難しくなっている。ベートーヴェンの追い求めた、自由とか平等とか博愛とかというものは、実は多面的なもので、単純に求めて得られるようなものではなくなっているのだ。
しかし依然として戦争状態にある朝鮮半島では、状況は異なるだろう。当然に自由の問題は北朝鮮に重くのしかかっているし、かといって財閥に支配されている韓国では、自由というのは一部の人のみが富む私有財産の自由であり、国民は将来に対して不平等と感じ、大多数の人々の不満は問題があるたびに噴き出る。さらに祖国や民族の統一とかいう問題は、ベートーヴェンの時代と相通じるものがあるのではないだろうか。
今回の演奏会で感じたのは、おそらくはそういうことだと思う。

ミュンフンという人は、おそらくアンサンブルに高い要求をする人なのだろう。オケの音が、特にリズムがぴったりと決まっているのが、聴いていて気持ちがよかった。ベートーヴェンの音楽は、原則としてチェロとコントラバスが同じパートをオクターブ違いで演奏する。ということは、速いパッセージのコントラバスの演奏はかなり難しいのだが、それがきちっと決まっていて、音量的にもたっぷりと豊かだった。さらには、オケの団員全員が一生懸命演奏している様が伝わってきて、好ましかった。それはおそらく、指揮者に対する信頼と尊敬の念からくるのだと思う。弦の響きの美しさ、木管の音色のクリアさ、金管の芯からの力強さとか、さらに求めたいこともあるが、感動を前にしてそんなものが何だろうと思わせる。
歌手は立派。特にテノールのザイフェルトは、ハリのある声で堂々とした歌唱を示した。(それにしても、これだけの歌手を用意してたった3曲!)
東フィルは私の好きな良いオケだが、今回は「悪いオケというのはない、悪い指揮者がいるだけだ。」というフルトヴェングラーの言葉を思い出すほどに、チョン・ミュンフンの存在感の大きさを感じた。

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(付記)

オール・チャイコフスキー・プログラム
ピアノ協奏曲第1番、交響曲第6番「悲愴」
ピアノ: 清水和音、指揮: アンドリス・ポーガ、NHK交響楽団

こちらは翌日に同じ会場で開催された正真正銘の名曲コンサート。清水和音は長い曲でエネルギーが終始保たれる演奏。「悲愴」は、オケは弦がよく揃った美しい音色を奏で、木管はくっきりはっきりとした音色を奏で、金管は力強さが底から湧き出るような演奏。ポーガの指揮は、オケを統率するのに優れ、最強音は空間に轟き渡る。しかし私は、第2楽章が明るくて楽しい音楽であることを発見したような気持になったほかは、ほとんどの音から何も感じることが出来なかった。演奏者が名曲コンサートと割り切っているのだろう。

 

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