ローマ・イタリア歌劇団: プッチーニ 「ラ・ボエーム」

ミミ: カルメラ・レミージョ
ロドルフォ: ジュゼッペ・ディステファノ
ムゼッタ: サブリナ・コルデーゼ
マルチェッロ: ロドリゴ・エステヴェス、他 

指揮: カルロ・パッレスキ
演出: ジョルジョ・ボンジョヴァンニ
ローマ・イタリア歌劇場管弦楽団/合唱団
(2016年7月2日 東京文化会館) 

 ローマ・イタリア歌劇団というのは、イタリア中部スポレートにあるスポレート実験歌劇場の日本公演に際しての名称だ。スポレートは声楽コンクールでかなり知られているが、なにぶん小さな町で、音楽的なスケール感は望めないが、舞台装置などは本格的で、国際的に活躍するレミージョの好演もあり、十分な満足感を得られた公演だった。本場イタリアといえども、中小都市の歌劇場となると、レベル的には新国立のほうが上だと思うが、居ながらにしてイタリア文化に直接触れることができるのは貴重な機会だと思う。今では珍しいことだが、配役はほとんど全員がイタリア人のように見える。

「ラ・ボエーム」というオペラは、私は知りすぎている。ずいぶん昔から聴いてきたから、このオペラを聴くことは、何か自分の青春時代をなぞるような懐かしさがある。今回は、イタリア人の公演ということで観ることにした。
ただこれだけ好きな一方で、私は常に「ラ・ボエーム」を「椿姫」と対比し、「椿姫」を上に置いてきた(舞台は観たことがないのだけれど)。「椿姫」に登場する人々は、みな高潔な人格を持っていて、特に第2幕のジョルジュ・ジェルモンとヴィオレッタの2重唱は、聴くたびにヴェルディという人に対する深い尊敬の念を新たにする。「椿姫」には、作り物ではない、社会との関係で葛藤する真実の人間感情が歌われており、それが人々を感動させるのだ(苦しんでいるのはヴィオレッタだけではない。ジョルジュ・ジェルモンもまた苦しんでいる。それがヴェルディのヴェルディたる所以だ)。
それに対して「ラ・ボエーム」は、登場人物が身近で、純愛といっても親しみやすさがある。今回行く前に聴き直してみて、オーケストレーションが緻密なこと、全編に溢れる強靭なカンタービレなど、時代の好みが(そして自分の好みも)少しづつ「ラ・ボエーム」に有利に働いているのを感じた。古い番号オペラの形式を持った「椿姫」は、ストーリーともども、やはり古さを否めない。
それに「ラ・ボエーム」は、単にロドルフォとミミの愛に焦点を当てただけのオペラではない。屋根裏部屋で気ままにかつ奔放に生活する若い芸術家を描いて、楽しさも夢もある。 見終えた後には一種の清涼感もあり、若い聴衆には好まれるだろう。世界1の公演回数を持つのは「椿姫」で、世界第3の公演回数を持つのが「ラ・ボエーム」というデータもあるようだから、人気の点では、双璧といってよいだろう。

歌唱はミミを歌ったレミージョが、最後の場面など心がこもっていて聴かせた。ロドルフォ、マルチェッロはまあまあ良かった。ムゼッタは、声がよく伸びていて、聴いていて気持ちがよかった。
バッレスキの指揮は、ほとんど常識的なもので、可も不可もなしというところだが、特段に不満も感じなかったのは可とすべきだろう。オーケストラは管楽器がカラフルな音色を聴かせて楽しかったが、弦は人数がいくらか少なめなところもあって、うまく聴かせどころを作れない。
演出は、第4幕でムゼッタがミミを連れて登場する場面では、和音の一撃まで間が開いてしまったものの、ミミが貧しい屋根裏部屋で死んでいく切なさが、窓の外からの光と、暗転する舞台でうまく表現されていたと思う。
聴衆はピンキリ。第1幕では、音楽が終わる前から拍手が起こりびっくりした。今の日本では、どんな公演に行ってもこういう聴衆にはまず出会わない。私自身は、静かに終わる第1幕の余韻を楽しみたかった。 

総じて、手抜きのない舞台装置、粒がそろった歌手陣、イタリア的な元気のある音色のオーケストラをもって、オペラ心あるイタリア人が手作りといった感じで作り出した好演奏だったと思う。

 

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