ヴェルディ: 歌劇「リゴレット」(新制作)

リゴレット: ロベルト・フロンターレ
ジルダ: ハスミック・トロシャン
マントヴァ公爵: イヴァン・アヨン・リヴァス、他

指揮: マウリツィオ・ベニーニ
演出: エミリオ・サージ
新国立劇場合唱団、東京フィルハーモニー交響楽団
(2023年5月28日、新国立劇場)

ジルダを歌ったトロシャンが、声がよく出ていて印象的だった。リゴレットを歌った名歌手フロンターレはなかなかの声で存在感を示した。全体にジルダとリゴレットが対等に張り合う、通常とは一味違った「リゴレット」の演奏だった。
サージの演出は、特段奇をてらったところがないが、適度に現代的で新しさも十分感じさせるもので、なかなか手堅いものだったと思う。

ヴェルディの歌劇「リゴレット」は、「鬼神をして泣かしむ」オペラだ。それはこのオペラの最初の一音から最後の一音に至るまでに流れる、異常なまでの緊迫感溢れる旋律の力による。ただ、人がもしリゴレットを悪人というなら、それに反論するものはない。リゴレットは人々から忌み嫌われている、性格の歪められた人間であり、ジルダ以外に対しての優しさを感じさせるものはない。
にもかかわらず、人は「リゴレット」というオペラが長い間に渡って多くの人々を感動させてきたことを知っている。それを感じ取ることが出来れば、むしろそれで十分かもしれない。しかしここでは、その理由について考えてみようと思う。

「リゴレット」のあらすじは次のようなものだ。
第1幕 マントヴァ公の夜会。娘をマントヴァ公に弄ばれたモンテローネ伯爵が怒って入ってくるが、マントヴァ公に使える道化リゴレットにからかわれる。伯爵はリゴレットに対し、その腹いせに「呪い」の言葉を与える。一方、リゴレットには亡き妻との間に娘が一人いて、教会で見かけた青年に恋をしている。臣下たちはその娘をリゴレットの情婦と思い誘拐する。
第2幕 ジルダがいないのでリゴレットは悲嘆にくれているが、やがてジルダが公爵の部屋から出て来るので話を聞く。ジルダもまた青年になりすました公爵に手籠めにされたことを知る。リゴレットは復讐のため殺し屋に依頼して公爵を殺害することを決意する。
第3幕 殺し屋は嵐の夜に公爵の殺害をするはずだったが、公爵を愛しているジルダは公爵の身代わりとなる。リゴレットのもとに届いた死体は、開けてみるとジルダだった。悲嘆にくれるリゴレット。

「リゴレット」は、ヴェルディ30代後半に書かれた、「椿姫」「トロヴァトーレ」と並んで中期3大傑作と呼ばれる作品だ。3作品には共通する特徴があって、王侯貴族を主人公としていないこと、感情表現が他の作品と比べて格段に生々しいことだ。ヴェルディは、20歳になる直前に18歳の妹を亡くしている。そして22歳で結婚して2人の子をもうけながら、これらの子と妻はヴェルディが20代の間に相次いで病死する。全てを失ったヴェルディは、死をも考えたと言われる。
私が「リゴレット」というオペラを聴くときに、いつも考えるのは、このうちの妹の死のことだ。ヴェルディの妹には障害があった(福原信夫「ヴェルディ」音楽之友社刊 p27)。このことはリゴレットの、「祖国もなく、身寄りもなく、友もなく」という生き方と関係しているかも知れない。リゴレットは精神的に強い人間で、孤独になることを恐れるがためにジルダの愛を求めるようなひ弱な人間ではない。リゴレットは、弱いジルダを汚れた社会から何としても守ろうとした。リゴレットの悲劇は、世の中をすべて敵に回してまで守ろうとしたジルダを守れなかったことにある。ジルダが公爵により弄ばれたことの告白を受けたリゴレットは何度となく「お泣きなさい piangi」(イタリア・オペラによく出て来る「泣く」piangere の親称命令形だ)と繰り返す。そして公爵への復讐を誓う。
ヴェルディ自身によると、ヴェルディは「リゴレット」というオペラ全体を、リゴレットとジルダの大きな二重唱として構想したという。「リゴレット」で感動的なのは、すべて第1幕、第2幕、第3幕それぞれで歌われるリゴレットとジルダの二重唱だ。

今回の公演の特徴は、ベテランのフロンターレが重みのある存在感を示しながらあと一つ熱量が伴わない一方で、ジルダが張りのある立派な声でリゴレットと張り合ったことだ。こういう構図で演奏された「リゴレット」は聴いたことがなかったので、それはそれで印象的ではあったが、ではそのように演奏されたドラマの何に感動すればよいのかという疑問は残った。マントヴァ公は、劇場中に響き渡る声で、聴衆を沸かせた。
指揮者は、メリハリは聴いていてサービス精神はあったが、それがあと一つ感動に繋がらなかった。「リゴレット」の満足できる演奏というのはそう多くはないと思うが、私たちはムーティの指揮によるカリスマ的で理想的な演奏をすでに聞いている。
このオペラで合唱は大きな役割をになう訳ではないにしても、合唱団は素晴らしかった。つくづく感じたのは、新国立の合唱団は単なる合唱団ではなく、ドラマも担っているということだ。あらゆる意味でこの合唱団は世界のトップレベルにあると思う。この合唱を聴くことは、新国立に来ることの楽しみになりつつある。

 

(付)<ジルダの行動について> NEW
このオペラを観た人の多くが、自らを犠牲にしてまでマントヴァ公爵の命を守るジルダの行動に強い違和感を持つだろう。やはり想像の域を出ないが、このような筋書きの意味を推測してみることは出来る。
「リゴレット」の原作はヴィクトル・ユゴーの「逸楽の王」だ。この劇は、王に対して批判的ということで1日にして上演禁止となった。ヴェルディの「リゴレット」は、原作にかなり忠実というが、場所やタイトルを変更したにしても上演が許可されているように、政治的な意味合いはかなり後退していると考えられる。
そもそもリゴレットの依頼に応じて、殺し屋が金だけの理由で王の暗殺を請け負うというのは不自然だ。とうぜんそこには思想的な背景があると考えられる。つまり殺し屋は反王党派のグループの一員であったのだろう。それに対してジルダは、心情的には強い王党派だったか、あるいは党派的な対立そのものに反対していたのだろう。だから自分を心から愛してもいない王を守るために身代わりになったのだ。
これは共和主義者ユゴー自身の家庭環境でもあった。生粋のナポレオン支持者であった父親に対して、母親は豊かな資産家の家に生まれた熱心な王党派であり、それが理由で家庭は不和により別居状態が続いた。そしてユゴー自身は母親の手で育てられている。ユゴーの生きた時代は、共和制、帝政、王政のあいだを行き来した時代であり、ユゴーもこのような社会の分断による自分自身の経験やら他の多くの人々の悲喜劇を目の当たりにしていただろう。
ヴェルディの「リゴレット」からは、このような要素は感じ取れない。ヴェルディはひたすら父娘の情愛のドラマを生み出している。しかし、例えば2幕の最後で歌われる二重唱。「復讐だ」というリゴレットに対し、ジルダのパートは4度上に転調してまるで天上からの歌のように響く。ジルダはリゴレットとは別の世界に住んでおり、リゴレットとは復讐の感情を共有してはいないのだ。そこに悲劇が生じたという意味で、「リゴレット」は「逸楽の王」と同じ土壌の上に立っている。

 

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プッチニーニ: 歌劇「トゥーランドット」

トゥーランドット: 土屋優子
王子カラフ: 城宏憲
リュー: 谷原めぐみ、他

指揮: ディエゴ・マテウス
演出: ダニエル・クレーマー
二期会合唱団/日本フィルハーモニー交響楽団
(2022. 2.26 東京文化会館)

東京二期会による公演。この公演には2つの大きな特徴がある。1つはプロジェクション(プロジェクト)・マッピングを用いた演出、もう一つは通常用いられるフランコ・アルファーノによる補筆版ではなく、ルチアーノ・ベリオによる補筆版が用いられていることだ。私の関心はもっぱら後者にあり、プロジェクション・マッピングはものの試しにという程度だった。

で、ベリオによる補筆版。もともとアルファーノの補筆には疑問が付きまとっていた。当初から初演指揮者として予定されていたトスカニーニ(プッチーニの信頼が非常に厚かった人だ)は、アルファーノの補筆版に難色を示して100小節以上をカット、それを不服としたアルファーノは訴訟まで用意したほどだったが、なぜか後に納得して、それが現在の多くの劇場で上演される版となった。私はこのトスカニーニの反応、そしてその後のアルファーノとの和解の理由が非常に気になる。
プッチーニが残した「トゥーランドット」は、第1幕も第2幕もド派手に終わる。第3幕は静かに終わるというのがこういう場合の定石だと思うのだが、アルファーノは第3幕も負けずにド派手に終わらせた。これはあり得ない。少なくとも人が一人、トゥーランドットに絡めて死んでいるのに、その結婚の物語がド派手なハッピーエンドというのは、とてもプッチーニが考えていたストーリーとは思えない。私は、トスカニーニはこのあたりの事情をいくらか知っていたのではないかと思う。
ベリオの補筆版は静かに終わるが、トゥーランドットがカラフとの間に愛が芽生えるようなやりとりがある。しかしこのあたりは、最近発売されたパッパーノによるアルファーノ版完全版にもあるらしい。これをカットしたトスカニーニの判断には何も問題を感じない。問題はここではない。問題はアルファーノ版に、死んだリューへの言及がないことだ。
ベリオ版は音楽的には特に際だったものはないようだが、それでもこれらのことに改善を図ったことでは存在意義を見出せるだろう。

トゥーランドットを歌った土屋優子は、思いのほか堂々として立派だった。演出は、特段のものは感じなかった。電子的に処理しながら、入場料がリアルより跳ね上がるというのは、技術の黎明期とはいえ残念。

過去の「トゥーランドット」

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