モーツァルト:歌劇「魔笛」 ~ 新しい社会の到来

タミーノ: アレクサンドル・クナフ
パミーナ: イングリダ・ガポヴァ
パパゲーノ: アルトゥル・ヤング
ザラストロ: レミギウシュ・ウコムスキ
夜の女王: ヨアンア・モスコヴィチ、他

指揮: マルチン・ソンポリンスキ
演出: リシャルト・ペリット
ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場管弦楽団・合唱団
(2019.11.9 東京文化会館)

 序曲の最初の変ホ長調の和音が響いたとき、えっと思った。木管、金管と進むに連れて、その思いはさらに強くなった。室内管弦楽団特有のキレのいい音を想像していたが、ものの見事に裏切られたようなまろやかな音。もともとここは古楽アンサンブルを起源とするようだが、8回目の来日の中で今回は初めて古楽器を使った公演だった。
この団体は、モーツァルトの21ある全てのオペラ作品をレパートリーとする世界唯一のオペラ劇場として知られる。それならば奇をてらったような演出はないだろうと思って、手垢にまみれたこのオペラの原点を知りたいというような気持で観た。大蛇が3羽の鳥になった以外は、ほぼト書き通りの素直な演出で演奏もまた素直、その点は非常に良かった。さらに劇場で見ると、普段録音で聴いている時には考えないようなことまで、いろいろと頭をよぎった。

「魔笛」は、間違いなくモーツァルトの最高傑作の一つだ。モーツァルトの中では、3大交響曲と並んで、後世に与えた影響が最も大きく、これがなければウェーバーやワーグナーに繋がるドイツ音楽の歴史はまた違ったものになったのではないかというような礎を築いた作品だ。しかし、このモーツァルト最後の年の、完成されたほとんど最後の作品は、高度に純化された音楽がモーツァルトの音楽の最高峰に位置することは間違いないにしても、作品全体としてはよく分からないのだ。
最大の理由は、筋書きだ。「魔笛」は作曲途中でプランが変更されたため、物語にいくつかの矛盾を抱えた「荒唐無稽なおとぎ話」というのがほぼ定説だ。しかしモーツァルトの他の傑作オペラをみると、「フィガロの結婚」にせよ「ドン・ジョヴァンニ」にせよリブレットは完璧だ。そしてそこでの登場人物は、どんな端役にいたるまで天才にしかなしえないような完璧な性格描写がなされている。モーツァルトのオペラに意味のないおとぎ話はない。いったいモーツァルトは、ここまで純化された音楽を、本当に荒唐無稽の物語に対して書いたのだろうか。

こういったことを考える上では、一つのしっかりした視点を定める必要がある。それは、「魔笛」は「寓話」だということだ。寓話というのは、ストーリーそのものには大きな意味はなく、なにか別のもっと普遍的な真理を語っている。それは当時の誰もが共感するものでなければならない。したがって、この物語のプランが途中で変更され、登場人物の立場が変えられたとしても、それは何か外的な要因から生じたものであり、モーツァルトが言いたかったこと自体は一貫して何も変わらなかったという視点が必要だ。

「魔笛」のストーリーは、大まかには次のようなものだ。
(第1幕)王子タミーノは大蛇に襲われるが、3人の侍女が現れてそれを救う。パパゲーノが現れ、鳥刺しとして夜の女王のところに鳥を差し出して暮らしているという。3人の侍女は、パミーナの絵姿をタミーノに見せると、タミーノはその美しさに魅せられる。そこへ夜の女王が現れ、タミーノにザラストロに捉えられている娘パミーナを救い出すように言う。侍女たちはタミーノには魔法の横笛を、パパゲーノには鈴(グロッケンシュピール)を与え、3人の童子がザラストロの宮殿まで案内するという。宮殿では、ムーア人モノスタトスがパミーナに言い寄っている。宮殿に着いたタミーノの前に弁者が現れ、ザラストロこそが正義であるという。
(第2幕)ザラストロは、タミーノを仲間として受け入れようとする。そのための試練としてまず「沈黙」が与えられる。タミーノに話してもらえないパミーナは、悲観して死を考えるが、3人の童子が思い止まらせる。再び夜の女王が現れ、ザラストロを短剣で殺すようにパミーナに迫る。しかし、ザラストロを前にしてパミーナには出来ない。タミーノはパミーナと共に次の「火」と「水」の試練が与えられ、2人はこの試練を乗り越える。一方、恋人がいないことを悲観したパパゲーノは死のうとするが、そこへ若いパパゲーナが現れる。夜の女王たちが夜の奈落に落ち、一堂が勝利の喜びを歌って幕となる。

この一見して荒唐無稽なおとぎ話が何を意味するかについては、モーツァルト自身が多くを語っていない以上、それを推測してみても決定的な成果は得られない。「魔笛」は、ウィーンの宮廷劇場ではなくウィーン郊外の商業劇場で初演された。初演以来1年あまりのうちに100回もの上演を重ねて大成功を収めた。
そこで、古楽器で演奏され、ほぼト書き通りの今回の公演を見ながら、当時のウィーン市民がどのように「魔笛」やその登場人物たちを見たのかを想像してみることにした。

まず「夜の女王」だ。最近は夜の女王を単なるフツーのおばさんに描いて見せるような演出もあるが、今回はト書き通りおどろおどろしく威厳を持って現れる。女王に会ったことがあるかを訊かれたパパゲーノは、「会う?星の煌めく女王様に会うだって?あの方にお会いしたことを自慢できる人なんか1人もいないさ」と答えている。ここから当時のウィーンの市民は誰もが、オーストリアを20年に渡って統治し、10年余り前に他界したマリア・テレジアを想起しただろう。多産なハプスブルグ家にあって、継承権が女系に移ったために女帝のような立場に置かれた女性はマリア・テレジア一人しかいない。マリア・テレジアは、最後の15年を亡き夫を偲んで喪服で通したという。黒衣の女王、喪服の女王は、威厳を持った夜の女王のイメージと重なる。
そうすれば、異国の宮殿に囚われている「パミーナ」は、マリア・テレジアがブルボン家に嫁がせて、「魔笛」初演の2年前に起こったフランス革命に際して王家(母)を代弁するような行動をとり、革命政府の人質のような立場におかれることになったマリー・アントワネットを想起させたに違いない。第1幕フィナーレでパミーナはザラストロに会うなり、「私は悪いことをしました。あなたのお力から逃げようとしたのです」と謝るが、観客の誰もが数カ月前に起こったマリー・アントワネットとルイ16世が国外逃亡を企てて捕らえられた事件を思っただろう。これはフランス革命全体の方向を変える大事件だった。当時、オーストリアにとってみれば、フランス革命に対抗しマリー・アントワネットを取り返すことは国民的な関心事であり、そのための開戦もあり得たのだ。(モーツァルトは小さい頃にシェーンブルン宮殿でマリア・テレジアに御前演奏をしており、その時マリー・アントワネットにも会っていると言い伝えられている。「魔笛」作曲中のモーツァルトにとってみても、この事件はかなりの衝撃だっただろう)
「タミーノ」は分からない。ただ、逃亡が成功していたら、これを手助けしたスウェーデンの貴族フェルセンになぞらえられていただろう。(このあたりは「ベルばら」の世界だ。よく知らないのだけど)
「ザラストロ」は、フランス革命の指導者だろう。ウィーン市民にとってみれば、それが誰であるかは関心がなかった。ただ、暴動を引き起こした邪悪な悪人と思ったが、実は深い思想を持つ聖人だったということで十分だ。(この頃まで、フランス革命は立憲民主制をも視野に入れたマイルドなものだった。ルイ16世とマリー・アントワネットは、まだ断頭台ヘ送られていなかった。これが急進化するのは、国外逃亡事件が明らかになってからだ)
「パパゲーノ」は、モーツァルト・オペラにつきものの狂言回しだ。多くの場合、モーツァルトその人が投影されている。鳥を捕まえて宮廷に差し出すという奇妙な職業は、どこか楽曲を宮廷に差し出す宮廷作曲家を連想させる。
「魔笛」=魔法の横笛からは、何を想起しただろうか。この横笛は、夜の女王から与えられ、ザラストロからも与えられ、試練を乗り越える力となる。それは、モノスタトスの軍勢を美しい響きで浮足立たせたパパゲーノの鈴とは異なる役割を演じている。それからはフランス革命を精神面で支えた「啓蒙思想」とか「英知」とか言ったものを思っただろう。いずれにせよ、この笛がこの寓話オペラの主人公なのだ。
「試練」ということからは、何を想起しただろうか。これは革命行動そのものではないだろうか。地下運動の段階では、沈黙が絶対的に要請される。それは恋人に対しても例外ではない。火の訓練、水の訓練は、革命そのものだ。それは命を危険にさらす行為であり、今度は恋人をも巻き込むものだ。だから、訓練を乗り越えたということは、ヤマを越えた、ないし革命が成就したということに等しいかもしれない。
いずれにせよ、上記のことはあくまで当時、劇場に押し寄せた多くの観客が「魔笛」に何を期待し、何を見て、どう楽しんだかを想像している。モーツァルトの意図がどこにあったのかというような問題の立て方をしたら、資料が残されていない以上、恐ろしく難しい問題になる。

では、当時の聴衆の魔笛の受け止め方がこのようなものとして、それはどの程度モーツァルト自身の作曲意図を反映していただろうか。私は当然に作曲意図そのものを反映していたのだと思う。荒唐無稽のおとぎ話の上演が、こんなに成功するはずはない。
そのように考えれば、いくつかのことが分かってくる。例えば私が今までどうしても理解できなかったことに、パミーナがどうしてこんなに簡単に死を考えるのかということがある。また夜の女王はパミーナに、ザラストロを殺せとまで迫る。かなり物騒で、おとぎ話どころではない。これも夜の女王とザラストロの戦いに、フランス革命が重ね合わされていたとすれば何も不思議なことはない。パミーナは女王側(王朝側)の人間だから、生死を賭した戦いに負けた場合には、死が待っていると考えても自然だ(3人の童子が思いとどめる)。

「魔笛」は、フリーメイソンの世界を描いているという人がいる。しかし商業劇場で上演されたこのオペラは、商業的に成功することが必要だった。いったい「魔笛」の観客の何人が女人禁制で秘密結社のようなフリーメイソンに関心があったろう。ほとんどの人が、ヨーロッパを震撼させたフランス革命の方に関心があったはずだ。だとすれば、モーツァルトの作曲家としての関心もそこにあったと考えるのが自然だ。
「魔笛」がフリーメイソンの世界に酷似しているのは、「自由、平等、友愛」を掲げたフランス革命の思想が、フリーメイソンの思想とそのまま重なるからだ。モーツァルトはフリーメイソンの会員だったが、それはむしろこの作品に借用されたというのに近いと思う。当時のオーストリアの状況からして、フランス革命そのものを描くことは出来ないのだ。そこにこの作品が寓話という形をとっていることの最大の理由がある。
いずれにせよ寓話のストーリーの細目には大きな意味はない。私はモーツァルトが本当に言いたかったことは、第1幕後半、タミーノがザラストロの宮殿を前にして言う次の台詞によく表れていると思う。
「門や柱に書かれてある言葉によれば、/ここには叡智と労働と芸術がある。/誰もが仕事に精を出し、怠け者がしりぞけられるところには/悪の栄える余地はまずない。/勇気を出してこの門に入ろう。/私の志は高く貴く清らかだ。」(新井秀直訳)
モーツァルトは晩年、ウィーンの貴族社会(地主階級)を徹底的に嫌うようになり、両者は反目する関係にあった。フリーメイソンは、このオペラの舞台でもあるエジプトを起源とするとも言われ、石大工に広まった。石大工は、エジプトでピラミッドを作り、ヨーロッパで石の建物と街並みを作った人たちだ。芸術性を併せ持ち、職人の中では別格だった。当時のヨーロッパの知識人の間に広まっていた点は、フランス啓蒙思想と同じだ。
モーツァルトにとってみれば、フリーメイソンもフランス革命も同じだったろう。フリーメイソンはフランス革命を支持していた。モーツァルトはフリーメイソンを通じて、啓蒙思想の洗礼を受けていたと言ってもよい。
「魔笛」序曲は、フリーメイソン的な変ホ長調の三和音で始まる。フリーメイソン=フランス革命と考えれば、これはフランス革命とそれを支えた啓蒙思想を示唆する。それに続くのは遁走曲だ。でも、誰が何から逃げているのか。劇中で「逃げる」のは、タミーノが大蛇から逃げること、そしてパミーナがザラストロの宮殿から逃げることがあげられる。しかし当時の聴衆が革命劇を期待して来ていたとしたら、これは当時最も生々しく彼らの記憶にあったことを想起させただろう。それはフェルセンに導かれたマリー・アントワネットの国外逃亡だ。当時の聴衆にとってこのリズムは、慌ただしく逃走する馬車の車輪の音に聞こえたのではないだろうか。そうするとこの曲は、逃げ惑う旧態依然とした王朝とそこに立ちはだかる啓蒙思想の2項対立を描いていたことになる。こう解釈して初めて、パミーナのザラストロに会った時の、「私はあなたのお力から逃げようとしたのです」という台詞の意味が分かる。
啓蒙思想は、知識の拡大が人類に新しい社会と幸福をもたらすと考えていた。それが、この志の高い作品がドイツ音楽のその後の展開の礎となった理由と思う。今日からすれば、非常に楽観的な思想と言われるかもしれないが。

声楽陣は、総じてアンサンブル重視でまとまりがあった反面、飛びぬけたスターもいない。夜の女王を歌ったモスコヴィチは、威厳もあり技巧もありで、完璧とは言えないまでも聴かせた。夜の女王はひねった演出も最近は多いが、威厳を持って現れ堂々としていたこの原点回帰の演出で、時に言われるように、ひょっとして女王とはマリア・テレジアではないのかと思った次第だ。ヤングも、達者な歌と演技で大きな拍手を受けていた。
オケは古楽器なので最初は迫力がないと感じていたが、第2幕までなるとまったく気にならなくなった。ただ古楽器にもいろいろあり、柔らかくまろやかなのはいいが、切れ味はあと一つ求めたくなった。指揮は大きなジェスチャーながら常識的な解釈、特に印象に残った点もなければ不満もなかった。舞台は赤、緑、青を効果的に配し、衣装も3色を巧みに使って楽しめた。
この劇場は、モーツァルトの全オペラをレパートリーとするということだが、そのことで一番驚くのはそれを支える聴衆の存在だ。ポーランド人って、そんなにモーツァルトが好きなんだろうか。

公演の会場は、東京文化会館。向かいにある国立西洋美術館では、ちょうどハプスブルグ展を行っていた。モーツァルトとハプスブルグ家に思いがはせたのは、そのせいもあったかもしれない。
「魔笛」はもう何十年と聴いてきた。それでも何かのきっかけで新しい発見がある。今回も当時の劇場に想像でタイム・トリップしてみたら、いろいろと見えてきたことがあった。それにより今まで「魔笛」でどうしても分からなかったことの多くが氷解したような気がした。現代の演出家が当時の状況に捉われる必要はないし、捉われるのはおかしいが、モーツァルトが言いたかったこと自体は高い志を持ったものであろうし、それは音楽と一体だからどんな演出でも変えようがない。「魔笛」が子供たちにとって最良の情操教育になっていることも、「魔笛」は人類の至宝だと言われることも、何か納得できたような気がした。

 

 (付記)
「魔笛」のあらすじは上に書いた通りだが、当時の聴衆はどのようなストーリーを期待しただろうか。「魔笛」はジングシュピールであり、典型的には「救出劇」という形をとる。しかし「魔笛」の救出劇は途中で腰砕けだ。一方で、モーツァルトはジングシュピールで典型的な救出劇を書いており、それは「後宮からの誘拐」だ。このオペラは、次のようなストーリーを持っている。「コンスタンツェはトルコの太守のもとに囲われている。恋人デルモンテはコンスタンツェを救出しようとして後宮に侵入する。コンスタンツェを見つけて逃げようとするデルモンテは太守に捕まるが、太守は寛大な心で二人を許す」。聴衆がこのような救出劇をモーツァルトに期待したとすれば、後半、宮殿を支配するザラストロはタミーノを迎え入れて、その試練を乗り越えたタミーノはパミーナと結ばれ、ザラストロは寛大な心で二人をパミーナの母のもとに返す、となっただろう。もし仮にモーツァルトが当初このようなプランを持っていたとしても、現在の音楽的素材はほとんど変わらず、言いたいこともほとんど変わらなかったと想像される。
では、そもそもプランの変更はなぜ行われたのだろうか。ここは想像するしかないが、もし時系列に矛盾がなければ、一番大きな外的要因はマリー・アントワネットとルイ16世の国外逃亡の失敗だと思う。国王というのは、実は革命の当事者から見れば中立で、ルイ16世自身がどっちつかずの態度が王朝が存続するために必要だというのを、処世術としてわきまえているような人だった。そのように感じていたフランス国民は、この事件で国王に見捨てられたと思ったという。国王はこの時、はっきりと革命政府の敵と認識されただろう。モーツァルトはこのニュースを聞いて、夜の女王=マリア・テレジアをもはや聴衆の同情を集めるような善人として描くことが無理だと知ったのではないだろうか。


(付記2)「マリー・アントワネット」上下(シュテファン・ツヴァイク著 中野京子訳)角川文庫

 

「マリー・アントワネット」を読んだ。「ベルサイユのばら」のノリで書店で見かけて買って、そのまま本棚に置かれたままになったのを、ふとしたきっかけで読みだしたところ止まらくなくなって一気に読んだ。これは小説ではない。伝記というか多くの資料を駆使した評伝だ。シュテファン・ツヴァイクは、モーツァルトの遺族の意思で公表が控えられていた「ベーズレ書簡」の公刊を敢行した人だ。マリー・アントワネットという一人の女性を、光も影も包み隠さず描き出している。フランス革命を、歴史的事件としてよりは、一人一人の目で内側から描き出したところは特に興味深い。そして、処刑。フランスの女王であるとともに、数奇な運命を歩んだ一女性の、命が絶たれる処刑。予想に反して、ずっしりと重い。情報過多の現在にあっても、胸が塞いだ。情報が少ない時代にあっては、読んだ人は1カ月くらい物が手に付かなかったのではないだろうか。読後のマリー・アントワネット像は、良くも悪くも女帝マリー・テレジアの娘であり、女王として運命づけられた利発な女性だということだ。処刑前の時のウィーンの市民が、パミーナにマリー・アントワネットを重ねたであろうことが確信できた。「ベルばら」のことは知らないが、これは並ぶものがないほどの歴史的名著だと思う。(2020.3.14)


(付記3)パパゲーノとパミーナの「関係」について NEW!

パパゲーノは、終幕で若いパパゲーナと出会う前に、首をつって死のうとする。しかし世の中に、恋人を探し出せないからといって死のうとする人がいるだろうか。人が死のうとまでするのは、愛する恋人を失った時だ。このパパゲーノの嘆きの前に、パミーナはタミーノと結ばれてその喜びを歌う。ン? ひょっとして、パパゲーノはパミーナにほのかな思いを寄せていた? 物語の展開上は、むしろそちらの方が自然だ。タミーノが絵姿に魅せられたパミーナを好きになる理由ははっきりしているが、パミーナがタミーノを好きになる理由はよく分からない。自分を助けに命懸けで城に侵入したのは事実だが、それならパパゲーノも同じだ。モノスタトスからも、モノスタトスの軍勢からも、パミーナを守ったのはパパゲーノだ。タミーノは途中からは革命の志士であり、パミーナとの関係で言えばあと一つ存在感が薄い。それに加えて、「魔笛」の音楽で昔から不思議だと考えられていることに、第1幕で歌われるパミーナとパパゲーノの二重唱がある。これは愛の二重唱とまではいかないが、愛を讃えるきわめて真面目な歌だ。パミーナにはタミーノとの愛の二重唱はないから、この美しい旋律を持つ二重唱はことさらに印象的だ。
パミーナは、上述の解釈ではマリー・アントワネットが想定されている。狂言回しのパパゲーノは、モーツァルトその人が投影されていると考えられる。モーツァルトとマリー・アントワネットには接点があり、モーツァルト6歳、アントワネット7歳の時に、シェーンブルン宮殿で出会っている。この時、つるつるの床に滑って転んだモーツァルトは、モーツァルトを抱き起したアントワネットに向かって、「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったことが伝えられている。もちろん後世の作りごとと一笑に付すこともできるが、これに類するやりとりが実際にあったのでは、と想像してみることも出来る。6歳。いかに神童と騒がれたモーツァルトと言えども、シェーンブルン宮殿での、将来のフランスの女王との出会いともなれば、生涯忘れずにいたとしても不思議はない。マリー・アントワネットにはその話法で人を引きつける不思議な魅力があった。モーツァルトは「魔笛」の中に、マリー・アントワネットに対する甘酸っぱい想いを、ひっそりと忍ばせたのかもしれない? そうなると「魔笛」には実に多様な人間関係が織り交ぜられていることになる。「魔笛」には、もっと豊かな人間感情が盛り込まれているのかも知れない。(画像は、マリー・アントワネット7歳の時の肖像画)(2020.6.28)

 

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