ヴェルディ: 歌劇「ファルスタッフ」

ファルスタッフ: ロベルト・デ・カンディア
フォード: マッティア・オリヴィエーリ
フォード夫人アリーチェ: エヴァ・メイ
ナンネッタ: 幸田浩子
クイックリー夫人: エンケレイダ・シュコーザ、他

指揮: カルロ・リッツィ
演出: ジョナサン・ミラー
新国立劇場合唱団
東京フィルハーモニー交響楽団
(2018.12.9 新国立劇場)

 シェイクスピアの演出で国際的に有名なジョナサン・ミラーの演出になる、ヴェルディ最後の作品の公演。中世ヨーロッパの町人文化を再現した舞台を見ながら、円熟の極みにあるヴェルディの音楽を十分に楽しむことが出来た一方で、男性2人の達者な歌と、エヴァ・メイの飛び切り美しい声と舞台姿が印象的だった。

かつて多くのイタリア人オペラ・ファンにとって、イタリア・オペラとはヴェルディのことを指した。確かに、ヴェルディの前にはロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニがいるし、後にはプッチーニ、マスカーニ、レオンカヴァッロ、ジョルダーノなどがいる。しかしヴェルディが活躍した19世紀中葉から後半にかけて、すなわちイタリア・オペラの全盛期と言ってもよい時代に、私たちはイタリアのオペラ作曲家としてはヴェルディの名前しか知らない。
ヴェルディは、イタリア統一の象徴であり、精神的な支柱であった。晩年は請われて国会議員を務め、葬儀はおそらくは本人の意向に反して国葬とされた。
しかしヴェルディは、このような社会的な偉大さによって偉大なのではない。もしあなたが、「リゴレット」の悲劇に涙したことがなく、「椿姫」のジョルジュ・ジェルモンの葛藤に共感したことがないのなら、ヴェルディの偉大さについていくら言葉を重ねても意味がない。ヴェルディが偉大なのは、人々の心を揺さぶる音楽によってであり、その音楽によって描かれた登場人物たちの苦しみによってだ。
ヴェルディ自身は、自分自身が一番知っている一個人としての実像と、イタリア国民が持つ虚像との間にギャップを感じていただろう。最後の作品は、あたかも自分自身の偉大さを茶化したような喜劇だった。

「ファルスタッフ」は、シェイクスピアの喜劇「ウィンザーの陽気な女房たち」に基づいたオペラだ。
(第1幕)老騎士ファルスタッフは、フォード夫人アリーチェとページ夫人メグを手籠めにして、あわよくば金策の足しにしようとしている。アリーチェ、メグ、アリーチェの娘ナンネッタとクイックリー夫人の4人は、ファルスタッフの意図を知って一計を案じ、アリーチェがファルスタッフを受け入れるふりをすることにする。
(第2幕)たまたまファルスタッフのよこしまなふるまいを知ったフォードは、 アリーチェとの現場を捉えるが、アリーチェの機転でファルスタッフは洗濯籠に隠れて這う這うの体で難を逃れる。
(第3幕)アリーチェは再びファルスタッフを夜の公園に誘い出す。ファルスタッフは、妖精に扮したアリーチェ、メグ、ナンネッタらのウィンザーの町人たちに捕まえられて自分の行動を謝る一方で、ナンネッタは愛する若い落ちぶれ貴族と結ばれて結婚式を挙げ、めでたく幕となる。
シェイクスピアの原作は、アリーチェとメグという2人の女房たちを中心とした富裕なウィンザーの町人たちに対して、ファルスタッフをはじめとする金欠病の貴族などを配した、ドタバタ艶笑喜劇だ。オペラは、原作に比べて登場人物が切り詰められ、ファルスタッフ、アリーチェ、フォードの3人のいわば三角関係を中心に展開する。

ヴェルディの最晩年の2つの作品、「オテロ」と「ファルスタッフ」には、明らかにヴェルディ自身が投影されている。
ヴェルディはジュゼッピーナという妻がいたにも拘わらず、晩年にテレーザ・シュトルツというソプラノ歌手を愛人としていた。この女性の婚約者は、ヴェルディ作品の指揮者でもあったが、激しい嫉妬心を抱いた末、婚約は破棄された。ヴェルディはシェイクスピアの「オテロ」のヤーゴに特別に関心を持ったというが、自分自身をヤーゴに重ねたであろうことは想像に難くない(このことは驚きでもある。ヤーゴは、ヴェルディ作品にはほとんど登場しない、心の底からの悪人だからだ)。
一方、ファルスタッフは、過去の栄光にしがみつきながら、名誉などあっても何の足しにもならないとうそぶく老騎士だ。ヴェルディ自身も爵位を与えられていたが、晩年、生まれ故郷ブッセートの郊外に戻り農場経営に従事する日々を送っていた。その身からすれば、陽気な町人女性たちに弄ばれるファルスタッフに自分自身を重ね合わせて楽しんでいただろう。
この2つの作品には音楽的にも共通するものがあって、それは当時ヨーロッパを吹き荒れたワグネリズムの影響が濃いことだ。音楽と劇と美術が総合した芸術を楽劇と呼ぶのであれば、「オテロ」と「ファルスタッフ」は伝統的な番号オペラを脱しており、楽劇と呼んでいい(実際、ヴェルディはワーグナーを尊敬していた)。それらは、イタリア・オペラのその後の展開を方向づけた。

さて、本公演で私が最も注目したのは、ジョナサン・ミラーの演出だ。
シェイクスピアの原作では、ファルスタッフはもちろん主人公の一人であるが、中心にいるのは16世紀のウィンザーの富裕な町民たちだ。ミラーは、舞台をウィンザーからオランダに移している。オランダには町人の生活を描いた絵画が残されていて、この時代の室内を忠実に再現できるからだという。この時代の空気を再現することにこだわりがあったようで、確かに光を巧みに使って、室内の雰囲気がよく再現されていたと思う。舞台をオランダに移すことにはほかの効果もあるのではと思うのは、この当時のオランダは、ようやくスペインから独立して、文化の担い手は王侯貴族ではなく、富裕な町民たちだった。
また、原作は適度な下ネタも含んでいるが、オペラの台本には含まれていないため、ミラーの演出では艶笑的な要素は排されている。私は「どうか舞台の真ん中にベッドは出さないでくれ」と思っていたので、この点は良かったと思う。一方で、最後の夜の公園の場は、町人たちと、ファルスタッフをはじめとするよそ者たちとの融和の場であること、すなわち社会的なコンテキストがあることを表わすためか、街中の雰囲気を残していた。ここは光と闇とでシェイクスピア特有の幻想的な舞台を期待していたので、いくらかフラストレーションを感じた。ミラーという人は、あくまで人間に興味があるのだろう。ただ、視覚的なカタルシスは薄められた。
全体に、驚くことのないオーソドックスな演出。ただ舞台をオランダに移したこともあって、ファルスタッフを町人ではないよそ者というよりは、町人仲間のはみ出し者と扱っているように思えた。16-17世紀オランダの風俗の一コマだろうか。

歌手では、一番のスターはアリーチェを歌ったエヴァ・メイだろう。この人は、出てきた瞬間から華があり、その後の舞台を品性と伸びのある声で引っ張った。しばらくは、理想のアリーチェとして記憶から消えないだろう。オリヴィエーリは良く伸びる声で、大きな拍手を受けていた。
指揮者のカルロ・リッツィは、終始インテンポで、快活で躍動的。どんなフレーズもそれなりの意味を持って響いていたのはいいが、緩急の変化があるタイプではない。聴いているうちに、第3幕ではやや一本調子なのを感じた。3幕2場の3人の女声による讃美歌風の旋律はもうすこし美しく響かせてほしかったし、結婚式の音楽はもう少しうっとりさせて欲しかった。
東フィルはいい演奏だったが、こころなしかアンサンブルがぴったりそろっている感じがなく、音色がいくらか濁って聴こえた。

「ファルスタッフ」の音楽は、隅々まで良く書き込まれていて楽しい。しかしここで描かれている台頭しつつある町人文化と、衰退しつつある騎士文化という背景を理解したところで、やはりファルスタッフがこうもこっぴどく扱われることはすんなりとは楽しめない(それはオペラの台本だけではなく、オペラよりは人物描写やセリフ回しが楽しい原作からしてそうだ)。むしろ偉大なヴェルディが、このファルスタッフに自分を重ね合わせたということの方が、はるかに興味深い。だから「ファルスタッフ」が世界中で上演されるのは、もっぱらヴェルディの音楽の力というべきだろう。
ヴェルディの最後の作品が自分自身を笑い飛ばしたような喜劇だということで、やっぱりヴェルディほどの人間は違う!と思いながらも、つくづく「人間、歳をとるときは、こういう風にとれれば幸せだ」と思った。

 

(注)「ウィンザーの陽気な女房たち」は、オットー・ニコライがオペレッタにしている。序曲だけが有名で、今日ではまず上演されないが、こちらで視聴することが出来ます。

 

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