クラシック音楽のある生活

クラシック音楽を生活の糧としている私が出会った演奏会、CDやDVDなど印象に残ったことを紹介をしていきます。

マーラー: 交響曲第10番嬰ヘ長調

2014-07-22 22:03:20 | 演奏会

マーラー 交響曲第10番嬰ヘ長調(デリック・クック補筆版)

指揮:エリアフ・インバル
東京都交響楽団
(2014年7月21日 サントリーホール) 

 オーケストラの演奏会は久しぶりだったが、素晴らしい時間を過ごすことが出来た。現在、東京で聴けるマーラー演奏としては、指揮、オーケストラともに最高水準のものと思う。

マーラーの交響曲第10番は、「大地の歌」が世間との別れ、交響曲第9番が生との別れ、死との直面とすれば、死後の世界を扱っていると言われる。インバルもまた同様のことを述べており、死後から見た人生の振り返り、と言う。私は単に死後の世界を描いているのでいいと思うが...。
中間の第3楽章に「煉獄」というタイトルが付けられていて、全体のテーマを示唆する。
で、この「煉獄」だが、これがよく分からないのだ。分かりにくさの根源は、この概念が聖書になく、中世カトリック教会の創作物だという点にある。だから、ギリシャ正教はこの存在を認めないし、プロテスタントも否定的だ。 
ただ煉獄があるおかげで、善人は多少の小さな罪を犯していても、そこでそれらの罪を浄化することにより、完全な形で天国に行けるという。
だから最後の第5楽章は、天国の入り口に立っていることを彷彿とさせる。 フルートのソロ(スケッチにマーラー自身により楽器指定があるという)は、すべてが浄化された世界を感じさせる、この交響曲で最も感動的な部分だ。

インバルは原典版の演奏にこだわりのある人だが、マーラーから時代がかった濃厚なロマンティシズムを取り除いて、音そのものをして語らしむといった、自然で、客観的とさえ言えるようなスタイルを持っている。この日も、個々の音やフレーズに特別な思いを込めることなく、音量の強弱も特段に個性的な工夫をすることもなく、病的でも神経質でも弱々しくもない、いわば純音楽的、力感あふれる純粋な音の構造物としてのマーラーを聴くことが出来た。
私はこの人の指揮で世評高い第4番(フランクフルト管)のCDを持っているが、情感に欠けるような気がして実はあまり好きになれなかった。しかしこの日は、各声部が重なり合って進行する音楽の自然な流れにどっぷりと浸ることが出来、このマーラー演奏史に一時代を築いた人の神髄に初めて触れたような気がした。
当日は2日連続の2日目、会場前には当日券を買う熱心なファンの行列が出来ていたが、私ももし聴いたのが初日だったら、サントリーホールに響き渡った音の洪水にもう一度浸りたくて2日目の行列に加わっていたかもしれない。

都響は、弦楽器が高い波のようにうねり、木管楽器が明瞭な響きを出し、金管楽器がいつもながら力強く、さらには全体が渾然一体となった熱演。私は都響ではこれまで金管ばかりが印象に残っていたが、この日は弦も木管(特に透明な響きが出ていたオーボエ)も強く印象に残った。ただ仔細に見れば完璧とまでは言えないし、最強奏ではわずかばかりの混濁感もやむを得ない。
それでも大変なレベルであり、全楽員が一体化して音楽を作り出す様は、作り出される音楽の素晴らしさと相まって、大きな感銘をもたらす演奏会になったと思う。

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(付記)

ブルックナー: 交響曲第7番ホ長調 他
指揮: エリアフ・インバル
東京都交響楽団
(2014年7月30日、ミューザ川崎シンフォニーホール) 

マーラーが非常に良かったので、同じコンビでブルックナーも聴きたいと思い、川崎に行ってきた。
終わってみれば、非常に満足で、いい演奏会だったと思う。特に、第1楽章と第4楽章のコーダは、いつも通り金管群の力強い響きに興奮するほどに感動した。
ただ1つ、気になった。都響はマーラーを最も得意としてきたオケだが、ブルックナーに対してはいくらか共感が薄いのではということだ。マーラーの時にはあんなに身をくねらせて入魂の演奏していた弦楽器が、この日はまるでサラリーマンのように事務的に演奏しているように見えた。(ウィーン・フィルの弦楽器奏者たちは、いつも(ブルックナーでも)身を揺さぶるように演奏するけどなあ)


ライナー・キュッヒルとウィーンの仲間

2014-07-03 18:36:00 | 演奏会

モーツァルト/ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 「トルコ行進曲付き」
コダーイ/バイオリンとチェロのための二重奏曲
ワックスマン/カルメン幻想曲
シューベルト/ピアノ三重奏曲第1番 変ロ長調 

バイオリン: ライナー・キュッヒル
チェロ: ヴィルヘルム・プレーガル
ピアノ: ステファン・シュトロイスニック
(2014年7月2日、日経ホール)

  私は、ウィーン国立歌劇場やウィーン・フィルやウィーンの街に特別な感情を持っている人間だ。その昔、ロンドンで学生をしていたころ、冬休みにウィーンに2週間ほど滞在して、ほとんど毎日、歌劇場に通ったことがある。その時改めて驚いたのは、ウィーン国立歌劇場のオーケストラの素晴らしさだった。オーケストラピットから木管の音が飛び跳ねてきた。弦の夢見るような響きに、最強音の凄まじい音量。それだけでもすごかったのに、並んで切符を手に入れた楽友協会大ホールでのニューイヤー・コンサートで、オーケストラがさらに磨かれた音色で素晴らしかったことの驚愕。
そのウィーン・フィルのコンサートマスターが、ライナー・キュッヒルだ。今年のNHKニューイヤーオペラコンサートにゲスト出演して、その響きにまたまた魅せられたので、この演奏会に行ってきた。 

メインのシューベルトでは、歌いまわしの節々にウィーン風味を感じた。例えば第4楽章の第1主題。どこがとは言い難くても、一つ一つのフレーズにウィーン情緒が息づいている。
楽しめたという点では、ワックスマンだろう。超絶技巧もさることながら、今にも歌手が登場して歌い出しそうな、オペラの舞台を感じる演奏だった。

ウィーンの魅力は、その極上の幸福感にある。そのことを表面的に見る人は、この砂糖菓子のような甘さが好きになれないかも知れない。現実には、ユーゴスラビア解体後のコソボでの民族間の殺戮など、この周辺地域の政治的、民族的な難しさは深刻だ。オーストリア=ハンガリー帝国の首都だったウィーンは、この複雑な民族対立、宗教対立を持つ中欧地域の中心都市だった。
そのような位置にあって、ウィーンは、2度の世界大戦を経験している。第2次大戦後、爆撃により焼失した国立歌劇場が再建されたとき、こけら落としの演目に選ばれたのは、カール・ベームの指揮するベートーベンの「フィデリオ」だった。
ウィーン滞在中に私は、この「フィデリオ」も観ている。指揮はクロブチャールで、慣例により、第3幕の最初に「レオノーレ序曲第3番」が演奏された。この演奏を、私は生涯忘れることはないだろう。それは、私のこれまでの人生の中で、最大の音楽体験と言っていい。フィナーレで、細かい下降音が連なる速いバイオリン・パッセージから始まり、次第に音量と厚みを増して頂点に達するまでのオーケストラの凄まじかったこと!
その時私は、ウィーンにとって、ベートーベンという作曲家や、自由を希求する政治劇「フィデリオ」というオペラが、何を意味しているかを理解したような気がした。
そしてウィーンは、私の中で特別なものとなった。

世界は、政治的、民族的、宗教的対立で、憎しみに満ちている。ウィーン国立歌劇場の持っている幸福感は、それらを包み込むほどに強いものでなければならない。
キュッヒルの奏でるバイオリンも、幸福感に満ちて、力強く、大きな包容力を感じさせるものだった。