この店はどうかな?
日頃、食事に立ち寄ったお店や建物のことを書き込みます。浦和、志木、県内、都内、そして最近は福島県がエリアです。
 



渋沢栄一が、兜町のレンガ造りの街並みを造り出したことは、
先日少し触れた。
でも、彼を知らしめているのは、
経済の基盤づくりに大いに貢献した、ということで、
そのことは、すでに皆さんの知るところだと思う。
第一国立銀行(現みずほ銀行)を始め、
彼が設立に関わった企業は500社以上にも及ぶという
とてつもない人だった。

     ・・・・・・・・・・・・・・・

渋沢栄一が徳川慶喜に仕えるようになったのは、
平岡円四郎の口利きによるもので、
その後に、徳川慶喜が将軍となったため、
彼の運命も大きく変わっていった。
パリ万博に慶喜代行として行く弟の徳川昭武に、
渋沢栄一が随行したことで、
彼の視野が、パリを通して大きくなっていったことは想像に難くない。
産業や軍備、はたまた、軍人と商人との身分差のない世界。
そういったものをパリ滞在中に目にし、
彼の経済的な感性はさらに磨かれたようである。

だが、パリ滞在中に大政奉還がなされ、
視察団は帰国。
彼は日本に戻ってから、慶喜と共に静岡にいた。
その後、渋沢は新政府に招かれ、大蔵省で
金融、財政制度の改革に携わった。
ここで、パリの経験を生かし「株式会社」の制度を普及し、
様々な会社の設立に関わったのである。


ところで、兜町での街づくりでは、三井と、
その後の丸の内では、三菱と、
それ以外にも多くの場面で、これらの財閥と競い合っていたようだが、
私はこれまで、渋沢財閥とは、ついぞ聞いたことがない。
三井と三菱は大手企業にもなっているが・・・なぜだ?
素朴な疑問である。

本を読んで調べるのが面倒なので、ウィキペディアで見ると、
「私利を追わず公益を図る」を生涯にわたって、
守ってきた人であったとのこと。
他にも、社会活動として東京慈恵会、日本赤十字社、
関東大震災復興、一橋大等の学校、女子の教育への普及など・・・
その活躍は目ざましいものがあった。
ノーベル平和賞の候補にもあがっていたとのこと。
いやはや、もう敬服するしかない。

そこでもう一つ、
渋沢がフランスへ視察に行ったときに、見たであろう街並み。
おそらく、そのイメージが彼の脳裏に焼き付いていたんだと思う。
兜町でのレンガ造りや丸の内での彼の構想は、
フランスへの憧憬を具現化するものであったのではないか、
と想像できる。(実現はできなかったが・・・)
そういう街づくりへの想いは、彼特有のもので
それも、彼が他の財閥系の方々と大きく異なる点であると思う。

晩年にあっても彼の中から湧き上がる想いがあったようで、
現役を退いた後に、田園における一つの街並みを生み出す構想を掲げた。
(実際にはイギリスでの「田園都市論」を踏まえたもの)
それが、田園調布である。
その当時この近辺には、電車も水道も電気もなかったが、
田園都市株式会社を設立し、インフラから整備した。
クリック

この街区割りを見る限り、
彼の中にはパリの街なみがイメージされていたようだ。


旧駅舎



放射状の街路


駅を中心にして円弧を描く街路

渋沢栄一の想いが今も脈々と続いている。










コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« なかなかの店... きれいなカレ... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。