これは、昨日の写真の、ほんの一秒後に撮った写真です。わかるかな。花粉が飛んでるんです! この粉みたいなの、汚れじゃなくて、花粉なんですよ。たぶん、このオオイヌノフグリの花粉です。
のっぱらはすばらしいな。ただ生えているだけじゃなくて、風の中や土の中でちゃんと仕事している。来年も咲くために、ちからいっぱいいろんなことをやってるんですね。だからこうして、今年も会えた。きっと、来年も会えるに違いない。
風に乗った花粉を、きっとどこかの花が受け取って種ができるんだ。そして土に落ちて、来年まで眠る。ああ、なんだかむずむずしますね。地球全体が動いているような気がして。地面が動いてる。種はどこでもむずむずしてる。そしてだれかのささやきで目を覚まして芽生えて、また咲く。
今日も車の運転の練習をしてきました。ちょっと調子は悪かったのですが、あちこちの、菜の花の咲いている藪や、せんだんの立っている公園を見てきました。少しでも、自分を元気づけなきゃです。大丈夫。木は伐られるけれど、しぬわけじゃない、見えなくなるだけなのです。そしていつまでも私の中で、魚のように泳ぐゼリー状の記憶になって、切ない詩の根源になってくれる。
愛していました。あの木を。でも私にはなんの力もない。何をしてあげられることもない。ただ、愛していた。今も愛しているということしかできません。彼女は、わたしがひとりぼっちだったとき、いつも風吹いて梢を鳴らして答えてくれたんです。いつもいつも、わたしがいくと、梢を大きく揺らして答えてくれた。そしてわたしがいなくなるとそれはぴたりととまった。それでわたしは、木が風で話をしてくれることがわかった。
町を歩いていて、ふと風がふいて梢をゆらす木に出会ったら、そのまま通り過ぎずに立ち止まってみてごらんなさい。自分に何かを言ってるのかもしれない。何かを教えようとしているのかもしれない。
木と心を通わせようとしてみてください。お互いに、言いたいことは、すぐにはわかりません。でも、あとで、わかってくるんです。しみじみと。今年のあの木のしげりようはいつもよりさみしかった。去年はもっと美しく豊かに茂っていたのに。
そんなことで、わかってくるんです。
にんげんは、木を伐らずに生きていくことはできません。それで、すべての木の味方になったつもりでかっこいいことをいうことなんてできません。わたしだって、人間ですから。木を切って作った家に住んでいますから。ただ、人間はもっと木の心を学ぶべきだと思う。木を切る時も、拙くていい、ありがとう、すまなかったといってほしい。そしてあなたはすばらしい木だったといってほしい。そんなことばが、ものごとをよいほうにながしてゆくのです。
それが愛というものなんです。そしてにんげんは、にんげんのできることで、すばらしいことをしていけばいい。にんげんには、すばらしいことができるのだから。
みんなの幸せのために。
もっともっと、多くのことを学べば、もっともっと、すばらしいものになれる。そうすれば、自分たちがきってきた木の命が生きる。わたしたちは、木に育てられていることがわかる。ほんとうに、そうなんです。
花や木や、海や山や、地球上のすべてのものに、私たちは育てられているんです。
のっぱらはすばらしいな。ただ生えているだけじゃなくて、風の中や土の中でちゃんと仕事している。来年も咲くために、ちからいっぱいいろんなことをやってるんですね。だからこうして、今年も会えた。きっと、来年も会えるに違いない。
風に乗った花粉を、きっとどこかの花が受け取って種ができるんだ。そして土に落ちて、来年まで眠る。ああ、なんだかむずむずしますね。地球全体が動いているような気がして。地面が動いてる。種はどこでもむずむずしてる。そしてだれかのささやきで目を覚まして芽生えて、また咲く。
今日も車の運転の練習をしてきました。ちょっと調子は悪かったのですが、あちこちの、菜の花の咲いている藪や、せんだんの立っている公園を見てきました。少しでも、自分を元気づけなきゃです。大丈夫。木は伐られるけれど、しぬわけじゃない、見えなくなるだけなのです。そしていつまでも私の中で、魚のように泳ぐゼリー状の記憶になって、切ない詩の根源になってくれる。
愛していました。あの木を。でも私にはなんの力もない。何をしてあげられることもない。ただ、愛していた。今も愛しているということしかできません。彼女は、わたしがひとりぼっちだったとき、いつも風吹いて梢を鳴らして答えてくれたんです。いつもいつも、わたしがいくと、梢を大きく揺らして答えてくれた。そしてわたしがいなくなるとそれはぴたりととまった。それでわたしは、木が風で話をしてくれることがわかった。
町を歩いていて、ふと風がふいて梢をゆらす木に出会ったら、そのまま通り過ぎずに立ち止まってみてごらんなさい。自分に何かを言ってるのかもしれない。何かを教えようとしているのかもしれない。
木と心を通わせようとしてみてください。お互いに、言いたいことは、すぐにはわかりません。でも、あとで、わかってくるんです。しみじみと。今年のあの木のしげりようはいつもよりさみしかった。去年はもっと美しく豊かに茂っていたのに。
そんなことで、わかってくるんです。
にんげんは、木を伐らずに生きていくことはできません。それで、すべての木の味方になったつもりでかっこいいことをいうことなんてできません。わたしだって、人間ですから。木を切って作った家に住んでいますから。ただ、人間はもっと木の心を学ぶべきだと思う。木を切る時も、拙くていい、ありがとう、すまなかったといってほしい。そしてあなたはすばらしい木だったといってほしい。そんなことばが、ものごとをよいほうにながしてゆくのです。
それが愛というものなんです。そしてにんげんは、にんげんのできることで、すばらしいことをしていけばいい。にんげんには、すばらしいことができるのだから。
みんなの幸せのために。
もっともっと、多くのことを学べば、もっともっと、すばらしいものになれる。そうすれば、自分たちがきってきた木の命が生きる。わたしたちは、木に育てられていることがわかる。ほんとうに、そうなんです。
花や木や、海や山や、地球上のすべてのものに、私たちは育てられているんです。