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世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

踊り子の報酬

2014-03-06 04:52:05 | 虹のコレクション・本館
No,85
オーブリー・ビアズリー、「踊り子の報酬」、19世紀イギリス、アール・ヌーヴォー。

これこそ、猟奇的だね。実に恐ろしい。
ワイルドの戯曲「サロメ」につけた挿絵だが、サロメはヨカナーンに恋するものの受けいれてもらえず、エロド(ヘロデ)王の前で踊ることの代償にヨカナーンの首を要求するのである。

もちろんこれは史実ではない。愛するあまりに相手を殺すというのは、男にはよくあることだが、女には滅多にない。

ワイルドはこの、男の中にある、女に対する殺人的な愛を、女に仮託することによって表現したかったのだろう。事実、戯曲の主人公が女ではなく男だったら、これほど美しい挿絵は描けない。

男は自分たちの中にある激しい愛を、女に変換することによって、美しく洗練させたかったのかもしれぬ。だがその美は、いかに美しかろうとも、背徳の匂いが激しく染み付く。

おもしろい作品だ。人間はこれを見ると、強く惹かれるだろう。時には、人道を排しても手に入れたい愛がある。そういうことを考える時が人間にはある。

愛というものを考える時、重要なことを教えてくれる作品だ。




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マルグリット・クノップフの肖像

2014-03-05 04:37:11 | 虹のコレクション・本館
No,84
フェルナン・クノップフ、「マルグリット・クノップフの肖像」、19世紀ベルギー、象徴主義。

象徴主義の画家は、人間の心の暗部と言うものに結構触れてくれるので、つい見てしまうね。

これは、女になりたい男の心が、あらわれている。モデルは画家の最愛の妹らしいが、画家はモデルから彼女自身を奪い、自分が彼女になってしまっている。

女であり、最愛の妹である、マルグリットに、彼はなりたかったのだ。

男には、こういう気持ちがあるね。女を愛するあまりに、愛する女そのものになってしまいたい。クノップフはそういう自分の気持ちを、絵に表現したわけだ。

彼は彼女を乱暴に犯すわけではない。殺してその肉体を奪うわけではない。象徴主義の表現の中で、魔法的に、自分とかのじょを重ね合わせ、絶妙なところで、かのじょを奪ったのだ。現実でやっては猟奇殺人になることを、架空の世界で欲求を満たしたのだともいえる。

彼女そのものに変身した自分と言うものが、どういうものであるかということを、この絵は教えている。美しいが、どこかさみしい。虚ろだ。いるように見えるが、絶対にいない。静寂の中に強烈な背徳がある。

マルグリットが目をそらしているのは、画家の本心に気づいているからだ。

芸術とはこういうこともできるものだ、ということだ。おもしろいね。




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ダナエ

2014-03-04 04:11:36 | 虹のコレクション・本館
No,83
ティツィアーノ・ヴェチェリオ、「ダナエ」、16世紀イタリア、盛期ルネサンス、ヴェネツィア派。

ティツィアーノからは何枚も選んでしまうね。これは美しい女性の裸体像だ。暖かでまろやかな女性の姿がよい。彼の愛が現れている。

ダナエはギリシア神話で、黄金の雨に変身したゼウスに愛されて、ペルセウスを生んだと言われている女性だ。まあそういうのは嘘っぱちだ。昔から、はやる気持ちを押さえられずについできてしまった子を、神の子と言い訳することは、よくあることだ。いやほんと。

そういう意味では、ゼウスはたいそう迷惑をこうむっている訳だ。

ティツィアーノは、キリスト教の神話はあまり信じてはいなかったらしい。受胎告知などの作品は、けっこういいかげんに描いている。だがギリシア神話は楽しんでいるね。この絵の隅に描いているクピドなども、たいそう愛らしい。

彼の内部にある愛が、素直に形になったときは、こういう感じなのかと、見入ってしまう。

黄金となって降り注いでいる雨も、愛するものに豊かなものを与えたいという、彼の愛を表現しているのだろう。




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若い女性

2014-03-02 03:56:53 | 虹のコレクション・本館
No,82
ディエゴ・ベラスケス、「若い女性」、17世紀スペイン、バロック。

ベラスケスからはこれを選んでみた。美しい女性の絵を探していたんだが。なかなかにモナリザやフォルナリーナのような女性は見つからないね。

ベラスケスは卓越した画家だったが、宮廷画家として虚栄の世界の中にいたので、その描く世界にはむごい真実が見えている。

実にこの女性はかわいらしいが、にせものの美人の典型だ。
見てみたまえ。かわいいが、目の光が虚ろだろう。顔を見ていると、精神活動がのろいということがわかる。魂は活発に動いてはいない。まだ勉強がすすんでいないのだ。

それなのに、かわいらしい顔をつけて、いっぱしの上流階級の女性になっている。これは他人から顔も人生も盗んでしまったんだよ。
こういうのはいっぱいいるが、ベラスケスはその描写力で、むごいほど真実を描ききってしまっている。

後の人はこれを見ると、人間のあさましさを感じるだろう。

自分は美しいと思って、一流の画家に自分を描いてもらったのだろうが、それが後世に恥を残すことになるとはね。




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草上の昼食

2014-03-01 04:15:21 | 虹のコレクション・本館
No,81
エドゥアール・マネ、「草上の昼食」、19世紀フランス、印象派。

これは世間に発表されるや否や物議を醸した絵だが、なぜ人々がこれに強く反発したかというと、これが忌まわしい罪を想起させるからだ。

人気のない森の奥で、裸の女と二人の紳士が昼食を取っているかのように見えるが。そしらぬ振りでそっぽをむいている男たちは、どことなく、あとでふたりでこの女を食ってやろうと、示し合わせているようにも見える。

モデルのヴィクトリーヌ・ムーランは、ベルト・モリゾ同様、マネの周囲を彩った才能ある女性だったが、ベルトと違い、男を馬鹿にするきらいがあった。男は、こういう女性にふれると、ある種の邪心を持つ。こういう女を黙らせてやるのに一番いい方法は、あれだと。

実際ね、男は、自分より強く優れている女を見ると、いつもその方法で殺してきたのだ。
この絵を見ると、男は、自分の奥に封じ込めて来た、その忌まわしい記憶を、思い出すのだよ。男はだれしも、そういうことをやったことがあるからだ。

女を黙らせるのに、一番いい方法を、使ったことがあるんだよ。

この絵の中から、ヴィクトリーヌは強い視線をこちらに投げかけてくる。それはまるで、男たちにこう問いかけてくるようだ。

わたしを覚えているわね。忘れたなんて、言わせないわよ。

こういう絵画表現が、才能ある画家によってなされたということは、その裏に、強い使命があったと言わざるを得ない。




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ばらの木陰の聖母

2014-02-27 05:24:50 | 虹のコレクション・本館
No,80
マルティン・ショーンガウアー、「ばらの木陰の聖母」、15世紀ドイツ、北方ルネサンス。

ドイツの画家が続くね。
あまり個性的な絵ばかり見るので、たまには少々安心できる絵をと思って選んでみた。

こういう絵は、あまり理屈をこねることなく、ただ安心して見られる。聖母にしているが、ふつうの美しい母と子として見る方がうれしい。天使がそれを祝福している。

ばらの木陰に母と子が安心しているということは、正しく強い力で、しっかりと愛が守られているということを、感じさせる。

こういう風に、強い力で守られていると、こんなにも愛らしい愛が表現できるというわけだ。安らぐね。

実に美しい。

愛を愛らしく表現するためには、正しいことがきちんと行われていなければならないということだ。




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女のための戦い

2014-02-26 05:06:01 | 虹のコレクション・本館
No,79
フランツ・フォン・シュトゥック、「女のための戦い」、20世紀ドイツ、象徴主義。

いや、これはなんともすごい絵だね。
このテーマをここまで真正面から描ける画家も珍しい。
女を巡る男の戦いなど、世の中に掃いて捨てるほどあるのだが、なかなかここまで描けない。

傍らで胸をそらして傲然と見ている女がまたいいね。

実際、男は本気で戦っているんだが、傍から見るとこんな感じなのか、というものである。
どことなく滑稽だ。本人たちはマジだというところがかなり痛い。

まあ実際はね、女の前ではカッコをつけるんだが、男は結構裏でいろいろ操作しているんだよ。ここは負けろ、あとで何かするから、とかね。女に見えないところで交渉したりしているわけだ。八百長をかますこともよくあるのである。本気で戦ったら、死ぬからね。

女も気づいてはいるんだが、まあ男を立ててやるというとこで、気づかないふりをしているわけだ。

だが、マジで殺し合いになる時があるから、気をつけよう。

女がからんだケンカと言うのは、こわいのだ。まあ、これを見て慎むことだ。




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七十歳の父の肖像

2014-02-25 05:14:13 | 虹のコレクション・本館
No,78
アルブレヒト・デューラー、「七十歳の父の肖像」、十五世紀ドイツ、北方ルネサンス。

ドイツ・ルネサンスを考える上で、省くことのできない画家だが、これを選んでみた。

美しい絵である。息子の父に対する愛が暖かに見える。
勉強の度合いでは、息子が勝っているだろう。父は息子を立派にするために、愛情を注ぎ、真面目に働いて育てて来たに違いない。

曲がったことのない真面目な男の愛が見える。息子を愛している。そして息子も愛している。見ていると、父と息子のほほえましい思い出さえもが、こちらに見えてくるようだ。

親と子の情愛というのはいい。デューラーはまじめなよい画家だが、それを育てた家庭の環境がよかったのだろう。

自分の父を描いた絵と言うのは、結構少ない。デューラーはまっすぐに父親を見ている。このようにまっすぐに見ても、苦しくない男だったのだろう。




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コルティジャーナ

2014-02-24 05:09:26 | 虹のコレクション・本館
No,77
ヴィットーレ・カルパッチョ、「コルティジャーナ」、15世紀イタリア、盛期ルネサンス。

高級で美しい衣服をまとっているが、これは身分の高い令嬢ではない。コルティジャーナは高級娼婦のことである。知性、教養、美貌をそろえた女を、格の高い男の性の相手をさせるためにできたものだ。

男は、自分の妻や娘には貞節を求めるが、自分には貞節を強要しない。そこで、自分に性の奉仕をさせるために、遊分子的な女をこしらえる。

コルティジャーナはたいそう格が高く、それなりの男でなければ相手にしないというようなものであったそうだ。金持ちで、贅沢な暮らしをしていた。中には身分の高い男の妻となって「出世」したものもいたそうである。女性の中には、コルティジャーナを目指して勉強に励むという者もいた。

しかし、いかに上等の格付けがされていようとも、本質は遊び女だ。高い金を払おうとも、男は女が本当に欲しいものを与えはしない。結局は男社会のエゴに奉仕するものという現実から逃げられはしない。

絵の中のコルティジャーナはたいそう美しい。服装やアクセサリのセンスもよく、しぐさも洗練されている。実に頭のよさそうな顔だ。

だがその表情には、賢くなりすぎぬことで、現実の苦しみを何とか処理せざるを得ない、女の影がある。

コルティジャーナは、美女というものを、どういうものにしたいかという、男のきつい本音が、作らせたものだ。




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花咲く桃の木

2014-02-22 04:57:01 | 虹のコレクション・本館
No,76
フィンセント・ファン・ゴッホ、「花咲く桃の木」、19世紀オランダ、後期印象派。

人間の魂を描くことのできない画家は多いが、植物の魂を描くことのできない画家も多い。というより、描くことのできる画家はほとんどいない。人間は花や木や森の絵を、それはたくさん描くが、みな、植物を、美しく、人間に心地よさを提供してくれる環境素材以上のものには考えてはいない。

その中で、ゴッホは、植物の熱い存在を的確に描いている。ひまわりにしろ、糸杉にしろ、アイリスにしろ、アーモンドや桃やオリーヴにしろ、それぞれに人格を持った存在として描かれている。実に美しい。

ひまわりを選ぼうと思ったがね、こちらの方が涼やかで美しいので選んだ。

植物存在はものではない。妖精のように荒く利己的な存在でもない。優雅な人格を持った、洗練された魂だ。その生き方を生きるのにふさわしい魂が内部にいる。

人間はもっと、植物というものに、リアルに迫ってみねばならぬ。そこには、人間には知りえない、深い世界がある。

ゴッホは、その卓越した感性の中で、知らず知らずのうちに、植物の魂を感じていたのだ。




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