つい先日、沖縄・宮古島に出張してきたオーナーが
「お土産に」と 持ち帰ってきたのは
「砂」ひと袋
でした。
*
「ひと袋」 と言っても、
スーパーによくある(魚とか肉とか豆腐とかナマモノを分けて入れる)小さなビニール袋
じゃなくて、
よく お米が入れられているような デカくて厚めのビニールのやつに、
ずっしりと、です。
それをおもむろに
テラスに どすん、と。
要するに、5~10キロくらい、です。これを、
多分(というか、まちがいなく)、小脇に抱えて帰って来たわけですよ、オーナーは。
大胆オーナーです。大胆不敵オーナーです。
*
それは、この前の日曜のことでした。
日曜にしては珍しく:ご予約のお客様も(昼すぎまでは)無いという、
いつもよりのんびりした日曜の、朝のこと。
焚き火の もくもくと焚かれるテラスにて、
当日の森番:“キキのキちゃん”(通称)が、
その砂をザルでふるう作業をして(させられて?)居りました。
焚き火の立ち上る煙は、人に寄って来ます。
そして、逃げても逐(お)って来るのです。
昔の人はきっと
「火の精霊に好かれてしまった」とか、考えたんでしょうね。
(↑こんなふうに。)
科学的に言えば、上昇気流、的なことらしいです。
だから、
煙は 逃げても逐って来る。
キキのキちゃんも、逃げては逐われ、
煙にまみれ、煤にもまみれ、
大変そうでした。
それをあははと笑って写真に撮ったりしていたのが私でした。
なんでそんなにのんびりしてたかというと、その日曜は、お休みの日だったから。
*
南の島の砂は、
サンゴの骨です。
ベージュよりも黄味がかった 砂つぶ。その正体は、
死んで、
白化して、
潮に揉まれて、ちいさく砕かれて、
やがて、
島と海との「境目」に打ち上げられ、
縷々と打ち寄せられた、サンゴの死骸。
その話を聴いた時の、
「なんだかわからないけどズキンと胸に感じた衝撃」と、
「なんだかわからないけどとても腑に落ちる気持ち」は、今でも覚えています。
生命力にあふれた美しい、美しい風景の裏には、
おびただしい死の積み重ねがある。
生は 死で成り立っている。
そのことに ハッとしたのではないかなと、想います。
袋の中に 鼻を近づければ、
南の海の
生き生きとした潮をたっぷり吸い込んだ
生温かい、
生臭い、
生々しい香りが、
むわっと、
そのまんま、そこにありました。
死骸から立ち上る、生々しい生の香り。
*
時々顔を出す、桃色を帯びた貝殻や、
まだ大きめのサンゴの骨たちは、
選り分けられて、洗い出されました。
洗われた骨たちは
日曜の 冬のまぶしい日ざしに晒されて
真っ白く
光りを滲ませていました。
その光の白の 白の強さのぶん
落ちる影の黒の 黒さが
深く重く見え、
そしたら
光と影のコントラストの強くて濃い
「沖縄」のあの空気感が
身体の内側に一瞬 立ちのぼり、
一瞬
意識が遠くに 飛びかけました。
脳より身体が、瞬間的に何かを憶い出す時の
何かが圧倒的な力で身体の裏側を突き上げるような、ぞわあっとする、あの感覚。
沖縄に行った時のあの風景、、とか、あのエピソード、、とかじゃなく、
「沖縄」に居た時の時間まるごとぜんぶ、そのものを、
それもいっぺんに、身体が憶い出す感じが、しました。
*
一度でも行かれたことのある方はきっとお解りになるでしょうが
「沖縄」という場所は、
自分にとって(そして多分、たくさんの人にとっても)
ひとかたならぬ、重たい、大事な場所です。
つと 想いを馳せるだけで
妙に切なくさせられる、
なんでだかとっても愛おしい、特別な場所。
生まれ故郷でもないのに
「帰りたいなあ。」と想ってしまう、不思議な場所。
秋田の山奥(=「秋田森テラ」)に居るときは、しょっちゅう想ってました。
「帰りたいなあ。」と。故郷でもないのに!
遠いからこそ、想うのでしょう。
*
そんな
ノスタルジックに勝手に想いを馳せたりしている私は さておいて:
砂ふるいに精を出す 働き者の森番:キキのキちゃん。
その日の番人日誌には
「うでがパンパンになりました;」
と、書き残してありました。お疲れ様でございました。
* * *
そんな のどかな 日曜の朝の風景。
たまに
「お焚き上げの炎が 高らかに燃えすぎちゃった」の図もはさみつつ
とてものどかな、日曜の朝の風景。
でした。
*
そんな風景をしばらくのんびり眺めてから、貴重なお休みの日なので、お出かけした私。
すぐそばの
小学校と 墓地の境目の細い道を 歩いていたら
水色の空に
白木蓮のつぼむ梢に
赤い凧が、ひっかかっていました。
ただそれだけの風景だけど
どういうわけだか
意識がまた どこかに飛びそうになった。
「お土産に」と 持ち帰ってきたのは
「砂」ひと袋
でした。
*
「ひと袋」 と言っても、
スーパーによくある(魚とか肉とか豆腐とかナマモノを分けて入れる)小さなビニール袋
じゃなくて、
よく お米が入れられているような デカくて厚めのビニールのやつに、
ずっしりと、です。
それをおもむろに
テラスに どすん、と。
要するに、5~10キロくらい、です。これを、
多分(というか、まちがいなく)、小脇に抱えて帰って来たわけですよ、オーナーは。
大胆オーナーです。大胆不敵オーナーです。
*
それは、この前の日曜のことでした。
日曜にしては珍しく:ご予約のお客様も(昼すぎまでは)無いという、
いつもよりのんびりした日曜の、朝のこと。
焚き火の もくもくと焚かれるテラスにて、
当日の森番:“キキのキちゃん”(通称)が、
その砂をザルでふるう作業をして(させられて?)居りました。
焚き火の立ち上る煙は、人に寄って来ます。
そして、逃げても逐(お)って来るのです。
昔の人はきっと
「火の精霊に好かれてしまった」とか、考えたんでしょうね。
(↑こんなふうに。)
科学的に言えば、上昇気流、的なことらしいです。
だから、
煙は 逃げても逐って来る。
キキのキちゃんも、逃げては逐われ、
煙にまみれ、煤にもまみれ、
大変そうでした。
それをあははと笑って写真に撮ったりしていたのが私でした。
なんでそんなにのんびりしてたかというと、その日曜は、お休みの日だったから。
*
南の島の砂は、
サンゴの骨です。
ベージュよりも黄味がかった 砂つぶ。その正体は、
死んで、
白化して、
潮に揉まれて、ちいさく砕かれて、
やがて、
島と海との「境目」に打ち上げられ、
縷々と打ち寄せられた、サンゴの死骸。
その話を聴いた時の、
「なんだかわからないけどズキンと胸に感じた衝撃」と、
「なんだかわからないけどとても腑に落ちる気持ち」は、今でも覚えています。
生命力にあふれた美しい、美しい風景の裏には、
おびただしい死の積み重ねがある。
生は 死で成り立っている。
そのことに ハッとしたのではないかなと、想います。
袋の中に 鼻を近づければ、
南の海の
生き生きとした潮をたっぷり吸い込んだ
生温かい、
生臭い、
生々しい香りが、
むわっと、
そのまんま、そこにありました。
死骸から立ち上る、生々しい生の香り。
*
時々顔を出す、桃色を帯びた貝殻や、
まだ大きめのサンゴの骨たちは、
選り分けられて、洗い出されました。
洗われた骨たちは
日曜の 冬のまぶしい日ざしに晒されて
真っ白く
光りを滲ませていました。
その光の白の 白の強さのぶん
落ちる影の黒の 黒さが
深く重く見え、
そしたら
光と影のコントラストの強くて濃い
「沖縄」のあの空気感が
身体の内側に一瞬 立ちのぼり、
一瞬
意識が遠くに 飛びかけました。
脳より身体が、瞬間的に何かを憶い出す時の
何かが圧倒的な力で身体の裏側を突き上げるような、ぞわあっとする、あの感覚。
沖縄に行った時のあの風景、、とか、あのエピソード、、とかじゃなく、
「沖縄」に居た時の時間まるごとぜんぶ、そのものを、
それもいっぺんに、身体が憶い出す感じが、しました。
*
一度でも行かれたことのある方はきっとお解りになるでしょうが
「沖縄」という場所は、
自分にとって(そして多分、たくさんの人にとっても)
ひとかたならぬ、重たい、大事な場所です。
つと 想いを馳せるだけで
妙に切なくさせられる、
なんでだかとっても愛おしい、特別な場所。
生まれ故郷でもないのに
「帰りたいなあ。」と想ってしまう、不思議な場所。
秋田の山奥(=「秋田森テラ」)に居るときは、しょっちゅう想ってました。
「帰りたいなあ。」と。故郷でもないのに!
遠いからこそ、想うのでしょう。
*
そんな
ノスタルジックに勝手に想いを馳せたりしている私は さておいて:
砂ふるいに精を出す 働き者の森番:キキのキちゃん。
その日の番人日誌には
「うでがパンパンになりました;」
と、書き残してありました。お疲れ様でございました。
* * *
そんな のどかな 日曜の朝の風景。
たまに
「お焚き上げの炎が 高らかに燃えすぎちゃった」の図もはさみつつ
とてものどかな、日曜の朝の風景。
でした。
*
そんな風景をしばらくのんびり眺めてから、貴重なお休みの日なので、お出かけした私。
すぐそばの
小学校と 墓地の境目の細い道を 歩いていたら
水色の空に
白木蓮のつぼむ梢に
赤い凧が、ひっかかっていました。
ただそれだけの風景だけど
どういうわけだか
意識がまた どこかに飛びそうになった。