球形ダイスの目

90%の空想と10%の事実

震災から8年経った…我が家は

2019-03-11 | マジメな話
東日本大震災から8年が経った。
あるいは、生きていれば父方の祖母が107歳の誕生日を迎えたことにもなる。

このテーマについては、ネット上でいろいろな人が好き勝手に見解を述べている。
復興が進んだ…だの、進んでいない…だの。
それらを眺めていて、共感するよりも不快に感じる意見が圧倒的に多いため
こういう場所に書くことにためらいがないでもない…が、
被災者を親族に持つ自分が、変に気を使って何も書かないのも嫌なので書くことにした。
※当方、被災者と言っていますが、親族に"犠牲者"は出ていないため、
 そちらに寄り添って書くことはできていないと思います。

・帰れない実家、線量
実家は原発の近くにあり、未だ一般的な立ち入りが出来ない場所にある。
線量も県内のニュースで報道されるものより1桁ほど高く、
家財が整ったとしてもとても人の住めるような場所ではない。

そんな状況だったので、TVニュースで原発付近の線量が出るたびに、
随分と過少申告されているような気になり、TVは嘘ばっかり言っている、という父のちょっとした愚痴もあった。
"TVは嘘をついている!実はもっとヤバいんですよ!" と言いたいわけではない。
実家の周りは、もっと線量は高かったという事実だけ。
どこからか流用した誰かのデータではなく、間違いはない。
なので、既に避難が解除されて人が戻ってきている浪江町や富岡町などを見るに付け、
帰れてよかったね、と手放しで喜ぶ気にはなれない。
線量的な問題は解決しているのだろうか?

・大熊の実家の今後
さらに、国からはこの土地を将来的に放射線廃棄物の貯蔵倉庫の一部にするということで
手放してくれとの要請があったようだ。
そんな訳で、今両親は大熊町から福島市に居を移し、以前より大分狭くなった家に住んでいる。
住民票がどうなっているのかは知らない(聞いたところで何にもならないため聞いていないことが沢山ある)。

大熊の実家は、昨年行き納めをした。
(自分は東京住まいのため、行き納めをしたのは親である)
自分が子供の頃の通知表とか、卒業文集とか、
そういったものが大熊から持ち出した最後の家財になった。

大熊町を離れざるを得なくなった人々が最後に持ち出したものはいったい何だったのか。
我が家は、通知表とか卒アルとかになりました。
そして、その辺の持ち出しリストから惜しくも漏れてしまった、大学時代に購入した書籍の数々。
漫画も結構あったので、今後業者に人に立ち入られる予定があるのであれば、
作業員の人に漫画の1ページでも読んでもらえたら嬉しい。

東電関連:賠償関連は、2018年でほぼ片が付いた…らしい。
震災関係の東電からの賠償は昨年で完結したとのこと。
振り返れば話が付くまでに7年掛かった計算になるが、Closeしたのであれば短い方にも思われる。

・見てくれでは分からない心の傷というもの
震災以降、特に父は先のことに対する用意が周到になった気がする。主に終活に関する話。
自分から見えている親族の心の傷は、"行動パターンの変化"だ。
"あの震災のことがあったから"なんていちいち口にしないが、淡々とすべきことをする姿勢が目立っている。

一方の自分ときたら、今年は親と一緒に旅行に行きたいと言ってしまったので、
計画しないといけないと思いつつ、まだ手が付いていない。

こんな感じで、被災者の各世帯が思いの丈をつらつらと書いていって、
それらを集めた本が出来て、無心で本を読んでいけるような場があれば… 僕はそこに訪れたい。
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