球形ダイスの目

90%の空想と10%の事実

250文字原稿3

2005-09-29 | 初期の投稿
(今日は250文字を大幅に超えます。)

今日はドクターの人の発表があったのでそれに間に合うように行けばよかった。
というわけで青葉城にて独眼竜に会いにいく。

結構歩いたので僕自身結構疲れたが、それ以上に革靴が疲れているのを感じた。
彼は文句も言わずに僕の演奏会や就活、さらに学会を助けてくれた影の英雄である。

下の後輩2人と政宗と写っている写真があるので、超小型でそのままUPさせていただこう。

ドクターの方の発表は実に質問への回答がよどみなく、さすがだなと恐れ入った。
人格的にも穏やかで洒落のわかる人で、なんだかすばらしい。
だけど、僕が「研究できちんと成果を挙げ、人格的にも穏やかで洒落のわかる人」
になりたいと考えるのは間違っていた。
僕は僕の夢を追うんだ。

さて、今日はスペシャルセッションというもので
「なぜ、音楽は人を感動させるのか」
というテーマでの公演があり、非常に興味深く聞かせていただいた。

僕が聞き取れた話をせっかくだからここに少し書いてみよう。
まさかそれで学会から怒られはしないだろうし、
何しろこういう臭い議論が地球のどこかで学会単位で開かれているということさえあまりにも知られていない。
少し知ってもらった方がいいのだ。
以上が僕のあげた理論武装。



なぜ楽器の振動特性の解析をするか→自由に人の望む楽器を作るため。

音楽には感情主義と認知主義の2種類の捉え方が存在し、キヴィは認知主義を採用した。

誤解を恐れずに極論してしまえば、
感情主義とは、「この曲っていいなぁ」と思うことであり
認知主義とは、「この曲には深い悲しみと哀れみがこめられている」と決めることである。

僕のBlogは多分に認知主義的な内容を多く含んでいる、と言えば
さらにわかっていただけるだろうか。

ハンスリック(ブラームスの支持者として著名)は
音楽美学が情動(emotion)描写に終始していると批判していた。


…と、ここまでは感想文で言うと
「感想文にあらすじを書くな」と言われかれない部分である。



和音を聞くときと和音の中から1パートを聞き分ける作業をするときは、
脳の活性領域が違う。
側頭極が和音の受容に関与している。

まぁ、信頼性はあるが実体のない部分。



音楽の科学的な評価(アプローチ)が難しい理由
 →単音ではなくひとつの流れ(すなわち曲)で音楽を捉えなくてはならないということ。


パネルディスカッションでは、
「音楽が他の芸術と異なっていることは何か?」
というテーマが挙げられた。

そして彼らは「空間と結びついていること」だと考えた。
ホールの音響特性やら聴衆やら、そこに思いをめぐらせれば
そういう言葉が使われている意味はなんとなくわかってもらえると思う。
というか僕は理解をした気になった。

だが、音楽が「空間と結びついている」というのは
光ではなく音がわれわれに届く(絵画や文学を光と表現するなら、の話だ)
という過程を音響学的用語を使わずぼかして言っているだけなのではないか、と僕は思った。



かくも臭い議論は今日も大学で行われている。
わざわざ何もないところから臭いバケツを見つけてその蓋を開けるようなことが学問だ。
この無駄かもしれない緻密さが実を結び、音楽に対するより幸せな関わり方ができたら、うれしい。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 250文字原稿2 | トップ | 250文字原稿4 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿