※書き終わってみたら結構Chaosでした
本日はドビュッシーの"海"の曲紹介のための原稿第3弾。
音楽の友社の作曲家別名曲解説ライブラリの内容を参考にしてみることにした。
解説ライブラリでの執筆者は平島正郎氏。
僕の狭い了見での見え方ではあるけど、平島氏は(ドビュッシーの)解説ライブラリの中でも
最も解説文を多く書いており、ドビュッシーの曲の解説界にこの人ありといった感じである。
よって盗めるところは盗もうと考えながら解説を読んでいくのだが、
平島氏の書いている解説の内容が凄まじく、これまでこのような曲紹介は読んだことがない、
と明言できるようなものだった。
具体的には…
別な解説文を引用し、その解説を書いている。
ジャン・バラケ(フランスの作曲家らしい)という方の解説を平島氏が訳していてその説明になっているため、
解説の解説になっている。それについて僕が書くから、本エントリは解説の解説の解説だ。
そしてその内容も、最終的に説明する対象が
"この和音、この音の並びは我々にまるで海を見るような気持ちにさせます。
ただ、その海が現存しているものと同じものかと言うと、きっと違います。
どう違うかは誰にもわからず、そこはドビュッシーの幻想世界の地平線にあるので、
我々はただ聴いたままを感じるのみで、っぽいところだけ何とか説明してみます"
という内容のため、白黒ハッキリした"解説"のつもりで読むと、かなり解りにくいと言わざるを得ない。
なるべく対象に正直で、余計な解釈を交えずに説明しようとした結果、
一般市民から"言っていること難しいから解りやすく書いて"と言われてしまうそれである。
他人事ながら、腹立たしく悲しいことである。
平島氏もこの紹介文を書くのに費やしたであろう、苦労の後が偲ばれる。
"別段正しくもないけどそれが妥当に思われるもの"
を文字で解りやすく解説しろと言われたら、いくつかの確度が高い事柄だけをヒントに
色の淡い紹介文を書かざるを得ないという結論に達したのかもしれなかった。
これは決して諦めではない。
◇
ただ、その苦労の中でも、書き出しは以下のように始まっており、
多くの人が勘違いしていたり、大して重要にも思っていない部分を指摘にかかってもいる。
『≪海≫を交響的<素描(エスキス)>とよんだのは、一種の韜晦のようなものだったのだろうか。
などと問うのは、≪海≫がけっして描写音楽ではないからである。』
韜晦(とうかい):身を隠すこと。姿をくらますこと。
つまり、いかにも視覚的な<素描>という副題がついているが、
これは曲の本質をわざわざバレないように誤魔化して表現していませんか、と言っている。
先日、2つめの記事で書かせてもらったけれど、
"海"のスコアの表紙は、実際ドビュッシーが見たこともなかった海が描かれていた。
ドビュッシーの想像するところの、自分が見ぬ海への憧れまでが含まれているのであり、
視覚的なイメージを直接音にしているのではない。
そこにドビュッシーの脳内フィルタをかかっている。
芸術の分野では、その脳内フィルタを"幻想"という言葉に置き換える。
辞書的な意味では
幻想:現実にはおこらない事の考え。 空想、ファンタジー。
とあるが、"現実にはおこらない事"では、一部の想像力に乏しい輩が"それは妄想だ"とか言い出すので、
ここでは、記憶と想像をない交ぜにした結果、できたもののことを指すことにする。
※この辺りは大作曲家だからこそ"幻想"で通じるが、日常生活でうっかりその片鱗を見せてしまうと
"またドビュッシーワールドが始まった"などと言われかねず、非常にデリケートなところではある。
自分が本当に打ち明けたいことだけ、きっと受け入れられない寂しい予感と無縁ではいられない。
◇
あれ…書いているうちに、幻想に身をやつす自分が過去に受けた扱いに対する
恨み言みたいな内容が始まったのはどういうわけか…
僕の中では、"海"の紹介文を書くことというのは、ドビュッシーの着想の原点について述べることというのは、
他人事という気がしなく、自分の書き方のスタイルに通じるところもあるため、羞恥心がつきまとう。
かつて自分が"妄想"と言われたものと共通のルーツがあるように思われ、
共感とともにどうにも落ち着かないものだということである。
読者の中のお一方でも、同じような気恥ずかしい気持ちにさせられた人がいたのであれば、私は幸い。
-----------------
…書いているうちに僕自身が解説の意味を一つ理解できるようになると
今度は今のような内容では底が浅い、もう一歩踏み込まなければ…という作業が延々と繰り返され、
結局今日のこのエントリを書くのに(休憩含めて)3時間はかかっている計算。
あっちこっちに思考が飛んでいき、それでも頭にあることを漏れなく書きつけようとすると
とてもでないがまとめることなんて出来ず…
こんな器用なことは日記帳では出来ず、電子媒体上でのもの書きというものは本当に恵まれていると感じた。
久々に結構書いた。
本日はドビュッシーの"海"の曲紹介のための原稿第3弾。
音楽の友社の作曲家別名曲解説ライブラリの内容を参考にしてみることにした。
解説ライブラリでの執筆者は平島正郎氏。
僕の狭い了見での見え方ではあるけど、平島氏は(ドビュッシーの)解説ライブラリの中でも
最も解説文を多く書いており、ドビュッシーの曲の解説界にこの人ありといった感じである。
よって盗めるところは盗もうと考えながら解説を読んでいくのだが、
平島氏の書いている解説の内容が凄まじく、これまでこのような曲紹介は読んだことがない、
と明言できるようなものだった。
具体的には…
別な解説文を引用し、その解説を書いている。
ジャン・バラケ(フランスの作曲家らしい)という方の解説を平島氏が訳していてその説明になっているため、
解説の解説になっている。それについて僕が書くから、本エントリは解説の解説の解説だ。
そしてその内容も、最終的に説明する対象が
"この和音、この音の並びは我々にまるで海を見るような気持ちにさせます。
ただ、その海が現存しているものと同じものかと言うと、きっと違います。
どう違うかは誰にもわからず、そこはドビュッシーの幻想世界の地平線にあるので、
我々はただ聴いたままを感じるのみで、っぽいところだけ何とか説明してみます"
という内容のため、白黒ハッキリした"解説"のつもりで読むと、かなり解りにくいと言わざるを得ない。
なるべく対象に正直で、余計な解釈を交えずに説明しようとした結果、
一般市民から"言っていること難しいから解りやすく書いて"と言われてしまうそれである。
他人事ながら、腹立たしく悲しいことである。
平島氏もこの紹介文を書くのに費やしたであろう、苦労の後が偲ばれる。
"別段正しくもないけどそれが妥当に思われるもの"
を文字で解りやすく解説しろと言われたら、いくつかの確度が高い事柄だけをヒントに
色の淡い紹介文を書かざるを得ないという結論に達したのかもしれなかった。
これは決して諦めではない。
◇
ただ、その苦労の中でも、書き出しは以下のように始まっており、
多くの人が勘違いしていたり、大して重要にも思っていない部分を指摘にかかってもいる。
『≪海≫を交響的<素描(エスキス)>とよんだのは、一種の韜晦のようなものだったのだろうか。
などと問うのは、≪海≫がけっして描写音楽ではないからである。』
韜晦(とうかい):身を隠すこと。姿をくらますこと。
つまり、いかにも視覚的な<素描>という副題がついているが、
これは曲の本質をわざわざバレないように誤魔化して表現していませんか、と言っている。
先日、2つめの記事で書かせてもらったけれど、
"海"のスコアの表紙は、実際ドビュッシーが見たこともなかった海が描かれていた。
ドビュッシーの想像するところの、自分が見ぬ海への憧れまでが含まれているのであり、
視覚的なイメージを直接音にしているのではない。
そこにドビュッシーの脳内フィルタをかかっている。
芸術の分野では、その脳内フィルタを"幻想"という言葉に置き換える。
辞書的な意味では
幻想:現実にはおこらない事の考え。 空想、ファンタジー。
とあるが、"現実にはおこらない事"では、一部の想像力に乏しい輩が"それは妄想だ"とか言い出すので、
ここでは、記憶と想像をない交ぜにした結果、できたもののことを指すことにする。
※この辺りは大作曲家だからこそ"幻想"で通じるが、日常生活でうっかりその片鱗を見せてしまうと
"またドビュッシーワールドが始まった"などと言われかねず、非常にデリケートなところではある。
自分が本当に打ち明けたいことだけ、きっと受け入れられない寂しい予感と無縁ではいられない。
◇
あれ…書いているうちに、幻想に身をやつす自分が過去に受けた扱いに対する
恨み言みたいな内容が始まったのはどういうわけか…
僕の中では、"海"の紹介文を書くことというのは、ドビュッシーの着想の原点について述べることというのは、
他人事という気がしなく、自分の書き方のスタイルに通じるところもあるため、羞恥心がつきまとう。
かつて自分が"妄想"と言われたものと共通のルーツがあるように思われ、
共感とともにどうにも落ち着かないものだということである。
読者の中のお一方でも、同じような気恥ずかしい気持ちにさせられた人がいたのであれば、私は幸い。
-----------------
…書いているうちに僕自身が解説の意味を一つ理解できるようになると
今度は今のような内容では底が浅い、もう一歩踏み込まなければ…という作業が延々と繰り返され、
結局今日のこのエントリを書くのに(休憩含めて)3時間はかかっている計算。
あっちこっちに思考が飛んでいき、それでも頭にあることを漏れなく書きつけようとすると
とてもでないがまとめることなんて出来ず…
こんな器用なことは日記帳では出来ず、電子媒体上でのもの書きというものは本当に恵まれていると感じた。
久々に結構書いた。