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古典の季節表現 冬 十一月一日 朔旦冬至

2015年11月01日 | 日本古典文学-冬

延暦二十二年十一月戊寅(一日) 本日は朔旦冬至である。百官が参内して次のように上表した。
 私たちは、「思うに、有徳者は万物を主宰する天を感応させて、それにより地の神が地上に瑞兆をもたらし、有徳の天子が地上を治めると、天文のなかに瑞祥が現れる」と聞いています。極まりない霊妙な能力を身につけ、教化を明らかにし、功業は国中に行きわたり、徳はあらゆる方向に及んでおります。伏して、今年の暦(れき)を調さしますと、十一月戊寅は朔旦冬至となります。また、陰陽寮は〈老人星が出現しました」と奏上しています。私たちが謹んで調査しますと、『元命苞』に「老人星はめでたい瑞兆の星である。出現すれば、穏やかに治まり、長寿をもらたす」とあり、『史記』に「前漢の第七代皇帝武帝の辛巳の年に朔旦冬至となった。そのとき孫卿が、中国古代の伝説上の皇帝である黄帝が神聖な鼎(かなえ)と筴(めどき)を得たのが己酉朔旦冬至の年で、朔旦冬至は自然の運行が一の区切りに至り、新しい時代の始まりに当たる。いまは黄帝の時代と同じ新しい時代の始まりである、と言った」と見えています。そこで、天子武帝は喜んで天を祀る郊の祭礼を行い、天を主宰する泰一(たいいつ)を祀ったのでした。朔旦冬至より、玉律が音階を整えるように天地の運行は整い、福の到来にますますめでたく、陛下の身体は輝きを増し、優れた治政はさらに長く続くことになりましょう。天が地上の善悪を照覧して道のよく行なわれている状態を慈しまなかったり、天皇の優れた精神が現れてそれに感応しないことがあるでしょうか。私たちにとり、生涯の本当の幸いであり、栄えた世に会い、潤いますのはまことに天皇陛下の霊力によります。喜びで、誰しもが手を打ち、舞い踊る思いであり、この喜びに堪えず、謹んで表を上呈し、申し上げるしだいです。
(日本後紀〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

弘仁十三年十一月丁巳(一日) 朔旦冬至となり、百官が祝賀した。天皇は次のように詔りした。
 神の霊妙な働きは功をなしてもみずからの手柄とせず、万物は生命を全うすることを楽しみ、その聖徳は広大無辺で、多くの民がその隠れた働きを明らかにしている。こうして広く天下に徳が及び、陰陽を治め整え、生物を守り育て、偉大な手柄を世に現すのである。朕は拙い身をもって皇位に即(つ)き治政に当たっているが、薄氷を踏み奔馬に乗る思いで、常に恐れの気持ちを抱いている。
 ところで最近、役所の者が「今年十一月は朔旦冬至です。一の時代が終わり、新しい時代が始まる区切りとなります。冬至に至り寒気が極まると、陽気が少しずつ起こるようになるのでして、この慶びには謂われがあります」と奏上してきた。朔旦冬至のもたらす寿福については、以前から聞いている。徳の少ない朕一人のみこの好運に浴せようか。天下と共にこの幸せを受けたいと思う。そこで、弘仁十三年十一月二十四日の夜明け以前の懲役刑以下、軽重を問わずすべて免(ゆる)せ。ただし、八虐・故意の殺人・殺人の謀議・強窃盗・私鋳銭・常赦の免さない罪および官有物を欠損した罪人の類は赦(しゃ)の限りとしない。赦以前の犯罪を訴え出た者にはその罪を科せ。蔭(おん)の途絶した者と才能・功績の顕著な者には特に高位を授け高い地位につけよ。内外の文武官の主典(さかん)以上の者に位一階を授けよ。在京の正六位以上の官人および史生以下直丁(じきちょう)以上の者に適宜物を賜え。願わくは、恩沢(おんたく)と栄誉を国内に施し、朔旦冬至というありがたい巡り合わせを天に感謝できることを。已上を広く布告して、朕の意を知らせよ。
(日本後紀〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

承和八年十一月丁酉朔(一日) 本日は朔旦冬至である。公卿が祝賀の表を奉った。
丙辰(二十日) (略)本日、天皇が紫宸殿に出御して百官と宴を催し、次のように詔りした(宣命体)。
 天皇のお言葉を、皆の者が承れ、と述べ聞かせる。朔旦冬至は、歴代の王じゃが稀に回り会うことのできるめでたい幸運である。朕は不徳ながら遭遇することができたのであるが、朕一人でこれを喜んでよいものだろうか。公卿・百官人から天下の公民に至るまですべての人と喜ぶべきであると思う。そこで、勤務状態に応じて官位を上げようと思う者がおり、氏々の中にも一人、二人位を上げようと思う者がいる。また、諸司の主典以上の人に位一階を上げ、諸司の人に物を賜い、また天下の徒罪以下の罪人の罪を免すことにするとのお言葉を皆の者が承れ、と申し聞かせる。(略)
(続日本後紀〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

(正暦四年)十一月一日甲寅。朔旦冬至。諸公卿上表奉賀。天皇出御南殿。
(日本紀略~「新訂増補 国史大系11」)

(長和元年)十一月一日甲午。朔旦冬至。公卿上表奉賀。天皇不出御南殿。
廿五日戊午。(略)詔免除徒罪以下。依朔旦冬至也。
(日本紀略~「新訂増補 国史大系11」)

正暦四年十一月 一日、甲寅。
今日は朔旦冬至である。そこで賀表を奉った。雨儀であった。天暦九年には雨儀であって、御暦奏と番奏を内侍所に託した。今回は託さなかった。(略)
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)

(長和元年十一月)一日、甲午。(略)内裏に参った。左仗座に着した。内大臣。右大将・春宮大夫・皇太后宮大夫・左衛門督・侍従中納言が、同じく参った。人々が多く集まったので、日暮れを待った。そこで朔旦冬至の賀表(がひょう)を奏上した。史生二人が、案を挙げて敷政門(しきせいもん)の外に立った。外記二人が、また案を挙げて軒廊(こんろう)の西の第一間に立った。外記二人は退出した〈案は南北を妻(つま)として置いた。〉。私は座に当たって立つのであるが、左仗座の西の第三間から小庭(こにわ)に出て、西の第二間に立った。内大臣も、小橋(こばし)を経て同じ場所に立った。大納言は、同じ西の第三間の東辺から出て、西の第三間に立った。中納言は、西の第四間から出て、同じ西辺に立った。西面(さいめん)して北を上座(じょうざ)として列立した。参議は列立しなかった。立つ場所が定まって、私は内大臣の前を通り、軒廊の西の第二間から入って、案の東に就(つ)いた。片膝を跪(ひざまず)いて筥(はこ)を取った。案を経て西の階(きざはし)を三階昇り、筥kを内侍に授けた。ただし、花足台(けそくだい)は取らなかった。還り下って、懐に挟んでいた笏を取った。同じ路を経て、大納言の前から列に復した。後に各人が左仗座に着したことは、元のとおりであった。次に外記二人が、案を挙げて退出した。(略)
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

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1 コメント

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Unknown (mono)
2020-11-01 21:19:21
日本紀略と御堂関白記を追加しました。
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