二〇〇九年八月にNHKで放送したという同タイトルの番組(私は未見)の内容と、制作過程のドキュメントを書籍化したもの。旧帝国海軍は、陸軍に比べれば紳士的かつ戦争犯罪という観点から見た罪も軽かったという印象がある(実際、東京裁判でA級戦犯とされた被告のうち絞首刑になったのは陸軍幹部と文官一人のみで海軍出身者はいない)。しかし本書では、実際は太平洋戦争時の犯罪的行為という点では海軍も陸軍に勝るとも劣らなかったこと、また海軍という組織は陸軍に比べて小さいがゆえにより身内意識が強く、敗戦後も組織をあげてその隠蔽工作に奔走していたという事実が明らかにされている。
戦後三五年が過ぎた一九八〇年から一九九一年まで、旧帝国海軍の軍令部(陸軍で言えば参謀本部)の左官クラスだったメンバーを中心に、敗戦の理由と教訓を後世に残そうという意図で「反省会」という秘密会合が持たれていた。その会議での発言内容はテープに録音されており、ふとしたきっかけからNHKの取材班がその存在を知り、奇跡的にそのすべてが発見された。このあたりの経緯を描いたのが第一章「超一級資料との出会い」で、この部分は本論とはあまり関係ないものの、それなりにスリリングに読める。
第二章「開戦 海軍あって国家なし」では、海軍兵学校および海軍大学校卒のエリートが指導する軍令部という組織が、身内の論理のみを重視した挙げ句に誰もが勝てるとは思っていなかった戦争に自ら突入し(真珠湾攻撃を仕掛けたのは他でもない海軍なのだ)、結局誰もその責任をとらずに泥沼に陥っていく過程を描いている。身内の論理がもたらした罪というのは、たとえば”予算を取った人が評価され、出世する”という価値観の中で、外交戦略を軽視して戦争準備のための闇雲な予算獲得競争を繰り広げた末に、それを使わざるを得ないという選択になだれこんでいった状況を指す。
第三章「特攻 やましき沈黙」、第四章「特攻 それぞれの戦後」では、人間魚雷「回天」や神風特別攻撃隊をはじめとする海軍の特攻兵器および作戦が、巷間知られているように一部の若手将校(黒木博司大尉と仁科関夫中尉)や幹部(大西瀧治郎中将)の発案によるものではなく、それ以前から軍令部により組織的に企画され、実行に移されていったという事実を明らかにする。しかも、特攻作戦は戦果の観点からはほとんど失敗であり(航空特攻命中率は十一・六%、回天に至っては二%に過ぎない)、主に国民の戦意高揚が目的とされていたのである。回天については開発者が私の故郷と関係しており、この部分はより身近に感じながら読んだ。
第五章「戦争裁判 第二の戦争」では、敗戦後の東京裁判に向けて、いかにして旧将官クラスに重罪が及ばないようにするかについて組織的に腐心する、旧参謀たちの暗躍が描かれる。日本は捕虜の人権に配慮するジュネーヴ条約を批准していなかったので、前線にまで戦争犯罪を犯さないための教育が徹底しておらず、結果として陸海軍ともに多くの戦犯を生み出すことになってしまった。現場の左官クラスの中には部下を守るために何もかも飲み込んだ上で絞首刑に処せられた人物もいる一方で、指導に当たった軍令部の幹部は命を長らえている。
こうした帝国海軍の組織的問題は、現代の日本の組織にも「負の連続性」として引き継がれている、とエピローグでまとめられている。曰く、
・最悪の事態を想定せず、楽観的な予測に基づき、作戦を立案する。
・最前線に無理を強い、幹部は責任を取らない。
・外交努力、説明責任を果たすことを怠り、諸外国から孤立する。
・真実を国民に公表せず、現場を軽視し、ひいては国民の命を危険に晒す。
もちろんこれは昨年の原発事故を念頭に置いて書かれているのだが(本書の校了作業中に東日本大震災が発生したとの由)、私自身の身に置き換えて考えた場合、組織内の「空気を読ん」だりせずに、必要であれば撤退を提言したり、都合の悪い事実を明らかにしたりという勇気を持てるかどうかを改めて問われたのであって、苦いながらも「読んでよかった」と思わせる本であった。