Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

大晦日に

2011-12-31 22:12:13 | Weblog

 昨日は、雑用に追われた。何かをやったと言うこともないが、細々したことに追われた一日であった。しかし予定していた、庭の清掃や玄関の掃除はできなかった。今日は何としても庭と玄関はきれいにしたいと思い、午前9時30分には、庭に出た。塀に沿って竹が生えていて、そこにアジサイやナンテンの木がある。そこに竹の枝葉を伸びて、藪のようになっている。その竹を根元から切りとっていった。そのところはきれいになったが、そこには竹の葉や落葉が積もっていて地面が見えない状態であった。それを熊手で落葉等を取り出し掃いた。そして以前庭木を剪定したときの枝葉もそのままになっていたので、それらを集積し塀の一隅に集めた。こんな作業を正午近くまで行った。午後もこの作業を行いたいが、町内会のことで呼び出されている。

 それは午後1時30分からは明日の「初日の出」の準備がするためである。町内では毎年元日の朝は、前浜な海岸に出て皆で、ご来光を拝むことになっている。その準備のため、廃材を集め、海岸に持って行き、日の出のとき火を燃やし、集まった人達に暖を取ってもらう。その燃える廃材を集めて、それを海岸に持っていき、海岸の砂地に廃材を積んで、直ぐにでも火を燃やせるようにしておく。この作業に12名ほどの役員が集まったが、これは中々重労働である。道路から火を燃やすところまで100m程は手で運ばなければならないし、火を燃やすところに5m×4m×0.5m程の穴を掘る。この砂をスコップで掘るには、何人かで交代して作業したが、日頃スコップなど持ったことがない人ばかりであり、掘れたころにはみんな疲労で参ってしまった。

 この日は近隣の町内も同様なことをしているので、浜辺にはあちこちに人がいて賑やかな感じになった。それが終わって町内防災倉庫の前で解散したのは午後4時近くになっていた。家に帰って引き続いて午前中に行った庭の作業を継続した。あと2時間もすると暗くなってしまうと思い、南と東に面したところの清掃に重点を置いて作業した。暗くなって辺りが見えなくなるまで行ったが、集めた枝葉や落葉は、塀の内側に積み上げるのが精いっぱいであった。  その後玄関の掃除と、生ごみを捨てる穴を二か所掘って上がったのは午後7時近くであった。

 外の作業はこれまでにしたが、夕食を食べてからも部屋の清掃等に追われて、ゆっくりとテレビでも見て過ごすと言った気持ちにはなれない。やり残したことが多い大晦日となったが、これも生きている証であると思うことにした。

 


TOさんの葬儀

2011-12-29 20:44:08 | Weblog

 昨夜、OB会〇〇支部の月例部会が終わったのは午後7時近くであった。家に帰り弔辞の原稿を纏めた。TOさんとは30年近く前に、2年間ほど一緒に仕事をしたが、それ以外のことは知らないことが多かった。そのため遺族や、TOさんと親しかった人に聞いたり、時代的背景を調べたりして出来上がったのは夜中の12時近くであった。今朝朝8時ごろ遺族に電話し「原稿をファックスするので間違いがあったら直してほしい」ことを頼んだが、既に葬儀の準備が始まっていて、そうした時間はなさそうであった。そこで電話越しに読むと「それで間違いないのでお願いします」こんな返事であった。それをもとに弔辞を用紙に書いた。

 13時30分からの葬儀に間に合うよう家を出たのは12時20分ごろであった。洞慶院は曹洞宗の古刹であり、寺位も静岡では抜きんでて高い。この本堂で葬儀が行われた。奥さんも20数年前に亡くたことや、86歳と高齢のため、参列者30数名であったが、6人の僧侶と風格ある住職の先導で儀式は行われた。いくつかの葬儀を見てきたが、重厚で落ち着きのある葬儀は初めてのような気がする。30分ほどしたあと、司会者に促されて弔辞を読んだ。上がることもなく淡々と出来たような気がした。その後弔電が披露されたが、流れに斑のない葬儀であった。

 その後、住職が貴重な話をした。よく覚えていないので正確ではないが、このような話しだったと思う「20数年前奥さんの葬儀は先代の住職が勤めた。奥さんは仏心があり、生前より洞慶院のために尽くされた方であった。先代住職の法名は〇〇といったが奥さんの戒名の中に同じ〇〇が入っていることは、それだけ信頼された人であったと思う。その先代の住職は立派な方でのちに曹洞宗総門永平寺77世管主となった方である。仏教が伝来した中国も文化大革命によって、仏教が排斥された。多くの寺は壊されたが、その後いくつかの寺の復興が許された。その復興費の一部を日本仏教界も負担することになった。その先頭に立って進めたのが77世管主であった」こんな話であった。聞き違えもあるが、私はこのような話だと思った。現住職も高齢で、静かにゆっくりと話す声には、ある迫力を感じた。

 1時間ほどの葬儀が終え外に出た。風もなくよく晴れた天気であったが冷気を感じた。鉄道関係者は同級生2人と私であった。やはり現職を離れ30年近く経つと国鉄の影響は少なくなっている。2人を自動車で送ることにした。


弔辞の原文を書く

2011-12-28 16:02:13 | Weblog

 12月中旬以降〇〇支部の鉄道OB会員が4人亡くなっている。寒さが厳しくなっているこの時期、乗り越えることが出来なかったものと思う。その一人TOさんが12月25日86歳で亡くなり12月28日通夜、29日葬儀が洞慶院で行われることになった。ご遺族から鉄道OBの弔辞を頼まれた。TOさんは私の大先輩であり、2年間ほど一緒に仕事をしたが、詳細についてあまり知らない。そこでいろいろの方に話を聞いて弔辞を纏めることにした。

 弔辞 『故〇〇〇〇さんのご霊前に、東海鉄道OB会を代表して謹んでお別れのことばを申し上げます。貴方は国鉄静岡鉄道管理局施設部時代の昭和55年から2年間ほど上司としていろいろご指導していただきました。私より一回り以上離れた大先輩でしたが、国鉄改革を進めた時期で合理化計画が矢継ぎ早に打ち出され、労使がぎくしゃくした関係が続いたとき、総務課課長補佐として、その矢面に立って処理していました。そのテキパキとした対応を羨望の眼差しで見ていたことが思い出されます。その後私は現場に出ましたが、1年ほどして国鉄を退職され、関連会社に入られれました。気骨のある、面倒見の良い上司であったとの印象です。

 あなたは昭和18年鉄道省の地方組織である静岡管理部の保線事務所に採用されました。昭和19年には太平洋戦争の日本本土空襲が激化し、静岡も空爆により鉄道にも被害が出る惨状の中で、第一線で線路を守ってきました。その後昭和20年に終戦、24年には日本国有鉄道となり、静岡保線区の事務掛として職務に精励されました。その中にあっても現状に甘ずることなく、法政大学の通信教育を受け卒業すると言った努力家でもありました。その後は昭和33年静岡鉄道局施設部総務課に籍を置き、鉄道財産の管理等の業務に従事しました。その間静岡保線区、浜松保線区で現場管理者を経験し、昭和53年総務課の要員係長、総務課長補佐で手腕を発揮し、昭和57年3月55歳で国鉄を退職し関連会社の〇〇建設にて総務課長として会社発展に尽力されました。

 この間昭和30年には静岡市羽鳥に住む奥さんの〇〇さんと結婚し2人のお子さんにも恵まれ、現在の大岩本町で充実した家庭を築いていました。順風満帆な人生であったと思います。仕事以外でも、趣味の、弓道、書道、写真、陶芸、墨絵など手がけ。展覧会等で賞をもらいと喜んでいましたね。また鉄道OB会や静岡保線区のOB組織の「静保友の会」では幹事として、組織の発展に尽くされました。5年ほど前「静保友の会」に出たときは、元気な姿で私達を歓迎してくれたことは鮮明に覚えています。その時は知りませんでしたが、平成2年に最愛の奥さんを亡くしていたことを知り、そうしたことを顔に出さず生きてきたことを思うと胸が詰まります。これからは我慢することもいりません。奥さんと天国でゆっくりくつろいでください。〇〇〇〇さん、ありがとうございました。さようなら』

                                             平成23年12月29日  東海鉄道OB会〇〇支部 支部長  〇〇〇〇 


葬儀のこと等

2011-12-27 23:51:01 | Weblog

 午前10時に、12月20日に亡くなったYAさんの家にいた。仏壇の前で線香を焚いて、葬儀に参列も、弔辞も出来なかったことを詫びた。その応対は娘婿さんであった。話のなかで、鉄道OBの方には89歳の死去であり、あまり知っている人がいないことから連絡はしなかったと言った。しかしこの近隣にはOBの方が多く住んでいるので、残念な気持ちは拭えない。10分ほど話して帰ったが、YAさんの死亡者叙勲が出来ないか考えた。着替えをしてOB会〇〇地方本部に行くと、SIさんがいて「叙勲の対象になること。早急に死亡診断書等の書類を整えて明日午前中までに提出してほしい」とのことであった。

 直ぐ娘婿さんに連絡したが彼は「YAさんは3姉妹の娘さんがいるので、3人に相談させてからにしてほしい」とのことであった。時間が限られていることから、早い相談を伝え電話を切った。その後もSIさんから、催促の連絡があったので、娘さんから来た葉書に書いてあった、長女が嫁いだ〇〇寺に電話した。連絡がついて、早急にみんなで話すとのことであった。その答えは午後6時ごろ娘婿からあり「いろいろお骨折りいただきありがとうございます。姉妹で話しましたが、叙勲はご辞退させていただきたいとのことです」こんな内容であった。このことは私自身がが葬儀に参列もできなかったこと等から前のめりになった感じで、出来うることなら叙勲だけでもして遣りたいとの思いからだった。断られたことから、これはこれで已む負えないと感じた。

 それから網戸の掃除にかかったのは12時近くになっていた。カッパに長靴を履いて、一階二階にある全ての網戸を外した。築後21年も経つと、網戸の破れも数ヶ所あった。それも含めて、庭の木に立てかけ洗うことにした。網戸の他外側の窓は私が洗った。休みも入れ午後4時ごろには網戸と窓洗いは終わった。既に日は沈んでいて、網戸には水玉が残っていたし、窓も濡れたままである。一階の網戸は納めたが、2階の網戸は玄関に立てかけ、乾いた明日にでも納めようと思う。

 慣れない作業であったので、疲れが出た。夕食を食べる、風呂に入った。明日のOB会の月例部会の準備をしようと取りかかったが、眠気がしてまとまらない。午後8時ごろであったがソファーで仮眠した。起きたのは午後11時を回ったころであった。パソコンに向かっていると、メールが入っていた。また訃報であった。TOさんで国鉄時代同じ課の上司であった人である。明日対応することにした。


思い通りに行かない日

2011-12-26 23:02:26 | Weblog

 年末を迎え、毎日が計画通りいかないので焦る。今日は網戸や庭の清掃を行う予定を立てていたので、早めに起き犬の散歩に出かけた。風が強い寒い日であったが、それでも帰ったら網戸の清掃は行おうと思っていた。帰って郵便受けを見ると、新聞と一緒に葉書があった。その葉書はパソコンで打った長い文章で、現職時代の大先輩YAさんの家族からのものであった。文面は、父が12月20日に89歳で亡母のもとに旅立ちましたから始まり、父親の過去10年ぐらいの生き様が書かれていた。

 死亡の情報は入っていなかったので、まさかとの思いであった。確か今年の4月ごろ家を訪問したことがあったが、ベットに寝ていて、体調を崩していたが、キット元気になると思っていた。直ぐ家族に電話したが留守であった。その後も電話したがいなかった。夕方6時近く再度電話すると、男の方が出て、「父は20日の亡くなり23日の葬儀を行いました。新聞に掲載しましたが、鉄道OB会に連絡をしないで、内輪だけで行いました」こんな話であった。弔辞も弔電も打てなかったことを詫び、27日午前10時ごろ線香をあげに行きたいことを伝えた。私は極力OBで亡くなった方に弔辞を行おうと思っている。しかし他系統の人は情報も入らず、そのようなことが出来ないでいた。このYAさんは知っていたしそれが出来る人であった。残念である。

 午前中はそのことに費やした。今から庭や網戸の掃除は時間的に困難と考え、明日以降にすることにした。そこで150枚ほどある年賀状の添書きをすることにした。しかし絵手紙の絵具が表側に滲んでいて汚くなっていたので、それも消しゴムで薄くなるようにした。ポストに入れたのは午後4時を回っていた。その後は12月28日に発送する「〇〇支部だより」の訃報の追加や写真の張替え等を、担当しているOさんにお願いに行ったり、瀬名の妹に頼まれたものを届けたりしていると午後7時を回っていた。

 今日予定していたことは出来なかった。今ブログを書いている、この部屋も整理が出来てなく雑然としている。しかし頭がパニックでおかしくなるような忙しさではない。正月を迎える前に何とかしようと考えたことが、うまくいかなかっただけである。割り切れば何とかなるとの思いになった。母も病後の経過も安定しているようだし、妻も肺炎の後はほぼ普通の生活に戻った。それだけで十分ではないか。


餅つき

2011-12-25 21:33:51 | Weblog

 30年ほど前からやっているが、正月の餅つきは、三島の弟の家に家族やきょうだいそれに仕事関係の人が集まり、庭先で餅つきをするのが習慣になっている。今年も25日(日)に行うことから、朝9時00分に家を出た。昨年までは母や妻も一緒であったが、今年は母の体調が芳しくなく、妻も肺炎後の体調が心配であり、私だけが行くことにした。瀬名の妹のところによって、清水から高速道路で沼津へ、そこから伊豆縦貫道路を通って三島中央町の弟の家に着いたのは11時前であった。

 弟の家は旧東海道沿いの三島大社近くの有る。昔から商店街となっていて、どの家もそうであるが、間口に対して奥行きが長くある屋敷となっている。その奥の空間で餅つきを続いている。私たちが行くと既に川崎の妹家族は来ていて、総勢50人近くが2つの臼で餅を搗いていた。遅くなったことを詫びその中に入った。既にビールや酒が入っていて、活気のある空気がみなぎっていた。そして感ずることは世代が若くなっていることと、一年ごとに見る子供たちの成長も驚きを持って見るのが楽しみとなっている。

 私もこのメンバーでは年の多い順なら1番か2番であるようだ。それ故つき手は、若い人に任せてビールや、おでんそれに各々の人が持ってきた肴を食べながら掛け声など掛けていた。しかし30年近く餅つきを行っていることから、搗き方はまだ若いものには負けないとの気持ちは持っていた。誰かが「おじさんは未だ搗いていないので、次はお願いします」と言われた。弟に聞いていたが「今回は200kgのもち米を準備してある」と言っていたが、正午近くにはまだ半分以上が残っている感じであった。そろそろ搗き方に回らなければならないと杵を持つと、年のころ私より少し年上のOOさん(女性)が「私が返しをします」と言う。このOOさんとは昨年も一緒であったが年季の入ったコンビで続けて2臼搗いた。息が上がったが、感じよく搗けた。

 その後2人の妹が来て「搗き手は沢山いるので、今から函南の末弟の家に行かないか」という。末弟は病気で、誰かの介護がないと、歩けないほどになっている。それを心配して妹2人と自動車で行った。弟は机に頭をうずめるようにして、私たちが来ることを待っていた。弟を連れ、また餅つきのところに戻り、そこで5臼ほど搗いた。何とか搗けたが、明日になったら筋肉痛になるのでないかと思いるほど頑張った。餅つきが終わったのは午後4時を回っていた。後片付をして部屋に入ったころには暗くなりかけていた。そこで弟は夕食に寿司とピザを振る舞ってくれた。その上に来た人に搗いた餅を平等に分けてくれた。私は鏡餅5個と平餅2臼、それにヨモギ餅1/4臼貰って帰った。弟家族の仁徳を感じた一日であった。


一日の出来事

2011-12-24 22:48:12 | Weblog

 午前中はまだ書き残っている80枚ほどの年賀状の表書きをした。筆の走りが悪く納得した字は書けなかったが、急いで書き、何とか午前中に終わらせることが出来た。後は世話になっている人や懇意にしている人に一言言葉を添えることにしているが、今日忘年会があるが、帰ってきてから書こうと思った。正午までにこだわったのは、午後はS学苑「名曲をうたう」の講座があり、これは今年最後の講座である。そして終わった後忘年会を計画しているが、幹事を引き受けているので、どうしても出席しなければならない。そんなことから午前中までに年賀状を書き終えるよう頑張った。まだ裏面に一言書きは残ったが、概ね目安がついたと思った。

 午後一時までに忘年会を行うパルシェ6FのUO店に行って、人数と、料理、値段等決めた。電話で予約した16名から11名と少なくなったが、みんなが満足する会にしたいと、店の人と話し、料理だけは特上のものにして、酒等飲む人も少ないので、それは別会計にすることにした。11名のメンバーは年齢も70代の人が多く、前回のときもあまり飲まなかったのでそのように決めた。この店は近海物の寿司が定評があり、そのものを多くしてもらうことで話した。

 その足で午後2時40分から始まる講座に参加した。今日はクリスマスイブであり、クリスマスに関する歌を歌った。いつも口ずさんでいたクリスマスソングも、楽譜に合わせて歌うと、難しさが分る。10曲ほどみんなで合唱した。その中には「オー・ホリー・ナイト」もあったが、この歌は3年ほど前に発表会で歌ったもので、その時は何とか歌えた。高音は「ラ」であり何とか出そうと試みたがかすれた声になってしまった。2度歌ったが同じであった。発表会のときは英語で歌ったが今回は日本語に訳したものであったが、それが原因ではないかと思った。

 その後忘年会の会場に入り、みんなで歓談した。女性が多く平素はあまり話す機会がないメンバーであったが、このような席では、私も席を移して多くの人と話した。会話をすると、その人の実像が見えてきて、今までのイメージと違う良い面が見えてきた。2時間ほどの宴会は良い雰囲気で終わった。そのあと誘われて4人でカラオケに行った。家に帰ったのは夜の9時を回っていた。その後年賀状の一言書きをしようと思ったが、酔いが回り出来なかった。


年末までのスケジュールから

2011-12-23 20:34:54 | Weblog

 12月に入って、中々予定した計画が進まないことに焦りを覚える。それは予期できなかった3人のOBが亡くなったことや、母の病気等があったがそれだけでは余り理由にはならない、気力が落ちたこともあるのかもしれない。ここにきてまだ年賀状は中途の状態であり、植木の手入れや剪定した枝葉の焼却場への運搬もやらなければならない。それに妻から頼まれている網戸の清掃も終わっていない。そこでこれからの年末までのスケジュールを考えた。

 今日は昼間は庭木の剪定作業、夕方以降は年賀状の宛書を書くこと。24日は午前中年賀状を書き終え、午後はS学苑の「名曲をうたう」に行き、その後は忘年会がある。25日は一日中、三島の弟のところで餅搗きがあり、きょうだいみんなで参加。26日は剪定した枝葉をトラックを借りて焼却場への運搬する、多分2往復が必要である。27日は網戸と庭の清掃。28日は午前中は鉄道OB会の月例部会の準備、午後は1時から現職のHOさんとの会合、午後5時からはOB会の月例部会と系統ごとの責任者の会合がある。29日以降は正月の準備等に費やそうと思っている。

 今日は何としても選定作業は終えたいと思って、午前10時までに犬の散歩を終え、取りかかった。作業の主体はカイズカイブキ6本である。既に1本は11月に剪定したが、5本はまだ残っている。この木は50年近く経っていて、樹高が5mぐらいになっている。私がこの家に住むようになった20年ぐらい前に、枝を下刈りして、上部2mぐらいに枝葉を茂らせている。葉の成長が早く、毎年手入れしないと、こんもりとした直径2m程の葉が密集して傘のような形状になる。この剪定には2.8mの三脚状の脚立を木の周りを3回ほど位置を変え刈り込んでいった。

 この植込み箇所は自動車を駐車してあるところにあり、自動車を何度か移動させ刈り込んだ。脚立の最上段で作業を行うと、倒れそうな場面が何度かあった。そこで妻に脚立を抑えてもらい進めたが、一本の木に1時間以上かかった。昼食をはさんで5時間ほど作業したが3本の木を剪定するのがやっとであった。既に午後4時を回り暗くなってきたので、そこまでとした。後の2本は道路からは見えずらいところにあり、1月に入ってから行うことに決めた。それから自動車の清掃(水洗い)をした。最近あまり清掃していないので、ボンネットなど、埃が被膜のようになっている。段々暗くなってきて、細かなところは分らないほどになっていたが洗い終えた。夕食後ブログを書いているが、これから年賀状を書こうと思う。 


訃報が続く

2011-12-21 21:16:29 | Weblog

 昨日OB会の支部によると、ASAさんが10月に亡くなっていたことを聞かされた。ASAさんは私が沼津にいたときの上司であり、国鉄を退職してからは地元の町内会長や老人会長をした名士であった。90歳で他界するまで、元気でいたと聞いていた。それも亡くなっていたことを知ったのは、今年から「蒸気機関車の写真が入ったカレンダー」を支部の全会員に配ることになったが、地区の連絡員がカレンダーを渡そうと訪ねると奥さんから亡くなったことを聞かされたとのことであった。その時奥さんから「静岡にいる知っている人はすでに亡くなっていたので、近所だけに知らせて、鉄道関係者には知らせなかった」とのことであった。

 今日午前10時ごろ電話で「〇〇支部の支部長ですが、ご主人が既に亡くなられたことを知りましたが、誠にご愁傷様のことです。今日まで知らないままでいたことをお詫びします。今から線香を上げに行きたいと思いますが如何でしょうか」と言うと、奥さんは私を知っていて「OB会に連絡もしないですみませんでした。午前中はいますから」とのことであった。直ぐ仕度をして富士見台のASAさんの家に向かった。インターネットで調べて行ったので場所は直ぐ分った。

 家には奥さんが一人でいて、来てくれたことを喜んでくれた。仏壇に線香をたむけたあと、話した。静岡市石田の官舎にいたとき、同じところに住んでいて私や母のことをよく知っていた。母が93歳でいることを言うと喜んでくれた。そしてASAさんが9月ごろまで元気でいたこと。そして急に倒れ救急車で済生会病院に入院し、3週間ほどで退院したが、直ぐ介護施設に入ったが、10日ほどで亡くなったことを話してくれた。亡くなってから既に2ケ月ほど過ぎたので、暗い感じもなく、はっきりした口調で昔のこと等話した。

 国鉄を退職されてから10年ほど前に一度登呂遺跡であったことがある。その時は昔と変わらず、恰幅の良い身体で元気で話したことを思い出した。そのような人が無くなっていくことは寂しいが、長寿であったことが少しの救いである。先日の12月14日の〇〇支部の忘年会のとき挨拶したが、その時「今年は災害等よくないことが多かった。しかし会員の皆さんが健康に注意された過ごしたことから、4月以降今日まで前年の同期と比較して亡くなった方が半減しているこれは良いことである」こんな話をした。しかしまだ一週間も経っていないのに3名の訃報を聞いた。あのようなことを言わなければよかったと今思っている。


T介護施設訪問

2011-12-20 22:35:32 | Weblog

 T介護施設に午後1時30分に訪問した。これは毎月行っている歌のボランティアのためで、12月はクリスマスに関する歌を集めて行った。このことは先月行ったとき「来月はクリスマスの歌をみんなでうたいましょう」と言った手前上、何とかそうした歌を集めようと思った。そこで本屋から手ごろな歌集を購入してみたが、知っている曲も少ないし、童謡、讃美歌、クラシックまでいろいろな曲が載っていた。その中で施設の高齢者が分るような曲は「聖夜」「ジングルベル」「サンタが町にやってきた」「赤鼻のトナカイ」「星の界」「ホワイトクリスマス」ぐらいであった。そこで冬に関する歌とか、一緒には歌えないが原語で歌える曲も含めて持って行った。

 そして5年前に買ってあった、サンタクロースの衣装も持って行った。この衣装は今まで気おとりして着ることはなかったが、年齢がそうさせたのか今は着るに抵抗がなかった。始まる午後2時には40人近くの人が見えてくれた。いつもきてくれる人の中に新しく来てくれた人も2~3人はいた。その人は特徴がありすぐわかった。いつものように最初は「ふるさと」を合唱した。ここに来る人の多くは、身体が不自由であるとか、この施設を終の棲家としている人も多い。話を聞くと北海道や沖縄から来た人もいた。皆さん「ふるさと」がある、その人達が、生まれた故郷を思い出してもらうため最初に、この歌を歌うことにしている。

 その後「聖夜」「ジングルベル」等と用意していた曲を歌った。そしてみんなでの合唱は難しい「諸人こぞりて」「雪の降る町を」「ペチカ」などを歌った。それでも何人かが歌ってくれた。そこからは「アメージンググレース」グノーの「アヴェマリア」「オー・ホーリー・ナイト」を原語で歌った。これらの曲はS学苑「名曲をうたう」で歌った曲であり、何とか歌えた。反応を気になったが、皆さん喜んで拍手してくれた。周りにいた介護士さんも、知っているのか一緒に口ずさんでいた。このような曲を選んだことに、躊躇していたが、歌ってよかったと思った。その後みんなが良く知っている数曲を歌い、最後に「今日の日をさようなら」を合唱して終わった。

 帰りがけ、前列に座っていた、Mさんが握手を求めてきた。この人は101歳でいつも聞きに来てくれる。その人が「今日はありがとうございました。私は毎月貴方の歌を心待ちにしている。知っている歌を一緒に歌い105歳までは元気にいたい。だから貴方も来てくださいね」こんなことを言ってくれた。ありがたいことである。