Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

足(脛)の痛み

2012-11-30 23:06:22 | Weblog
 早いもので明日からは師走である。この半月ほどは何とも忙しい日を過ごした。毎日が時間に追われ自分の時間がないような忙しさであった。そのピークも何とか無事に過ごせた。今日は多少余裕を感ずる日である。しかし疲れからか昨日ゴルフから帰ってくる途中で右足の脛の辺が急に痛くなった。自動車を運転していたが、ブレーキを踏むにも痛さを覚え、それは今まで感じたことがない痛さであった。外傷はなく、手で擦っても痛くはないが、脛の中が堪えられないような痛さがあった。車を道路横にとめ、靴を脱いで足首を回したり、身体をひねったりした。それで痛みが引くのを待った。10分ほどすると嘘のように痛みが引いた。

 家に着いて自動車を降りるときは、何の違和感はなかった。そのまま忘れて、某合唱団の見学に行った。9時近くに帰ってきてからも何の痛みはなかった。遅かったが犬の散歩に自転車で出かけ途中で夕食をコンビニで買った。妻の分も買ってきたが食べなかった。遅い夕食を食べてブログを書こうとパソコンに向かったが、直ぐ睡魔に襲われた。疲れていたのでそのまま布団に寝た。時間はいつもより早い11時ごろであった。

 夜中の2時か3時頃であったが、また急に右足の脛の部分が痛くなり、布団の中で堪えていた。それが15分か20分ほどの間であったが身体をどのように動かしても治まらなかった。しかしその後嘘のように痛みはなくなった。その時膝の後ろやふくらはぎなどが今までにないかゆみを感じた。そのため1時間ほどは眠られなかった。朝6時30分ごろ母のベットでの動きで起こされた。母がこのようにするときはトイレに行きたいとの意思表示である。連れて行くと大便も出たので朝風呂を沸かせ母を入れた。いつもは私が風呂に入れ、妻が着替えさせることをしていたが、今日は着替えまで一人でやった。朝食を食べさせデーサービスに送り出した。妻はまだ起きてこれそうにない。

 洗濯物を干した後、改めて脛とふくらはぎを見てみた。しかし何も変わったところはなかった。痛みはないし左右の足は全く同じであった。再度この様なことになったら病院に行こうと思うが、何故なったか自分なりに想像してみた。一つは運動不足である。一ヶ月近く歩いて犬の散歩をしたことがなかった。自転車だけであり、足の筋肉が弱っていたところに、ゴルフで10km近く歩いたことによる筋肉疲労ではないか。そして次に思ったのは老化の現象ではないか。それは筋肉内の血管が何らかの原因で、細くなったか詰まったことによるものでないか。そして筋肉疲労ならまだよいが、血管内の事象であるなら大変だと自分なりに考えた。

某合唱団を見学

2012-11-29 22:50:46 | Weblog
 朝6時目覚ましの音で目を覚ました。今日は現職時代同系列にいた仲間とゴルフをすることになっていている。その幹事だ私である。この幹事役は在住している沼津、静岡、藤枝、掛川の各地区が順次幹事をすることに決まっている。今回は静岡在住者で、次は藤枝地区が幹事をすることになっている。スタートする時間が10時11分にした。それは遠隔地からの人も来やすいよう配慮したが、上りが午後5時近くなっていたため最終ホールは証明付きでのラウンドとなった。それでもトータルスコアーは93であり準優勝であった。因みに優勝は79で焼津のARIさんであった。

 今日は妻が寝込んでいるし、母の介護もありゴルフに行けないかと思ったが、幹事であり何とか行くことにした。母に朝食を食べさせてから、又ベットに寝かせた。妻に極力早く帰るからと断って出てきた。そんなことで風呂にも入らないで帰って来た。家では妻が青い顔をして綿の入った丹前のようなものを着こみ、母の横にいた。そして「私は食欲がないので食べないが、母にはありあわせの物を夕食として食べさせた」と言って直ぐ寝てしまった。熱は下がったと言っていたが、まだ予断が許さない。母にトイレをさせてから、まだ夕方7時と早いがベットに寝かせた。

 今日は6時30分からアザリア6Fで静岡VE合唱団の練習を見に行くことになっていた。それは先日この合唱団の募集のチラシを見て電話すると練習日を教えてくれた。それは11月15日と29日であった。15日は別の用があって行けなかったので、29日に行くことに決めた。このことはS学苑の「名曲をうたう」が12月で終わることになった。それに代わるものを探していたことによる。合唱には多少違和感があったが見に行った。練習時間は午後6時30分からであったが、時間に遅れて7時10分ごろになった。

 6階のホールには指導者とピア二ストがいて50名近い人が練習していた。曲はヴェルディ-のレクイエムであった。それも原語での練習で、少し尻込みしたがテーブルの上にレクイエムの本があったのでそれを見て私も歌った。このレクイエムは力強い歌であった。後ろに座っている人がいろいろ教えてくれた。休憩時間に指揮者に紹介されたが、パートはと聞かれテナーと応えてしまった。これは私の希望である。すると後ろにいた人が「私もテナーなので一緒に歌いましょう」と言って私の横に座った。しかし休憩後は〇〇のミサ曲であった。聞いていたが、この合唱団では何度か歌われた曲のようで整ったハーモニ―であった。確かに合唱団としてレベルは高かったが、この練習に費やす時間は「名曲をうたう」より多そうである。母の介護、OB会役員、町内役員等から、それだけの時間が割けるか疑問を感じた。

妻が体調を崩す

2012-11-28 23:23:57 | Weblog
 昨日午後マッジクのボランティアで用宗の介護施設(和きの家)に行った。安倍川製紙の近くであったが、細い道を入ったところにありわかりにくいところにあった。しかしその介護施設の周りにはみかん畑とかき畑が広がっていて、その中に小さな施設があった。ここに以前私が行く前に「あすなろ会」でマジックをやっていたSUGさんと言う先輩が入居していて、その縁で来ることになった。この施設は家庭的雰囲気があって、みんな楽しそうにしていた。午後2時から3時まで5人のメンバーがマッジクの演技を行ったが、15人ほどの人が集まった。その中には近所に人も見に来ていた。みんなに喜んで貰えたし、先輩との絆も感じた一時間であった。

 家に帰ると、妻は2階で寝ていた。私が家を出る前に風邪気味だから病院に行くと言って私より先に出た。それから4時間ほどしか経っていないが、布団から起きてこれないような状態になっていた。本人は病院の帰りに夕食の食材を買ってきたので、家に着いたから悪くなったようだ。夕食の支度は出来るような状態でないし食欲がないので夕食は食べないと言った。母と私はありあわせのもので夕食を食べた。夕方8時ごろ妻は厚着をして起きてきたが、歩くのも大変なようであった。吐き気がすると言うので洗面器を持っていくと吐いた。固形物はなく水のようなものばかりであった。熱は37.6℃ほどあり、そのまま寝かせた。

 母に夕食を食べさせた後、早めに寝かせた。私はその後28日に行う鉄道OB会月例部会の資料の作りを行ない、夜中に12時過ぎに寝た。朝起きて妻の様子を聞くが床から起き上がることも出来ないで食欲もないと言った。病院に行くように言ったが、「風邪だと思うから薬を飲んで様子を見る」と言って、そのまま寝ていた。今日は母のデーサービスのない日であり、母のこともあり朝からてんてこ舞いであった。母の着替え、朝食、洗濯を済ませ、そのまま母を又ベットに寝かせたうえ、犬の散歩に出かけた。既に正午近くになっていた。

 昨夜のOB会の資料作りはまだ終わっていなかったので、午後からその作業をした。忙しくて昼食も食べるどころでなかった。資料ができたのは午後3時ごろであった。その間何度か母をトイレに連れて行った。鉄道OB会11月の定例部会に行って帰ったのは午後7時ごろであった。犬の散布をした帰りにコンビニに寄って母と私の夕食を買って帰った。妻はみかんを2つほど食べたのみで、まだ食欲はなかった。夕食を食べると、疲れが出てテーブルで1時間ほど座ってうたた寝をした。明日は私が幹事をしているゴルフコンペがある。行けるかわからないが用意だけはしておこう。

国政選挙に思う

2012-11-26 23:48:15 | Weblog
 衆議院が解散して12月16日には選挙がある。11月22日私の携帯に地方本部のSI氏から伝言が入っていた。それは「候補者のKAM氏が挨拶に鉄道OB会支部事務所に見えるので出てきてほしい」こんな内容であった。その伝言を夕方になって見た。翌日は町内のバス旅行で御在所岳に行ったので、現地ロープウエーの乗る前に電話を掛けた。それによると「KAM氏が11月26日11時に来るので、出来たら支部会員を何人か集めてほしい」こんな内容であった。副支部長のOOM氏に連絡して関係ある何人かに集めることを伝えた。結果として15名弱の会員が来てくれるとの連絡を受けていた。翌日私も数人のOB会知人に電話して話しをした。

 今日は午前11時にKAM氏が事務所に来ることから10分ほど前に着いた。既に20名近い会員が集まっていた。そこにときわ会(鉄道の選挙対策組織)静岡支部会長のHIS氏がKAM氏を伴い入ってきた。KAM氏は女性で大臣の経験もあり今後に期待された人間であったが、前回の衆議院選挙では民主党の大躍進で落選の憂き目にあった。今回は捲土重来で何とか議員に返り咲きたいとあいさつ回りをしているとのことであった。今、国難の時であり、外交も経済も停滞し閉塞感が漂っている。強いリーダーシップを発揮してくれる政党と党首が現われることを願っているし、そうでないと日本が急速に衰退するようなことになりかねない。

 KAM氏は私達に関係する年金問題や、教育、外交、経済等多岐にわたって10分ほど話したが、少なくとも以前の自民党とは違った生まれ変わった政党になることを強調した。今の民主党ではダメだとの思いが強い、あまりに未熟で国政を担当する政党ではないと思うようになった。それは政党の中で意見が違いすぎるところにあることや、また国をどのようにリードしていくかという基本ができていなかったように思う。これが政治が安定しないし、諸外国からなめられてしまった。これが尖閣諸島の問題、竹島、北方領土に対する対応の仕方ができていなかったし、北朝鮮の拉致問題でも何の対処ができなかった。だからと言って昔の自民党に戻っても、利権のしがらみを切れるとはとても思えない。それ故新しい自民党の姿を聞きたかったが、その時間はなかった。

 政治は難しい。まだ私自身どの政党にするか決めかねている。この国難に対処出来る政党はどこにあるか、これから数日の選挙戦で判断していくことになる。しかしどの政党を見ても1000兆円に膨らむ国の債務を減らすことを訴える政党はない、この債務は国民が負担しなければならないが、そうしたことを前面に出して訴える政党がないのはどうしてなのだろうか。今政党が乱立している現状を見るとそれは期待するのは無理なようだ。そして日本は今後もしがらみを断ち切る強い政治は出来ないことに憂鬱な気持ちになる。

「名曲」発表会にて

2012-11-25 23:23:35 | Weblog
 今日で最後となる「名曲をうたう」の発表会の日である。午前中にゲネプロ(最後の練習)があり、会場がある江崎ホール9階に着いたのは10時ごろであった。既に10人ほどは舞台に立って歌った後であった。私は19番目であり、順番が来るまで客席で歌を聞いた。皆さんこの日に標準を合わせ最高のパフォーマンスを披露していた。3人ほどの人の歌を聴いてから舞台横の控室に詰めた。アルバイトの女性が歌う曲の解説を150字ほどに纏め、曲名と氏名を言ってから舞台に立つようになっていた。

 私も「星も光りぬ」の解説をしてから名前を言われ舞台に立った。概ね上手く歌えたような気がした。最高音♯ファも少し割れかけたが何とか歌い込んだ。昨日は出なかった声が出たような気がした。しかしゲネプロであり、安心はできなかった。ゲネプロで歌ったことが本番で同じように出るのか少し不安はあった。その後は何人かの曲を聴いてから早めの昼食を食べに同僚3人と出かけた。

 午後一時から発表会が始まった。客席には100名ほどのお客さんが来ていた。今日は全員の26名が歌うその最初は作詞三木露風 作曲中田喜直の「おやすみ」であり、同じクラスのOKAさんが歌った。澄んだ綺麗な声であった。段々進んで10番目のころ2人の妹が見えてくれた。私が来てくれるよう呼んだものであるが、川崎から来てくれた。その後も近所のYAMさん他3人の男性が見えた。これはYAMさんが町内の数名に声をかけてくれたもので有り難いことである。そして私の番が来て歌うことになった。この発表会が最後であり悔いの残らないよう歌おうと臨んだ。「星も光りぬ」は2分30秒ほどの短い曲であるが、主人公が牢獄で恋人を思い、銃殺刑に処される自分の感情を歌うオペラ「トスカ」の名アリアである。その感情を声に現わし身体全体で歌った。高音のところも注意して歌ったが♯ファは出た。そして最後の嗚咽する場面も表現できた。

 終わって客席に向うと同僚が握手して讃えてくれた。町内のTAMさん他3人も祝福してくれた。2日ほど前から少し風邪気味であったが歌え終えた。その後も進み全員が歌い終えたあとみんなで舞台に立ち「美ら歌」等数曲を合唱した。最後の発表会は終わったがまだ感慨は湧いてこない。しかしこれが最後かとの一抹の寂しさを感じた。懇親会は中島屋グランドホテルであった。幹事さんのKITさんとSANさんが嗜好を凝らした演出で始まった。私の席は2人の先生の前であった。ピアノのNAK先生が一人ひとりの寸評をしてくれた。その中で私の歌を「心に響く歌であった」とコメントがあった。皆さんへの歌の寸評も褒めたものであったが、この言葉はうれしかった。余興として私はマッジクを披露したし、TAKさんはフルートを披露した。最後は皆で合唱して終わったが、思い出に残る発表会であった。

発表会前日を迎えて

2012-11-24 22:38:58 | Weblog
 明日はS学苑の「名曲をうたう」の発表会がある。この「名曲をうたう」の講座は12月いっぱいでなくなる。先生の事情によるものであるが、生徒はまだ巣立ちが終わらない子つばめのようで、急に親がいなくなったような感じでもある。試練を感じるが今後も生きる道を見出していかなければならない。そんな心境であるがこの発表会は何としても意義あるものにしたいと考えている。そして今まで培ったものをここに出したいと思う。今日は最後のレッスン日であり、自分が高揚していることを感じた。KUW先生の指導とピアノは今までの発表会で伴奏をしてくれたNAK先生が来ていた。最初は全員で歌う「故郷」「見あげてごらん夜の星を」「美ら歌」を合唱した後、明日の発表順に先生の指導を受けた。生徒の自分が選んだ曲を歌ったが、前回の時より見違えるほど上手くなっていた。そして私は5番目に歌った。

 相当練習してきたつもりであったが、前回歌えた高音(♯ファ)は声が割れてしまった。それに今日は声が出ないし粘りのある声は出なかった。昨日聞いたプロの声量に近づけようとしたことが返って難しくしているのでないかと思った。それに前回でた♯にファは出ると過信したことが悪かった。そして失敗したことが今日であったことを良かったと思うことにした。明日はもう少し考えて慎重に歌おう。

 明日の発表会が終わった後、懇親会でマジックを行うことと乾杯の音頭を取ることを幹事さんから頼まれていた。レッスンが終わって家に帰った後は、マジックの準備に費やした。昨年もマジックを行っているのでそれと重複しない出し物と思って、いろいろ考えたが、レパートリーは少ないし、思うようにはいかなかった。それでも何とか5種類ほどのマジックを用意した。そして乾杯の音頭をどのようにするか考えた。

 以下が考えた文面である。「御指名をいただきました〇〇ですが、乾杯の音頭を取らしていただきます。先ずは〇〇〇〇先生の親身に亘ってのご指導を感謝します。またピアノの〇〇〇〇先生にはつたない私どもの歌に合わせた伴奏していただきありがとうございました。この「名曲をうたう」はいつも私共に感動を与えてくれました。そして今感動の中にいます。これが継続できなくなることは残念ですが、これからも皆さんとの絆を大切に生きて行こうと思います。ありがとうございました。では先生への感謝と皆さんの旅立ちと幸福を願って乾杯します。乾杯」

オペラ「トスカ」を聴く

2012-11-23 23:30:22 | Weblog
 11月25日にS学苑の「名曲をうたう」の発表会がある。ここで私はオペラ・トスカのアリア「星は光りぬ」を歌う。2ヶ月ほど前であったが新聞にトスカが東京新国立劇場で公演されることを知り直ぐチケットを求めた。東京に行ってオペラを聞くことは初めてであるが、実際に生のオペラを聴くチャンスであり行くことにした。公演は午後2時から始まるので、それに合わせて行く予定でいたが、都合で静岡発12時37分の「ひかり」に乗ることになった。東京には午後1時40分着であり、そこから新宿、京王新線で初芝までは30分以上かかった。新国立劇場に着いたのは2時15分ほどになっていた。

 チケットを貰い手続きをすると、係員が「既に始まっていますので、ここで待っていてください」とモニターのあるところに案内された。そこから場内に案内されたのは10分ほどしてからであった。それも「一幕が終わるまで立ち見でお願いします」と云われ2階の最上席の後ろで見た。丁度、聖アンドレア・デ・ヴァッレ教会でトスカに警視総監スカルピアが欲望を独白する場面であった。豊満なトスカにノルマ・ファンティーニがソプラノの声を響かせていたし、狡猾なスカルピア役は韓国のセンヒョン・コーが好演していた。東洋人でイタリアオペラを演じる個性豊かな声量はヨーロッパ人に負けない響きを持っていた。

 25分の休憩があり第2幕が始まった。今度は左隅に近い席であったが座って見た。トスカの恋人カヴァラドッシ役のサイモン・オニールが出演していた。彼は身体も大きいし声も良かったが、体型が肥満であり私のカヴァラドッシ役のイメージとは違っていた。しかしこの場面はスカルピアの嫌らしい狡さにトスカが苦悶する場面であり、トスカの見せ場であった。この場面を見てトスカの演技と声の素晴らしさに感動した。そして歌う「歌に生き恋に生き」のアリアは最高の見せ場であった。私も身を乗り出して聞いたが、両隣に座った男性も大きな拍手をしていたし、ブラボーの声が幾重にも続いた。

 第3幕は、トスカとカヴァラドッシの競演の場であった。夜明け前の聖アンジェロ城の牢獄が場面であったが、インターネットで見た光景と違っていて重層感にやや欠けている感じであった。それは私が一番期待した処刑を前にして歌うカヴァラドッシのアリア「星はひかりぬ」に強い願望があったからなのかもしれない。もっと劇的な歌い上げを期待していたことによると思う。しかしトスカは分りやすいストーリーであり、各々のキャストが主演トスカを最高に盛り上げた。それに答えたトスカを演じたノルマ・ファンティーニは素晴らしかった。午後5時ごろ終わったが、その余韻に浸りながら、どこに寄ることなく静岡に帰って来た。感動をありがとう。

町内バス旅行にて

2012-11-22 23:32:18 | Weblog
 毎年恒例であるが、この時期町内会はバス旅行を計画する。今年は11月22日「御在所岳となばなの里の旅」と云うことで参加者を募ったが、満席の39名が集まった。朝6時45分〇〇薬局前集合するとあり、その時間に間に合うよう出かけた。私が集合場所に着いたときは、既にバスが到着していて、人も30名近く集まっていた。出発の午前7時には全員が揃った。今回の旅行は町内会長と2人の副会長が主体になって計画したもので3人の人には感謝する。この担当者は毎年決めて行っているし3年前には私が「妻籠、馬篭の旅」を計画した。しかし人を集めるのに苦労したし、参加者の健康等管理にも気を使った。

 バスが動き出すと飲み物やつまみ等が配られた。私も役員としてその手伝いをしたが、それは微々たるものであった。隣りに座ったSUさん(社会福祉協会会長)と雑談して過ごした。SUさんの年齢は3歳ほど上であるが物知りであり、私の音楽の話にも合わしてくれるし、歴史の話も強かった。そんな話をしている内に御在所SAに着いた。またバスガイドも年令は40代であると思われたが話が上手くみんなを笑わせた。バスの中はいつも笑いに包まれていた。そこから湯の山温泉に入るころにはまわりの光景は木々が赤く染まり紅葉の真っ盛りであった。ロープウエーに乗り山頂に行ったが、寒さはあまり感じなかった。石灰岩の岩肌と針葉樹の緑、広葉樹の紅葉のコンストラクトは美しく生えていた。まじかに冬の到来を告げるような景色であった。天気も少し曇り空が広がっていたが、眼下に四日市の町なのか、煙突から白い煙が立ちのぼるのが見えた。

 御在所岳を降りて、四日市駅近くの都ホテルで昼食となった。日本料理店でビールを飲んで雑談したが気が付くと私達のテーブルの4人が残っているだけであった。そこからバスに揺られて着いたのは「なばなの里」であった。最初の計画ではここで公園内のベゴニアガーデンで花を見て16時30分にはそこを出発して静岡に帰る予定であった。しかし「なばなの里」に来て日本一のイルミネーションを見ないで帰るのに異論が出た。そこで18時までここで過ごしイルミネーションを見ることにした。昼間は閑散としていたこの公園も夜になると多くの人が出てきた。イルミネーションが点ると幻想的光景が広がった。豆電球が点るトンネルを抜けると広い広場に日本の四季を現わしたイルミネーションが映し出された。

 素晴らしいの一言であった。そこを歩いて川辺に出たが、そこはライトアップされた紅葉が広がっていて水面に映り、シンメトリーの絵画を見ているような光景が広がっていた。やはり「なばなの里」は私共を幻想の世界にいざなってくれた。そこからバスは東名高速道路を走り、出発した〇〇薬局の前には21時丁度に着いた。全員が無事に帰ることができたし何とも楽しい旅であった。

急用の会議とターゲット

2012-11-20 22:18:54 | Weblog
 毎月第三土曜日の午後は駿河ターゲット・バード・ゴルフ(T・B・G)の大会を行われる。これには参加するようにしている。しかし一週間ほど前に、鉄道OB会〇〇地方本部(地本)から電話があり、20日(火)の午前10時30分から緊急会議を行うので出席するよう連絡があった。その時「後で書面で連絡するから」と言っていたのでそれを待っていたがそれらしいものは来なかった。緊急会議が午後にもずれ込むならT・B・Gの参加が出来なくなるので、昨日地本に電話すると午前中で終わる予定であるとのことであった。そこで今日は会議とT・B・Gに出ることにした。しかしT・B・Gのメンバーは12時ごろ出発するので、その幹事に「午前中は用があるで、それが済んだら直接有度山総合スポーツセンターに行くから」と伝えた。

 地本の緊急会議は地本の会議室で行われた。時間の10時30分には少し遅れたので、入ると既に会議は始まっていて各支部の支部長は集まっていて、SAI本部長が話していた。内容は会員の減少で地本の運営が平成27年度ごろには赤字になること、皆さんには負担になるが規約を改正して乗り切りたいとのことであった。具体的にはOB会員から地本に納している金額を一人100円アップしてほしいこと。及び地本から会員に贈る喜寿、米寿の寿詞の金額を減額したいことの提案があった。各支部長は支部の財政上の困窮から難色を示した。特にOB会員が地本から受けるメリットは余りないことやOB会本部に納めているものの減額する話等あり議論はまとまらなかった。

 それでもOB会組織は継続させなかればならないことから、最終的にはこの案をのむことにした。条件として支部の窮状を地本から本部に話すこと、支部長はこの状況を支部役員に説明納得してもらうこととしてこの話は終わった。次は衆議院選挙についてJR東海が推している候補について話しがあった。鉄道OB会としてもその候補者を後援するので、知人への呼びかけをすることになった。かって国鉄時代は鉄道OB会も鉄道の維持発展のため、政府にお願いすることが多かったが、民間企業になってそうしたことは少なくなった。しかしJR東海が安定的に発展していくためにもOB会としても協力していかなければならない。

 正午を回って昼食になったが、私は別の用があることを伝え、早めにそこを出た。家に帰ってから有度山のスポーツセンターに午後1時までに行った。まだ1時前であったが、既にT・B・Gの大会は行われていた。そのメンバーに入って私も競技をした。練習もしないでの大会であり、スコアーは気にしないことにしていた。最初の9ホールは33で回った。いつもより良くないスコアーであった。2回目も同じ33であった。トータル66はであり、ハンデキャップを引くと65で13人中10位であった。楽しいT・B・Gができた。

102才のOOさんのこと

2012-11-19 23:14:07 | Weblog
 月一回老人介護施設「TOの家」に行って歌のボランティアを行っている。ア・カペラで歌いみんなと合唱する。歌い始めてから5年目になるが今は自然体で行えるようになった。私にとって午後2時から3時までの1時間であるが楽しい一時間となっている。用意するものは模造紙に書いた歌詞だけであり、身一つで出かけていける。既に100曲近く模造紙に書いてあるが、その大部分は小学唱歌や日本の歌曲である。以前はその準備のため時間をかけていたが、この一年ほどは模造紙に書いた歌詞から、季節にあった歌を選んで持って行くだけである。

 午後1時20分近くに介護施設「TOの家」に入って準備をしていると、コーヒーコーナーでボランティアをしている叔母さんが、誰とは言わなかったが「施設入居者の人が演歌を歌ってほしいと言っていたので、また考えておいて」とすまなさそうに言った。そのようなことを私にも言った人がいたので「今日は無理ですが、また次回にでも演歌を模造紙に書いてきます」と話した。しかしそう言われると私も迷う。小学唱歌より演歌の好きな人もいると思うが、今までこれでいいと思って進めてきたが考えさせられた。そこで手元に持っている歌集の中の演歌も歌ってみようと思った。

 今日は30名ほどの人が来ていたが、いつもより少ない感じである。最初はいつもと同じ「故郷」を皆さん合唱した。その後も秋から冬にかけての歌を何曲かを歌った。皆さん見慣れた人ばかりであるが、一人102歳になるOOさんが見えないのが気になっていた。この方は高齢であるが頭もしっかりしているし、身だしなみも整えたお婆さんである。その方に何かあったのかと心配であった。しかし30分ほどすると、車いすに乗って、おばあさんが見え一番隅の場所にとめた。このお婆さんは唱歌や歌曲が好きな方でいつも合唱してくれていた。それも前列の中央部に来ていて歌っていた。しかし今日は歌う声が聞こえなかった。

 それでもOOさん来てくれてよかったと思った。このお婆さんは施設の皆さんから慕われマスコット的存在である。私がコーヒーコーナーの叔母さんが言った演歌を途中で歌うことにした。それは「北国の春」「酒よ」であり、模造紙に書いてないが歌った。反応は一部の人が合唱したがそれほど盛り上がらなかった。しかし誰にも好き嫌いはあり、演歌が好きな人も唱歌が好きな人もいる。今後はもう少し曲幅を広げて持っていくことにしよう。終わった後102才のお婆さんと話した。「今日は風邪を引いているので、ここに来ることを躊躇したが、思い切って来てみた。声は出なかったが良かった。来月来たときには一緒に歌いますから」と言って帰って行った。元気はなかったが風邪を皆にうつらないよう隅にいたのだ。ここに来てくれたことをありがたいと思った。