Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

石和温泉旅行(2)

2013-01-31 23:34:53 | Weblog
 朝6時30分に起きたが目覚めは良かった。酒を呑んだ日の翌朝は酒が残っていて頭が重いのが普通であるが、今日はそのようなことはなかった。既にISIさんは大浴場に行っていたので、SUGさんと一緒に朝風呂に行った。昨夜雪が少し降ったのか、向かいに見える屋根には薄く白いものが残っていた。湯船に浸かっていると数人の同僚が入ってきた。部屋に戻ってテレビなど見ていると、他の部屋で酒盛りをしているので来るよう言われた。そこには炬燵があって4人が既に飲んでいた。そこに入って、また飲んだ。

 朝食の時間が8時であり、1階の食堂に行った。昨夜の中居さんがいて、また陽気に話してきた。そこでまたビールを呑んだが、料理は昨夜の宴席ほどの品が出ていた。それを食べたが、ご飯は食べなかった。幹事役に今日の予定を聞くと、甲府発14時40分であるので、希望するところを見て、後はのんびり過ごすとの言った。昨日は武田神社を見たので、恵林寺に行きたいと思ったが、石和から中央線で塩山まで行き、そこからまた歩くとのことであったので止めた。そして近くの「響の里」に行くことになった。そこならホテルの送迎バスを出してくれると言った。

 送迎バスに乗ると「響の里」は3分ほどで着いた。この場所は最近オープンしたようだ。武田信玄の風林火山を模して太鼓で表現した。みな若い女性であったが、行く鍛えられ素晴らしい演奏をした。彼女達は併設してある売店の売り子でもあった。そこで福袋に入った土産物を買った。この敷地内に宝石庭園があり、ここでトルマリンの販売等行っていた。以前(20年前)にもここに来たことがあったが、このオーナーが「響の里」や別のところにあるワイナリーも経営していて、山梨では有名な立身出世の経営者と聞いた。その宝石庭園は庭全体に宝石がちりばめられている感じであった。案内した人の説明も上手かったが、何人かはそこで買い物をした。ここで長い時間費やしたので、後は甲府に行って昼食を食べて、指定の特急ふじかわ号で帰って来るだけである。

 甲府に着いたのは午後1時ごろであった。駅前に出て昨日とは違った昼食場を探したところ「奥籐」と云うそば屋に入った。この店は元祖鳥もつ煮店であり、B-1グランプリ参加店であった。創業昭和25年の老舗店でもつ煮もそばも一級品であった。後は駅ビルで土産物を買い列車に乗り込んだ。この列車の中では、みんな疲れもあって寝て帰って来た。石和温泉は何度も来ているので、新鮮な感じはなかったが、人を持て成すことは、温暖で恵まれた静岡とは違い、良く出来ていた。これも山梨の県民性なのか。 以上

石和温泉旅行(1)

2013-01-30 22:52:16 | Weblog
 毎年一月下旬に町内会役員の旅行が行われている。今年は1月30日~31日にかけ石和温泉に行くことに決まった。この旅行に参加することにあまり乗り気でなかった。それは妻一人で母の介護は無理と思えたからであるが、母をショートスティに預けて参加することにした。母の介護は段々大変になり、その上鉄道OB会のこと等あり、今年度いっぱいで町内の役員を降りることにしている。このことは昨年12月町内会長に話してあり、この旅行でみんなに話すことになっていた。それ故役員旅行はこれが最後となる。

 静岡発9時40分の特急ふじかわ3号に町内役員11名が乗り込んだ。3両編成のふじかわ号の一号車は全指定席であったが、私ども11名以外は5名ほどで空いていた。駅を出発すると直ぐ座席を向い合せにしてビールなど呑みながら雑談が始まった。私も正月用に用意した一升瓶(久保田)を持ってきたが、これは直ぐ無くなってしまった。雑談していると早いもので気が付くと甲府に着いていた。甲府は父が現職中2年ほど住んだところで、そこは駅北口の近くで私も何度か来ていたが、昔の面影はないほど変わっていた。しかし天気も良く、甲府盆地を取囲む南アルプス連峰は青空に白い峰を見せていた。

 昼食は、駅南のK食堂に入った。その一角を11名の団体が占め、またビールを呑みながら思い思いに昼食を注文した。その食堂の奥の方であったが、この一角だけは騒々しい人が居るなと思われるような空間で時間をかけて食べた。そこを出て中央線石和駅までは電車で10分ほどで着いた。駅には旅館の送迎バスが着いていて、それに乗り込むと石和ビューホテルまでは直ぐであった。6階の部屋に入ったが、部屋はゆとりのある部屋で3人が一緒に入った。私と会長のSUGさんと社会福祉のISIさんであった。宴会が始まる6時前に大浴場に入ったが、湯量は豊富で、源泉の温度も高いように感じた。露天風呂にも入ったが、そのわきを流れる滝からの水路は冷たかった。今日の泊り客は11名の団体以外は2組4人のお客さんだけであった。

 夕食時は陽気な中居さんがいて宴会を盛りあがてくれた。その冒頭に町内会長の挨拶があったあと、会長に促されて「今期末を持って家庭の事情で役員を降りさせてもらう」ことを話した。皆さんは驚いた様子もなく聞いていたので、このことは事前に町内会長から話されたものと思う。料理はまあまあの味であり、量もちょうど良かった。それでも酒を呑んだので、ご飯は食べなかった。食事のあと9時から中国雑技団の踊りがロビーで行われた。まだ20代ぐらいの3人の女性であったが、しなやかな体と踊りは訓練の厳しさを感じさせたが、表情は明るかった。30分ほどの演技であったが、お客は私共だけであり、最前列その踊りを堪能した。

先輩の葬儀にて

2013-01-29 22:09:23 | Weblog
 鉄道OB会の先輩の葬儀に参列した。私は支部長として会員の葬儀で、遺族が望むなら弔辞を行うことに決めている。望む全ての人には出来ないが、私に時間があればそのようにしようと思っている。OB会はボランティア活動であり、OB会が行う行事に参加出来る元気な人のみの為でなく、OB会に入っている全ての人のためにある会にしたいとの思う。特に体調を崩している人や、病院に入っている人にも喜ばれるOB会にしたい。そして亡くなった時は、その功績を讃え弔辞等を話すことが良いと考えている。しかし中には、そのようなことをする必要がないという人もいるが、私は極力続けるつもりだ。

 午後1時からの葬儀は大谷のTA寺で行われた。この故〇〇〇〇さんは、国鉄の貨物関係の業務にいた方で、私より10歳ほど先輩である。それ故彼の業績は知る由もなかった。そこで、遺族に会って話を聞いたり、彼を良く知る人に聞いたりしたが、生前のことは中々はっきりしたことは分らなかった。それでも何とか纏めた。しかし彼は6男と聞いたが、何人きょうだいなのかとか、昨年10月に病院に入り、そのまま今年の1月25日に帰らぬ人になったが、その直近の健康状態が分らないまま弔辞を書いた。お寺で親族が集まったとき、そのことを聞いた。そこで分ったが書いてきた弔辞とは違っていた。そこを直して話すことにした。

 弔辞は最初に小学校の同級生の〇〇さんが行い、私は2番目であると聞いた。読経が終わり、最初に〇〇さんが友人として子供の時の話をリアルに話した。私は同級生の〇〇さんが故人の社会人になった後も話をすると、つじつまが合わなくなるのではないかと心配したが、それは触れなかった。ホッとしている暇もなく私が行う番がきた。そこで私は、故人は東静岡駅の貨物ヤードで長く勤めたこと、戦後の物資の輸送の安全に尽力したこと、それに国鉄の貨物輸送は戦後国内輸送の60%以上を占めて、貨物ヤードでそれを仕分けるのは危険と隣り合わせなこと、その業務を一つのミスもなく完遂させたこと等を話した。

 享年84歳となると、彼を知っている人の高齢となり彼のことを正しく話してくれる人は少なかった。それでも何とか弔辞に纏めることが出来たのでよかった。終わったあと施主を務めたご遺族(長男)がきて「良い弔辞をありがとうございました」と言った。この葬儀には鉄道OBの方も5人ほど見えていたが、鉄道OB会が会員の弔辞をしてくれることはありがたいと誰もが言った。私も苦労した甲斐があった。

KOさんの訪問

2013-01-28 19:47:17 | Weblog
 正午前に、歯医者から帰ってきて、家に入ろうとしているとき、妻からKO(女性)さんという方から電話が入っていることを聞いた。出ると「KOですが、ご無沙汰しています。午後に訪問したいのですがいますか」こんな電話であった。咄嗟にKO(女性)さんて誰だろうと考えた。しばらくして思い出したが、それは20年ほど前に遡ったときの話からする。その頃私は新幹線職場で一緒に仕事をしたKO(主人)さんがいた。KOさんと私は年が同じぐらいで、馬が合いよく呑み意見も言い交した。その後2年ほどして、私は関連会社のN社に入ったし彼もMI社に入った。その後は互いに忙しいこともあって余り会うチャンスが無くなっていった。
 
 その彼がそれから5年ほどして私が勤めていたN社静岡支店に見えた。豪快さを持った彼であったが、その時は元気がなかった。話を聞くと「体調を崩して総合病院に行くと、癌で余命6ヶ月と言われた。それは運命として諦めるが、心残りは息子が高校を中退してぶらぶらしていることだ。何とか働かしたいが、N社で採ってもらえないか」こんな話であった。時季は4月か5月であったと思うが、私は社長に話し、臨時の入社試験をしてもらうことにした。息子さんは受験し、彼の実力で採用された。直ぐN社の静岡営業所に勤めることが出来た。その後彼は、夜間の工業高校も卒業した。仕事も彼に合っていて生き生きとして働いてくれた。私は良い子を取ったと喜んだ。父親のKOさんは翌年の秋だと思うが亡くなった。その葬儀には私も参加したが、息子さんが在籍する静岡営業所の先輩、同僚も多く集まった。因みにN社はJRの関連企業で新幹線の保守を主体にした企業である。

 その葬儀の時KOさんの奥さんに初めて会い、息子がN社に入ったことを何度も感謝された。それから5年ほどして私はN社を退職した。その時親しかった人達に退職の挨拶をハガキにして出した。それから8年の歳月が流れた。私も勤めていたJRやN社のことは遠くなり、近傍の忙しさに紛れた生活をしていた。そんな折KOさんの奥さんからの電話であった。

 奥さんは午後3時頃手土産の苺と封書を持ってやってきた。あがってもらい話すと「N社を辞めたとき、挨拶のハガキをいただきました。その時お礼の挨拶に行こうとしましたが、家庭内のことがあり、ついそのハガキを箪笥の引き出しに入れてしまいました。今年になって箪笥を整理している時ハガキが出てきて、まだお礼の挨拶をしてないことを知りました。失礼かと思いましたが、今日伺った次第です」この様な話であった。私も「息子さんの実力で入ったものですから、お礼のことなど忘れてください。会社でも喜んでいますから」こんな話をした。20分ほどして帰ったが、奥さんの律儀さに頭が下がった。私がしたことが厚意に取られ、8年も経っても見えてくれたことを私自身感謝した。

先輩の弔辞(案)

2013-01-27 22:51:26 | Weblog

 鉄道OBの〇〇さんが亡くなった。その弔辞の原稿を書いた。

 ≪故〇〇〇〇様のご霊前に、東海鉄道OB会を代表して謹んでお別れのことばを申し上げます。貴方は鉄道OB会員として、会の行事である囲碁、将棋等の指導や総会などに参加していただき会の発展に尽力していただきました。しかし最近はそうした行事に顔を見せなくなったので、どうしたのかと心配していましたが、お亡くなりになったとの訃報に接し大変驚き悲しんでいる次第です。

 貴方は私と年齢が10年ほど違い、貴方は貨物関係の仕事に従事し、私は施設関係の仕事であったことから一緒に仕事をすることはありませんでしたが、東静岡駅の貨物ヤードの中で、貨物の仕分け等行い、輸送の安全と貨物列車の組成のため努力されていたことは聞いています。戦後の荒廃した国土からの立ち上がるとき、国鉄の果たした役割は大きいものがありました。特に全国網が整った国鉄は旅客輸送より貨物輸送の役割は大きく、国内貨物輸送の60%を国鉄の貨物で行っていた時代でもありました。その中で東静岡の貨物ヤードは中核の貨物基地としてその存在が大きかったことを思います。この貨物ヤードの仕事は一つ間違えると重大事故に繋がる恐れがあるところであり、集中力を持って取り組み、一つのミスもおかせられません。それを貴方は成就させました。しかしモータリゼーションの発達は貨物輸送に影響を及ぼし、困難を極めた時代も通りましたが、その苦労が実り、現在のJRに果実となって引き継がれていると考えます。

 国鉄の貨物輸送一筋に生きた貴方は、昭和5年6月1日静岡市高松浜敷地で10人きょうだいの6男として生まれました。高等小学校を卒業し、昭和20年国鉄に入り、清水駅で連結手として採用されました。その頃は太平洋戦争も敗戦が色濃くなってきて、静岡、清水と本土空襲が行われている頃でありました。こうした中にあっても国鉄の輸送は停まることなく正確に運行されました。終戦を迎えてからは物資の輸送の要として貨物輸送は国鉄の花形と言われた時代でした。そこに従事した貴方は一生懸命に頑張りました。そして昭和30年2月奥さんの初枝さんと結婚し、3人のお子さんにも恵まれ、充実した家庭生活を送って来ました。昭和52年には現在の大谷の地に家を建て安住の地にしました。昭和62年国鉄を定年退職しましたが、貴方の有能な働きを見て、請われて静岡駅のパルシェに再就職され、平成8年まで勤めました。

 その後は自分の趣味である囲碁、将棋をしながら、また町内や老人会の旅行を楽しみに余生を過ごしていました。軽い病気はありましたが、不自由なこともなく過ごしてきましたが、2年ほど前から体調を崩し、昨年10月済生会病院に入院し、帰らぬ人になりました。几帳面で皆さんから慕われ、信望が厚かった貴方は国鉄にとっても貴重な人でした。貴方が築いた国鉄魂は現在のJRに引継がれ、安定した輸送が保たれています。これからはゆっくり休んでください。そして天国から家族の皆さんと、鉄道の行く末を見守ってください。〇〇〇〇様いろいろありがとうございました。さようなら≫        平成25年1月29日       東海鉄道OB会静岡支部長 〇〇〇〇


大谷のショートコース

2013-01-25 23:04:19 | Weblog
 寒波の到来で今にも雪が舞いそうな天気となった。その上風も強くとてもゴルフをやるような日ではない。しかし鉄道OB会のゴルフコンペが大谷のショートホールで行われた。集合は午前9時であり、8時30分には自動車で家を出た。このコンペ「のぞみ会」は隔月ごとに行っており、寒い1月は、近場のショートコースで行うことが前回のコンペで決めた。私は今まで幹事であったが、今回から若いSIさんとTUさんにお願いした。いつもこの時期の出席者は少なく前年は確か8名であった。ゴルフ場に着いて、幹事に聞くと今日は4名だけであると言われた。昨日までは6名参加となっていたが、今朝2名がキャンセルしたと聞いた。やはりこの寒さと強風では高齢者にはきついと思った。

 集まった4人は幹事の2名と90歳になるNAさんと私である。少しさみしいコンペとなったが一組だけでスタートした。私は2ケ月ほどクラブを振っていない上に、練習もなく直ぐティーグランドに立った。右がOBとなので、それだけは避けたいと左に打った。当りも悪かったが、何とかラフに打込んだ。その上アプローチを失敗し、ダブルボギーのスタートとなった。しかし2番は感じが掴めたのか、ワンオンしパーで収めた。3番はティショットがピンに絡みバディーを取った。このコースで唯一ミドルコースの7番はロングパットが入りここでもバディーとなった。それ以外はパーかボギーで纏めて、6オーバーの34のスコアーであった。

 後半に入ると風花が舞い、時おり突風が吹く最悪の天気となった。私以外の3人もスコアーは乱れた。私より上手いSIさんもOBを出したり、池に落としたりと散々な出来であった。90才のNAさんが疲労で倒れないかと心配であったが、何とか最後までプレーできた。やっと18番が終わってみんなホットした。スコアーを集計するとそれでも私が一番良かった。トータルで74であった。他の3人は78、83、86と比較できないほどの悪さであった。この風と寒さでは已む負えないスコアーと云える。因みに今までの私のスコアーは60~63ぐらいである。

 今日はクラブハウスの食堂が休みであったので、東名高速道路わきのKI食堂に行った。ここで食事をしながら反省会と次回のコンペを決めた。このコンペも若い人が入ってこないので、参加者が少なくなってきている。その上、今日のような悪コンデッションではしょうがないが、次回は桜の咲く時期に行い4組のコンペが出来るようしたい。実施日は4月3日(水)と決め、場所は富士見ヶ丘カントリー倶楽部に決めた。やはりマンネリを打破するため、工夫した内容にすることを考えることにした。夕方はホテルアソシアで新年会を計画しているが、8人ほどが集まることになっている。

ピアノ教室で

2013-01-24 21:42:54 | Weblog
 今日は月2回あるピアノ教室の日である。最近あまり練習していなかったし、2回ほど休んだ。そこで午前中2時間ほど、習っているのは「平城山」を練習した。この曲は既に10カ月ほど引いているが上手く弾けない。余りに上達しないので、今までに習った「愛の喜び」「千の風になって」「宵待草」「ノクターン」といった曲を弾きながら、合わせて「平城山」を弾くようにしている。他の曲は譜面を見ないで弾けるし、まあまあの出来だと思っているが「平城山」はぎこちない弾き方で誰にも聞いてほしくない心境である。それでも午前中に5回ほど、午後レッスンに行く前に2回弾いた。しかし上達したとは思えなかった。

 前回のレッスンは1月10日であったが、鉄道OB会の初詣にバスで長野善光寺に行っていたので休んだ。それに12月のレッスンも休んでいるので1ケ月以上受けていない。レッスンは午後6時からであり、自転車で犬の散歩を兼ね出かけた。着いたのは6時少し過ぎていたが前の人がまだ受けていた。その方は大人の女性であったが、私より難しい曲を真剣に練習していて、時間が来ていることが分らなかったようだ。気が付いて止めたがそれだけ集中してできることに感心した。私が始めようとすると先生から、A-41枚の資料を渡された。そこにはピアノ発表会を4月14日(日)にあざれあ大ホールで行うことが書かれていた。そして4月6日(土)に会場リハーサルを行うことも伝えられた。

 今までに3回発表会を行ったが、練習していた時と変わらない演奏が出来たことは一度もなかった。上がってしまうのか指が動かなくなり閊えるとその後のキーが分らなくなった。今度の発表会で、2ケ月半ほどあるので練習に集中しようと思う。先生に促されて「平城山」を弾いた。自己流であるが、閊えながら最後まで弾き切った。その後も指の運びが悪いところなど何度か練習した。そして言った「メロディーを必ず暗譜で弾けるようにしなさい。途中で閊えても、メロディーを暗譜していれば止まることはありませんから、そして強弱をはっきり弾いてください。それを頭に入れ練習しなさい」

 それ以外にも幾つか指導されたが「まずは暗譜で弾けるようになってからにしましょう。そしてメトロノームを使うようにしなさい」と言われた。このことはよく言われることであるが、メトロノームを使うと、それに合わせようとするのか指が動かなくなり、弾いているのとに苦痛を感ずる。そんなことは言い訳だと先生は思っているのかもしれないが、私に強くは言わない。やはりメトロノームを使わないと上手くはならないのかもしれない。そこし集中しよう。

静岡市の自慢

2013-01-22 23:25:19 | Weblog
鉄道OB会本部より、地域の自慢とか、誇りにしていることを会報誌に掲載するので投稿するよう要請があった。字数は500~600字程度で纏め写真普通サイズ2枚を添付することとなっていた。そこで、文案を考えた。

 ≪静岡市は、東京と名古屋の中間部にある中核地方都市として72万の人口を有している。平成〇〇年政令指定都市になり発展が期待される街となっている。この静岡は歴史的旧所名跡は多いが、その中でも徳川家康が残した痕跡は多い。家康は将軍職を秀忠に譲り、駿府に移り住んで、3重の堀を廻らせ、5層7階の勇壮な天守閣を配置した城を築城させた。その天守閣は、寛永12年(1635)の火災で焼失しないが、その遺構は今は駿府公園として市民の憩いの場となっている。

 また久能山東照宮は、静岡市駿河区根古屋に所在する神社で、徳川家康が元和2年(1616)に死去し後、その遺骸は遺命によりこの地に埋葬された。その地に2代将軍・秀忠によって久能山東照宮の社殿が造営されたものである。日光東照宮はその後幕府の威光のため造営されたが、久能山東照宮がもとといえる。平成22年(2010)12月に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された。平成27年には鎮座400年を迎えるため、様々な催し物が企画、開催されることになっている。

 こうした歴史的名跡のほか、毎年11月初旬に行われる日本最大の大道芸イベント「大道芸ワールドカップIN静岡」がある。1992年に始まった市民参加型イベントで、静岡市を代表する催しとなってきた。日本国内で活躍する大道芸人はもとより、海外で活躍する様々な分野のストリートパフォーマーを多数招聘し、大道芸の祭典という枠を超え、パフォーミングアートの祭典になっている。近年では国内のみならず海外のパフォーマンスフェスティバル主催者などからの視察が数多く訪れており、静岡に出場したアーティストが他のイベントに招聘されるというケースも増えている。因みに平成24年は11月1~4日に行われたが大道芸ワールドカップIN静岡では3日目に62万人の人出があり、4日間では154万人が参加があった。≫

 静岡市を代表するものとして、建造物として初めて国宝になった久能山東照宮のことと、20年ほどの間に市民参加のイベントとして年々盛んになって来た「大道芸ワールドカップIN静岡」の2つを示し、静岡市の自慢とする。

作品展示会の準備

2013-01-21 17:30:39 | Weblog
 1月23日のOB会の1月定例部会がある。この席で4月に行う「OB会員の趣味の作品展」の会場レイアウトとスケジュールを話すことになっている。あと3ケ月後であるが、私には短く感ずる。この作品展出品の募集は行っているところであるが、まだ浸透しているとは言い難くこれから力を入れて行こうと思う。そこで1月の定例部会で作品展応募の現状把握と会場となるホテル・アソシアの「カトレアの間」の見取り図をもとに、レイアウトを示すことにしている。このことで昨日アソシアに行く予定であったが、電話すると「会場は結婚式が行われていて入ることが出来ない。21日10時頃なら部屋も空いているので、ご案内できます」とのことであった。

 既に送って貰ってある、「カトレアの間」の平面図をもとに、概ねのレイアウトを作製して、午前10時にアソシアに向かった。2階の催事受付に行くと、昨日話したAEさんが来てくれ、4階の「カトレアの間」に案内してくれた。エレベーターを降りると部屋の前の扉が閉まっていて入ることが出来なかった。それによるとこの時間防災訓練実施中であるので少し待つように言われた。AEさんは事務所と連絡を取り、やっと中へ入ることが出来た。昨夜想像して書いたレイアウトをもとに確認したが、天井の高さ、衝立の高さ等違いがあったが、見て正確に確認できた。その時HA支配人が来て、AEさんに変わって詳細のアドバイスをしてくれた。

 彼は「作品は決まりましたか」と展示作品が決まったか聞いた。今から集める心算であり「まだ全てを把握していませんが、少しずつ集まっていると聞いています」こんな応えをした。彼は『作品の量が多かったら、隣りの「コスモスの部屋」も開けておきますからお使いください』と言ってくれた。「出来たらそれも使わせてください」と言ったが料金が高くなることもあるのでそれ以上は話さなかった。しかし彼は以前「ホテル・アソシアはJR東海の関連会社であり、OBの皆さんには便宜を図りますよ」と話した。OB会総会と展示会をここで開催するようにしたこと、そして空いている月曜日にしたのも彼と話し決めたので、分っていてくれていると思う。

 JR東海の退職者の私は、関連企業も含めて発展していくことを願っている。しかしホテル業界は競争が激しいことも分る。駅のすぐ脇という立地条件は良くても、同業他社は近くに集まっている。如何に集客できるか彼は日夜奔走していると思う。こうした関連会社を何とか応援したいと思っている。一階に降りると、ソファーに腰掛け何人かの人が話していた。フロントでも忙しく電話応対をしていた。こうした光景を見るとホッとする。 

臨時町内役員会から

2013-01-19 23:13:55 | Weblog
 朝9時ごろ町内副会長のHA氏から電話があった。「緊急ですが夕方7時から役員会を行いたい。内容は、某人の後援会のこと、公園の管理のこと、2月23、24日に行う趣味の作品展のこと等相談したい」こんな話しであった。私は1月23日に行うOBの定例会の準備等いろいろやることがあったが、断るだけの理由はなかったので出席することにした。昼間は「駿河TBG」の大会があった。持ち回りの幹事が準備するもので第4四半期は私であり出席した。午後から始まる大会であるが、11時50分に有度山スポーツセンターに向かった。都合の悪い人もいて11人が集まった。結果は4位とまあまあの成績であった。

 家に帰ったのは午後4時前であったが、朝やっていなかった犬の散歩に直ぐ出かけた。帰って来ると疲れていたのか、椅子に座って2時間近く仮眠してしまった。気が付く午後6時30分ごろであった。夕食を済ませ臨時の町内役員会が開かれるSA副会長の家に向かった。今日は町内会長が旅行で留守であったが、HA氏が代行して臨時の町内役員会を行った。今日緊急に集まった大きな理由は、3月に行う市議会議員選挙の「某議員の後援会」のことだった。町内には、公園設置したいとの意見もあって、その仲介を某議員に頼んだ。結果として公園の仮設置は認められ、本設置は2年後になるとの約束がされた。これは某議員の尽力によるものと思う。

 そうしたことからHA氏は役員に彼の後援会に入ることを提案、その主旨の説明があった。選挙前の後援会活動は議員の基本であると思うが、私はこれに組することに疑問を感じている。しかし役員会の席では、反対の意見も言わなかったし後援会入所の手紙も受け取った。しかし某議員の素性、人間性、能力も知らない。公園仮設置以外、具体的活動も聞いていないし、その上この地区は彼が地盤とする地区とも違う。その人の後援会に前のめりに入ることや、地域住民にお願いすることができないと考えた。外面的には出来ても、自分の意思を曲げて行うことはできない。しかしこの考えは何処か後ろめたさも感じた。

 それ以外「仮公園設備等の要求」を無償貸し付けしてくれたTO社に行うことや、「趣味の作品展」の進め方等話があった。もう準備の日程等具体的案が出なければならない時期であるが、それがなかった。町内会長が不在のため、帰ってきてから詰めることにした。この展示会は町内で始めて行うことであり、町内活性化のため何とか成功させたい。