Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

「歓喜の歌」練習に初参加

2016-08-29 21:20:35 | Weblog

 今日は昼間は、別の用で島田、焼津などへ行き疲れていたが、夕方7時から行う「歓喜の歌大演奏会」の練習には、何としても参加しようと思った。この練習は6月から始まっているが、私は8月7日(日)のグランシップ会場の真夏の音楽祭「音楽の広場」に集中してきた。これが終わったら参加する予定でいた。この約2か月半は皆さんには迷惑をかけていたので何としても出席することにした。

 台風10号の影響か、雨が少し降っていたが国道150号線を走って会場の清水マリナートに着いたのは夕方6時50分ごろであった。受付で今日初めて参加したことを話すと、係員が数曲の楽譜を渡してくれた。それらの曲に中には初めての曲もあったが日本の曲であり、今から集中して行えば何とかなるだろうと思った。最初の1時間は男女別々にレッスンを受けるため男性用のレッスン会場に入った。ここには既に70名近い人が座っていて、指揮者の河村先生が笑顔で迎えてくれた。私には「よく来てくれたね。一緒に頑張りましょう」と云った笑顔に見えた。しかし私は緊張していて、しっかりした挨拶ができなかったような気がした。

 周りには昨年一緒に歌った人がたくさん見えていた。また「音楽の広場」でも一緒であったMAさんもいた。彼は「音楽の広場」で一緒に練習を始めたが、ある時期から来なくなった。気になっていたが、彼と同じ合唱団にいる人から「救急車で病院に運ばれ入院した」ことは聞いた。その後「音楽の広場」には出てこなかった。今回元気な姿で会えたことに、本当によかったと思った。また久しぶりに河村先生の丁寧な教え方に接し、今年も「歓喜の歌大演奏会」を成功させたいとの思いを強くした。発声練習のあと「大地讃頌」を練習した。この歌は以前習ったことがあったが、混声4部合唱曲に編曲されていて、一部音程が合わないところがあり躊躇した部分もあったが、気持ちよく入れた。次に「いのちの歌」を練習した。この曲は初めてであったが皆さんの声に合わせ小さな声で歌った。

 べートゥーベン作曲「歓喜の歌」は何度も歌ってきた曲であり、約8か月のブランクは感じさせなく歌うことができた。後半の一時間は女性も入り混声合唱として、今までの3曲を山田先生の指揮で練習した。何度か指摘され歌っていくと自然と曲が頭に入ってくる感じであった。これから練習に参加するなら皆さんに追いつくことができるような気がした。女性は男性の倍近い人がいて声量に圧倒されたが男性の新人も何人かいたので、本番までにはバランスの良い混声合唱ができるのでないかと感じた。   8月28日のことを記す。


愛犬を回想する(4)完

2016-08-28 22:31:38 | Weblog

 「モモ」の身体機能の衰えを感じたのは目が悪くなったのが最初であった。それは徐々に進行しているようで、障害物に当たったり、与えた食事器に足を入れひっくり返したり、灌木の中から出れなくなったことがあった。この頃から首輪を外し庭で自由にすることが出来るようにした。平成28年に入ると、嗅覚や耳も悪くなってきたことが分かった。また動かないで犬小屋で横になっていることが多くなった。しかし歩くことは支障もなかったので、朝起きて私に散歩に行くことを急かした。しかし最初は早く歩くが、50mほどで、それ以降は急に速度が遅くなり、時々止まるようになった。こうしたことも1ヶ月ほど過ぎると散歩に行かなくなった。

 この頃から食欲が少なくなり与えた食事を残すようになり、また庭の隅で動かなくなっていることが多くなった。しかし苦しんでいることはなかったので動物病院には連れて行かなかった。そして何か良い方法はないかと、ネットで調べた。そこに「甲斐犬は最近まで野生犬であり、野山で鹿やイノシシを群れで襲い食べていたので、そうした肉を主成分にした餌を与えると弱った犬でも元気になることがある」と記されていて、その餌がネット上で売っていた。それと「犬も動物性タンパクより、魚のタンパク質の方が油が溶けやすいので魚肉がよい」と記されていた。その餌を買うとともに、今までやったことがなかった魚肉ソーセージも与えることにした。

 それを与え一ヶ月ほどすると、少し元気が出て食欲も出てきた。しかし食べる量は、以前より少なくなった。そこで朝と夕方二回に分け、おかゆ状にして与えた。それまでは15歳の誕生日まで生きられるかと心配したが、この状態を見て、まだ大丈夫ではないかと思った。しかし、体力の衰えは日に日に進んで行き、同じところをぐるぐる回ったり、いろいろ教えた躾けも守らなくなった。それと吠えることを忘れてしまったかのようにおとなしくなっていった。それでも朝雨戸をあけると、よく見えない眼をこちらに向け微かに尾を振り近寄ってきた。

 こんな日が続いたが、7月には入り暑くなると、呼吸を荒くして日陰のタイルの上で横になっていることが多くなった。以前は、庭の隅へ行ってしていたウンコも、ところかまわずするようになった。しかし形になっていたが、8月に入ると柔らかくなっていった。しかしまだ食欲はあり、歩いて食べに来ていた。しかし8月17日与えた朝食は、半分ほど残してしまった。それも午後2時ごろ全部吐いてしまった。これは今までに見たことがないほど弱った姿であった。この日の夕食も食べなかった。横になり呼吸は荒くしていたので玄関のタイルの上に段ボールを敷き寝かせた。夜11時ごろ見たが同じ状態であった。そして8月18日朝5時に起きて見たときには息をしていなかった。その顔は苦しんだ様子はなく穏やかであった。≫


愛犬を回想する(3)

2016-08-27 22:19:12 | Weblog

 「モモ」の食事は夕方一回だけであった。それも概ね人間が食べ残したご飯と犬専用の缶詰を混ぜて与えていた。毎年動物病院には定期検診で行っていたが体重は13㎏ぐらいでずっと変わらなかった。ただ血液検査の、GPT(肝機能)の値は、子犬のときからやや高めであったが特に悪いことは言われなかった。それでも肝臓に負担がかからないよう、ウコンなどを食事に混ぜて与えるようにしていた。この間体調が特に悪くなることは平成28年1月ごろまでなかった。

 13歳の夏ぐらいまでは、散歩していても疲れて遅くなることはなかったが、その頃から、少し長い距離を散歩すると疲れるのか私より遅くなることがあった。しかし、その後の回復力は早くすぐ元気になった。犬の寿命は13歳から15歳と云われていることから、これも普通のことだと思った。しかし「モモ」はもっと長生きする犬だと思っていた。その頃の定期検診でも特に悪いところはなく、獣医師からも褒められていた。確かに身体は柔らかく骨格がしっかりしていて、7~8歳のころ散歩しているとき、知らない人から「恰好のいい甲斐犬ですね。品評会に出したらどうですか」と云われたことがあった。世辞と思い全然その気はなかったが、知らない人から言われたことは嬉しかった。

 また三島の弟は毎年彼岸とか正月に家族で見えるが、生まれて3週間ほどを育ててくれたことを忘れないで、身体全体を使って喜んでいた。「モモ」は頭が良く、恩を忘れない犬だと思った。また2年前に母が亡くなり、我が家で通夜を行ったが、いつもは人が来た時は、吠え誰かが来たことを教えてくれたが、通夜のときは人が来ても一切吠えることはなかった。多分、いつもと違った空気を察し静かにしているように思えた。また最近庭に隅を畑にし、野菜など作るようにしているが、まだ苗が小さいとき、モモが踏み倒さないよう、ロープを周りに張るようにした。最初は入って苗を2度ほど駄目にしたが、入ることはいけないことと諭すと、それ以降は近づいても入ることは無くなった。

 暑い夏、「モモ」は木の陰に穴を掘り、身体を冷やし涼をとることをする。これにより、低木の根を掘り枯れそうになったり、コンクリの基礎を出してしまったことがあった。庭のあちこちで穴ができ、それを均すのが私の作業となっていたが、14歳の夏も同様の穴掘りをして過ごしていた。しかしこの頃になるとよく目ヤニが出ることが多くなった。しかし、動物病院に行くほどのことではないと考え人間が使う目薬を差してやった。それが良かったのか目ヤニは止まったが、人間でいう白内障のような症状が出てきた。

 


愛犬を回想する(2)

2016-08-27 20:25:06 | Weblog

 獣医師は「さくら」の病名をはっきり言わなかったが、腸閉そくではなかったかと思っている。「さくら」が死んだことで、「モモ」に何か影響が出るものと思ったが外見上からは特に変わったところはなかった。しかし頼りにしていた「さくら」がいなくなったことからか緩慢さは影を潜め、しっかりした犬になっていった。丁度「モモ」が4歳のころ私は会社を退職し自由になった。この頃から犬の散歩は朝夕の2回行うことにした。私の健康管理も兼ね朝は約10km夕方は3kmほどの歩いた。「モモ」も段々たくましく変わっていった。

 その後、散歩の距離は朝夕で7kmほどになったが、出かけるときの喜びは、からだ全体を使って表しリードを力強く引っ張っていった。一般的に甲斐犬は、気性の激しい犬と云われているが、「モモ」はそうした激しさは、まず表したことはなかった。散歩中、別の飼い犬に会うことがあるが、大体の犬には尾っぽを振って親しく接していた。しかし相手の犬が高圧的に出てくると、本来持っている激しい気性を出すこともあった。また近所の人にも親しみをもって接するため、皆さんから可愛がられた。

 しかし、成犬となった「モモ」は、散歩中2匹の雄犬が好きになったようだ。一匹は、我が家から西に500mほどのところにいる甲斐犬の雄で、もう一匹は、東南に400mほどのところに飼われているやや大型の犬であった。この犬に恋心を持ったのか、その家の近くになると、リードを引っ張って犬に会いに行くよう急かすようになった。その犬が出てこないときなどクンクンと優しい声を出して呼ぶこともあった。それ故散歩は、この2匹がいるコースが定番となった。また、犬には発情期あり、その頃になると外に出たがり、私の不注意で2回ほど脱走したことがあった。家族で捜したが見つからず2日ほど経ってあと、朝庭を見ると犬小屋の奥で小さくなっている姿を見た。その表情は、私を上目づかいに見て許しをこうているような姿であった。

 「モモ」は基本的に大人しい犬で皆さんから可愛がられた。毎朝6時30分から始まる登呂遺跡広場でのラジオ体操には散歩も兼ね「モモ」を連れて行った。私が体操している間は、木の幹の繋いでおいた。この間おとなしく待っている姿が可愛いのか、体操する人の中に、かわいがってくれる人がいた。ご夫妻で来ていた方で、その奥さんが毎回「モモ」を撫ぜてくれる。モモも尾っぽを振って応えていた。その人がいるだけで喜びを身体いっぱいで表現した。体操が終わってから登呂遺跡外周を2周して帰るのがコースになっていった。


愛犬を回想する(1)

2016-08-26 21:43:41 | Weblog

 我が家の愛犬(モモ)が死んで一週間が過ぎた。庭に出るたび迎えてくれたモモの姿は今はない。必要なくなった食器や水飲み器が乾いた状態で犬小屋のところにある。まだ片付けられない気持ちだが、忘れ去らないうちに回想することにする。

 ≪三島の弟が2匹の子犬を連れて来たのは平成13年5月25日であった。弟が飼っているつがいの甲斐犬が生んだ4匹の子犬の内の2匹であった。犬の名前は「モモ」と「さくら」と云い既に付けられていた。可愛いいメスの子犬であったが、この2匹は性格も違っていた。「モモ」は「さくら」に比べ大きかったが、優しいところがあり、動きはどこか緩慢であった。それに比べ「さくら」は、わがままなところがあったが、敏捷で躾けるに苦労した。この2匹は、よくじゃれ合っていたが、小さい「さくら」の方が攻撃的で「モモ」はいつもやられていた。それでも仲が良く2匹がくっついて寝ている姿は可愛かった。

 しかし成犬になって、子供が出来たら困ると思い、3ヶ月ほど経ったとき2匹とも掻把するため動物病院に連れて行った。一日預け迎えに行くと、2匹は私を見て喜んだが、手術の跡が痛々しい形で残っていた。その傷も10日ほどでよくなり、以前と変わらない元気な姿に戻った。その後は小屋にいても散歩するときもいつも一緒であった。 この2匹は、以前飼っていた甲斐犬が住んだ犬小屋に入れて育てた。小屋の周りには1.2mほどの鉄格子柵を作り、その中で放し飼いするようにしていた。

 前に飼った甲斐犬(五郎)は5~6歳の成犬になってから、柵を飛び越えて外に出ることはあったが、子犬であり2匹は大丈夫だろうと思った。しかし3~4ヶ月ほど経つと「さくら」は柵をよじ登って外に出るようになった。緩慢な「モモ」は中々よじ登ることはできないでいた。その状態は1年ほど経っても同じであった。「さくら」はよじ登り庭を走り回っていたが、それを羨ましそうに見ていた。あるとき庭に2匹がいたが、「モモ」の方は片足を着くことができない。病院に連れて行くと後足の指を骨折していた。柵を飛び越えたとき、後足が引っ掛かり骨折したものであった。ギブスをつけて過ごすのが20日ほど続いた。

 その後も遊ぶ時は「さくら」が先に進み後から「モモ」が付いていくことが常であった。しかし番犬として吠えるのは「モモ」であり「さくら」誰が来てもお構いなく見ているだけであった。毎朝の散歩のときは、「さくら」が前を歩き「モモ」は付いていくことが常であった。3年ほど経ったある日、東名高速度道路脇の緑地公園で2匹を長いリードをつけ遊ばせていたが、いつも元気な「さくら」が動きが悪く。後ろから見ると、お腹が扁平に膨らんでいることが分かった。すぐ動物病院に連れて行きレントゲンを撮ると、腸の一か所に小さな砂利のような詰まっていた。医師は「手術して取れば治ると思います」と云い、一日病院に預けることにした。しかし手術したが、そのまま縫い合わせたと聞いた。それは不治の病気でそれを取っても駄目とのことを言った。それから一ヶ月ほどして「さくら」は死んだ。


留学生に会って

2016-08-24 21:19:12 | Weblog

 菩提寺の大祭は8月24日である。小さなお寺のお祭りであり近くの人しか知らないと思う。この日は同宗の僧侶たちが本堂に集まり大般若経の経典を会読する。三蔵法師がインドから持参したと云われる膨大な経典を短時間で読経するのは無理で、僧侶たちが経典を扇状に広げ「スラスラ、スラスラ」と云いながら読んだことにしていた。しかし、その声は四方に響き渡り、聴いているだけで仏教の世界に引き込まれるような感覚になる。この法要は午後5時から1時間ほどのものであるが多くに檀家が出席した。

 この日は、夜店が出るし、花火も打ち上げられる。また境内には仮設の舞台も作られ近隣の芸能愛好者がカラオケや踊りなど行う。地域とお寺が一体になったお祭り日となっている。また舞台では特別ゲストが呼ばれ、今回は女性のシングソングライターのコンサートも開かれていた。それを目当てに若者の姿も多くなっているように感じた。座席も100席近く用意されていたが、始まると満席になった。法要に出席した人達の中にも、終わったとコンサートを聴いている人も何人かいた。

 私も、コンサートを聴くことにした。周りを見ると、浴衣姿の若者の姿に混じって、東南アジア系の若者も30人ほど座っていた。私の横にも一人が座った。まだ10代か20代の若者であったが、シングソングライターの歌を静かに聴いていた。この30人ほどのグループのことが気になっていた。そこで横に座っている若者に声をかけた。するとたどたどしい日本語で、インドネシアから日本語を学ぶために来ていること。まだ日本に来て2ヶ月ほどしかたっていなので日本語は上手く使えなかったが質問すると何とか答えようと一生懸命になっていた。分からないと周りのインドネシアの若者と相談して答えてくれた。年齢は20歳から23歳ぐらいの若者とのことであったが、私には10代後半の若者のような印象を持った。

 話して理解したことは、近くの宿泊施設に泊まり働きながら日本語を勉強している青年たちで、今日は、その息抜きに引率の先生のような人が連れてきたようであった。皆さん屈託のない笑いを浮かべていたが、今の日本の若者と比べて、服装等からはどこか貧しさが感じた。しかし日本での経験を活かしインドネシアに帰ったらそれを生かそうとする気持ちも感じた。私は早く帰ったが、その帰り際「しっかり勉強し頑張ってくださいね」と云うと、そのグループの何人かが振り向いて「ありがとうございます」といった。彼らの純真の気持ちが伝わってきた。

 


夏野菜を収穫して

2016-08-23 22:25:40 | Weblog

 いま庭の隅に植えた野菜の収穫期を迎えている。連作にならないよう植える場所を替え、キュウリ、ナス、オクラそれに赤目の里芋を植えたのは5月下旬であった。これらの野菜の内、里芋を除いて毎朝大きくなった野菜を収穫している。既に2週間ほど経つが未だ収穫できている。苗を植えたのは、キュウリは6本、ナスは4本、オクラは4本、赤目の里芋4個であったが、毎朝の水遣りを行い、追肥や土掛けも2回行ってきたし、雑草取りもやった。そして土が固まらないよう、スコップでほぐすのも2回行った。また実や葉に付く害虫駆除も行い、8月上旬ごろから収穫出来ている。

 以前の失敗から学んで、今年は肥料や、土の中の幼虫対策を施したり、土壌の酸性化を防ぐため石灰など事前に散布した。野菜は順調に育ってくれると思ったが、未だ素人であり、まだ反省することも多かった。その一つは、収穫間近になったころに、オクラの新芽にアブラムシのようなものが沢山付いて、新芽を食い荒らしていた。そこで汎用の薬剤を水で薄めて撒いた。その薬剤が実に影響しないよう散布したが、後で説明書を読むと薬剤は収穫の1週間前までに行うとあった。キュウリとナスは3日前までに散布を終わらせると書いてあった。私の不注意からであったが、その間に収穫したオクラ4個、キュウリ5本、ナス2個は取れたものの捨てざるを得なかった。これ以外にも小さな失敗は幾つかあったが収穫し始めると、毎朝両手で抱えるほどの収穫があった。

 既に10日間ほどは毎朝収穫でき我が家の食卓にも出ているが、まだ幾つかは冷蔵庫に溜まっている状態である。最初のころは、美味しく感じた野菜も、毎日となると何か別の料理方法はないかと思ったりもした。今日もキュウリ5本、ナス2本、オクラ2本が収穫できたが、どうも量がやや落ちてきた。それにキュウリなど、まっすぐなものが少なくなり、曲がったものが多くなったし、ナスやオクラも、実の成長が遅くなったように思う。葉の様子も虫食いの葉が多くなり、ミミズが這ったような模様も出てきた。そろそろ収穫の時期も終わるものと思う。

 これまでにキュウリ約60本、ナス約20個、オクラ25本ほど取れた。まだこれから各々10本ほどは収穫できそうである。このことは、今までの一本当たりの収穫量は1.5倍近くなった。この量は、農家の人が聞いたらそれでも少ないと云うかと思う。しかし私にとっては期待以上の収穫であった。実が曲がったり、キュウリなど頭と先端部の太さが倍近く違うものもあるが、これらは我が家で食べるには何の問題もない。そこで昨日と今朝取った野菜の内、曲がったものを除いて、近所の人に分けてやった。


「TBG」の老人パワー

2016-08-20 19:42:37 | Weblog

 「駿河TBG」は地域の有志が月3回行っているターゲット・バード・ゴルフの会である。このメンバーは60歳以上で現在18人が加盟している。私は丁度中間の年齢で私より高齢者は9人いる。どのような経緯で3回/月行うことが決まったのは分からないが第1、第4火曜日と第3土曜日に行うことになっている。第1火曜日は記録会、第3土曜日は月例会、第4火曜日はお楽しみ会と命名され、第3土曜日の月例会だけはハンディキャップ制で行うことになっている。今日(8月20日)は月例会の日である。

 天気予報では午前中は雨とのことで心配していたが朝になると風も穏やかな晴天となった。その上気温も上がり30度を超える真夏日となった。近所のENさんが車にYAさんと同乗し有度山総合スポーツ広場に行った。今日の参加者は15名であったが今日の月例会は景品も出るし皆さん真剣に取り組む。各々が練習した後、取り組みメンバーを抽選で決まり私は、ISさん、SAさん、TAさんの4人で回ることになった。このメンバーの中でISさんとSAさんはハンデ0で、私は2であった。

 この上手い2人を目標にプレーするなら上位に入るものと思った。しかしこの2人は外観上からは、私より劣っているように見える。体は小さいし、年齢も上であるが飛距離はSAさんの方が上であり、アプローチはISさんの方が上手い。TAさんは最近TBGを始めたばかりでスコアーはあまりよくないが最近めきめきと上達している。スタートするとこの中からSAさんがスコアーを伸ばしていった。彼もアプローチが上手いのは分かるが、私より非力なのにどうして私より飛ばすのかスイングを見ていた。ゆっくりしたバックスイングではあるが、球を打つ瞬間のインパクトは強くて早い。それをまねして打つが、そのことに気を使い方向が乱れ飛距離も出ない。

 またISさんのアプローチの上手いのに今回も驚かされた。球が10mぐらいの距離なら確実にホールに入れる。とてもスマートな打ち方とは言えないが、コントロール技術は素晴らしい。何度かまねてみたがいい結果は得られなかった。この2人の老人パワーは、奥義を窮めるとこのようになるのだと思った。私はただ若いTAさんに追い上げられることに気を使って回った。18ホールのトータルスコアーは、ISさんは55、SAさんは52、TAさんは64 私は58であった。これにハンデキャップを引いて順位が決まるが優勝は別の組で回ったOOさんで50であった。準優勝はSAさん、3位がISさんで私は5位であった。15人中5番目の成績であり、今日はまあまあの出来と云える。


愛犬の死

2016-08-18 22:40:21 | Weblog

 愛犬モモが今朝(8月18日)4時ごろ死んだ。悲しいことであるが諦めなければならない。今年1月ごろから体力の衰えが著しくなり、一時は食欲もなく冬を越せるかと思った。家族みんなで看病した甲斐もあって、3月ごろから少し持ち直してきた。しかし目や嗅覚などの身体機能は日に日に衰えていった。それでも弱い足取りで庭を歩いていたし前々日まで、ゆっくりではあるが食事も食べていた。昨日は朝食はおかゆに、好きな魚肉ソーセージを小さく刻んで入れると体を腹這にして食べていた。しかし正午過ぎ食べたものを全部吐いてしまった。これは初めてのことであったが、その後は一切食べ物は受け付けなかった。

 夕方6時ごろ、庭の敷石と砂利のところで腹這になっていたので玄関のタイルのところに移した。呼吸は静かにしていたが、反応はなかった。死が近づいていることが分かったが夜11時頃寝る前に見るも変わらない姿で呼吸していた。朝5時ごろ見に行くともう息はじていなかったが、身体はまだ温かく穏やかな顔をしていた。

 平成13年5月2日に三島の弟の家の甲斐犬の親から生まれた4匹の子犬のうち2匹が我が家の家族となった。2匹の名前は、さくらとモモと命名したのは姪の2人であった。一匹のさくらは敏捷な犬であったが3年ほどで死んだ。子犬の頃のモモはどちらかと云えば、緩慢でおとなしい犬であった。その犬が成長するにしたがい番犬らしくなっていった。近所の人からも可愛がられ、毎朝夕散歩に連れていくと、同じように犬を散歩している人から「いい犬ですね」と云われたリもした。ある人は「この甲斐犬は格好がいいので、品評会に出してみたら」などと云った。お世辞でも気持ちの良い思いをした。このモモが昨年の11月ごろまで一緒に散歩してきたが歩くのが遅くなり、距離も少なくなっていった。それでも毎朝私に散歩に連れて行くよう促していた。

 散歩に行かなくなってからは庭でリードも外し自由にさせておいた。しかし目が悪くなったのか灌木の中に入り出られなくなったことも何度かあった。その度泣いて助けてくれるよう促したが、それ以外では人が来ても声を出すことはなくなった。そして最後に声を出したのは昨日の午後4時ごろであった。2声ほどあったので見に行くと弱い足取りで歩いていた。今思うと、これは飼い主に対するお別れの挨拶であったのかと思った。死骸をシーツに包み段ボールの中に入れた。そこに好きなソーセージと菊の花を入れた。午前10時ごろ妻と藁科川沿いの産女にある動物愛護センターに持って行った。我が家に来て15年4ヶ月みんなに可愛がられ、家族を守ってくれた愛犬モモに感謝する。


T介護施設にて

2016-08-17 21:31:51 | Weblog

 台風7号は、関東地区に接近、そのまま北上している。静岡はこの台風の影響で夜半まで雨が降ったものの午前4時ごろには上がった。その後は雲一つない晴天の天気となった。台風によって湿った空気が流れ込み湿度は高く、気温も35度以上になっている。この夏一番暑い日になったのではないか。今日はT介護施設でボランティアを行う日である。昨夜は模造紙に書いた100ほどの歌詞の中から20曲ほどを選んだ。今日の午前中はそれらの曲にまつわるエピソードなど調べて過ごした。同じことの繰り返しであるがいつも新しい発見がある。

 午後1時20分に家を出てT介護施設に向かった。一階のホールは既に準備は整い介護利用者が数人ずつ介護士に付き添われて入ってきた。この施設は2階以上に介護利用者が生活していて、1台のエレベーターを使って一階へ下りてくる。40人ほどの人が移動するに20~25分ほどかかった。そして午後2時には、皆さんも席に着いた。毎月来ているので大部分の利用者は分かるが、今日は5~6人は新人の方のようで何が始まるのか緊張している様子が分かる。私も皆さんがリラックスするよう、くだけたトークから始めた。季節のことや、リオ・オリンピックで活躍している日本選手の話などであった。

 見渡すと利用者の家族(娘さん?)が3人来ていて、その親の横に座って聞いていた。最初は「ふるさと」「七つの子」「夕焼小焼」「叱られて」など皆さんがよく知っている歌から始めた。これらの歌は皆さん知っていて声を出して歌ってくれた。その歌にまつわる話などすると目を丸くして聞いてくれる人や、自分の子供のころを思い出して涙ぐむ人などがいた。そして「赤い靴」や「赤とんぼ」「見上げてごらん夜の星を」「母」「宵待草」など歌っていった。付き添いで来ていた家族の方も、横にいる母の手を握って歌ったり、写真などとっていた。多分この方たちは親を初めて介護施設に預けた方なのか最初は怪訝な顔をしていたが、段々分かってきたのか笑顔で歌ってくれていた。

 最後に「影を慕いて」を歌った。この歌は皆さん反応はよく大きな声で合唱してくれた。今回はトークなどの時間を多く費やしたので、歌ったのは13曲であったが喜んでもらえたのでないかと思った。この介護施設は規模も大きく、福利厚生も整っている。介護士等も明るく働いているが仕事は大変きつい。この人達を少しでも解放させること。そして家族と離れ施設に入っている人達が少しでも楽しんでもらうよう、この活動を続けていこうと考えている。