Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

北海道旅行に(3)

2016-09-30 23:43:02 | Weblog

 夜が明け、窓越しに外を見ると青空が広がっていた。しかし俯瞰してみる富良野の町は雲海の中にあり幻想的空間が広がっていた。この雲海も出発するころには消え、すがすがしい天気になっていた。今日の行程は美瑛:青い池を見てから、大雪山 旭岳姿見の池周辺を散策する。そして高速道路を通って札幌近くの北広島グラッセホテルに帰る行程である。バスは8時30分出発したが、今日はこの旅行のメインである旭岳散策の日である。晴天の青空のなか最初の観光地「青い池」に向かった。この池は十勝岳中腹を源とする硫黄沢川からアルミニウムを含んだ水が、美瑛川の水と混ざると発生する青さで、本来は砂防用にできた溜り池であったとのこと。しかし、池の青さが有名になり観光地化したものである。しかしこの青さも数日前までは台風の影響で、泥水となっていたようだが今は本来の青さに戻っていた。

 そこからバスで揺られ、ナナカマドの並木を通って旭岳ふもとのロープウエー乗り場に着いた。ここから101人乗りのロープウエーに乗り姿見駅に向かった。ここから見る紅葉は今が一番の見どころなのか、赤や黄色の紅葉が広がっていた。降りるとすぐ先が頂上のように思えたがこのツアーではそこまでは入っていなかった。着いたところは高低差100mほど登ったところの「姿見の池」までの散策を楽しんだ。約2km程ある高山植物が自生する山道を歩き「姿見の池」に出た。ここから頂上までは2時間ほどで行けると云った。しかしここからの展望でも旭岳が北海道の中心にそびえ島全体を形造っていることが分かる。いつか頂上に立ちたい願望にかられた。

 そのまま帰りのロープウエーに乗り旭川に入った。ここは北海道第2の都市で35万人を有する広い平野に思えたが、ここは北海道開拓の拠点で屯田兵が切り開いた土地である。彼らは過酷な状況の中でこの地に果てた人達のことを思った。ここから高速道路を通って札幌に出た。札幌ドームを視野に入れながらバスガイドの話を聞いた。『明治の初期北海道農学校に赴任したクラーク博士は約1年未満の赴任であったが、生徒達に大きな感銘を与えた。そしてアメリカに帰るとき室蘭港から船に乗るため馬車は札幌から北広島に入ったところで、クラークは生徒たちにここまでの見送りでよいので帰りなさいと促した。しかし生徒たちは室蘭港で見送ることを願った。クラークは生徒をさとしここで別れた。その時クラークの有名な言葉「boys be ambitious 大志を抱け」を言い残した』とのことであった。

 そんな話を聞いていると、今夜の宿北広島温泉のクラッセホテルに着いた。ここのホテルも山の上にあり20階ほどの高層ホテルであった。この5階の部屋に泊まった。部屋から眺めると、ゴルフ場が併設され広大な森林の中に建っていた。ここの浴場も薬草の匂いがするヌルヌルした湯質であった。


北海道旅行に(2)

2016-09-29 23:41:07 | Weblog

 29日朝6時に起きカーテンを開くと低い曇が広がっていて今にも雨が降りそうな天気であった。明るくなりホテルの全様が分かった。ここは斜面に建った4階建ての建物で林の中にあった。朝食を食べ朝8時30分出発のバスに乗り込んだ。今日は予定した銀泉台に行けないので然別湖遊覧と福原山荘散策、幾寅駅を見てから富良野に行くことになっている。然別湖は石狩山地にある小さな湖で噴火によって川がせき止められできた湖で、紅葉にはまだ少し早いようであった。2軒のホテルがあったが、その一軒で昼食を食べた。そこから30分ほどバスで走り、福山山荘に着いた。ここが何故観光地なのか分からなかったが、ここには人工池がありその周りにモミジが植えられていて紅葉がきれいなところと聞いた。ここを30分ほどかけて散策したが紅葉にはまだ早いようで、少し色付きかけた林の中を傘をさして歩いた。

 すぐバスに乗り込み狩勝峠に向かったが、ここは展望の良い景勝地と云われたところである。しかし雨で視界全然きかない雲の中であった。そのままバスに乗って、南富良野町に入った。この地帯は台風11号、10号、13号とトリプルの災害に見舞われ、空知川が氾濫、大きな被害が出ていた。道路に平行して走る根室本線は橋が流される等未だ復旧の目途さえ立っていない状態であった。ここには根室本線幾寅駅があり、そこに寄った。変哲のない小さな駅舎であるが、この駅は、映画「鉄道員(ぽっぽや)」の中では「幌舞駅」として登場する駅舎で主演の高倉健が駅長で、家族と暮らす厳しい姿が描かれた場所である。このホームに立っと映画のシーンで駅長が列車を見守る場面を思い出した。未だ不通となっていたが、人影も疎らなところであった。

 ここから、少し離れたところに倉本聰脚本の「北の国から」のドラマの舞台となった場所があった。美しい自然が広がる富良野市が全国に知れわたった所である。ここの小高い丘陵地の中腹に新富良野プリンスホテルが建っていた。ここが2日目の宿泊場所である。この敷地内は広く「北の宿から」をはじめとする富良野を舞台としたドラマグッズが販売されていたり、「二ングルテラス」というログハウスが点在していた。これは倉本聰の著書「二ングル」に登場する架空の小動物(身長15cmほど)の名前で、林の中に幾つかのハウスがあり、小道でつながっていた。日が落ち薄暗闇の中を歩いたが何とも幻想的空間であった。

 そのホテルの7階の部屋が今日の宿泊場所になっていた。そこから12階に上がったところが夕食場所であったが、混んでいて7時30分以降と云われ、1時間ほど待った。和食の店で、遠く富良野市の夜景を見ながら食べた料理はおいしかった。私はビールを飲み、妻は梅酒を飲んだ。少し飲み過ぎたように思えたが、この雰囲気はよかった。


北海道旅行に(1)

2016-09-28 23:40:19 | Weblog

 確か夫婦で初めて北海道を旅行したのは平成9年秋であった。それは寝台特急北斗星の乗っての旅行で、釧路湿原からサロマ湖の夕日がきれいだったことが記憶に残る。その帰り上川町からロープウエーで大雪山の黒岳に行ったが小雨が降っていて山は霧に包まれ何も見れなかった。また同じ山系の銀泉台の真っ赤に染まった紅葉を車から見たが、そこを歩けなかったことを妻は残念がっていた。今回は富士山静岡空港からのツアーは、大雪山最高峰の山 旭岳と銀泉台を散策することになっていて参加することにした。行程は3泊4日で、静岡空港から、千歳を経由女満別空港に行き、網走、銀泉台、富良野、大雪山旭岳に登り静岡に帰るコースであった。

 9月28日16時15分静岡空港発の便であり、昼間行われた町内公民館の敬老祝賀会に参加してから午後1時過ぎ家を出た。飛行機は20分遅れて出発いたが、女満別空港には20時30分近くになっていた。既に日が暮れ真暗な道をバスに揺られ最初の宿泊地北見温泉の宿に入ったのは夜9時30分ごろであった。このホテルは、網走に近い温泉地でスキーなどのリゾート施設の宿で、200人以上泊まれる大規模のホテルであるが温泉地のような賑わいは感じられなかった。ホテルの入るとすぐ遅い夕食を食べたが、料理は冷たくなっていてその上寒さもあって熱燗なしでは、食すことができなかった。9月下旬とは言え、北海道の夜は寒さが厳しいことを感じた。

 食後すぐ大浴場に行ったが、熱めの湯に温泉特有のヌルヌルした湯質は、冷え込んだ体には丁度良い湯加減であった。部屋は大きめで余裕のある造りになっていて2人で使うにはもったいないような広さであった。多分4~5人が泊まれる部屋なのかもしれない。夜だからわからなかったが、このホテルは温泉地から離れているのかネオンなどは見えず賑わいも感じられなかった。まだホテルの中も既に夜10時を過ぎていて泊り客は眠りについているのか静けさであった。飛行機が遅れたとは言え、ホテルに着いたのが夜の9時30分以降というのは今までで初めてのことであり、その上この寒さも予想できなかった。

 妻は「安いツアーだからしょうがない」と諦めていたが、それより明日の銀泉台のウオーキングが雨で中止になったことを残念がっていた。このことは出発前に添乗員から「先日の台風で道路がぬかるみ銀泉台へ行けない」と聞いていたが、まだ諦めきれない様子であった。それでも明日の天気が気になるようで何度もテレビの天気予報を見ていた。その予報も50%雨となっていた。そのまま寝たが、明日の天気が良くなることを願った。因みに今回のツアー参加者は25名で、夫婦ずれが8組、女性同士の参加者が9人であり、年齢も概ね60代から70代の方であった。


施設OBのゴルフコンペ

2016-09-26 21:44:37 | Weblog

 静岡地区の鉄道関係OBのゴルフコンペ名は、知っているだけで「つばめ会ゴルフコンペ、」「のぞみ会ゴルフコンペ」「施設OB会ゴルフコンペ」「輪友会ゴルフコンペ」などがある。各々は、現職時代が同系統であったり、地域の集まりだったりするが、気の合った仲間同士が和気藹々ゴルフを楽しんでいる。これらは概ね10人~15人程度のメンバーがいて、年に4~5回ゴルフを計画している。この内「施設OB会ゴルフコンペ」が9月26日掛川市家代の「よみうりCC」で行われた。

 このメンバーは現職時代、鉄道を保守する施設関係にいたOBで作っているゴルフコンペで、静岡県内在住の人が集まってくる。年4回開催され県東部1か所、中部2か所、西部1か所で行い、その地区のメンバーが持ち回りで幹事となり計画するようになっている。今回は西部のOさんが担当したことから、このゴルフ場が決まった。集合はAM9時とのことであり、7時に家を出た。掛川のインターに着いたのは8時ごろであったが、市内の入り組んだ道路は分かりにくく2度ほど通行人に聞きながらゴルフ場に着いたのは8時40分であった。

 今日のメンバーは10人と少なかったが3組に分かれスタートした。私は2組目の3人で行うことになった。このコンペは長い歴史があり、今回164回目で40年近く続いている。また今日の最年長者は私であった。既に先輩たちは体の不調などで参加できなかったが、時代の流れの速さを感じた。2組のメンバーは、63歳のSさんと60歳のT さんであった。彼らは各々新幹線と在来線の勤務が長く、私とは干支で一回り以上離れている。彼らは現在関連会社で働いている人であるが現職時代からよく知った仲間である。私達はレギュラーティーで打ちスタートした。第一打から飛距離が違っていて、彼らは50ヤードほど先に球があった。年齢の差が、このような形になって現れているのだと思った。そんな私を先輩として扱ってくれたが何か歯がゆい感じがした。今回のゴルフは大きな崩れもなく18ホールを終えた。スコアーは100であり、Sさんは88 Tさんは100であった。

 後半疲れたこともあったが、100と云うスコアーは、目標とするものではないが納得できるものであった。クラブハウスで簡単な打ち上げ会を行ったがハンデキャップもあり、私は三位の成績であった。次回は東部が幹事であり、11月中旬に行うことに決まった。疲労は極限状態であったが楽しいゴルフであった。帰りは焼津の駐車場に寄ったが雑草が繁茂していた。家に着いたのは夕方6時を回っていた。


義父母の墓参り

2016-09-24 22:50:20 | Weblog

 義母が他界して12年が経つ。この間何度かの法要や墓参りに行ったが最近はあまり行っていない。妻は、実家が豊田市であり墓参りや、用事でよく出かけていった。しかし、私は出不精なこともあり、最近はあまり行かなくなった。多分5年近くいっていないと思うが、今回秋の彼岸に合わせ墓参りに行くことにした。最近自動車を替えたばかりであり、車で行こうと思ったが妻は遠距離での運転は危ないからと新幹線で行くことを主張しそれに従うことにした。

 台風16号が温帯低気圧のなったものの、秋雨前線を刺激し雨が降ったりやんだりする生憎の天気となった。静岡を出るときは大雨であったが実家の最寄り駅(若林)に着くころには小雨になっていた。そこで弟夫妻に迎えられ自動車で、10kmほど離れた豊田市郊外の霊園に行った。ここは山を開拓整地した大規模霊園が造成されたところで、その一角に義父母が眠っている。丁度着いたときは、また強い雨が降り出し、敷地内の駐車場の自動車の中で雨宿りした。あいにくの日となったが今日はお彼岸の最後に日でもあり、何人かの人が来ていて通り雨が去るのを待っていた。20分ほどすると雨が上がり、西の空には雲の切れ間が出ていた。

 義父母の墓は、視界にこそ入らないが市街が見わたされ、その先に義弟夫妻が住む家がある方向である。4人でお墓を掃除し、新しい生花と線香を焚きお参りをした。つい先日のような気がしていた義母は12年前に亡くなり、義父も33年が過ぎた。両親がいるときは豊田に来てよく泊まったが、厳格な父と話すだけで緊張した。その父も仕事を辞め、これからは両親で楽しく過ごしてほしいと思っていた矢先のあっけない死であった。義母は、優しかったし妻の本当の理解者であった。その義母も91歳の長寿であったが、3ヶ月ほど入院して亡くなった。2人は、後に残る子供たちにあまり手を煩わせることなく静かに逝った。その両親はここに眠っている。

 私は、現職のころは名古屋で会議などあるときは、豊田に来て墓参りをしてから急いで会議に臨んだものであった。そうしたことは5~6度あったが、そうすることで気持ちが落ち着き、困難なことを前に進めることができたように思う。しかし年月が過ぎ、悪いこととは思いながら雑用を優先し行かなくなっていた。そうしたことを詫び、お墓を後にした。丁度妻の実家は、リニューアル中とのことであり寄ることはしないで市内のソバ屋で夕食を食べた。久しぶりの弟夫妻との会話を楽しみ、夕方6時ごろ豊田駅から帰路についた。


同級の友人と話す

2016-09-20 23:17:54 | Weblog

 Iは鉄道学園の同期である。彼は国鉄時代本社にいて、中枢的仕事をしていて同期の中では目立った存在であった。個性が強く、信念をもって切り開いていく突進力がある人間であった。それを私は地方局にあって彼の活躍を見ていた。それまでは同級会などで会う以外は話す機会はなかったが、民営分割後2人は同じJR東海に入ることになった。私は静岡で仕事をするようになり、彼は東京で新幹線の指令等の仕事をするようになった。この頃から仕事上からよく会うようになった。そして私が、新幹線を保守する会社(N)に出向すると彼は2年ほど経って同じ会社に入ってきた。彼は東京本社で、私は静岡支店の勤務であった。

 N社では互いに会社のため働き友情も深めた。そこを退職したのは同じ頃であったが、彼は横浜に居を構え、私は静岡で、のんびり自由気ままに過ごし10年近くが経った。その間も最初は年2回ぐらいは会っていたが、その後は年に一度か2年に一度程になったいった。これは互いに年を取り身体が動かなくなったこともあるが、3年ほど前に彼は奥さんを亡くし、その後は、淋しさもあってか、あまり外に出なくなった。そんな彼に私から電話して会うことにした。場所は今までと一緒の熱海駅前の喫茶店であった。

 午後3時に会うことに決め、2年ぶりに出かけた。時間の10分ほど前に喫茶店に入ると、彼は既に来ていて週刊誌を読んでいた。この2年の間に病気などしたことから心配していたが思ったより若々しく感じでホッとした。コーヒーを飲みながら話したが、昔ながらの頭の回転の良さで、世事のこと、政治、経済、芸能、スポーツなど、彼独特の視点で話すのは昔と変わらなかった。私は概ね聞き役に徹したが、その一つ一つに納得させられるような整然と話しであった。その中で、彼は亡き奥さんが病んでいるときの話は、現在の医療制度のひずみは聞いていてわかりやすかった。その時、退院させようとする病院側と戦った時の話など彼の信念が伝わってきた。

 その後、近くの居酒屋で酒を飲みながら話した。取り留めない話で、内容はよく覚えていないが時間を忘れて話した。私も一月入院して以降あまり飲まないようにしていたが、いつの間にか中ビール4本も飲んでしまった。彼も飲めない体質であったが合わせてくれた。多分外は台風16号の影響で荒れた天気になっていたと思うが、夜9時ごろ店を出た時には既に雨が上がっていた。また会うことを約し電車に乗りこんだ。


学苑祭にて

2016-09-19 22:34:21 | Weblog

 今日は朝から台風16号の影響で時々雨が降っていた。学苑祭の日であり、会場の市民文化会館には9時30分集合することになっている。両手に衣装などを持ってバスに乗り込んだ。15分ほど前に着いたが、既にメンバー達は、待合室の椅子に座って待っていた。皆さん落ち着いた面持ちに見えたが、私は緊張が抑ええられない状態であった。舞台で行うコントが心配であったからだ。少ない言葉であったが上手く出てくるか心配であった。その後会館の外に出て発声練習をしたが、皆さんは元気のよい声を出していた。

 今回は、スペインの高級貴族社会が舞台であり、女性は、白のドレス姿の貴婦人になり、男性は公爵である。顔にドーランを塗り、頭に金色のかつらを被り、赤いマントをつける。こんな化粧も衣装も初めてであったがミュウージカルかオペレッタならこのようにするのかと思った。総勢26人(男性5人女性21人)が舞台に立つと華麗で壮観な感じになる。しかし私は、歌は何とかごまかせても、コントは一人ひとりが行うため心配であった。

 12時30分が開演となり、最初が私達の舞台である。ここに立つと開き直ったのか落ち着いた感じになった。歌の基本は如何に笑顔で歌うかであるが、そのことも客観的感ずることができた。最初は「闘牛士の歌」を歌ったが概ね上手くいった。その後「どこかで見たような」これもオペレッタ風に演じたが概ねよくいった。そして今回一番心配であったコントが始まった。内容を簡単にまとめると≪公爵5人が闘牛士になって牛と戦う。その後酒場で飲んでいると、牛の鳴き、そして豚、鶏の鳴く。肉を食べながら飲んでいる公爵が驚く様を静岡弁で話す≫ 私が話すのは「皆さんに肉ばっかり食っちゃーダメ、おらっち中高年は魚!DHAズラー」だけであった。口ごもることもなく概ね上手にまとめた。後の「乾杯の歌」「スタインソング」は、よく知っている歌であり気持ちよく歌えた。

 終わったとき、ブラボー、ブラボーの声が観客席から聞こえた。それも何度もであった。聞いている人にはよかったと感じたのだ。舞台から降りるとホッとしたが、その後記念集合撮影や着替えで慌ただしく過ごしてから観客席に行った。近所の人や友人が来ていたので挨拶に行った。そこには9人の人が見えていた。頼んだことであったが来てくれたことのお礼を言い、後ろの席を見ると来るかわからないと云っていた妻の姿があった。すぐそこに行き「ありがとう」と声をかけた。 

    

 


フィットネスボールを使って

2016-09-18 17:07:27 | Weblog

 我が家も高齢の夫婦だけになって久しい。まだ若いと思っていたが老いはいつの間にか身体に忍び寄ってきている。それを感ずる幾つかの事象はあるが、その中でも椅子などに座っていて立ち上がろうとするとき姿勢がくの字曲がっていて、伸ばすと腰に痛みを感じ、長い時間その状態が続くことがある。その後まっすぐ立っていると思い鏡で見ると前かがみになっている。最初の時はショックであったが、これも、段々しょうがないことと思うようになった。そして極力姿勢を正すようにしているが長続きはしない。何か良い方法はないかと思っていた。そんな折友人のIさんが「椅子に座るのを止めフィットネスボールに座るようにしている。これを一日3食の食事のとき10分ほど使っているが、現在3ヶ月ほど使っているが姿勢はよくなったように思う。そして腰痛もなくなった」と云い私に使うことを勧めた。

 彼は、ゴルフなど一緒にする友人であり、会話の上手い明るい人間である。しかし半年ほど前に腕を骨折した。その後リハビリに励んでいたが、娘さんにフィットネスボールを贈られ、それを使用するようになってから今ではゴルフも出来るし飛距離も伸びるようになった。それを聞いて私も買うことにした。スポーツ店に行って大きさの違う3種類の中から私に適した直径65cmのものを購入した。

 姿勢を真直ぐにし座り身体を上下に動かすと、腰が軽くなったような気がした。また、このボールは体幹を鍛えるのによいようで、不安定なボールの上に腰かけることで身体が安定させようとする力が働き体幹を鍛えられると云う。また説明書にはいろいろの使い方が書いてあり、腹筋や背筋、それに膝や肩などの痛みや矯正にも良いとあった。そうした効用もあるが、腰痛に効果があり改善されるなら安い買い物であると思った。今日(9月18日)は三島の弟家族が秋の彼岸で墓参りに来て寄った。4人の孫たちも一緒に連れて来たが、まだ小学生低学年から2歳ぐらいの男の子で、このボールを使い遊んでいた。4人とも汗をかきお風呂でも入った後のようになっていた。

 帰ったあと、10分ほど乗って体を動かしてみたが体によさそうである。これから朝、昼、夕の食事の時や、ピアノ、パソコンの前に腰かけているとき等、一日30分は座るようにしようと思っている。高齢によろ体力の衰えは感じているが、その主体は筋肉の衰えから来ると云う。その筋肉も頭の天辺からつま先まで沢山の筋肉に囲まれ、身体の機能を動かしている。その筋肉も場所によっては使わなくなっているものもある。そうした筋肉は衰え、その場所にある内蔵機能を弱くなり身体全体が衰える原因になっていると聞いた。このボールを使って老化の進むのを少しでも抑えたいと思っている。


合同レッスンで

2016-09-17 22:47:30 | Weblog

 S学苑の文化祭は9月19日市民文化会館で行われる。これは隔年ごとに開かれ、9月中旬と決まっている。S学苑は多岐にわたって講座が開設されていて音楽、ダンス、踊り、絵画、書道等がある。私が受講しているY先生の歌の講座も学苑祭に出演することになった。先生は、この学苑で3つの講座を持っていて、3つの講座が合同でミュージカル風の出し物を行う予定でいる。このミュージカルの合同レッスンを9月17日市内駅ビルにある教室で行った。今まで各講座ごとに練習してきたものを調整する必要からのレッスンである。集合時間は午後3時30分からで、その時間に合わせ教室に行った。

 そこには3講座の生徒男女合わせて20数名が集まっていた。その内男性は5名であり、ミュージカルの中では比較的重要なことを演じる。しかしこの5名も各々の講座に分かれていて細かな表現の意思統一が必要であった。また女声との歌の駆け引きも調整する必要があった。残すところ2日後には本番であり、全体的には、かなり進んだ内容になってきたと思った。内容を再掲すると、「闘牛士の歌」「どこかで見たような」「ドナ・ドナ」「酒場での会話」「乾杯の歌」「スタインソング」の歌とコントを行う。この内「どこかで見たような」「酒場での会話」は、静岡方言でのコントであって、それ以外は混声合唱となる。

 混声合唱は、日に日に完成度は増してきているように思うが、コントは中々上手くいかないし振り付けもまばらになっていた。そしてコントの間の取り方も直すことに重点が置かれた。これで本番を迎えるのかと思う焦りもあったが”5人?よれば文殊の知恵”と云うのか、みんなで相談しながら決めていくとよりよいやり方ができたような気もした。また混声合唱は、男女のハーモニーが上手く揃うと、より相乗効果が発揮される。しかし自分も歌っているので、客観的にはよく分からなかったが、先生は「よく揃った声になってきた。期待の120%ぐらいの出来である。しかし皆さんならもっと良くなるはずであり、本番までに一人一人が練習してください」と云った。

 自分は、まだ70%ほどの出来であると思っている。明日は一人で練習しようと思う。本番では多くの観客が見に来てくれるはずであり、そうした時、レッスン通りのことが出来るかが心配になる。特に舞台の上で演ずるコントは経験もないが、方言を入れコントで皆さんの笑いを引き出したいと思う。しかしここが失敗すると全体の足を引っ張ってしまいそうな気がする。何とか成功するよう頑張ろう。


オクラの花

2016-09-16 21:44:39 | Weblog

 庭の野菜畑も、既にキュウリはなくなり、格子状に組んだ竹の棒だけが残っている。その横のナスとオクラは、今も植えられたままであるが、枝を切り高さ50cmほどに詰めておいた。これは収穫を強く期待したわけではないが、新しい目が出て実が生ったら儲けものと云った程度の軽い気持ちであった。野菜の本数はナス4本、オクラ3本である。確か枝を切ったのは8月30日であったが、その頃はナスもオクラも葉は虫に食われ弱っていた。そこで薬剤を散布し元気になってほしいと思った。

 枝を切って以降は雨の日が多かったので、朝夕の水まきもしなかったし、収穫の楽しさもなくなっていたので関心も薄くなっていた。3日ほど前に庭に出て見ると、ナスの枝に10個ほどの紫色の花が咲いていた。以前虫に食われていた葉も、薬剤が効いたのか、それ以上の被害は出ていないし新しい葉も出ていた。しかし、春の成長に比べ遅く、花はあっても、小さな実はまだ見えていなかった。また横に植えてあるオクラも新しい芽は生えていたが花が咲くような兆候はなかった。

 9月16日(金)朝起きラジオ体操に行こうと玄関を出ると、一本のオクラの枝の先端に鮮やかな黄色い花が一つ咲いていた。ナスの知識は多少あり、夏までに収穫し、それが終わったら枝を50cmほどに詰める。そのままにしておくと新しい花が咲き実が生る。収穫できるのは、9月下旬から10月下旬であること。この秋ナスは、実がしっかりした美味しいナスが採れるということを。しかしオクラについての知識はなく、実が生らなくなった時点で根から引き抜くことも考えたが、幹の下の方に新しい芽が出ていて、小さな葉も付いていた。そこで、芽を残し上部の枝を切っておいた。

 オクラの花は、野菜の花の中で、これ以上の花はないと思うほどきれいである。その花が今朝6時ごろ小雨の降る中で、7分咲き位いで咲いていた。昨日まではそうした兆候はなかったので驚いたし喜んだ。これから幾つかの花が咲き実が生ると期待もした。それから1時間30分ほどして帰ってくると、花は筒のようになって花弁を閉じていた。この1時間30分ほどの間に咲ききり、今花弁を閉じている。ほんの短い間に花が咲き閉じた。きれいな花ほど、その命は短いことを表しているような咲き方であった。この花は夕方には土色に変わり地面に落ちるだろう。そして、枝の先端には先が尖った小さなオクラの実が付くはずである。たった一輪の花を見て、云い知れない観賞に浸った。