Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

平成28年ピアノ発表会

2016-02-28 22:22:27 | Weblog

 母の死で休んでいたピアノ教室に昨年4月から再び通い出した。最初はピアノが弾けたらと始めたが、今はボケ防止の為と云っていい。この発表会が2月28日市内アゼリアで行われた。弾いた曲はバッハ・グノー作曲の「アベマリア」である。先生からは「貴方にはレベルが高いので、もっと易しい曲にしたら」と云われたが、どうしても弾きたいと云い何とか承諾してもらった。そのようなこともあり自分なりには集中して練習してきたつもりであった。しかし今日午前中数回弾いたが、何処かで閊えてしまい完成度はまだ低い状態で発表会に臨んだ。

 今日は知って人は来ていないし、何とかなるだろうと思った。先生からは「始まる前一時間ほどは練習できますから、午後一時ごろには来てください」と云われていた。行くとピアノを舞台に出したり、椅子やてテーブルを並べたりの準備があった。それが終わった後、大人5人はピアノで練習した。私も4番目に弾いたが、途中間違えたりして上手くは弾けなかった。先生から「まだ後の人がいますので、譲ってください」と云われたが、そんなに長く弾いているとは思はなかった。それだけ閊えるところが多かったのだ。

 午後2時になり、客席の前列の隅に座って子供たちが弾くのを聴いていた。ふと後ろを振り返ると、保険外交員の女声と目が会った。先日保険のことで我家に来てくれたとき、発表会があることを話してしまったのだ。そして受付に花束を持って来たことを知った。それはそれで嬉しかったが緊張した。休憩が10分ほどあり、子供の年長者と、大人5人の演奏が始まった。私は最後から4番目の18番目に行うことになった。自分の演奏時間が段々近づくと胸がドキドキしてきた。この状態では間違えるのは目に見えてきた。舞台横で前のISIさんの演奏を聴いた。彼は何も間違えることなく弾き終えた。そして私は舞台に立った。事前に姿勢のこと、足の位置、強弱のメリハリを効かせた演奏など考えていたが、ピアノの前に座ると鍵盤以外にことはすべて忘れた。

 それでも最初は上手く弾き出したが、今まで失敗したことがなかった中間部で指が止まってしまった。焦ったがまた最初に戻るのはしないようにし、何とかその部分から弾き出した。最終章の盛り上がりを意識することなく演奏は終わった。舞台でピアノに向かうと平常心で弾けない自分がもどかしかった。頭を抱えながら舞台から降りたが、終わった安堵感を感じていた。誰かが「子供達はリラックスして弾いていたが、大人達は緊張してましたね」と云ったが、これは私に云っているように思えた。最後に先生がリスト作曲「愛の夢」を演奏してくれたがそれは素晴らしかった。


キンカンの甘露煮作り

2016-02-27 17:46:08 | Weblog

 5年ほど前であったがマジックの仲間の「あすなろ会」で介護施設に慰問に行った帰り、メンバーのHAさんの家に寄った。そこでキンカンの甘露煮とイチジクが出された。イチジクも美味しかったが、キンカンの甘露煮は、形のよい飴色のキンカンは光沢はあり木に生ったものの形をしていた。お茶を飲みながら食べたがその味は今でも忘れない美味しさであった。これはHAさんは庭に生っている果物を料理して出してくれたものであった。その時キンカンで甘露煮を作りたいと思った。

 今年はキンカンの生り年であり、大ぶりのキンカンが10kg近く採れた。約半分ほどは近所の人や、妻が身体に良いからそのまま食べると云うので残し、後の約5kgは加工し甘露煮にすることにした。素人の私が、本に書いてある作り方を見ながら作ることにした。最初は1kgほどから作った。砂糖500gと酢100ccとハチミツそれにレモンを用意した。キンカンを良く水洗い、キンカンの蔕と取り、側面に4か所ほど包丁で切り傷を付けた。これはタネを出すためである。それを沸騰したお湯で3分ほど茹でた。ここからが手間のかかるタネ出し作業である。楊枝で切り傷をつけたところからタネを出すが、皮をきれいに残してタネを出すのは中々上手くいかない。皮が切れたり、皮だけ残して中の具がでたりと悪戦苦闘すること一時間半ほど何とか出来た。それを砂糖と酢と水を加え深めの鍋にかけ中火でゆっくり煮ていく。沸騰したら弱火に、灰汁を取りながら一時間以上煮ると、飴色の甘露煮が出来あがった。そこにハチミツとレモンを絞って入れた。しかしその形は、原型を留めずひじゃげたものになかった。

 2回目は約2kgほどのキンカンで作ることにした。砂糖も中双糖から、グラニュ糖に変え、甘味を抑えるため少なめにした。そして切り傷も小さめにし形が崩れないようしたつもりであったが、出来上がりは半分ほどは形が崩れたものになった。そこから形がよいものを選んで、300CC/個ほどの、密閉した容器に入れた。まだ2kgほどのキンカンが残ったが、その内1kgほどは別途ジャムにしようと思う。3回目の甘露煮作りは、今までの経験から艶の良いく原型が残った甘露煮づくりに心掛けた。切り傷を包丁でなく、先が尖った缶切り用の刃で5~7mmほどの幅で刺し4か所/個ほど開けた。作業はタネは出しにくかったが円形のキンカンの形をした甘露煮が出来た。

 どちらかと云うと、私は厨房に入って料理をすることは嫌いな人間である。しかし何故か、今回は甘露煮づくりに集中することが出来た。妻は途中で手間がかかると云い放棄したが最後まで作り終えた。300cc入りの容器8個と、2kg入り容器1個に甘露煮を入れた。この8個は、近所やきょうだい達に配ることにしようと思う。


術後の再検査

2016-02-24 23:16:02 | Weblog

 1月6日、内視鏡で胃の腫瘍を切除した。術後は順調に見えたが、1月下旬からこれまで食事が詰まるような症状が3度ほどあった。その詰りは時間が経てば解消できたが、その間は何とも重苦しい思いをした。素人なりに考えるに、食道から胃に入るところを切除したので、その部分の胃壁が直ってくる過程で、道管が狭くなり、食べ物がスムースに流れないことにより、詰ったような違和感を感じたのだろうと思った。そこで2月17日総合病院に行って話すと、医師から「内視鏡の検査を2月24日午前9時30分から行うので再度来るよう」言われた。

 内視鏡の検査は麻酔して行うため、家を8時30分代のバスで出かけた。医師からは身内の人も一緒に来るよう言われたが、叔父さんの葬儀と重なり、妻に行ってもらったので一人で病院に行った。受付を済ませると、直ぐ内視鏡検査の部屋に案内された。この検査を受けるのは3回目であるが、検査後ふらふらして気持ちのいいものではない。検査台に横になると、医師が来て安定剤を血管に注射された。その後のことは少し覚えていたが、いつの間にか意識が無くなり気が付いたときは、既に検査は終わっていた。身体を動こうとするが、とても立てるようにはならなかった。看護師からは「検査後2時間ほど経ちましたが、まだ身体がふらふらするようですので、もう少し休んでいてください」と云って、毛布のようなものを掛けてくれた。

 検査後3時間ほどして、看護師に連れられて消化器内科のところに行った、長椅子に腰掛けていると、医師に呼ばれ検診の状況を教えてくれた。「胃を内視鏡で見ましたが、傷は順調に直っています。そして狭くなったという胃の管は内視鏡が通るぐらいの隙間があり、この状態で、風船を膨らませたりする治療は、まだやらない方がよいと思います。食事はよく注意して食べるようにし、その後の状況の変化で治療法を考えましょう。次回は3月22日に来てください、その時採血をしてから検診を行います」と云い検診は終わった。

 医師は、内視鏡の検査で現在の状況が確認できたし、1ケ月後の状況を見ることで、このまま回復するか、それとも何らかの手を打つ必要があるか判断するものと思う。医師との会話で思ったことは、医師は、胃が詰るような症状がでるのは想定済みであり、このまま養生するなら胃壁も少しずつ広がり、以前の状況に戻るだろうとの思っているようだ。病院を出たのは午後3時ごろであった。まだ朝食も昼食も食べていないので、急に腹が空いているのを感じた。停留所前の食堂に入り、蕎麦定食を食べたが、よく噛んで食べると、胃への違和感はなかった。


叔父さんの通夜

2016-02-23 22:40:01 | Weblog

 母の弟のMさんは2年ほど前から入退院を繰り返していたが、2月21日早朝病院で亡くなった。Mさんのきょうだいは、母を長女とする2男5女で、長男は私が生まれる5年ぐらい前、小学5年生だったころ亡くなっている。それ故次男であったMさんが跡取り息子として女のきょうだいの中で育った。大人になった6人は、各々家庭を持ち8年ぐらい前まで、一緒に旅行するなど仲のよいきょうだいであった。しかし次女が7年前に亡くなり、その後5女、そして2年前に母が亡くなり、今回はMさんが亡くなった。その年齢も80代から90代と高齢であったが、ここにきて櫛の歯が抜けるように4人が他界して行った。

 Mさんは私にとって叔父さんとは言え、年齢は7歳年上である。私が幼児のころは、父が戦争で外地に行っていたので母の実家で育った。そこにMさんがいて、兄さんのような存在であった。私も叔父さんのことをM兄ちゃんと云って家族のようにして育った。私が40代のころまでその呼び名で通していて、いろいろ相談にのってくれたMさんであった。つい先日の2月7日には、叔母さんから見舞に行くので一緒に行かないかと誘ってくれたが、その日はどうしても抜けられない用があり「別の日に、私一人で行くから」と云って断ったばかりであった。しかしそれも果たすことができないまま亡くなってしまった。

 夕方6時から、静岡駅近くの葬儀社で通夜が行われた。しめやかな通夜であったが、Mさんの2人の姉も車椅子や、杖を突いての参加であった。出席者は甥や姪達ばかりが目立って世代が替わっていくことを思った。あれだけ仲が良かった母のきょうだい達も、今は90歳と87歳の2人だけになってしまい淋しい限りである。M家は、明治以降、漆塗りを家業として、私が幼児のころ何人かの人を住まわせ、商売も順調であった。しかしこの稼業も武士の商法であり、戦後の世の流れを敏感に捉えることが出来す商いを小さくしていった。そんな中にあっても、Mさんは、その家業を守り抜いた。それは祖父母、父母から引きついたものを、何とかしたいとの思いがあったものと思った。

 それ故、順調な人生とは、必ずしも言えないように思うが一生懸命に生きた人生であった。晩年は毎月電話があり、母のことや、家族に変わったことがないかと心配して聞いてきた。それだけ身内のことを思っていた。自分のことより、周りの人のことを思う人であった今そうした諸々の心配事から解放され穏やかな顔で柩の中に収まっていた。2人の子供も成人し、しっかり生きている。Mさんも天国から見守ってほしいと願った。


「TBG」大会から

2016-02-21 23:57:09 | Weblog

 昨日(20日)予定していた「駿河TBG」の月例大会は、雨天となり今日に延期した。朝から晴天であったが、風の強い日でTBG大会には余り良い日とは言えない。私は1月から3月まで幹事であり、準備のため正午前に家を出た。場所は有度山総合運動公園内のTBGグランドであり、自動車で10分程の距離にある。会場に着くと既に4~5人のメンバーが来て練習をしていた。スタートは午後1時からであるが、皆さん集まるのが早い。始まる30分前には全ンバーの16人が揃った。月例大会は、ハンデキャップ戦で、賞品も用意してある。その景品も上位者に厚くし、優勝者には5kgのお米を用意した。そして全体に差を付けた景品を揃えた。

 16名は4組に分から各々のコースからスタートした。私は1番からのスタートであった。1月~2月上旬にかけ体調不良もあり、この大会に出るのは約2か月ぶりである。それ故今回は参加するだけで良いと思っていた。しかし1番でこそボギーを叩いたものの、その後はバディーが来るなど安定した内容であった。OUTが終わった段階でのスコアーはワンオーバーの28であった。皆さんのスコアーを集計すると、もっとうまい人もいたが、私はハンデが20あり、優勝の可能性が一番高かった。多分病み上がりであり、余り力を入れないスイングで回ったのが良かったようだ。しかし幹事として、何処かに優勝はしない方が良いと云う気持ちが働いていた。

 INに入り、スコアーが乱れだした。それでも大崩れすることなく3オーバー位で最終2ホールを残すだけになった。このままいけば優勝するかもと云う気持ちはあった。この頃になると急に風が強くなってきた。8番は、それを考慮して、コースより右側に打った。しかし、思ったより曲らないでOBとなった。それでも未だ気持ちに余裕があった。しかし次のアプローチがシャンクしてまたOBとなり、その後も上手く行かずも、ここだけでトリプルボギーとした。最終ホールはパーで上がったがINのスコアーは33であった。後半崩れたが、どこかで幹事は優勝しないと云う気持ちが働いたような気がした。メンバー16名にOUT、INの集計すると、優勝とは2打差で3位になったことが分った。

 久し振りに行ったTBGの大会で、これでけのスコアーで回れたことは安心できた。今回のスコアーから次回のハンデは6となる。このハンデでなら、気にすることなく勝負できる数値である。次回は2月26日交流会が行われる予定であるが、その時は上手い人に挑戦して優勝を争いたい。行なう前不安であったが、このスコアーで回れたことは上出来であった。次回の時までに練習して、今日以上スコアーを出したいと思う。

 


キンカンを収穫

2016-02-19 22:20:26 | Weblog

 今年はキンカンの豊作年である。我家のキンカンもたくさんの実を付け、それも直径2.5cmほどの大粒の実である。キンカンの木は、一年に何度か実を付けるが、今回の様に大きな実が鈴なりになったのは初めてである。いつもの年は、収穫するでもなく鳥の餌になっていたが、今回は収穫し甘露煮などにしようと思っている。そこで1月22日に鳥よけと、雨よけ(根を乾燥させると甘くなる?)のため不織布状のネットを木全体に被せた。こうすることで、実が甘く熟すものと思った。約一ヶ月経ったので、取って食べてみると甘みが増して美味しかった。この頃になると、熟す寸前なのか、いくつかも実が地面に落ちていた。

 今日(2月19日)収穫することにした。先ずネットを外すが、継手をホッチキスで止めていたので外すのにも手間はかからなかった。たわわに実った重みで、枝が垂れていたが、この約一ヶ月間に実は赤みを増したし、大きくなっているように見えた。それを高所バサミで、枝も含めて取っていった。今までこの木は強い剪定を行わなかったので、今回の収穫に合わせ、枝の剪定も兼ね行なった。樹形も考え、先端の高さも50cmほど詰めた。それでも、まだ枝には100個近い実が生っていたが、これは鳥たちのために残した。

 キンカンの木は鋭いトゲが生えていて、キンカンの実を取るのも厄介な作業である。妻も軍手をはめ一緒に実をハサミで取ってくれた。屈んでの作業は足腰にくるので、休みながら約一時間ほどで取り終えた。今日の収穫は直径25cm×高さ15cmほどのザルに山盛りにして三杯あった。測った訳ではないが10kgほどが収穫できたようだ。夕方近所のYAさんが見えたので、収穫したばかりのキンカンを袋に分け渡した。喜んでくれた。しかし甘露煮にして渡したかったが咄嗟であり、そのまま渡した。その時キンカンの効用についても話した。

 キンカンにはビタミンCが沢山含まれていて風邪の予防や喉に良いと云う。また皮の部分にはヘスピリジンが多く含まれていて、様々な研究から健康維持に役立つと云われている。具体的には毛細血管の強化や血中コレステロール値の改善効果、血流改善効果、抗アレルギー作用、発がん抑制作用などがあると云われる。またビタミンEもたくさん含まれていて動脈硬化や心筋梗塞などの生活習慣病の予防にもなると云われている。柑橘類の中でも皮も食べることから驚くような効用があるとのことであった。この実は、保存食として甘露煮にし、近所の人に分けたいと思っている。


家庭菜園の準備

2016-02-18 23:33:31 | Weblog

 数年前から敷地内に猫のひたいほどの小さな菜園を作った。これは野菜を造ると云うより、運動不足の解消のため始めたと云うのが一番合っている。3年ほどの間にキュウリ、茄子、ピーマン、落花生、ジャガイモ、ブロッコリー等植え育ててきた。それが我が家の食卓にあがり、自分なりに満足した。その畑もジャガイモやブロッコリーが終わり、今は冬の雑草畑になっている。そろそろ何かを植え、春に収穫するものはないかと思っていた。昨日介護施設でのボランティアが終わった後、ホームセンターに行った。

 この時期は、まだ素人でもできる野菜類は少なかったが、ジャガイモのコーナーがあり何種類かの種イモが売っていた。昨年ダンシャクイモの苗を買って植えたところ大きなジャガイモが取れた。そこで同種の種イモを購入することにした。昨年は虫や雑草に悩まされたので、今年は植付け前の畑に黒いシート(マルチシート)を張ることにした。そのことにより上記のことは解消できるし、通気性が良いので、そのまま水やりが出来る。なお且つ、土を乾燥させやすくすることから糖度をあげることが出来ると説明書には書いてあった。それと幾つかの付属品も買って帰った。

 今日は寒さのきつい日となったが、午後になって晴れたので菜園作りを始めた。今までの経験から、先ず石灰苦土を畑にまいた。これは作物を作ると地質は酸性になるが、これは作物にとって良いものではない。作物によって多少の違うが、概ねPh6-7に中和することが必要である。撒いてから少し時間を置いて畑を耕し全体に行きわたるようにした。次に再度30cmほど掘り起し、既に収穫したブロッコリーなどの葉や茎を肥料にするため一ヶ所に集めてあったものをそこに埋めた。その上に牛糞の堆肥40Lを撒き、そこに土を掛け均した。慣れない作業であったので背中に汗が流れた。これで終わりではない最後のマルチシート(95cm×5m)2枚を敷いて、周りを9本の止め具で固定した。

 今日の作業は、菜園を作っただけであり、ジャガイモの種イモの植付けまではいかなかった。先ずは畑にする準備をしただけであった。これから種イモを切り、切り口にまんべんなく草木灰を付け乾燥させてから植付けを行うことになる。それを行うのは畑を作ってから2週間ほど後に行うことと書いてあった。猫のひたいほどの菜園ではあるが、3時間以上かけて畑を作った。今疲労が溜まっていて足腰や腕が痛い。夕食を食べたあと椅子に腰掛けたまま1時間ほどまどろんだ。今日の作業は良い労働であった。


総合病院に行く

2016-02-16 22:05:01 | Weblog

 胃の内視鏡手術をしてから約40日が過ぎたが、状況は必ずしも芳しいとは言い切れない。確か術後の1月下旬ごろからか、肉など食べた時に胃の入口付近が通りにくくなり、胃への到達に時間が掛かることが、これまでに四回ほどあった。その時はお茶など呑んで流れやすくしたり、身体を上下に揺すり流れを促したりししてきた。これまでに詰まったままの状態はないが心配であり先週の月曜日に総合病院に電話で状況を云った。その時、主治医はいなかったが看護師が出て、2月16日の午前11時30分の予約を取ってくれた。

 私は胃の上部の腫瘍を摘出したため、回復段階で傷口が縮むことから胃に入る部分が狭くなることがあることは、事前に医師から説明を受けていた。その時の処置は、その部分に風船を膨らませ、狭くなった胃を広げることを聞いていた。それ故今回の事は予知できていたが、今後は、より狭くなることも考えられ、詰る前に医師に状況を見て貰うことにした。今までの4回の症状は、肉やハムなど噛みずらいものを食べた時起こっていて、よく噛んだ心算でも、細かにならなかったものが閊えたものと思った。その要因は私にあるが、その時の苦しさは、水やお茶を飲んでも、身体を揺すっても中々良くならない。ゆっくりではあるが時間をかけ胃に流れ込むのを待つしかなかった。

 午前11時30分までに総合病院の消化器内科の受付で、手続きをして待合コーナーの椅子に座った。ここには既に50人以上の人がいて、医師から呼ばれるのを待っていた。電光掲示板には、診察している人の番号と、それに続く人の番号が表示されていて、その後に現在の遅れの時間の表示されていた。臨時に入れてもらった私の番号は、中々表示されなかった。それでも椅子に腰掛け呼ばれるのを待った。正午も過ぎ、午後2時を過ぎた頃やっと呼ばれた。既に待合コーナーには午後受診する人が多くなっていた。医師に、症状を云うと、内視鏡で確認すると云った。医師は早い方が良いと明日の午前中行なうことを話してくれたが、私の都合で一週間後の2月24日に行うことになった。そして、医師からは「胃道を広げるために風船を膨らませるが、胃が傷ついたり、破れることがある」ことを話した。私は簡単に考えていたが、これは大変な施術のようだ。

 医師は、今までの事例から大変であることを話してくれたが、私の説明が誇大であったことがいけなかったのかと思った。しかし、この状況は自然に回復するのか、それともより狭まっていくのか分らなかったことから、ありのまま話したつもりである。それにより医師が判断した事で従うことになるが、医学の技術の進歩は、私どもが考える以上に進んでいる。そうしたことを享受できることをありがたいが、生身の人間であり心配は尽きない。


毘沙門天大祭に行く

2016-02-15 23:11:57 | Weblog

 茶箪笥の上に片目の入ったダルマがある。これは旧暦1月7日~9日まで行われる富士市吉原の毘沙門天大祭で購入したダルマである。いつからか行くようになったが記憶を呼び戻せないほど前からダルマを購入し家族の安全と健やかに過ごせることを願ってきた。今年は新暦で云うと2月14日から16日までの3日間である。14日は朝方雨風が強い荒れた天気であったし、16日は病院で検診を受けることになっている。そこで今日(15日)行くことにした。いつもは家内と行っていたが、今年は愛犬の症状が芳しくなく妻は残ることになった。

 一年を振返ると、私は人間ドックで腫瘍が見つかり、それを除去できたし、家族もみんな大過なく過ごすことが出来たと思う。言い換えれば、ダルマに守られた一年ともいえる。そこで昨年購入したダルマに目を入れ持っていった。これは慣習であるが、一年大過なく過ごせたお礼に、昨年のダルマを毘沙門天に納めることになっている。自動車で家を出たのは午前11時を回っていた。国一を通って富士から田子の浦に架かる高架を抜け降りると毘沙門天に通ずる一番近道である。そこを降り駐車場に車を停めた。

 歩いて10分もすると、毘沙門天の参道に出た。いつもの通りであるが参道には香具師が店を連ね狭くなって道には、往来する人で埋まっていた。そこから境内まで人の流れに委ね進んだ。階段を上ると、両サイドにはダルマの店が並んでいた。同じようなダルマであるが、よく見ると髭とか眉の書き方は違っている。高崎のものとか、深大寺のもの、地元静岡のもの等があった。我家のダルマは昔から高崎のダルマで、どこが良いと云うことは出来ないが、長い間見ていると、それに目がひかれる。ダルマは縁起もので、誰かに教えられた訳ではないが、如何に値切って買うかが、ご利益があると云われる。3軒ほどで話し、一番値切れたダルマを買った。因みに大きさは高さ25cmほどで、どちらかと云えば小さな目のダルマである。また縁起では、昨年より小さなダルマを購入するのは、不幸があった等、良くないことがあったとき購入するものと云われている。

 ダルマを返却し、境内の中央の大型線香立てに線香を焚き、家族の安全を願って、本堂に参拝した。本堂の右手に購入したダルマの片目を入れるための祈祷が行われていた。そこには100人程の人が列を作っていた。待ち時間は20分程と云っていたので止めた。今日は寄り道もせず、そのまま駐車場に向かった。何人かの人とすれ違ったが、みんなダルマを抱えていた。大きなものもあったが、私と同じぐらいのものを2~3個かかえている人もいた。私も縁起を担いだり、信仰心も強い方だが、同じ気持を持った人達なのなんだ。何故か同類の人に会ったような気持ちがした。


愛犬のいのち

2016-02-12 22:41:12 | Weblog

 朝から冷たい霧雨が降っている。こんな寒い日に、我家の愛犬モモは、玄関前のテラスに毛布にくるまり、微かに息をしている。その息も口に手を近づけて見ないとわからないほど静かな呼吸になっている。モモは雌の甲斐犬で14歳9ヶ月になる。甲斐犬は気性が荒い犬と云われていたが、この犬は違って優しく誰からも可愛がられた犬であった。私は15年近い歳月、この犬に癒されたし、愛情を持って接してきた。しかし、今から丁度1年ほど前であったが、毎朝の日課であった散歩に行くと、歩く速度が遅くなったのを感じだ。また機敏な表情も鈍くなっていった。それでも家を出かけるときは全身で喜びをあらわしリードを引張っていった。

 その愛犬も、昨年12月頃から、朝夕の散歩は、私が急かしても気の向かない時はいかなくなった。行っても距離は我家の周りを一周する程度となっていった。その後は、段々散歩に行かなくなり庭を自由に行動できるように綱を外した。そんな状態であったが、食欲はあり呼べば尻尾を振って喜んできた。しかし老衰は少しずつ進んでいて、目や耳も遠くなっていった。そんな折ネットで鹿肉が、よいことが載っていたので、その肉を注文して与えたりもした。それにより一時的とは思われたが、元気になったような気がした。1月中旬になると、庭先を万遍なくぐるぐると回るようになった。人間でいう徘徊に似た行為だ。

 その後は目が見えにくいのか、時々構造物に当ったり、与えていた飲み水のボールをひっくり返したりもした。食欲は、以前より少なくなったものの、ゆっくりと食べると、ほゞ完食に近い食べ方をした。そんな状態が続いた2月9日頃であったか、夜中の2時ごろ、庭で赤子が泣くような声がした。それは5~6回泣き、声も大きくなった。急いで起きて庭に出ると竹やぶと塀の間に入って泣いていた。直ぐ玄関の土間に毛布を敷いてそこに寝かした。朝起きると玄関ドア-の隅で、ガラス越しに外を見ていた。出すとおぼつかない足取りで庭に出て行った。そして竹やぶや潅木の中に入って誰かを呼ぶように泣いた。一日4~5回あり10日、11日も同じように続いた。

 11日の夕方、娘がやってきた。妻が伝えたものであったが、状況から愛犬の見納めになると思ったからなのか。12日になり、排便させようと、庭に出すと、物置の隅などに頭を突っ込んで動かなくなっていた。動物の習性なのか死を予感すると、目立たない木々の中とか、建物の影とかに入り、そこを死に場所と考えているらしい。そのような習性を出るようになった。夕方になって玄関内に入れ毛布に包まれ横になっている。それは死期が近づいていることを予感させられた。今日犬用の紙パンツを買ってきて履かせてあるが、出来るだけ生き続けてほしいと願う。