Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

韓国旅行(5)終

2011-06-30 22:09:39 | Weblog

 今回の旅行の最後の朝を迎えた。朝4時30分起床、5時30分ロビーに集合、今までは8時以降バスで出発する行程であったが、今日はきつい。段々疲れが溜まってくる時期であり、寝不足のまま荷物を纏めてバスに乗り込んだ。まだ暗さが残る景色を見ながら、バスは海岸沿いを走っていた。私はバスの最後尾の椅子の手摺をオロシテ、横になって寝た。途中韓国食料店に寄ったが、バスから降りずに、そのまま寝ていた。約1時間30分ほどかかって、仁川国際空港に着いた。

 まだ7時ごろであるのに、空港にはあふれんばかりの人がいた。ガイドの指導で受付カウンターに行き、帰りのチケットをもらった。後は2個のボストンバックを荷物として預けて、出国手続をした。フライトはOZ126便で、ソウル(仁川)9時50分発であった。朝食は機内食であり、まだ2時間ほどあるため、免税店が並ぶコンコースで軽食を食べコーヒーを飲んで過ごした。定時より10分ほど遅れて仁川空港を飛び立った。来たときと同じ、アシアナ航空であったが、機体は倍ほどの大きさであったし、満席になっていた。機内放送で分かったが全日空のお客も同乗したとのことであった。航路は日本海を通って宍道湖付近で日本の陸地に入った。日本の空は晴れていて、富士山や、大井川が見えた始めた。安定した飛行を続け、富士山静岡空港に着いたのは12時ごろであった。

 ツアーの皆さんと別れて、駐車場の自動車のところまで行った。太陽が出ていて日の強さを感じた。帰りは焼津経由で帰ってきたが午後2時30分には家に着いた。

 今回は梅雨の真っ只中に行ったことから、雨が降られることは想定していたが、降ったのは釜山、ソウルだけであった。それもときどき霧のような雨が降るものの笠を射したのは、ソウル観光の時だけであった。恵まれた旅程であったと思う。しかし私自身体調不良が続き、快活には振舞えなかったことが残念であった。高齢になって無理が出来ないことを悟った。しかし帰ってからは元の状態に戻りつつあることを実感している。。

 今回の旅行で感じたことは、韓国は歴史的に日本とのかかわりが強く、文化は韓国を通って伝えられたものが多い。それが醸成され日本独特の文化を創ったことを思った。そして現在は韓国の方が規律のある社会であって、国民の全てが行動力があり、常に緊張感を持っていることも感じた。


韓国旅行(4)

2011-06-29 23:18:55 | Weblog

 朝7時30分にホテルを出た。ホテル近くのレストランで朝食を食べたが、大部分は残した。体調がすぐれない上、全身が痒くなった。原因は分からないが生蛸を食べたことなのかもしれない。今日の行程は韓国高速鉄道(KTX)で釜山よりソウルに行くことになっている。出発は9時40分のソウル行きであった。この新幹線は最高時速300kmの速度で走るが、乗り心地は日本の新幹線の方が良いと思った。これも手前味噌なのかな?列車の中では概ね寝て過ごした。釜山~ソウル間を2時間30分ほどで走った。このKTXは在来線と併行して走っているため、小さな曲線もありスピードは出さないところも数箇所あった。

 市内レストランで”キムチチゲ”を食べたが、すき焼きのようなものをご飯にかけるもので、韓国独特な味がして美味いとは思わなかった。雨は降っていたが、ガイドが言うに昨日までの3日間は120mmを超す強い雨が降っていたとのこと、この程度の雨はたいしたことはない。今日はソウルの市内観光として世界遺産である昌徳宮から回った。5年ほど前、関連企業の旅行でソウルに来たがその時も昌徳宮に来ている。日本皇室の梨本宮家から朝鮮王朝に嫁いだ李方子が晩年過ごした場所として知られている。前に来たときとの印象が違って、落着いた宮殿のたたずまいを感じた。雨は降り続いていたがそこから景福宮の敷地内にある国立古宮博物館に入った。

 景福宮は朝鮮王朝初代国王李成桂によって創建された正宮で12万6千坪の広大な敷地にあり、その北側の一角が国立古宮博物館になっている。歴史を感ずる展示物が陳列されていたが、朝鮮王朝の歴史の知識が無いためか、よく分からなかったが500年の歴史と文化を誇る朝鮮王室の深さを感じた。

 夕食前に民芸店や免税店に寄ったが、日本との価格差はあまりなく、みやげ以外は買わなかった。夕食は”プルゴキ” であったが、これも今までの食事と同じで、辛さだけが残る食事であった。追加でカルビを頼んだが、日本で食べたものとは違った独特の味であった。そこからオプションで行くことになった”NANTA”という個性の強い5人の登場人物が巻き起こすコミカルな寸劇を見た。小さな劇場であったが満席であり日本人が多かった。パントマイムでの寸劇で、観客を引き込ませる笑い声があふれた。このような寸劇が人気を浴びることに時代が変ってきたことを感じた。終ったのは夜の9時ごろであったが漢川を渡りソウル中心部から南側にあるロッテホテルワールドは30数階の高層ホテルであった。その27階が今日の宿であった。

 


韓国旅行(3)

2011-06-28 21:41:06 | Weblog

 旅行3日目は雨の予想であったが、薄日が射す天気となった。市内レストランで朝食を食べた。ここには80才代の日本語が上手いおばあさんがいて、流暢な日本語で話しかけてきた。韓国は戦前日本の植民地であり、常用語として日本語が使われていた名残であり、私達にサービスをしてくれた。今日は慶州の世界遺産である石窟庵と仏国寺を見学した。石窟庵は新羅仏教美術の最高傑作といわれ吐含山を登ったところにあった。花崗岩をドーム状に積み上げて土を被せ、天然の洞窟に見せかけた人工の石窟で、内部に本尊の釈迦如来像は温和な表情が美しかった。石窟庵は751年金大城が建造されたものといわれ、20世紀始めに発見されている。

 吐含山頂から降り麓に建つ仏国寺に行った。ここは韓国最大の仏教建築としても名高く、古都慶州のシンボルともいえる建物である。何度かの焼損等があったが、復元された。現在の建物は主に1969年の復元工事によるものであった。昼食を取った後、一路釜山に向かった。慶州から釜山までは2時間に満たない距離であったが、この頃になると雨が降ってきた。丁度梅雨の時期であり、その上台風3号が北朝鮮に上陸したとのことであり、雨は想定していた。雨は傘を差すか差さない程度の雨であり何とか釜山の観光も出来そうである。

 釜山は韓国第2の都市であり400万に迫る人口となっている。先ずこの町の中心にある龍頭山公園に行った。ここにはシンボルタワーの釜山タワーがそびえているところで、その前に豊臣秀吉の水軍を破った壬辰倭乱の英雄、李舜臣(イスンシン)将軍の銅像が立っている。ツアーの何人かは118mの釜山タワーに登ったが、視界もあまり効かないことから、タワー一階の図書館の椅子で休んだ。あと熱気あふれる韓国最大の海鮮市場(チヤガルチ市場)を見学したが、余りの生くささと魚貝の多さに圧倒された。そこを出て、専門店が軒を連ねて並ぶ、釜山市場の代表格の国際市場を歩いた。品物は豊富であり安いが、目的を持って来たわけではないので、時間つぶしに歩いた感じであった。

 夕食は市内レストランで海鮮鍋を食べたが、食欲はあまりなかった。その上歯痛があり、歯でかめない状態であった。丁度私達が座った席の横の人が、なまの蛸をオプションで取り私にも進められた。まだ吸盤が皿について取れないような新鮮なものであったが、それを少し食べた。そのときはよかったがホテルに帰ってきてから、腹の調子が悪くなり、歯痛、それに唇の腫瘍等から、体調の悪い一夜を過ごした。そして朝まで便秘が続いていた。ホテルは海雲台グランドホテル言いよいホテルであった


韓国旅行(2)

2011-06-27 22:54:35 | Weblog

 朝食はバイキングであった。胃が荒れているのか唇に腫れ物ができて、食べる時痛い。疲れているときとか、胃の調子悪いときはよく出る症状である。持ってきたヘルペスの軟膏を塗った。食事も軽いものにして、いつも飲むビールは飲まないことにした。宿からバスで10分ほどのところに丹陽八景と言われる景勝地があり、その一つの嶋潭三峰、神の門と言われる石門を見に行った。ここは山の中腹から石門を眺めるところで、標高30mほどのところまで登らなければならない。昨夜雨が降ったのか、道はぬかるんでいた。高齢者が多いツアーにはきついところであったが、登ってそこから石門を眺めた。ここは漢川の上流の景勝地であるが川が濁っていて、対岸のビニールハウス等が見えた。苦労したわりには、拍子抜けの感じの光景が広がっていた。何とか戻ってきたが、靴は泥まみれになり、バスに乗る前に水で泥を流してバスに乗り込んだ。

 そこから安東(アンドン)まではバスで1時間30分ほどのところであった。ここは儒教文化の町で、韓国最長の川である洛東江のほとりにあった。最初に陶山書院を見た。儒教の大家、李退渓が朱子学の研究と教育のため建立したもので、案内人の説明でこの陶山書院を見学したが、日本の儒教文化にも大きな影響を与えたところである。その後藁葺き屋根が並ぶ河回村を散策した。ここには儒学の大家柳雲龍や文禄の役の際首相に相当した柳成龍の兄弟が生まれたところである。この河回村の由来は洛東江がS字型に村を囲むように流れていて、風水地理学上からも人が住む最適の場所と言われている村である。そこの近くのレストランでさば定食を食べたが、美味しかった。後で知ったが直木賞作家の立原立秋はこの安東の出身であった。

 ここからバスに揺られること2時間30分ほど走って、慶州に着いた。この慶州は新羅王朝の都として千年近く栄えた歴史を持つ町である。千年近く都が続いた都市は世界に3つしかなく、ローマ、京都そしてこの慶州とのことであった。京都とは姉妹都市になっているとガイドが言った。そして新羅王朝はこの場所に都を定め遷都すること無く続いた。故に歴史を感ずる町である。明日は雨との予報のため明日行くことになっていた、古墳公園に行くことになった。15万㎡の公園には大小23基の古墳が点在していた。その中に一つ天馬塚を見学した。5~6世紀の王陵と推定されるといわれている。市内レストランで夕食を取った後、ライトアップされた雁鴨池(アナブチ)を散策した。新羅30代文武王により造成された離宮の庭園であり、夕闇に多くの人が集まってきた。宿は慶州ヒルトンホテルであった。 


韓国旅行(1)

2011-06-26 23:30:59 | Weblog

 26日午前9時30分ごろ、大小のボストンバックを自動車のトランクに詰め夫婦で韓国旅行に出発した。川崎の妹は昨夜から来ていて、母の介護など留守中のことを、妻は頼んでいた。今回の旅行は、妻を慰問することが大きな目的である。母の介護に対する息抜きのため計画した。

 富士山静岡空港に着いたのは、10時30分ごろであった。集合時間より早かったが、受付カウンターでチケットをもらいフライトの出発時間までは、2時間以上ある。静岡空港は航空機の発着は少ないが、今日は日曜日とあって、家族ずれの見学者と思える人が多く見えていた。その後はソファーに座り長い時間待った。今回のツアーは「こだわりの韓国周遊5日間」で15組30名が参加していた。2組の友人同士(女性)と親子(女性)以外は夫婦での参加で年齢も概ね60代後半から70代と思える人であった。皆さん慣れた人ばかりであり、旅行会社の添乗員は付かなかったが、平然として乗り込んでいた。フライト時間は2時間であり、直ぐソウル(仁川)に着いた感じであった。

 この空港は10年前に出来たと言っていたが、ソウル近郊の2つの島を削り埋め立てた広大な土地に作ったものでり、まだ全部は完成していないが、出来上がれば世界最大の空港となるとのことであった。

 今日の行程は空港からバスで1時間ほどの水源華城である。ここは朝鮮李王朝時代漢城を守る城郭都市であり、朝鮮王朝22代国王・正祖が水源への遷都する計画で築城したが、正祖の急死で実現しなかったという。現在人口100万人を超え、めざましい発展を遂げている。この水源華城は世界遺産となっている。この城郭の南門、八達門(ハンダルムン)から正門、華西門(ファソムン)まで散策したが、城郭の曲線が見渡せた美しい気品を感ずる都市であった。

 そこから丹陽まではバスで3時間以上かかったが、山並の綺麗な農村に来た感じであった。ここはセメントの生産が盛んで、韓国の6割以上の生産をほこっているといった。少し開けたところにレストランがあり、そこが今夜の食事場所である。韓国料理はキムチに代表されるように辛いものばかりである。食事は”コンドル釜飯”といったが、何種類かの小皿の上には辛そうなものばかりが乗っていた。鼻水が出て、あまり体調が良くないことから食欲は無かったが、最初に食べた唐辛子の辛さには参った。口の中が焼けるような思いがして体が熱くなった。これが良かったのか、鼻水が出なくなった。宿は床に直接布団を引く韓国独特の住いで、オンドレがあると言われていたが、温かさは感じ無かったし、慣れないのかよく寝れなかった。


旅行の前日

2011-06-25 21:23:56 | Weblog

 明日(6月26日)から夫婦で韓国旅行に出かける。準備に時間を割きたいが、それどころではなかった。今日は現職時代新幹線出身のOBの集いが午前11時からTO会館あった。この招集は私を含めて3人で企画したものである。この系統別集会は静岡支部総会で決めたもので、始めて行うものである。最初に新幹線系統の集会を行うもので、先例となる。そのため私以外の2人には、関係者の出欠集計をお願いし、その他は私が行うことにした。今回の新幹線関係者30名のうち18名が出席した。これは6割近い出席であり、皆さんに感謝している。この系統別の集会の趣旨は、OB組織は、在来線関係の総務、営業、運転、施設、電気それに新幹線と言ったものに大別される。その各々は現職時代あまり交わることが無く勤務したため、OBになっても全体の総会とか、行事には参加しづらい雰囲気が出来ている。こうしたことを打破することから、各系統別に集会を行い連携を深めることから、全体の行事等に参加しやすい雰囲気を作ることが大きな目的である。

 今回集まったのは新幹線でも総務関係1名、運転関係2人、施設関係12人、電気関係3人であった。静岡支部会員は全体で340人ほどが居るため、10%に満たない集団であるが、特に在来線の人とは交流が無い集団である。何とか一緒になってOB会活動を共にしたいと思っていた。それに今後のOB会をリードする人材も多くいる集団である。

 冒頭私は「OB活動は鉄道を退職した皆さんが、これからの人生をいろいろの繋がりを持ちながら、楽しく生きることにある。そこには現職時代の管理者、組合員と言った関係は無く、互いに友情を持ち、趣味を持って一緒に生きることにある。そのためには新幹線の仲間だけでなく、地区に生きる他系統とのOBの皆さんとの融和も大切である。そのための一歩にしたい」こんな話をした。そして先日の静岡支部総会の資料の中から抜粋して説明した。

 始めてのことで、質問も無かったが、昼食を挟んで、和気藹々の時間を持った。2時間弱の集会であったが、今後に生きる集会になってほしいと思った。この集会は新幹線を封切りに他の系統の集会も計画し、OB会活動を軌道に乗せたいと思っている。

 その後施設関係者の先輩後輩5人がアソシアホテルで茶を飲んで分かれた。疲れていたが、その後午後2時40分からはS学苑の「名曲をうたう」に参加した。午後5時過ぎ家に帰ってOB会の先輩である、NAさんの通夜に参加した。NAさんにはOB活動を通じて、お世話になっており、葬儀に参列したかったが、明日から旅行があり、他の役員に託すことにした。


ヤマモモの収穫出来るか?

2011-06-24 20:16:43 | Weblog

 ヤマモモの木の枝の先端に小さな芽のようなぶつぶつが出来たのは5月中旬であったような気がする。それは1mmほどの青いものであったが、いつの間にか直径2cmほどの青い実になって、その幾つかは地面に落ちていた。それはつい1週間ほど前であった。今日改めて見てみると、地表には、まだ真っ赤に熟したものは少ないが、足の踏み場がないほど落ちていた。そろそろ収穫に時期だとおもう。しかしまだ小さいし黒色を帯びた赤い実はあまり見当たらない。

 今日は風が強い日であり、見ている間に幾つかの実が音を立てて落ちている。そこで木の下にブルーシートを敷き収穫する準備をしようと思った。昨年は地面に直接ブルーシートを敷き、そこに落ちた熟した実を選んでとり、ヤマモモのジャムにして食べたが、酸味がある独特のジャムが出来た。家族にはあまり好評でなかったが、灰汁の取り方、煮詰め方等工夫すればもっと良いジャムが出来るのではないかと思っている。しかし昨年は地面の上に敷いたことからか、実に蟻や虫が入ってしまったことから、今回はシートを中空に吊るして、その中に実が落ちるようにした。木の幹が邪魔して中空には上手く張れなかったが、何とか2重のブルーシートを張ることが出来た。ブルーシートは1.8m×3.6mのもの2枚を使った。これを中空に敷くことによって、全てのヤマモモの実はシート内に落ちることが出来る。しかし作業中強い風が吹いていて、張ったシートがめくれヤマモモの実が地面に落ちることもあった。

 そこで各々のシートにレンガブロックを入れ、舞い上がるのを抑えた。その状態で10分ほど見ていたが、その間でも20個ほどがシート内に落ちた。それは昨年の実に比べ、小さいし扁平の物が多く、色付きも良くない。しかし今年は豊作なのか、枝には未だ鈴なりの実が付いている。きっとまだはしりであり、もう少し日日が経てば実も大きくなるものと思う。それまではこの状態にしておこう。夕方までにはシートの中も実は100個以上になっていた。しかしそれを口にするとすっぱさが強い。明日の夕方川崎の妹が来る。妹は加工の仕方も上手いので、その料理方法を頼もうと思っている。

 妹が来るのは、26日から私達夫婦で4泊5日の韓国に旅行する。この間母の面倒を見るため妹が来てくれた。これも私達を母の介護から開放させようとの思いからであり、ありがたいと思う。それ故26日から5日間はブログを休むことにする。


グランド・ゴルフ(G・G)

2011-06-23 10:21:34 | Weblog

 東静岡駅前にあったガンダム広場は多くの人を集め、今年3月末にそのイベントが終了した。今は本来の多目的広場になっている。このイベントが行われる前まで、この場所で鉄道OB会のグランドゴルフ(G・G)は2回/月のペースで行われていたが、イベント期間は、安倍口団地近くの安倍川河川敷にある施設で行ってきた。今回その広場が整備されたことから、東静岡駅前の多目的広場に戻ってきた。

 私にとって初めての場所である。午前8時30分までに集まることから、幹事であるNA君に携帯電話で、その場所を聞きながら、何とか時間までに着くことが出来た。ここはNTTドコモビルの直ぐ北側にあり、朝の通勤ラッシュで客の往来が激しい時であった。今日は15人のメンバーが揃ったが、先ずピンポール(正確にはなんと言うか分からないが、ゴルフのポールの穴の位置)を図面に合せて、距離を測ってセットしていくことから始まった。広場は整地してあるとは言うものの、凹凸があり、その上直径4cmほどの石がごろごろしていた。

 準備が終って始まったのは午前9時近くであった。今回は1ラウンドは12ホールを2回まわり、それを2回行うことでトータルの打数を競うことになった。私はG・Gをやるのは月1回程度であり、1年前から始めたので、12回ほどになる。故に上手くはないし、あまり上達もしていない。これをやるきっかけは、鉄道OB会員が行うスポールの内一番ポピュラーなもので、多くの会員がいることから、皆さんとのコミュニケーションが取れればよいとの思いから始めたものである。第一ラウンドのメンバーは4人でスタートした。SUさん、KAさん、NAさんと私である。皆さんは優勝の経験がある人達ばかりであり、何とか付いていこうとの思いでやっていたが、結果は一番よいスコアーであった。

 第二ラウンドは5人で一緒に回った。清水の2人とSUさん、GOさんと私であった。前半が良いと後半乱れるのがいつもであるが、今回も同じであった。私は前半より10打も多い結果になった。それでもトータルは131打で順位は4位であった。優勝したのは一緒に回ったSUさんで、トータル117打であり、後半だけでこの差が付いたことになる。しかし私にすれば、まずまずの成績であった。しかし、この3位までは静岡新聞に掲載されることになっているので、そのことだけは残念であった。                               6月22日のことを記す。


「TOの家」にて

2011-06-22 02:38:15 | Weblog

昨日は酒を飲んだ。朝目を覚ますと2日酔いで、スッキリしない。ゆっくりと朝風呂に入って何とか酔いを醒まそうとした。今日は「TOの家」で歌のボランティアがある。その準備はまだ出来ていない。あせる気持ちはあるが、頭が冴えない。それでも午前10時ごろには歌詞を書きとめた模造紙を広げて、今日の準備に取り掛かった。

 その中から6月に合った歌を捜した。この時期にも幾つかの歌があるが、今から模造紙に書いたのでは時間的に間に合わない。そこで書いたものの中から皆が知っていて歌える曲や、福島原発により静岡のお茶まで放射能汚染が喧伝されているような暗い世相に負けないよう明るい歌を選んだ。その曲は「茶摘み」「ねむの木の子守唄」「ゆりかごの歌」「見上げてごらん夜の星を」「この広い野原いっぱい」「青葉の笛」「田原坂」等であった。選んでいる内にこの曲が合っているか分からなくなったが決めた。あとは時間に合せて皆が知っているような歌を歌おうと、30曲ほどを用意した。

 午後1時20分には家を出て、「TOに家」に向かった。ありがたいもので、直ぐ何人かの施設利用者が入ってきた。皆さん顔見知りになっているので、いろいろ話しかけてくる。名前を聞いたり、どこの出身ですかと言った、あまり関係がないことにも聞いてくる。それに対して私も正確に応えるようにしてした。午後2時には50人近い人が集まってきてくれた。私がここに来るようになってから、4年ほどになる。楽器を使って伴奏することもない。ただ利用者の皆さんと歌うだけである。だからいつかは皆さんに厭きられてしまうのではないかとの思いがあった。それでも来てくれる人達がいることに感謝したい。そして、その席で皆さんに言うことは、「お腹の中から大きな声を出すことは、内臓を刺激して、健康に良いことなのです。皆と一緒に歌いましょう」である。そして皆で合唱することが、今まで続いていることだと思っている。

 約1時間の合唱は、トークを交えても15曲ほど歌う。その間200ccのペットボトル2本を飲んでしまう。そのことは何も気にならないが、歌ったり聴いてくれる人達が最後まで居てくれるのはありがたい。そしていつも最前列にいて、歌っているYAさんは先日100歳の誕生日を迎えたと聞いた。頭もしっかりしていて、私が調べて話すトークに、相づちをうってくれる。足は悪いようで車椅子に座っているが、物知りであり元気である。このように長生きできることは理想に思えた。今日は皆さんにのせられ午後3時を過ぎても歌っていた。        6月21日のことを記す。


町内の懇親会

2011-06-21 22:14:12 | Weblog

 今月上旬町内の役員が集まった折、皆さんの都合が良い時、ビアーガーデンで懇親会をする話が出た。その日が20日に決まり、午後6時静岡駅コンコースに集まることになった。小雨が降っていたが、バスに乗って向かった。5分ほど前には集合場所に着くと、皆さん手に笠を持って、浮かぬ顔をしていた。「ビアーガーデンでは出来ないので、別のところに用意してある」を言ったのはI副会長であった。彼は私のあと副会長をしているが、行動力があり、こうした時直ぐ次のことを考えるのが早い。「M中華店に頼んでおきましたので、そこへ行ってください」と言う。言われるままに駅南口にあるM中華店に入った。

 この店は現職時代数回来ていたが、餃子が旨いことで良く知られている。そこの2階の座敷に入ると中華用円形テーブルがあり座った。直ぐビールと餃子が出てきて手回しが良い。今日は男性8人だけである。1人の女性役員は下戸のため来なかった。乾杯の音頭があって直ぐ宴席は始まった。餃子が旨いとの宣伝が行き届いていて、大サラ2枚の盛られた餃子は、すぐ無くなってしまった。丁度熱さもほどほどでまたビールと良く合った。この店には透き通った声の女性がいて、注文するとその女性が、大きな声で厨房へ告げる姿は今も忘れず残っている。既に20年近く経っていたが、女性はいて料理等運んでくれた。その女性は店の女主人であったが、そのことは今回始めて分かった。以前私が行っていたことを覚えていて「元気でいますか」と話しかけてきてくれた。年齢は80歳近いのではないかと思えるが、以前のような元気のよい声は出さなかったが、昔の面影はそこにあった。

 ビールから始まったが、その後日本酒、紹興酒等が出され飲んだ。料理も何種類か出たが、全ての料理を食べた。若いときは丁度よい量であったが、食べ過ぎた感があった。時間が経つにつれ、みんなが酩酊してきたのか饒舌になった。町内のことから政治の話まで、とめどなく話が続いた。「酩酊するを見て、その人格を見る」こんな言葉はないが、このようなことを言われたことがあったが、今考えると恥ずかしさが残る。

 最後は現職のころと同じ、ラーメンを食べて終わることにした。まだ胃に入る余裕はないと思ったが、皆と同じにした。外に出たが時間は午後9時少し前であった。2人は2次会に行くといって分かれたが、ほかの6人はバスに乗って帰ってきた。家に帰ってからは、懇親会のことを思い出し、反省しきりである。                        6月20日のことを記す。