Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

ゴルフコンペの準備

2014-10-31 20:14:41 | Weblog

 11月6日(木)は施設OB会のゴルフコンペがある。このコンペは鉄道管理局施設部在職し、現在静岡県在住しているOBが年4回行なっている親睦ゴルフである。今回で158回目であるから40年近い歴史がある。昔は盛況で5~6組できたと先輩に聞いたが、最近は良くて3組ぐらいしか出来ない。今回も3組予約してあるが集まるか心配であった。このコンペは静岡県を4地区(沼津、静岡、藤枝、浜松)に分け、そこに住んでいる人が幹事となり順番に行っている。今回は静岡地区が幹事であり、私が行うことになった。場所は、Fゴルフ倶楽部に予約し、現在16人いる会員に往復はがきを出した。。その締切日が今日であった。

 まだ確認の取れない2人の連絡すると2人とも参加できないとの返事であった。現在8人が出席することになっていたので、何とか9名か10名にし予約した3組にしたかったが出来なかった。今回は2組8人のコンペである。最近はゴルフ熱も下火になり、新しい人が入らないことや、メンバーが高齢者していることもあって少人数しか集まらなくなった。後は2組の組合せをハンデ通りに決めていけばよいが、前の記録を遡ると今までのハンデに違いがあることが分った。そこで前4回遡って、新しいハンデを決めることにした。

 ハンデの決め方は規約にならって、その時の優勝から3位までに入った人のハンデの見直すことになっている。そして新しいハンデで次のコンペを行うことになっている。その作業をすると、幾つかの不具合が出た。悩んだが、今回は幹事の特権で新しいハンデを決めることにした。そのことは、既に終わったコンペの順位が変わることになり、賞品を貰った人も変わる。それをやるべきか躊躇したが行なうことにした。このことは当日メンバーが集まったとき話して了解してもらおうと思う。

 そこで新しいハンデを決め、組合せを作ってゴルフ場にFAXした。次は、優勝、準優勝、第3位、BBそれに4つのショートホールのニヤ―ピン賞、それにバディ賞の景品を準備する。そのため近くのゴルフショップに行った。景品は何にするか迷ったが、おおよその金額を云い、ショップの店員に決めてもらった。後は当日ゴルフをやるばかりに準備出来た。今は11月6日の天気が晴天であることを願うばかりだ。

 


OB懇談会から

2014-10-28 23:50:00 | Weblog

 鉄道OB関係者は毎年10月に退職者懇親会を行っている。今年は10月27日15時30分、ホテルアソシア静岡に集まった。今回は150名近い退職者と来賓のJR幹部の人も入れ総勢160名の懇親会となった。今年は東海道新幹線開業から50年目と云う節目の年であり、関心も高く多くの人が集まったようだ。私は退職後欠かさず参加しているが160名の参加は初めてであった。会場のテーブルに案内されたが、このテーブルには工務系統の8人が集まっていた。皆さん気心が知れた人ばかりであった。私より先輩は5人いた。来賓の工務部長もいて、数日前に発生し、一時不通になった東海道本線土砂崩壊の様子など話した。

 懇親会に先立ちOB会本部長のSさんが挨拶した。話しの中で年金の見直しがあるとの話があったが、そのことは気になった。続いてJR東海支社長がJRの現状について話した。内容は平成26年度上期の経営状況の話や新幹線開業50年のこと、そして代替施設としてのリニア新幹線着工の認可がおりたこと等の話であった。いよいよリニアも本格的建設のスタートするが、難問山積であり総力を上げて取り組むことの話があった。

 Aさんが乾杯の音頭を取った。彼は公安関係の人で、国鉄民営化により警察組織に移っていったが、その苦労した様が窺えた。一テーブルに公安関係の退職者が占めていたが7~8名の方が見えてくれたようだ。私はしばらく同系統の人達と話していたが、その大部分は昔起こった事故等の苦労話や民営分割時の思い出であった。今は笑って話せるが、その時は、そこからどうして抜け出そうかと、もがいていた自分を思った。それは今懐かしい思い出になっていた。先輩からの話は、私が知らなかったことをいくつか聞いたが、良いことも、悪いこともあったが、私の行動をハラハラして見ていたことをなど、当時の私の未熟さを聞かされた。

 その後テーブルを回って知人にあいさつしたが、酒がまわり相当気持ちよくなった。閉会のあと近所の友人のHさんと2次会に行った。現職時代よく行った店であったが顔を出した、そこには3人の別動隊がいた。そこに合流し飲んで歌った。3人は同年代の人で、現職時代の系統は違っていたが、退職後もよく話した仲間であり更に盛上った。そこからHさんとタクシーで帰ったが、家に着いたのは日が変わる頃であったが泥酔状態になっていた。


「歓喜の歌」練習

2014-10-26 23:39:20 | Weblog

 12月14日(日)清水文化会館マリナートで、「歓喜の歌大演奏会」が行われる。これは市民の参加による大演奏会で、今年で第23回目を数える。合唱メンバーも250名ほどが集まりオーケストラをバックに大演奏会を行う。6月から月2回のペースで練習を重ねてきているが、私も9月頃から練習に参加している。今年初めて参加した人も1/4ほどいると聞いたが、12月の本番までに歌えるようになるはずだ。私も一年目は歌えるよう時間をかけ努力したが、今年で9回目になると本番で歌う感動を楽しむようになった。

 今日は指揮者のAさんが初めて直接指導するとのことから、期待して参加した。今までの練習は、前半の一時間は男性のみで行ない、後半の一時間は女性と合同で練習するこのになっていたが、今日は最初から全員が大ホールに集まりAさんの指導を受けた。指揮者は毎年変わっていたが各々の指揮者が個性的な人ばかりで、その都度感動を与えてくれたが、タクトの振り方一つで、曲質が変わることを実感してきた。今回のAさんも期待して迎えた。

 始めて見たAさんは、30代後半のごく普通の人で威厳やオーラは感じない親しみやすい人と云うのが印象であった。最初に合唱団の代表のKさんがAさんについて簡単に話した。それによると大阪での「1万人の歓喜の歌大合唱」の指揮もしたこと。、東日本大震災後の復興のための「歓喜の歌大合唱」も指揮した人で、将来を嘱望された指揮者であるとのことであった。その後、Aさんの指揮で「歓喜の歌」を歌った。各フレーズごとにテンポよく、わかりやすい言葉で注意点を指摘し直してくれた。音楽に対して感性と表現力は、今までにない指揮者であるように思えた。この指揮者ならより成熟度の高い演奏会になることを予感させられた。

 9年前初めて「歓喜の歌大演奏会」に参加した時は、みんなに合わせるのに精一杯で余裕はなかった。しかし毎年参加するようになってから、指揮者のタクトで曲質が変わることが少し分るようになった。まだ一回しか指導は受けていないが、今年の演奏会も感動の多い演奏会になるだろう。

 


アンノー芋と里芋の収穫

2014-10-24 22:06:45 | Weblog

 生ごみは、庭に穴を掘り、そこに捨てるようにしている。穴は生ごみでいっぱいになり次第土を掛け、別のところに掘っているが、概ね直径60cm、深さ50cmほどの穴である。この穴掘りは、父の代から行っていて30年近くが経つ。生前父はこの土地を購入し、表面に30cmほど土を盛った。その土は礫が多く余りよい土でなかったので、穴を掘っては、その礫を取り出し、塀の近くに集めるようにしていた。その礫が溜まったころに、集めて河原に捨てに行っていた。その頃から庭のいたる所に穴を掘って生ごみを捨てるようになった。今は木が生えている以外のところは概ね穴を掘った。最近は以前掘ったところを再度掘り起こすこともあるが、それにより土壌改良ができてきている。最近では野菜の苗を植え収穫できるようになった。

 今年春に庭の一角約10㎡ほどを畑にして苗を植えた。それが夏にかけキュウリ、ナス、ピーマンなど収穫できた。これも、そのおかげと思っている。先日その穴からカボチャの苗から芽をだし蔓を伸ばし幾つかの実も成った。それを大きく育てようと竹を組み棚にして、無秩序に蔓が這わないようにした。しかし生った実も直径3cmほどの大きさになると、黄色くなって実が落ちてしまった。南瓜を育てるのは難しいと悟った。しかし里芋は、生ごみが養分となって3か所で葉が茂り、収穫の時期を迎えた。またアンノー芋の切れ端も生ごみとして捨てた。それが蔓を伸ばし、その葉は虫に食われていたが繁茂した。

 我家にある草刈機が故障したので、3日前に購入したホームセンターに直しに行った。それを家で試験的に動かしてみたが、雑草と一緒に里芋の葉とアンノー芋の蔓を切ってしまった。そこで今日朝食前に堀り越し収穫することにした。そこは木で囲まれた中にあり、余り作物には良いところではなかった。掘ってみると、里芋は一本の茎から8~10個の実が生っていた。しかしまだ早いのか直径2cm~5cmほどであった。それでも5本の茎から50個近い里芋が取れた。そしてアンノー芋も10個ほどの実が付いていた。しかし全然早過ぎて太さは直径3~4cmとまだ収穫する時期ではなかった。それでも、何も手入れもすることなく収穫できたことを喜んだ。

 夕食時里芋の料理が出た。茹でたものと、煮付けたものであった。買ったものとは比較はできないが小さな里芋は柔らかく、スルッと喉を通った。美味しい味であった。収穫した里芋の全てを料理したとのことであったが、2人で概ね食べてしまった。アンノー芋はまだ残っているが、きっと明日の食卓には出て来るものと思う。


OBのインストラクター会議から

2014-10-22 22:07:34 | Weblog

 午後2時からK先生の音楽講座があった。そのレッスンで「Con・Te・Partiro」を原語で歌った。これは前回に続いて2回目である。前回の時は旋律も然ることながら、原語の発音が悪くて、基礎から指導された。それをテープに取ってあり、この一ヶ月間は何度も繰り返し聞き、概ね暗記できるようになった。今回は多少自信も持ってレッスンに臨んだ。しかし散々であった。正しい発音が出来ていないことから、同じところを何度も指導された。概ね暗記したとは言え、固まった状態でないのでこの指導は良かったと思う。残念なことは、最後まで歌いきれず2/3ほど歌ったところで時間となったが、次回には最後まで歌えるようにしたい。

 終わった後午後5時から支部事務所で行なわれるOB会に出席した。今回は定例会のあと、インストラクター会議が予定されている。その主題は来年4月に行う支部総会で、会員の作品展示会を行うかどうかを決めること、それに総会時行うアトラクションをどのようにするかを話すことであった。私が支部長であった昨年は作品展示会を中止した。その理由は毎年行うと期間が短く新しい作品制作が出来ないことや、毎年展示会をやる意義が乏しいこと等あり、皆の協力が得られなかった。そこで毎年やらないで、少し間隔を開け行うことになった。

 そこで今年はどうするか話し合い、丁度新幹線開業50周年であり、新幹線の50年の流れを写真を中心に展示する意見で決めた。今回は写真と云う一分野に絞ったが、会員の中に新幹線の写真を撮り続けた玄人肌の人が数人いることから、この人達が中心となり、インストラクターが協力して行うことにした。まだ総会まで半年ほどの日時があるので、それに向け準備することになった。

 また総会時に行うアトラクションをどうするかの話は、インストラクターのメンバーが行うことで一致した。OB会員の中からスポーツや学芸で優れた人をインストラクターに認定している。これはOB会の活性化に繋げようとする制度があり、私も音楽とゴルフのインストラクターになっている。今回の総会時のアトラクションは、音楽を行なうことになった。メンバーにバイオリンとフルートの奏者がいる。それに声楽を入れ3人で行うことになった。3年ほど前の総会で2人が楽器を演奏あったが、今回は私も加わる。曲目等はこれから考えることになるが、4月の総会の方法は決まった。残念なことであるが現在もOB会員の減少は続いている。そんな中ではあるが、活動を活発にし、この現象に歯止めを掛けたいと思っている。

 


歯医者に行く

2014-10-21 22:31:25 | Weblog

 年を取ると、身体にいろいろ悪いところが出てくる。それは頭や内臓であったり、腰や膝、又歯であったりする。古希を過ぎた人間にとってそれは已む負えないことだと思っているが、それでも頭や内臓でなかったら良いと思っている。友人にもそうした病気を抱え病院通いの人も多い。私も今は目立った症状は出ていないが、腰や膝は悪くなっていることを感じる。整形外科医からは、リハビリに通うよう言われているが、その時シップ薬を貰って来るだけでリハビリには通っていない。医師は諦め顔で「この程度でおさまっているなら言わないが、悪くなったら我慢できずに通うようになるから」と云った。

 そんなこともあり健康維持のため、ラジオ体操や散歩、ストレッチ、それにゴルフ等たまにやっているのが現状である。また歯も悪くなっている。今考えると若い時の不摂生から、現在5本の歯を失い24本残っている。この歯は今後も残るよう朝夕の歯磨き、歯間ブラシ等欠かさず行うようにしている。そして半年に一回は歯医者に行って歯垢等取って貰うようにしている。前回は4月に行ったので、昨日病院に電話し、近日で空いている日を聞いたところ10月20日午前11時に来るよう言われた。この半年間は歯のケアーは確りやってきた。この間歯茎から出血することもなかったし、痛んだこともなかった。しかし歯垢は溜まっているので、それを取って貰うためである。

 時間に行くと、直ぐ治療椅子に案内された。医師にどこが悪いか聞かれ「今日は歯垢を除去してもらうためきました」と云うと私の歯を見て、虫歯もないし歯茎もよいですね」と云って看護師に細かなところを見るよう指示した。看護師は奥歯から一本一本針のようなものを使い歯溝ポケットの深さを測定していった。「よく手入れしてますね。歯茎がしっかりしていますが右奥下の一本のポケットは4mmあります。悪くならないよう、後でそこの磨き方を教えます」と云った。その後歯垢を器具を使い取ってから、私に鏡を持たせ、悪いところの磨き方を説明してくれた。

 この歯医者に来るようになって5~6年経つ、最初に来た時の歯溝ポケットはどの歯も4~8mmあった。その時歯から血が滲んだ。医師は「このままにしておくと歯が抜けますよ。歯の磨き方を教えますから毎朝夕歯と歯茎を磨くと共に歯溝ポケットに歯ブラシを入れ磨くようにしてください」と云って鏡を持ってやり方を教えてくれた。それから歯を正しく磨くようにした。その後は、半年に一回は受診するようにしてきた。今では歯溝ポケットは小さくなってどの歯も2mmか3mmになった。今後は、これ以上の進行が無いよう気を付けたい。10月24日には上の歯の検査をすることになっている。


「TBG」月例コンペ

2014-10-18 22:57:38 | Weblog

 第3土曜日は毎月「駿河TBG」コンペを有度山総合スポーツセンターで行う。この会に入って5年くらい経つが、同年代の人が多く、この日を楽しみにしている。今日は風もなく、さわやかな秋晴れとなった。午後1時のスタートであり午前中は庭でアプローチの練習をした。今日は良い感触であった。正午過ぎ近所のEさんが車を出してくれ、それに同乗してスポーツセンターへ行った。11人のメンバーが集まった。このメンバーを3人、4人、4人の組に分かれ各々がスタートして行った。私は6番ホールからENさんとSAさんと3人でスタートした。この2人は飛距離は余り出ないがOBも出さない。しかしアプローチが上手いので平均ストロークは3人とも同じぐらいであった。

 最初の6番ホールは、ショートホールで距離は短いのでその加減が難しいホールである。上手く打ったつもりであったが、少し球が飛び過ぎOBとなった。一打目のOBは悪い予感がしたが、それからは、一打一打に集中して打った。ショットは良かったが、アプローチで球が上げられないところにつく不運もあり、前半の9ホールはトータル30(パー27)の3オーバーとなった。ハーフが終わって、皆さんの集計を見ると、飛びぬけて良いスコアーはなかった。いつもアンダーを出ているKAさん、FUさんもトータル28のスコアーであった。

 後半が勝負と思った。私はしり上がりに調子が出てきて、7ホールまではバディーが4、ボギーは1つの3アンダーであった。しかし8ホール目でつまずいた。このホールはパー3のサービスホールであるが、距離も短く、上手くいくとホールインワンするホールである。打つと距離も出て、ホールの脇まで飛んだ。これはバディーチャンスであったが、2打目を傘の縁に当て、直下に落ちた。ここからはボールを上げることができず、ボギーになった。バディーのつもりがボギーになった。それ以外は上手くおさめ、後半のスコアーは25であった。トータル55(パー54)は最近にない良いスコアーであった。

 しかし、今までの優勝スコアーはアンダー(54以下)であることから上位に入るものの優勝は出来ないと思っていた。しかし、いつも上位に来るKAさんもFUさんも後半くずれてアンダーは出なかった。結果は私が優勝となった。2位とは2打の差があった。TBGは実力も然ることながら、運とか調子が大きく影響するスポーツだ。午前中にアプローチの練習したが、それ以外は前回からクラブも触らなかった。メンバーを見れば私より上手い人は数人いる。それでも優勝できたのはラッキーとしか言いようがない。


ディナーショーの誘い

2014-10-17 21:27:15 | Weblog

 7月4日に大谷のGハウスでチェコの弦楽五重奏ディナーショーを聴いた。40人ほど入る部屋での生の演奏であったが十分満足できた。これをプロデュースしたのはHさんと云う女性で、彼女の企画した演奏会に今まで三回ほど聴きに行った。そして昨年のクリスマスには音楽を通じて知合った仲間で、食事会を兼ねての演奏会も行った。今年もクリスマスも近づいたので、いま企画しているものがあるか電話して聞くと「一度話したいことがあるので空いている日はないか」と云はれた。そこで10月17日午前11時に新静岡近くの食堂で合うことにした。

 ソファーで待っていると、すぐHさんが見えた。食事をしながら、今企画している話を聞いた。それはチェコの演奏家を招いてのコンサートの話であった。それは前回のメンバーとは違って、”チェコフィルハーモニー管弦楽団”と”ブルノ国立フィルハーモニー管弦楽団”の団員から選ばれた弦楽五重奏をプライベート特別演奏会を静岡で行うとのことであった。方法はディナーコンサートで演奏会は某ホテルのホールに80名ほどの人を集め行うと云った。まだ「チラシができたばかりであるが、もう完売しそうな状態であること。そして2枚のチケットを用意したので、奥さんと来てほしい」との話であった。歌うことは好きだが弦楽五重奏の曲は余り知らないので躊躇した。しかしHさんの熱意で買うことにした。

 Hさんは小柄な60代半ばの女性で外国語に堪能しているとは言えないが、当人がチェコに行ってプロヂュースする等、すごいバイタリティーがある。演奏会を行ったり、珍しい外国のものを紹介したりする等の企画力には驚かされる。聞くと、子供さんは既に社会人になっているし旦那さんは大企業のサラリーマンと云った。悠々自適の生活できるのに、そうした殻には閉じ籠らない人である。私のような人間には、思い切ったことをするので何処かあぶなっかさすら感ることもある。私が知った約3年間にも、いろいろのことをトライして来た。そうした経験が人間を成長させているのかと思った。

 食事のあとは、直ぐ藤枝に行くと云って正午過ぎには出かけていった。帰りがけ「今年も昨年同様クリスマスにみんな集って演奏会をやりましょう」と云ったが、この話が主体になると思って出かけたが具体的ことは何も決まらず拍子抜けした感じであった。人の考え方に違いは余りないと思っていたが、その範囲を越した人が世の中にはいることをHさんから感じた。午後1時に業者が来て白アリ駆除の防虫剤を巻くことになっているので直ぐ家に帰った。


ノーベル平和賞から

2014-10-14 22:04:51 | Weblog

 10月はノーベル賞受賞者が発表され、それに一喜一憂してきた。今年は物理学賞で日本の赤崎 勇氏 平野 浩氏 中村 修二氏の3人が青色発光ダイオウ-ド(LED)を発見し、実用化した功績で受章した。これは大きな歓びであった。また前評判では文学賞に村上春樹氏、そして平和賞には日本国憲法9条を守っている日本国も候補に挙がっていると云われた。しかし物理学賞以外は叶わなかった。それはさて置き、平和賞を受賞したのは、パキスタンの17歳の少女とインドの人権活動家の2人であった。その中でパキスタン人のマララ・ユスフザイさんは武装勢力パキスタン・タリバーン運動(TTP)に支配され暴力的恐怖政治が行われる中で、女性の権利を主張し銃弾に倒れても主張し続けた少女であり感心を持ち功績を辿った。

 彼女はパキスタン北部スワート地区で、私学の女子学校を経営する教育者の両親のもとで育った。11歳のときBBC(英国放送協会)の依頼でTTPによって支配されている地域の実状をブログに書き主張を訴えてきた。TTPは女子教育を否定し女子学校の破壊等行っていたが、それを批判、女性の権利を尊重することや平和を訴えるものであった。それは勇気ある行動であるがTTPから命を狙われた。2012年10月9日、15歳になった彼女が乗ったスクールバスを複数の男が急襲し、頭部と首に2発の銃弾を受け重傷を負った。手術の結果奇跡的に回復し、その後も女性の教育を受ける権利について積極的に発言してきた。

 彼女が16歳の誕生日に、国連本部で女子教育の現状と教育の必要性を訴えた。そのビデオを見たが、素晴らしい内容であった。力のある口調で18分ほどの演説であった。未だ教育が浸透していないと思えるパキスタンの少女が、堂々として教育の必要を訴えた。それは誰もが感動した名演説であった。最後の部分を紹介すると『TTPは、銃撃により女子が教育を受ける権利を抹殺しようとしたが、このことは弱さ、恐怖、絶望を絶ち、強さ、力、勇気を与えてくれた以外何も変わっていません。そして一人の子供、一人の教師、一冊の本、そして一本のペンが世界を変えるのです。教育こそがただ一つの解決策です』と

 この少女が国連の各国代表が揃った中で堂々と演説した。とても17歳の少女とは思えない素晴らしい内容であった。この少女こそノーベル平和賞を与えるにふさわしい人だと思った。まさに貧困、人種差別、不条理がはびこる社会から、それを打破しようとする人間が出て来るもので、年齢も階級も関係なく強い信念を持った人が出てくる。一部の先進国のように自分のエゴや繁栄しか考えないところからは、こうした人間が出てこないことを思った。国連は彼女が演説した日(10月12日)を、その名前を取って「マララ・デー」としたとのことであった。


「登呂祭」から

2014-10-12 23:23:56 | Weblog

 町内最大のイベントは登呂祭である。これは登呂遺跡を囲む町内の連合体「登呂会」が主催するもので、ここに弥生時代の集落があり、稲作を行い収穫を祝ったであろうことから、その新嘗祭を現在に引継ごうとのことから、昭和27年から行っている秋祭りである。この祭は10月の第2週の土曜日と日曜日の2日間おこなうようになっていて、今年は10月11日、12日の二日間にわたって行われた。登呂遺跡の多目的広場には、中央に舞台を配し、その周りを各町内のテントと露店が並び、近隣から多くの人が集まってくる。各町内のテントの中では福引など行い、町民のコミュニティーの場となっている。この祭りは、広場で皆が踊り明かすことになるが、それと並行して各町内では山車が路地を練回り、神輿や踊りも披露する。また手筒花火もこの祭りの特徴である。

 私も一昨年まで役員をしていて、この祭りに携わりやってきたが、終わった後の達成感は尋常でなかった。それだけ大変であったが、今年も新しい試みなどあり皆さんが喜ぶ内容になっていた。2日目の今日は、午前9時20分ごろ我家の前で、神輿と山車がとまり、そこで太鼓に合わせて婦人会や子供さん達が踊ってくれた。そこには昨年より多くの人が参加し、特に子供さんが多くなったことを感じた。一時子供さんの参加が少なくなり、神輿の担ぎ手がいない苦労を考えると良かったと思った。

 午後になって妻と登呂遺跡広場の町内のテントに行った。福引は妻が引いたが1等と2等であった。上に特賞があるが、毎年4等か5等であったことことを思うと驚いた。役員にテントの中でお茶を飲むよう勧められたが、妻は家が留守になるからと云って帰って行った。私はテントに残り、中の人と雑談した。役員が接待してくれたが、今年は町内の人口も増えたこと、そして町内の会社の協力もあり、やり易かったことや、役員の後継者探しの苦労話など聞いた。しかし町民の連帯意識は高くなっていて、行事等の参加者が増えているとのことであった。広場では踊りが続き、舞台でも、一般参加の人達が歌や踊り、マジックなど行っていた。

 一時間ほどいて、町内のテントから出て、広場を散策した。この広場も3年ほど前に登呂遺跡の整備工事によって出来たものだが、少しずつ改善が進み、登呂の田畑に囲まれた中に、この一角だけが盛上った雰囲気を作っていた。周りの田んぼには稲で富士山を描いた一面があり、そこには弥生時代の案山子を模したと思われるものが並び、いにしえの昔をしのばれる光景が広がっていた。家に帰ったのは午後5時近くであった。その後犬の散布をしてから午後7時から行う清水マリナートでの「歓喜の歌演奏会」の練習に参加した。