Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

カルチャーの忘年会

2015-11-29 20:27:03 | Weblog

 11月29日カルチャー仲間の忘年会があった。このカルチャーを主催する先生はミュージカル出身なのか、歌に踊りを取り入れたものが多いが、それでいて内容は幅広く童謡、ポップス、映画音楽そしてクラッシックまでいろいろのジャンルのものを教えてくれる。ユニークな先生でいろいろと勉強になる。この先生は県内に幾つかのカルチャー教室を持っているが、その生徒が一堂に会し忘年会を静岡アソシアで行うことになった。こうした催しは年1回~2回行ってきたえて、この集いはいつも楽しみにしてきた。

 今日の忘年会では、各カルチャーから余興が披露された。これは先生からのアドバイスもあるが、中々手の込んだものを披露するところもあった。事前にその練習をするのも大変であったが互いの親睦のために欠かせないものとなっている。忘年会は11時30分から始まり、昼食をはさんで行われた。全員で35名ほどの人が集まった。年齢も40代から70代ぐらいとバラエティーに富んでいた。ワインで乾杯のあと食事しながら1時間ほど歓談し、そして余興に入った。しかし私は事情があり酒は飲まないでいた。先生は盛んに私に場を盛り上げるよう催促されたがテンションは余り上がってこなかった。

 最初の余興は私達のグループが指名された。前面の広いスペースに8人(女性6人、男性2人)が揃いコントと歌の余興を始めた。概要は、≪飛行機でイタリアのベニスに飛び「ゴンドリ、ゴンドラ」を歌う。すぐ日本に帰ってきて日本の「ゴンドラの歌」「琵琶湖周航の歌」を歌い最後に「炭坑節」を踊る。≫これが順番であった。この歌と歌の合間にコントを入れ、歌のほかに踊や擬音を入れたり、替え歌にしたりした。時間にして10分ほどのコントと歌と踊りであった。最初はみんな尻込みしていたが、その内に声も大きくなり、適度のコントも笑いを貰い愉快に締めくくることができ胸をなでおろした。その後も3のグループが、余興を行った。中には、衣装も揃えたグループもあったが、皆さん中々の役者ぞろいで演技に笑いを誘った。一年に一度はこうした自分の殻を払って過ごすことも良いことである。

 最後に指名され、フレーフレーと最後の締めを行った。これは事前に云われていたので準備は出来ていた。その概要は「各所から先生の教え子が集まり皆様と楽しく過ごすことができ有り難うございました。そこで先生に対するお礼と皆様との親睦に感謝してエールをおくります。1つはフレーフレー「A先生」、2つはフレーフレー「音楽の友」で行い、最後に3本締めで会を締めくくった。そして屋外に出て全員の集合写真を撮ってから解散した。今日は酒も飲まずに何とか過ごすことができた。

 

 


ヘンデル作曲「ハレルヤ」

2015-11-27 20:59:07 | Weblog

 12月13日清水マリナートで「第25回市民による歓喜の歌大演奏会」が行わ合唱団員として参加する。これはベートウベン作曲の交響曲第九番(合唱)の演奏が主となるが、それ以外幾つかの曲が演奏される。その一つがヘンデル作曲「ハレルヤ」がある。この四部合唱曲を英語で歌うが、テナーのパートに苦戦している。本番まで半月ほどになったが、未だに譜面を見ながら音程の定まらない声で練習している。

 「ハレルヤ」の言葉を正しく知りたいと思い調べた。この言葉は、ヘブライ語に由来する言葉で「主をほめたたえよ」と云う意味でキリストを賛美した言葉である。これはユダヤ教の賛美の言葉であるアーメンなどと共に、キリスト教に残る代表的なヘブライ語の祈りの言葉の一つである。「ハレルヤ」はヘンデルが作曲した「メサイア(オラトリア)」の中で歌われる混声合唱曲であるが、メサイアは英語読みの「メシア」(救世主)のことで、聖書から歌詞を取り、イエス・キリストの生涯を題材にした独奏曲・重奏曲・合唱曲で構成されているようだ。

 その中で特に合唱は優れていて、第2部最終曲の「ハレルヤ」はとくに有名である。1743年、初めてロンドンで演奏された際、国王ジョージ2世が「ハレルヤ」合唱が始まると起立し、あとに観客が総立ちになったという逸話がある。これは、かって英国では全知全能の神を讃える歌が演奏される際には起立する習慣があったと云われているが、その最初が国王ジョージ2世でなかったのでないか思った。日本のコンサートに置いて聴衆が「ハレルヤ」で立ち上がるのは、この逸話に端を発しているとのことであった。

 10年ほど前、母が健在であった頃、母の末妹YOさんは既に洗礼を受けていて、キリスト教の教会に行っていた。そのキリスト教会が我家から歩いて10分ほどのところにあり、YOさんが母を連れて教会に行くことが度々あった。あるとき私も付いて行き讃美歌など歌い牧師の話を聞いた。その時、教会で「メサイア」のCDが買った。それはイスラエルとパレスチナの合同オーケストラが演奏したものであった。ソリストも合唱団員も2国の人が合同で歌っていた。その頃2国は争っていたが、民族を超え合同でオーケストラを組み演奏していることに驚いた。水と油のように混じることができない両国が「メサイア」を演奏することができたのには、何か特別の力を感じたものであった。「ハレルヤ」を調べていて昔のことを思い出した。

 


インストラクター会議から

2015-11-25 22:36:18 | Weblog

 国鉄、JRの退職者の親睦組織である鉄道OB会は、昭和64年4月民営分割された以降は、各JR単位に組織化され現在に至っている。しかしこの組織も今は母体となるJR会社も少数の体制になったこと等から退職者が減少し、その上退職者がOB会に入るのも少なくなっている。こうした状況を打開しょうと、いろいろの方法は取られているが、その一つがインストラクター制度である。これはOB会員の中で技能を持っている人が指導者となって活動し、OB会の活性化に繋げると云うものである。このリーダーの会が11月25日午後5時から静岡支部で開催された。

 私はゴルフ、マジックのインストラクターに指名されていて出席した。静岡支部には15名のインストラクターがいるが、その技能は囲碁、将棋、絵画、書道、マジック、登山、グランドゴルフ、ゴルフなどがある。活動しているものもあるが、休眠状態のものもあり全てが上手くいっているとは言い難い。この会議は年一回行われるもので今回13名が集まった。ここでは活動状況などが話されたが、特に目新しいことはなかったように思った。その席で静岡支部としての今後のスケジュールが示された。12月9日の忘年会、来年1月の7日初詣、4月18日の支部総会が大きな行事であった。また支部が発行する平成16年度の蒸気機関車入りのカレンダー配布や元旦に発行する「支部だより」のゲラ内容も示された。

 この中で4月に行う「平成16年度支部総会」の中で、アトラクションを行うが、その内容について話し合った。このアトラクションは私が支部長のときも実施してきたが、その内容は、部外からコーラスグループを呼んだこともあったが、会員の踊りや、マジック、ハーモニカ演奏、バイオリン演奏等あった。今回も中々決まらなかったが、会員でバイオリン、フルート、独唱を行い、懇親会前の約20分ほど行うことになった。バイオリンとフルートの演奏は昨年既に行われていたが、今回そこに独唱を入れることにした。

 この過程で、私に「マジック」を披露してくれないかとの要望があったが、既に数年前行なっているので、私の方からバイオリンとフルートの演奏で日本歌曲を歌うことを提案した。独唱は私が行うことになったが、以前からOBの皆さんの前で歌を披露したいとの願望はあった。一昨年の4月支部長を降り顧問として支部活動に携わって来たが、既に若い人がこのOB会を引張って行く体制は出来てきていることを感じていた。その分岐点となる支部総会でバイオリンとフルートの2人の力を借り歌を披露することが良いことではないかと思った。


施設OB会ゴルフコンペ

2015-11-20 21:16:50 | Weblog

 鉄道を退職してから、ゴルフの楽しみは大きくなったような気がする。コースに出るのは月1回~1.5回ぐらいであるが、その日が来るのを楽しみに待っている。だからと云って腕は上達しないし球も飛ばなくなった。スコアーも100前後であり、一番良かった頃に比べ10から15ほどスコアーは悪くなっている。しかし、今はスコアーよりもフェアーウエーを歩くことに喜びを感じている。今日は鉄道の施設系統OBのコンペで、30年近く続いた歴史のあるコンペである。コースも以前何度かプレーしたことがある「リバー富士カントリー倶楽部」で行うことになった。このコンペは年4回行い、幹事は沼津地区、静岡地区、藤枝地区、掛川地区に在住する人が行うことになっていて、今回は沼津地区幹事がこのゴルフ場での開催を決めた。

 家を7時50分に出た。150号線を進み、国一を通って富士川駅前で左折して松野地区に向って進み、ゴルフ場専用道路のジグザグの山道を進むとゴルフ場に出た。丁度午前9時に到着した。メンバーは13名で4組に分かれて甲斐コースから出ることになった。メンバーの年齢は60代から70代であるが、その中で私は最年長者であった。つい先日までは新人のつもりでいたが、いつの間にか年配者が居なくなっていた。私は3組目のスタートで、NAさん、SAさんと一緒に回ることになった。この2人は同じ職場の後輩でありよく知った仲間である。

 最初のティーショットは緊張したのか右の林の中に打込んだ。その後もショットがぶれ4打でグリーンに乗ったが3パットのトりプルボギーのスタートになった。2番、3番もも安定しなく、ここまでで8オーバーとなったが、4番で始めてパーが来てから感覚が分った感じがした。以後はボギーも出たがパーも幾つか取りOUTのスコアーは49で回った。前半の失敗がなければと悔やんだが後の祭りであった。他の2人はNAさんが46、SAさんが52であった。昼食後駿河コースを回ったが、ここでは大きな失敗はなかったが、中々波に乗れづパーが来ない。何とか我慢のゴルフであったがスコアーは48、トータルスコアーは97と平凡なスコアーとなった。因みにNAさんは後半41で回り、SAさんも48で回った。

 クラブハウスで、簡単なパーティーを行った。優勝はARさんでトータル86、準優勝はNAさんで87、第3位はNAさんで88であり、私は7位であった。今日は朝方小雨の降るスタートとなったが、30分ほどで上がり、暖かな日和の中でラウンドできた。反省点も幾つかあったが、その答えも分ったような気がした。次回の幹事は私が行うことにしている。実施時期は冬の間を避け4月の桜の咲くころ行おうと思う。

 


「井伊直政」と云う人物

2015-11-18 22:50:19 | Weblog

 幕末期、攘夷か開国かで揺れた日本にあって、江戸幕府の大老「井伊直弼」は日米修好通商条約に調印し日本の開国を断行した。強権を持って国内の反対勢力を粛清したが、反動を受け桜田門外で暗殺されたのは35万石彦根藩の第13代藩主であった。彼は開国しても江戸幕府を守ろうと思ったに違いない、しかしその意とは異なり幕府は体制奉還し、新しい天皇を中心とした明治時代に入っていく。明治維新を推進したのは薩長土肥の連合であったと云うが、井伊直弼の開国がその基にあったと考える。そこで井伊家のルーツを訪ねた。すると遠州国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)にたどり着いた。

 その初代藩主「井伊直政」は、永禄4年(1561)、今川氏家臣の井伊直親の長男として井伊谷で生れる。幼名は虎松と云ったが、2歳のとき、父親は謀反の疑いで今川氏真に誅殺される。その後甲斐の武田が今川を攻め井伊谷は武田の領地になる。その過程で命を狙われるが、出家して難を逃れるなど幼少期は苦労の連続であった。その後徳川家康に見いだされ井伊氏に復することが許され、旧領である伊那谷の領有が認められ、家康の小姓に取りたてられた。

 徳川四天王の中で、遠州出身の井伊直政以外の3人は徳川家康と同じ三河出身である。どちらかと云えば外様のような直政が、家康に可愛がられ四天王の一人になったのは不思議である。それは彼が徳川家康へ並々ならぬ忠誠を誓い実行したことにある。幼少から少年期彼が今川氏、武田氏の領地で身を隠して流浪の生活を余儀なくされた苦難の連続であった。その中で、この戦国時代を治めるのは徳川家康しかいないことを確信したのではないか。そして徳川家康のため死に物狂いで尽くした。家康の近くに侍り信頼を得ていった。武田氏が滅亡すると、武田氏の重臣・山県昌景の遺臣たちを多く召し抱え、その戦略戦術を学んだ。小牧・長久手の戦いでは、豊臣軍を翻弄させるような戦果を得ている。それでありながら、岡崎城に人質として迎えた秀吉の母・大政所を親身に警護し大変気に入られ、大阪城まで送り届ける役も見事にこなし秀吉からも好評を得る。しかし第一に家康のため滅私奉公する姿は変えなかった。

 この直政も関ヶ原の戦いでは、東軍が勝利を確信するまで戦い抜いたが、西軍しんがりの島津軍を追い脚にけがをしてしまう。これが致命傷となりその年に42歳で亡くなっている。彼の行動は自分に厳しく、他人にも厳しいところがあったが、常に先頭に立って行動するのが常であった。それがあだになって、命を落とす結果となるが、井伊軍の乱れない軍律と強さは、破れた西軍の抑えとして、かって石田三成が治めた藩内に彦根城を築き、井伊家の居城とした。そして250年続いた江戸幕府にあって、ここを治め続けた礎を築いた人物である。

 

 


町内のバス旅行

2015-11-14 22:32:17 | Weblog

 11月14日は町内の日帰りのバス旅行が計画され私も参加した。行く先は長浜と彦根の城の見学し秋の深まる琵琶湖周辺を回るコ-スであった。あいにくの雨が降る天気となったが、朝7時に町内中央の某薬局の前に集まり大型バスに43名が乗り込んだ。私はバス最後部の5人掛けの中央の席に座った。御夫妻の方や子供さん連れの参加もあり前の席はそのような人が座り、最後列は役員及び男性で占めていた。バスが動くとビールが配られ会話は盛り上がった。最後部に座った人は全員が概ね年齢も近く普段から話し合っている友人である。

 東名高速道路を走り浜名湖のサービスエリアで休憩した頃には、酒やビールが効いて来てほろ酔い機嫌になっていた。そこから2時間30分ほどで走ると長浜市に着いた。昼食を食べたあと町を散策したが、商店街には歴史的ものは少ないようで、一緒にいた男性5人で、長浜城に行った。この城は豊臣秀吉が初めて築城した城で、琵琶湖に面した平城である。秀吉は天正2年(1574年)築城を開始し、天正10年までの8年間をここで過ごしたところである。この天守閣に上がると、室町時代末期から安土桃山時代にかけ、戦乱の中巻き込まれた小谷城跡や佐和山城跡などが見えた。この城はその後廃城となったが秀吉の出世城として言い伝えられている。現在の城は昭和58年再興したものであるがその面影をしのぶことができた。

 ここから彦根城はバスで30分ぐらいのところにあった。城郭は当時のままで、戦国時代を思わせる曲がりくねった石段や天守閣は築城時のままの姿で、気高い雄姿を誇っていた。この城の初代藩主は井伊直政の嫡子直継・直孝によって約20年の歳月をかけ築城され元和8年(1622)完成したもとある。その後井伊家が歴代藩主として徳川幕府を支えた城で、歴史とロマンのあふれる古城であった。この天守閣は数少ない国宝となっていて、質素な中にも、地域を守り抜く威厳を感ずる城であった。

 来年の大河ドラマは「井伊直虎」と云うが、戦乱の中で井伊家を守り抜いた直虎と云う女性の生涯をドラマ化したものである。そのことや、徳川幕府末期、井伊直弼の登場で開国に踏み切ったことなど重なり、感慨を与えてくれた城であった。バスに乗り込んだのは午後3時を回った頃であった。雨も本降りとなったが、後はバスで帰るだけである。このころになると疲れもピークに達したが、役員たちが、その疲れを和らげてくれるように楽しいゲーム等して盛り上げてくれ、気がついた時には静岡に帰っていた。夕方7時20分には無事解散して家に着いた。


天海と云う人物

2015-11-12 22:05:58 | Weblog

 徳川家康のことを調べていると「南光坊天海」と云う僧への信頼の強さが分る。通説では108歳(1536?~1643年)まで生きた天台宗の僧で家康の側近として江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与している。しかし彼の出自や1588年武蔵国の無量寿寺北院(埼玉県川越市にある喜多院)に移り天海と号するまでは良く分っていない。その年は52歳であり江戸時代では既に老人である。翌1589年には徳川家康(46歳)と会い、天台宗の教えを説いている。その後家康の厚い信頼を受け、1599年(63歳)には北院の住職になっている。1600年の関ヶ原の戦では、家康の傍らあって、参謀としての役割を果したと云う。

 徳川幕府の係わりは大きいが、その中でも大坂の役の発端となった慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件での進言、そして元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を大僧正となった天海に託された。家康死後に神号を巡って金地院崇伝、本多正純らと争い、天海は「権現」として祭ることを主張、崇伝らは「明神」を主張するが。2代将軍徳川秀忠の諮問に対し、彼は『豊臣秀吉は「豊国大明神」と云う神号が贈られた後豊臣氏は滅亡した。「明神」の神号は不吉である」と断言した。そこで家康の神号は「東照大権現」と決定した。その後3代将軍・徳川家光に仕え、、寛永元年(1624)には寛永寺を創建している。また家康から託された江戸の都市計画には、陰陽道、風水に基ずく構想を提言し、その初期から完成するめでの50年近く携わった。

 天海は、江戸城の北東「鬼門」と南西「裏鬼門」を重視し、鬼門の方向に寛永寺を築き、寛永寺の寺号「東叡山」としたのも平安京の鬼門の方向にある比叡山の延暦寺に倣って付け、寛永寺の側には、琵琶湖に倣って不忍池を築いた。また寛永寺の隣に上野東照宮を建立し家康を祀り、幕府の祈願所として浅草寺で東照大権現として祀るなどした。そして江戸城の南西(裏鬼門)についても、その方角にある増上寺に2代将軍である徳川秀忠を葬ったうえ、ここを徳川家菩提寺とした。さらに同じ方角に日枝神社(日吉神社から分祀)を移すなどして、江戸城鎮護を図った。

 彼は、徳川家康、秀忠、家光の3代に仕え、江戸の都市計画と江戸幕府が長期繁栄のため尽力した。前半生に関する史料はほとんどないが、長寿で知識豊富であり100歳を超えても知識が衰えなかったと云う。そして最後は日光輪王寺の大僧正として徳川家康の廟を守り、寛永20年(1643年)に没している。その5年後に朝廷から慈眼大師号を追贈されている。天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったことから、いろいろの憶測があり足利将軍落胤説や、姿をかえて生き残った明智光秀であるという説もあるが、これも噂の域を出ない。


同窓会(六木会)に出席(2)

2015-11-10 21:18:57 | Weblog

 朝6時に起きると、同僚の2人は寝ていたがNI君はいなかった。多分風呂にでも行っているものと思い2人を起こしたが起きる気配はなかった。窓のカーテンを開けると北の空は黒い雲が迫っていて今にも雨が降りそうな空模様であった。天気予報も雨のち曇りと云う予報であった。同窓会には九州や関西などから6組のご夫妻で参加し、今日は多分箱根や伊豆を回る予定かと思うが生憎の天気になってしまった。そんなことを考えながら一人で露天風呂に行った。昨夜も入ったが紅葉した葉を見ながら露天風呂は格別であった。熱い湯船に暫らく浸っていると、知らない人が入ってきた。それまで誰もいなかった。

 部屋に行くと3人の同僚は起きていた。一緒に朝食のため一階の広間に向かった。そこには既に洋服に着替えた何人かの同僚が歓談しながら食べていた。その一角に座ったが、そこは同室3人と九州から見えたIT君ご夫妻がいた。彼とは宴席で話が出来なかったので改めて話しかけた。彼は体調を崩していたが良くなったので奥さんと出席したと云った。今日は観光旅行には行かず直ぐ帰るとのことであった。まだ体調は完全には戻っていないらしいが、それでも出席してくれたことを感謝した。食事が終わった後は自由解散となった。

 因みに同室の3人は、今は茨城、東京、名古屋に在住している人達であったが、今は現職を離れ趣味として野菜など作っていると云った。年齢は私より若いが農業談議では農家顔負けの話をしてくれた。私は家にある柿やミカンの話しをし、上手く収穫できないことを話すと、木の病気や、害虫駆除の方法など私が知らないことを教えてくれた。私達は土木出身で、現職時代に鉄道建設に奔走したが、いまは現職を離れたとは言え、それが野菜や庭木作りに生かしているようだ。同じ経験をした私であるが、彼等はずっと吸収力の速い。そんな時間を過ごし、三々五々帰って行った。

 私は、午前9時過ぎに名古屋のMA君と旅館を出た。微かな雨が降っていたが歩いて湯河原駅に向かった。下り坂を早足で歩くと20分ほどで駅に着いた。彼は新幹線で帰ることから、そこで分れた。駅前のみやげ店で数点のみやげを買い、下り列車に乗り込んだ。今回の同窓会のことを思った。来年は仙台か、福島で行うことが決まったが、年を重ね段々出席者が少なくなった。しかし私は何とか健康を維持し出席したいと思う。統計では日本人の健康寿命は71歳と聞いた。その年齢を既に過ぎているが知らない内にいろいろの部位は弱ってくるものだ。それでも来年も出席しよう。


同窓会(六木会)に出席(1)

2015-11-09 19:23:31 | Weblog

 国分寺の中央鉄道学園土木科で学んだ同期の同窓会(六木会)は毎年この時期に行っている。卒業してから続いていて今回50回目を迎えた。このメンバーは高校から受験した人や、国鉄部内から受験して入った人等年齢に多少の差はあるが、今は全員が70歳以上の年齢となっていて、当時紅顔の青年であった皆さんも、国鉄時代の労働争議や民営分割の荒波に揉まれ、その経験が顏に刻まれているが、今は柔和な老人となって静かに余生を送っているように見えた。ここに出席するのは楽しみであり現職のときは都合で出席できない年もあったが、退職した後は毎年出席するようにしている。

 今年は東京地区が幹事となって、11月9日~10日にかけ、神奈川県湯河原の「ニューウエルシティー湯河原」で行うことになった。入学した時は43名であった同窓も、現在7名が鬼籍に入り、また体調不良の人等があり少なくなった。今回はご夫妻での参加6組、会員7名の19名の参加者となった。残念であるが50年も経つとこのようなことも已む負えない数なのかも知れない。しかし今回は19名以外3名の方は出席を希望していたが仕事で、急遽来れなくなった人もいた。彼等はまだ社会で必要としている人材であり、同期にそうした人がいることに誇りに思った。

 宴会は午後6時から始まった。写真撮影の後、会長の挨拶、乾杯の後マジックを披露した。この3年ほどは私がマジックを行うことが恒例になっていた。しかしそれに叶う多くのマジックは知らないし、既に2回のマジックで持ち駒は概ね尽きていた。また、かさ張る小道具を持って行くことも出来ない。そこで俄仕立てマジックで何とかしようと準備した。しかし慣れないこともあって、皆さんに満足させるようなものは出来なかった。何とか拍手をもらい終わることができたが、ひやひやの連続であった。そのあと宴席の輪に入ったが、今日は酒は飲まないことに決めていた。そして酒に強いことが自慢の私が呑まないことから皆さんから怪訝もされ、心配もされた。理由は別途話すが、そんなことで私自身も盛り上がらなかった。しかし皆さんの酒量は以前より少なかったものの饒舌となり近況や昔のことなど話題に盛上った。その中で6人の奥さん達の話は亭主のことを持ち上げたり、機知に富んだ話は、貫録の付いた女性の強さと優しさを醸しだしていた。

 宴席の後、幹事の部屋に男性陣が集まり、座卓を囲んで雑談した。酒も入り学園生活の思い出や、昔の苦労話、近況、それに会員の消息などタネの尽きなかった。時間が過ぎるのを忘れ楽しい一時を過ごした。気が付くと既に11時を回っていた。女性達も別の部屋でワインなどで盛り上がったようであった。


ワクチン注射

2015-11-07 21:58:47 | Weblog

 10日ほど前から妻からインフルエンザワクチンの注射に行くよう言われていた。彼女は既に行っていて心配してくれてたが、今日は朝早く起きて豊橋の方へウオーキングに出かけた。私も朝食を食べすぐ病院に行くつもりでいたが、テレビを見出すと腰が重くなり、しばらく見ていた。それでも午前9時30分ごろSU医院に行くことにした。ここの医師は我家にとって主治医といえる、両親もこの医師に世話になっている。今回はインフルエンザ予防接種であり、行けば直ぐやってくれるものと思った。しかしSU医院に行くと、待合室は30人ぐらいの人が待っていた。受付で予防接種で来たことを云うと、体温と問診票に記入するよう言われそのまま待合室の椅子に腰掛け待った。

 今日は土曜日であり子供さんずれの若い母親や、サラリーマン風の人も見えていたが、それでも1時間以内には診察してくれると思っていた。しかし、何時になっても呼ばれない。書棚に置いたある週刊誌も一冊読み終わってもまだである。その内に外の車の中で待っている人が、受付で「未だですか、あと何番目ぐらいですか」と聞く人も数人いた。既に午前11時を回っていたので、私も受付に行って聞くと「まだ10人ぐらい前の人がいます。中には病気で来ている人もいますので、ハッキリ申し上げられませんが多分正午頃になるかと思います」と云われた。

 しかし正午を過ぎてもまだ呼ばれなかった。看護師から呼ばれたのは12時30分ごろであった。丁度3時間近く待ったことになる。これだけ待たされると平常心ではいられない。面相も悪くなっていることが分る。しかしそれを出すわけにもいかず極力顏の筋肉を伸ばし普通の顔にするよう心掛けた。看護師も「今日は混んでいて長く待たせてすみませんでしたね」と云っが、私は「順番ですから已む負えません」と云うのがやっとであった。医師の前に行くと直ぐ腕にワクチン注射をしてくれた。そして医師は「揉まなくてもよいし今日は風呂に入ってもいいです」と云った。会話はこれだけで正味1分以内の検診であった。

 今年はウイルス性の風邪が流行ると云われ、病院にくる人は多い。しかし診察までの待ち時間がこのように長くなることは想像できなかった。これは私の責任であるが、病院での待ち時間は多い。現在予防医学が発達していて少しの不調で掛かるケースが多い。これは良いことだと思う。しかし病院に来るのは老人が圧倒的に多い。しかし治療によって完治することもあるが、大部分は病気を押さえたり、散らすことが多いのでないか。それは再発もあり、老人の病院通いに繋がっているのでないか。そのようなことを考えた。