Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

叙勲の伝達と忘年会

2010-11-30 23:22:39 | Weblog
 午後1時ごろTさんの家に電話すると奥さんが出た。Tさんは77歳で急逝した鉄道の先輩である。そのTさんに叙勲の勲章、賞状等が来ている。「叙勲の賞状等を届けたいが、午後3時ごろに伺いたいがいらっしゃいますか」と言うと居るとのことであった。着替えをしてTさんの家に向かった。
 Tさんの家は安倍川沿いの美和街道を北上し、近くには田園が広がる郊外の一角にあった。近くには第二東名高速道路が計画されており、この街道の交通量も多くなっていた。
広い庭がある家で、その中に車を停めた。
 奥さんが出てきて、応接間に案内された。直ぐ仏壇に行きTさんの遺影に拝した後、天皇陛下からの叙勲(瑞宝双光章)として勲章と賞状をお渡しした。
 そしてTさんの生前のことなどはなしたが、奥さんによると、Tさんは元気で今年の正月を過ごした。2月にはいって胸のところに違和感を覚え、医師の診断を受けたところ、食道がんであることが判った。それはリンパを通して他へ転移していて、末期のがんであることを告げられた。医師や家族の看護もむなしく9月亡くなったと言った。まだ喜寿を迎えたばかりであり、これから奥さんと余生を楽しく生きていこうと思っていた矢先の死であった。
 それから約2ヶ月近く経っていて、少しは落ち着いたとのことであったがぽっかり穴が開いたような感じであるといった。
 しばらく話したが、寄寓にもTさん家族が、名古屋市の鉄道官舎にいたとき、隣りに住んでいたのが妻の両親と家族であり、高校生であった妻を知っているとのことであった。懐かしさのあまり、一度会いたいと話していた。1時間ほどして帰ったが、そのことを妻に話すと、昔を思い出したのか、未だ若かったTさん家族のことを話した。
 時間は午後5時を回っていた。今日はマジック仲間の会「あすなろ会」の忘年会がある。御幸町の「築地日本海」という料理屋で午後6時から行われる。幹事をしているので、早めに行かなければならない。礼服を着ていたので、上着をブレザーに着替えただけで会場に向かった。
 メンバーは9名であり、その内女性が4名であった。この店は12月8日の鉄道OB会の忘年会でも使う予定であり、そのときと同じ料理を頼んだ。全員が揃って、会長の挨拶の後宴会は始まった。
 料理は5品で飲み放題とのことであったが、料理が少ないように感じた。最低料金であったので止む終えないが、最後に出された寿司は、いつの間にか無くなっていた。それでも皆さんは満足してくれたようであった。話の中で、ボランティアは今まで通り行うが、来年6月ごろに旅行をしようとの意見があり、その方向で進めることになった。
 忘年会をやると一年のけじめが出来たような気持ちになる。
 
 

姪御の来訪

2010-11-29 23:52:01 | Weblog
 先日(16日)定期診断を受けたが、その結果を聞きにAM10時ごろ自動車で杉山医院に行った。月曜日であり待合室には20人ほどが待っていた。受付へ診察券を出しながら「どのくらい掛かりますか」と聞くと40分ほど掛かると教えてくれた。
 その間別の用件を済ませようと、病院を出て自動車で向かった。その一つは12月5日に行う町内役員による花壇の補修で必要なモルタルを買うため、ホームセンターに行った。その帰りに鉄道OB会支部に顔を出した。丁度S事務局長がいて「Tさんの叙勲の賞状等が来ていますので、都合の良い時届けてください」と言われた。このTさんはOBの先輩で静岡駅長をした人であったが、9月に亡くなった。その死亡者叙勲の賞状等が来たとのことであった。遺族と連絡して近々の内に届けようと思う。
 時間は既に10時40分を回っていた。直ぐ病院に戻った。案内で聞くと未だ呼ばれないとのことであり、ホッとして椅子に座って待った。待つこと30分、やっと呼ばれて医師のところに行った。この瞬間は医師から、何か悪いことを言われるのではないかと緊張する間合いである。
 医師はデーターを見ながら「前立腺がんの検査は異常ありませんし、血液検査結果は、中性脂肪は基準値より低いですが、これは良いでしょう。血小板数が少し低いですので3ヶ月ほど後に再検査して下さい。それに便潜血検査は1回目は陰性でしたが、2回目は陽性でした。これは大腸がんの検査ですので別途細密検査を受けてください。それ以外は基準値内でした」こんなことを言われた。三年ほど前にも同様のことを言われ、細密検査を受けたが異常はなかった。しかし三年も経っているので近いうち細密検査を受けようと思う。
 しかし緊急を要するようなことを言われなかったので安堵したが、高齢になって少しづつ数値が上がっている気がした。
 家に帰ると、妻から「姪(末弟の長女)のYUちゃんが午後4時ごろ来ると電話があったので、何か生菓子など買ってきて」と言われた。この近くでは評判の「シューマン」と言う菓子屋に行って、生菓子とクッキーを買った。姪御は横浜に住んでいるが、父(末弟)の見舞いと、清水区に住む母の両親を見舞い、そしておばあちゃんに会いに寄ってくれた。「今年の正月は会社が忙しくて来ることが出来ないかもしれないので」と言って入って来た。
 彼女にしてみれば、親や祖父、祖母を見舞うために一日費やして来てくれたが、明るい振る舞いの中にも、両親の苦労を、少しでも助けてやりたいとの思いを感じた。
 一時間ほどいたが、帰り際勤めている会社でおせち料理を販売しているが、注文してと言われた。沢山は買えないが、一番高ものを注文した。
 
 

第九「歓喜の歌」練習

2010-11-28 23:28:45 | Weblog
 昨日は「名曲をうたう」の講座のあとエレベーターを待っているとメンバーから「今から静岡おでんを食べに行こう」と誘われた。その様に誘われたのは始めてであり、年末に歌う「歓喜の歌」に一緒に歌うメンバーもいたので行くことにした。自動車を駐車場に置いておき、明日取りに来ることにした。メンバーの4人は静岡駅の中の居酒屋に入り、おでんと焼き鳥をさかなに、焼酎を2杯飲んだ。会話はありふれたことであったが、楽しい宴席となった。その中で、クラスの忘年会をやろうとの話があった。11月の暮になってこのような話であり、次回の講座の時、皆に計ることにした。そうなると忘年会は次々回の講座がある12月25(土)になる。丁度クリスマスの時期であり、今から場所があるか決めなければならない。
 今朝早めのバスで自動車を取りに行き、そのとき静岡駅内の数軒の店を当たった。この講座には酒を呑む人が少ないので、料理を主体にした店を捜して海鮮料理のUO店を予約することが出来た。
人数はわからないので、取りあえず10名~12名程度として申し込んだ。
 そのあとは自動車で鉄道OB会のメンバーにカレンダーを配った。この趣旨はメンバーでありながら病気がちであったり、OB活動に参加できない人の家を訪ねて、慰問するのが主である。中には長期入院していて、本人には会えない人もいたが、家族と話が出来た。また本人に直接会えた人は、来てくれたことを喜んでくれた。温もりのあるOB活動とはこのようなものと考えている。
 それと未加入者のところにも訪ねていった。カレンダーを持って3人の人に会ったが「少し考えさせてくれ」という人が2人、1人は入会してくれた。今日は4時間ほどの間に8人の家を訪問したが、このような地道な活動は、OB活動の原点であり、年末まで続けようと思う。
 それから今日は「歓喜の歌」合唱の日である。PM7時から清水市民文化センターで練習がある。12月12日が本番であり、今日を入れてあと4回しか練習日がない。未だ未完成であり、どうしても休むわけにはいかない。夕食を食べ文化センターに向かった。最後の追い込みなのか、指揮者も熱を帯びてきた。本番には男性約90名、女性約220名が参加するといわれた。今日は熱気を感じ全員が来ている感じである。「歓喜の歌」は4年ほど歌っているので何とかなるが、第一部で歌う2010メロディーの中の曲は未だ自信がない。特に「世界に1つだけの花」「サライ」は皆と旋律が合わない。この曲を歌うのは2回目であり止む終えないと思うが、本番には暗譜して歌えるようにしたい。
 高音の曲が多く、声を張り上げて歌ったので頭の芯に痛さを感じた。しかしそのあとは、爽やかな気持ちであった。 
 

柊の香り

2010-11-26 22:48:28 | Weblog
 昨日まで、何故か余裕のない日が続いた。まだ年末に向けやらなければならないことが多いが、今日は夕方30分ほどピアノ教室があるが、それ以外は自由な時間が取れた。
 犬の散歩をしていると、公園や道路の並木も剪定作業が行われているし、庭のある家では、庭師が入っているのか、綺麗に冬支度が出来ている。それに引きかえ我家は、まだ手付かずである。広葉樹は葉を落とし、針葉樹は枝が込んで、日の光が通さないほど込んでいる。
 天気は良いし、今日は庭の片づけをすることにした。余り無理すると腰や腕が痛くなるので、3時間を目安に庭に出た。先ず松の手入れからすることにした。4年ほどまえ、カルチャー教室で、「庭の手入れ」なる講座を3ヶ月ほど受けたことがあるが、庭の手入れは松の剪定が出来れば概ね良いと講師から言われた。それほど松の手入れは、剪定の基本であり難しいものである。これをマスターするには3年以上通う必要があると言われ、時間がないと諦めた。しかし3は月しか通っていないとは言え以前より分かるようになった。松の形を作ることは出来ないが、形を変えないで間引き剪定なら出来る。先日5本の松をやったので、残りの3本の松を剪定した。日の光がどの枝、葉にも入るようにしただけである。
 そしてモチノキはかかった。未だ赤い実をつけているので軽めに剪定した。脚立より高いところは木に登って作業した。その次はヤマモモの木だ。この木は樹高が高くなるので、間引き剪定と、樹高を詰める作業をした。折れやすい木であり登っての作業は危ない、脚立と高所用剪定ばさみを使って始めたが、中々形が整わなかった。それでも強めに剪定したので、スッキリした木になった。
 これ以外蘇鉄や棕櫚の葉を落とした。剪定した葉や枝は、犬小屋脇にある木犀の木の横に山にしておいた。この葉が犬のねぐらになる。寒くなると小屋より、葉の中にいるほうが良いようだ。
 作業をしている間ずっと、かすかに甘い匂いをしていたのは、柊の花であった。可憐な小さな白い花が枝に密集して咲いているようだ。トゲのある葉に隠れて分からなかったが、葉の下の枝から小さな茎を出して咲いていた。日が山の端に近づき、薄暗くなったころで、よく見えなかったが、どうもそのようである。
 この匂いは、清楚な匂いというか、金木犀やジャスミンのような甘く、強い香りはしなく、余り目立たないように香っていた。
この木の花言葉は「先見の明」「歓迎」「剛直」とあった。この語彙も鋭いトゲに触れたとき痛みを表す「ひいらぐ」という言葉が転じてr「ヒイラギ」となった。
 我家では魔よけとして門を入った直ぐ正面にヒイラギの木があるが、そこを通る人が、かすかに香りに気がつくほどの香りである。季節的に芳香する花は、この時期咲くヒイラギが最後なのかもしれない。 
 

マジックボランティア等

2010-11-24 23:12:43 | Weblog
 朝8時に鉄道OB会が行うグランドゴルフの会場がある安倍口団地近くの河川敷に向かった。グランドゴルフにはOB会員が多く集まるクラブであり。そうしたことから参加するようにしている。
 あまり興味はないが、競技であり負けたくないとの気持ちが働き、最近は少し上達してきたように思う。34ホールを2回廻って6アンダーのトータル138と中位の成績であった。競技は正午には終わって直ぐ家に帰った。急いで昼食を食べ着替えをしてマジックのボランティアを行う大谷地区の「萩の里老人介護施設」に向かった。午後1時に集合と言われていたが10分ほど遅れてしまった。施設の玄関につくとメンバーのSさんが居てくれて、2階の控え室に案内された。今日のメンバーはT会長以下5人で、男性2名、女性4名である。
 この施設には「名曲をうたう」で一緒のEさんが介護師として働いている。その女性には名曲の発表会のとき、マジックで行くことを伝えた。
 しかし「名曲をうたう」の発表会後の懇親会のとき、マジックを披露しているので、同じものは出せない。そこで今回はそのときと違うマジックを行うことにした。昨夜準備に時間を費やしたのも、新しいマジックを練習していたからである。
 今日はこの施設の「演芸祭」であり、午後1時から紙芝居や介護師による寸劇、合唱等が行われていた。その後に私達がマジックを披露することになった。
 私は3番目に行った。番が来て舞台に上がって観客を見ると、Eさんは介護者と一緒に見ていた。新しい出し物にしてよかったと思った。新しいのは「トランプ」と「シルバーボール」であるが、前回もやった「ボトルとグラス」それに「新聞紙と水」をやることにしていた。順調な滑り出しであったが、「ボトルとグラス」が終わったところで会長から時間なのでそこで終わるように言われた。そこまで失敗はなかったが、肝心の「新聞紙と水」が出来なかったのは断念であった。
 6人のメンバーの実技はみんな良かったように思えた。
 終わったあと、控え室で道具の整理をしているとEさんと施設の責任者がお礼を言いにきてくれた。Eさんは直ぐ帰ったが、責任者は30分ほど私たちと話した。
 内容は外部からボランティアとして来てくれることへの御礼であったが、再度来てほしいことも懇願された。責任者はピアノを弾いていたので、音楽への造詣は深いようだ。
 そして話が弾み、私の歌に合せてピアノを弾くことになった。何故このようなことになったのか反省したが、その責任者は「一緒に歌のボランティアをやりませんか」と言った話もされた。
 初対面でありそこまでにしたが、感じの良い人であった。
 そこが終わって午後5時から始まる鉄道OB会月例部会が開かれる支部事務室に向かった。  

明日の準備

2010-11-23 23:28:09 | Weblog
 マジック用新聞等を購入しようと、午後2時ごろ町出た。祝日(勤労感謝の日)であり、人通りが多い、呉服町はクリスマスの飾り付けしてあり、クリスマスソングが流れていた。マジックで「新聞から水」なるものをやろうと考えている。そこに使う新聞は最近のもので写真等派手な紙面がよい。そこでスポーツ新聞を買いに行き、スポニチの朝刊を買った。その一面には楽天の岩隈投手が、メジャーを目指してポスティング・システムで独占交渉権があるアスレティックスと交渉していたが、決裂したニュースがトップ記事になっていた。これを使った「新聞から水」と言うマジックをすることにした。それ以外「あすなろ会」の忘年会場の確認等幾つかのことをして帰った。
 明日の予定は、午前中鉄道OB会のグランドゴルフが安倍口団地のグランドであり出席する。午後1時からはマジックのグループ「あすなろ会」が市内大谷地区の介護施設でマジックのボランティアに行くことになっている。
 そして午後5時から鉄道OB会支部の月例部会が行われる。この月例部会で1月発行する「静岡支部だより」の編集会議も行われる。 この素案作りも私の任務であり、Aー3両面の情報誌をどのようにするか、そのたたき台を示さなければならない。
 そのたたき台は、先ず表のトップ記事に600字ぐらいで年頭の挨拶を入れる。そのあとは10月26日行った組織拡大会議の様子を200時程度にまとめる。
 今回は年首であり、一面の残りは各クラブの活動報告を写真を使って掲載することを考えた。そのことは、OB活動の状況が写真で判るので良いと思う。
 掲載するクラブ(部)はグランドゴルフ部、ウオーキング部、ゴルフ部、囲碁部、それに12月に実施するカラオケ部で写真と各100字ほどのコメントを入れてまとめようと思う。
 最下団に「月例部会」の様子と編集者が感じていることを「わかば」としてまとめる。
 裏面は「望まれ親しまれ地域の活動」のコーナーでは、会社を退職してから地域で活動している人を紹介するもので、写真を入れて1200字ぐらいで纏めるもので、今回で19人目である。
これはAOさんにお願いすることにする。JR関連企業紹介のコーナーには「静岡ターミナル開発(株)」にお願いすることにした。それに「JRトッピクス」のコーナーは最近のJR東海のニュースを2~3個掲載しようと思う。広告は、関連会社3社を掲載するつもりだ。
 その考えをA-4の用紙にレイアウトをまとめて、明日の編集会議で検討することにした。
 終わったのは午後8時ごろであったが、それからマジックの準備にかかった。10分ほどの演技であるが、トリックを作るため多くの時間を費やす。この演技の予習中失敗が何度かあったが、これが本番に役立つ。準備が終わったのは夜の11時を回っていた。
 

体調管理

2010-11-21 20:12:22 | Weblog
 昨夜はT・Bゴルフの忘年会から帰って9時前であったがそのまま寝た。11月18日のバス旅行から帰ってから体調は余りよくないでいる。バスの中でビールを飲みすぎたのが原因なのか、身体に蕁麻疹が出ていて痒さが酷くなっていたので風呂にも入らなかった。
 忘年会では酒は飲まないつもりでいたが、付き合い上中ジョッキーで2杯ほど飲んだだけであった。
 朝起きたが、痒さはその範囲を広げていた。掻けば掻くほど痒くなるので、あさ熱いシャワーを浴びることにした。こうすると痒みを忘れるような気がした。今日は日曜日なので、病院にも行けないのでゆっくり休もうと思っていた。
 振り返って思うと、この蕁麻疹が始めて出たのは、社会人になったとき職場の歓迎会で、酒を呑んだ。そのときも適量も分からず深酒したが、家に帰ると身体に蕁麻疹が出て、その痒さで苦労したことがあった。
 そのときは、病院にも行かなかったし、仕事も休まなかった。一週間ほど、毎晩熱い風呂に入ったが、熱さが皮膚がピリピリして気持ちよかった。そのうちに痒さも取れ、蕁麻疹も引いた。そのことから、私は酒に合う体質ではないと思ってきたが、その後はつき合いで酒を飲んでもそうした症状は出なくなっていた。しかし冬場にかけての、このような時期には、多少痒い時もあったがそこが赤くなる程度で、2~3日ほどすると直っていた。そんなことから、サラリーマン時代は、つき合いで、よく酒を飲んだし、酒が強いとまで言われた。
 しかし50年近く経ってからまた同じ症状が出たことは、酒だけでなく身体的原因があるのかと思った。
 年齢を重ねると、弱いところも出てくるもので、そうしたことを身体が教えてくれているのかもしれない。昔のように無茶なことをしても、身体に力があったので、それを症状に出すことはなかった。しかし古希を過ぎた現在、身体は無理なことは受け付けない身体になっているのだと思う。
 今日も、友人のご遺族から「喪中につき年頭のご挨拶を失礼いたします」と言った内容のハガキが来ている。元気で一緒に仕事をし、酒を飲んだ仲間からであり、このような便りを受けると、年を考える。
 医師にもらった乾燥肌用の塗り薬を塗っておいたが、夕方には痒みが引いてきて少し楽になった。蕁麻疹も心なし小さくなっているようである。
 一度医者に見てもらうつもりでいるが、今後は少し酒をひかえ健康的生活を送らなければならないと思う。

T・B・ゴルフと忘年会

2010-11-20 23:28:26 | Weblog
 午前中、町内社会福祉協議会のメンバーで花壇の花植えがあった。秋の花が終わって、冬から春にかけて咲く花に植え替えるもので、苗は市が配布してくれた。10名の協議会のメンバーが、チーウリップやバンジー、マーガレット等の苗を植えていった。やはりこの時期の花は小さく咲くものが多いようで、苗も春のものに比べて小さい。
 この作業が午前11時近くには終わって家に帰ると、近所のYさんが「有度山スポーツ公園で計画されている午後1時からのT・B・ゴルフは正午には出発したい」と言った。早めにいって練習しようとのことであった、最近は練習をしてないで、直ぐ賛成した。
 4人が自動車に相乗りし、日本平の麓にある有度山スポーツ公園に行った。ここで練習したが、俄仕立てでは中々上手くいかなかった。何事も、練習しないと忘れてしまう。
 今回の大会には12名全員が参加した。私が欠席している間に2名の新メンバーが加わっていた。この競技はゴルフのグラブ(PW)を使い、傘を逆さまにしたようなところに、羽の付いたボールを入れるもので、何回で入れたかを競う競技である。ゴルフのような広いフィールドは必要ないので、近場ででき、静岡市も、この競技の普及に力を入れている。
 今日はこの大会の後忘年会も行うことになっている。12名は3組に分かれ9ホール×3回のトータルで競うもので、そのトータル値に個々人のハンデキャップを引いて少ないほど良いスコアーとなる。概ねゴルフと同じような競技である。
 9ホールのパープレーは27であり、このメンバーにもアンダー廻る人がいる。
結果は37、37、37の30オーバーであった。良かった時10オーバーぐらいで廻った時もあったのでよくないスコアーと言える。しかしこのメンバーはスコアーに余り執着しないで、和気藹々で行うところがよい。今回も優勝したのはハンデキャップ0のKさんであったが、2アンダーのスコアーであった。
 忘年会は静岡駅前の葵タワー地下のシャブシャブの店であった。今日の体調は余りよくなかったので、無理しないで楽しもうと思っていた。それは先日の町内バス旅行で飲み過ぎたのが原因なのか、蕁麻疹が太ももや腹回りに出て痒い。
 そのため酒は呑むまいと思っていたが、行きがかり上中ジョッキー2杯飲んだ。それにシャブシャブは食べ放題とのことでたくさん食べたし、皆との会話も楽しめたし良い忘年会であった。そのあと青葉通りを散策した。午後8時を回っていたが、若い人達で賑わっていた。イルミネーションは昨年より豪華になって、その下で何組かのライブが行われていた。イルミネーションの灯りは市役所から常盤公園まで続いていた。  

信州・伊那路の旅

2010-11-18 23:27:38 | Weblog
 11月18日は町内会は「信州・伊那路の旅」のバス旅行を実施した。秋のバス旅行は毎年行われていて担当役員は、6月ごろから準備をして町内の皆さんに喜んでもらう旅にするべく頑張ってきた。
 今回は34名が参加し、大型バス定員いっぱいであった。このバスはトイレが付いていて、長い旅行を安心して楽しんでもらうとの配慮があった。
 このバス旅行、旅は往復行程500kmの旅で、行程の長い伊那路をバスに乗りながら、深秋の紅葉を楽しんでもらおうというものである。
 あさ7時ににスは出発すつ時間であり、10分ほど前に行くとバスは既に到着し待っていた。そして定刻前には参加者全員が揃った。
 定刻に出発し、東名高速道路を西に向かって走った。今日は朝の寒さは厳しかったが、青天に恵まれ、バスの中ではビール等が出され、和やかな雰囲気で会話が弾んだ。豊田JCから中央自動車道を北に進路をとって進むと、恵那峡SAに着いた。この間車内での会話が弾み、外の景色を見ることはあまりなかった。そこで15分ほどの休憩をして、更に北上した行った。看板を見ると飯田地区と書いてある。もう飯田まで来たのかと思った。現職時代は飯田線の防災工事等でよく来たが、それ以降20年近く来たことがなかった。ここに来ると、中央アルプスと伊那山地に囲まれ天竜川沿いに長く広がる伊那盆地に出た。この時期ちょうど紅葉は真っ盛りであり、色付いた山並は錦絵を見ているような光景であった。最初に降りたのは、養命酒の工場である。
 今まで知らなかったが、養命酒はここが発祥の地であるといった。その広い工場内は整備されていて、落葉樹の楓は真っ赤に色付きをしていた。そこからほど近いところに、天台宗別格本山・光前寺があった。ちょうど開創1150年祭が行われていて七年に一度のご開帳にああると聞いたが、時期遅く11月14日で終わっていた。
 しかしこの寺の境内は紅葉の見ごろであり、少ない時間であったが境内を散策した。
 昼食はその近くの店に入ったが、ここには多くの観光客が来ていて、同じ伊那牛のすき焼きを食べていた。ここではこのすき焼きが名物なのか。
 そのあとみやげ店等によって過ごしたが、この伊那谷の日が暮れるのは早い。午後4時前に帰路のバスが出発したが、既に日は山の端に隠れるようになっていて、あたりは暗さが目立ってきた。帰りの来た道を戻るだけであるが、帰りの250kmは長く感じた。車内でビンゴゲームやテレビを見て過ごしたが、この時間になると疲れが出てきて、睡魔に襲われた。気が付くと中央自動車道路から、東名高速道路に出ていた。途中2箇所ほどの休憩を取って、静岡に着いたのは午後8時丁度であった。皆大きなみやげをもって降りた。今日はよい天気に恵まれ、トラブルにも会わず旅行が出来たことを感謝する。

水戸学とは

2010-11-17 21:03:31 | Weblog
 一週間ほどまえ、町内会の会合が終り、自転車で帰ってくる折、一緒に居たSUさんが『貴方は歴史に詳しそうなので聞くが、今年は桜田門外の変から150年目に当たるが、井伊直弼の駕籠に切込んだのは水戸藩でしたね、その思想の背景にある「水戸学」とはどのようなものだったのか教えてほしい』こんな質問をされた。
 そのときは全然答えられなかったが、大老井伊直弼は天皇の勅許も得ないで独断専行して、鎖国政策を廃し、開国に進めていった。それに反対する尊王攘夷派の公卿・大名・志士に対して幕府が弾圧した安政の大獄事件が引き金となったが、それと水戸藩に根付いた「水戸学」とどのように関ったかとの内容であった。
 そこで「水戸学」について調べてみた。徳川御三家の水戸藩は、2代目に光圀の大日本史編纂の事業からも分かるように歴史観は天皇を中心とした国家像である。その流れは江戸後期9代藩主徳川斉昭に引き継がれ、水戸藩の”藩校”として弘道館を開設し攘夷思想を鼓吹するとともに蘭学も教授した。
 同時期水戸学の理論的大成者藤田幽谷は、その子の藤田東湖と朱子学を修め、尊王攘夷派の志士に多大な影響を与えた。藩主斉昭候が幕政に参与すると、東湖も海防策に奔走するも、安政の大地震で圧死している。
 藤田東湖は「弘道館記」なる著書を書き、徳川斉昭の名で弘道館開設の趣旨を漢文で記したものがある。これは水戸学の精神を簡潔に表現したもので、これに東湖は解説を加えたものが「弘道館記義」で、名文として知られている。明治維新を契機に水戸学の興隆が寄与しているものであるが、その尊王攘夷思想は長州、薩摩に引き継がれていったのではないか。
 それと水戸藩主、徳川斉昭(裂公)の尊王攘夷思想は、その子15代将軍徳川慶喜にも引き継がれ、こうした思想とは一線を画した大老井伊直弼とは合わず、徳川家継承問題や開国論で、大老派に屈することになり、斉昭は処罰された。ここは反対派を弾圧する安政の大獄に繋がっていった。、そうしたことが、桜田門外の変が、水戸学を学んだ水戸藩士の行動によって起こされ、明治維新前の開国に至る混乱に繋がっていった。しかし皮肉なことに、幕府の中にいきついた尊王攘夷論は、長州、薩摩が主導する、尊王開国と言う方向に流れていった。この流れは止められなかったが、その思想の基となる水戸学は明治以降になって、より強い尊王思想ができていったものと考える。明治維新の前後の歴史は、思想が交差(変化)することがあり、なかなか難しい。
 浅学の私には、分からないところが多い。一度「弘道館記義」を読んでみたい。