Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

ヤマモモのジャム作り

2019-06-30 19:11:28 | Weblog
 20数年前父は、数本のヤマモモの枝を苗床で挿し木にして育てていた。その苗木は、何故か育たなかったが、父は、庭にヤマモモの木を植え実が生るのを楽しみにしていたようであった。しかし、父は、その光景を見ずに他界した。その後一年ほど経ち、駿府公園で植木市に行くと、ヤマモモの苗が店頭にあった。それを購入し庭に植えた。それから数年が経って、実を付けるようになった。その実は、熟すと大きいものは直径3cm程の大きさになった。それを食べたが、甘酸っぱくとても食用にはならなかった。しかし、これだけ大きなヤマモモの実は、珍らしく何とか食用にしたいと考えた。

 しかし、その後数年間は、熟して地面に落ちる実を見ながら、もったいないと思いながらも行動は起こさなかった。食用にしようと行動したのは、それから数年経ってからであった。それは、ヤマモモの木の下の地面にビニールシートを敷き、そこに落ちた実を拾い、そのまま食べたがそれ以上のことはしなかった。今年は、大きな実がたくさんついたことから収穫して、ジャムやシロップにしようと思った。ヤマモモの実が自然落下が始まると、10日間ほどの間に少しずつ落下し、全て落ち終わる。赤や、紫色に熟した実は大きさもまちまちであり、それが地面に落ちたら虫などが付き、傷みも早い。そこで、実が落下する地上1mほどの所に、ホームセンターで購入した不敷布を張りめぐらし落ちた実が、不敷布の中央部に集まるよう細工した。

 この作業は、6月20日に行ったが、それから毎朝、不敷布に落ちた実を、籠に入れ、大きめの実を選別する作業をしてきた。ヤマモモの実は一回に2kgほどが取れ、そこから選別した約半分程(約1kg)のヤマモモを冷蔵庫の冷凍室に入れるようにした。10日間で約10kgほどの実が冷凍室に収まった。そこで、6月29日、ジャムづくりに取り掛かった。ネットでヤマモモもジャムの作り方を検索し、グラニュー糖やレモンもそろえた、作り方を確認しながら始めたが、最初は、失敗しても良いように800gの実を使った。作り方には、幾つかの方法があったが、煮詰めて種を取った果肉に、書かれた量に砂糖を入れ、とろ火で煮詰めた。途中で確認すると酸味が強かったので、砂糖の量を2倍ほどに増やして煮詰めた。

 作業を始めてから3時間ほど経ったが、煮詰めたヤマモモは、トロミは出てこないし酸味も強かった。そこで、書いてないが、ハチミツを100gほどいれ又煮詰めたが、トロミは出てこない。その後1時間ほど煮詰めていくと少しトロミが出てきた。しかし、トロミが出ても、ジャムになるのに、どの段階で火を止めるか分からなかったが勘で止めた。最後にレモンを絞って入れ作業は終了した。翌朝、見ると、まだ水気が多く煮沸が足りなかったようであった。パンに付け食べたが、甘ったるい味はとてもジャムとして使えそうにないものになっていた。

雅楽を聴く

2019-06-22 22:37:33 | Weblog
 日本の伝統音楽、雅楽を聴くのは初めてである。能、文楽、歌舞伎と云った日本の芸能に大きな影響を与えたのが雅楽であると云われている。この雅楽は、1000年以上もの長い年月を超え宮廷を中心に伝えられた音楽であった。これは、奈良時代、平安時代に中国や韓国などから伝えられた音楽と、日本古来の音楽と出会い、日本の雅楽が作られものであると云う。私は、西洋音楽に興味を持つようになり、定年後にカルチャー講習等などで学んできたが、それが高じて、日本の伝統芸能に興味を持つようになり、それが「雅楽」に至ったように思う。

 浅学であるが、歴史的に日本の音楽のルーツがそこにあるのでないかと思う、そこで雅楽を聴くことにした。6月22日(土)静岡音楽館AOIで「はじめての雅楽」と云うタイトルで演奏会が行われた。このサブタイトルは「子供のためのコンサート」とあり、小、中学生対象としたものであったようだが、入ってみると子供さんを連れた親子ばかりでなく、私のような年配者もたくさん来ていてほぼ満席であった。司会者から、雅楽について分かりやすく説明してくれてから演奏会に入った。雅楽と云うと笙、篳篥と云う楽器が代表されるが、竜笛、筝、太鼓、琵琶、鞨鼓、鉦鼓の8つの楽器で演奏するのが基本のようで、ゆったりとした演奏は日本のみやびを感じさせる音楽である。

 最初は、「平調音取」と云い各々の楽器の音を合わせるための、短い曲を演奏された。これを聴くと、自然に雅楽の世界に導くような曲であった。その後「越天楽」を演奏したが、雅楽の中でも一番親しみやすい曲で、謡曲や筝曲、さらには民謡の黒田節に取り入れられ受け継がれているものであった。雅楽には、管弦のほか舞楽もあり管弦に合わせ舞い手が面を付け踊る姿は、動きは違うが「能」の舞を連想させた。演題「胡飲酒破」(こんじゅのは)は、胡の国(中国の異民族の国)の人が酒に酔った姿を舞にしたもので、これはまた、西洋音楽の歌劇に通ずるもので、日本の伝統音楽が、形を変え西洋音楽に繋がっていることを感じた。最近は「雅楽」が静かなブームになっていて、雅楽演奏グループ「伶楽舎」が結成され、雅楽古典曲以外に、現代作品の演奏など委嘱や演奏なども行っている。その活動は国内各地、アメリカやヨーロッパでの演奏も行っているとのことであった。

 最後に演奏した雅楽童話《ききみみずきん》は、最近作曲されたもので、演奏の中で語り部が、内容を物語る雅楽であった。これが、雅楽にマッチしたものか私には理解できなかったが、伝統の形を継承したものから、現代人に理解されるような新しい試みであることを感じた。西洋音楽が、ストレートに表現する音楽人であるのに対して、雅楽は、悠久な営みの中で空気のような存在の音楽であり、日本人を形成する一つの核となっていることを感じた。

















シャンソン教室

2019-06-19 22:15:06 | Weblog
 静岡の音楽喫茶Rでは、一ヶ月に一度シャンソン教室が開かれている。若い頃は、軽い気持ちでシャンソンを口ずさんだことはあったが、最近は、外国のリード曲や日本歌曲が主となっていて、カルチャー教室にも通っている。そのカルチャー教室で一緒に学んでいるMさんが「貴方の声はシャンソンに向いているので、一度音楽喫茶Rに行って歌って見たら」と云われた。その時は聞き流したが、Mさんは、6月16日この音楽喫茶で行われたシャンソンコンサートに行くと云ったが、都合で、私は行けなかった。その後Mさんから電話があり「6月19日、13時30分から音楽喫茶Rで、シャンソン教室があるので行ってみたら」勧められた。

 19日少し時間に遅れたが、音楽喫茶Rに出かけた。そこには3人の生徒がいて先生が教えていた。先生は「Mさんから聞いていたが、よく来ましたね」と歓迎してくれた。生徒は男性1人女性2人で、長くこの教室に通っている人達のようであった。譜面を渡され、みんなと一緒に歌ったが知っている曲はなかった。他の生徒に合わせ声を出したが、上手くは歌えなかった。先生が云うに「ャンソンは、語るように歌い、音程もその人に合ったキーで歌うようにする。それに、譜面通りでなくても、詞を大切にして感情豊かに歌うこと」を云われた。

 知らない曲を何曲か歌った後、本日の課題曲なのか(この曲名も今思い出せない)が、3人の生徒が一人ずつ歌った。その後、私に歌うよう指示された。前に出て歌おうとすると、先生が「歌うときはマイクを持って歌ってください」と云った。私はマイクなしで歌おうとしたのだが、皆さんは、マイクを持って歌っていたし、テレビなどで聴いたシャンソンも、マイクを持って歌っていたことを思った。マイクを持って歌ったが、音程のずれや日本語の歌詞が、早いところがあり、言葉を読むのが精いっぱいであった。結果は散々であったが「貴方の声は、伸びがありシャンソンは向いていますね」と先生は言った。最後に「マンチャスター&リバプール」と云う曲をみんなで歌った。これは聴いたことがある曲で、好きになりそうである。

 カンツオーネなどを、歌うことはあるが、シャンソンは全然違うものであった。フランスで生まれたシャンソンは言葉を特に大切にしているようである。それ故シャンソンは、フランス語の柔らかな表現を抑揚を付けず歌うようになったものと思った。先生からは、次回も出席するよう云われたが、今は迷っている。カラオケなどで歌うことは出来ても本格的にやるには時間的にも根気もない。もっと若い時、このような機会があったならどうなっていたか分からないが、今はその気にならないし。それにしても、3人は、シャンソンらしい歌い方になっていたし上手かった。

お楽しみ演芸会

2019-06-15 20:47:33 | Weblog
 私の住む学区は、地域の親睦を兼ね、芸能交流会を開いている。これに参加する人は、自慢のカラオケや踊り、民謡、マジックなど全開のパフォーマンスを披露する。この「お楽しみ演芸会」は、今年で17回目で地域に根差した活動となっている。6月15日、私の町内の参加者は、8時50分に防災公園に集まり一緒にバスに乗り込み、駿河区小鹿の、生涯学習センター「き・て・こ」に向かった。すぐ一階の会場に入ったが、既に多くの参加者が来ていた。ここには各町内に分担された席があり、わが町内の30名は、その一角に座った。この会場は200人程が収容できるが、来た人達で満席になった。

 プログラムが配布され「お楽しみ演芸会」はスタートした。私も何度かこの会場には来ているが、今日のメンバーは熱気があり、いつもより盛り上がるのを感じた。今回参加した我が町内の30名は、コーラスで23名、その他はカラオケや踊りで個人参加するのが7名であった。全部で41組が参加し、私は22番目にカラオケを歌うことになっていた。参加者の約60%は女性であったが、男性も元気の人が多く、舞台で演ずる人に拍手やエールを送っていた。特に、私の回りにいた男性たちは、すぐ酔いが回ってきたのか大きな声で囃し立てていた。

 連合町内会長や福祉協議会長など挨拶があり、すぐ演芸会に入った。個人の演技者も玄人慣れした歌や踊りも良かったが、コーラスなど、各々の町内の皆さんが、調和のとれた歌声を響かせ、その若々しい声は、年齢を感じさせないものであった。踊りもねんきの入った踊りが多く、そのその一人一人に感動した。プログラムでは、私の番は2ページ目の最初になっていたので、昼食後の最初に歌うものと思っていた。それ故、順番が近づいてきてもゆっくり構えていて、21番目の行った、2人で行うコント歌謡「麦畑オヨネーズ」を席で見ていた。すると、役員の方が見え、「次は貴方ですから舞台の袖で準備してください」と云われた。まだ発声練習もしてなかったので、そのまま廊下に出て、形ばかりの発声練習をしたが、まだ準備不足であった。

 私の歌は、「愛燦燦」であり、緊張感が取れぬまま舞台に立った。カラオケは、暗譜する必要もなく画面を見ながら歌うことが出来るが、準備不足が影響したのか納得いく声は出なかったように思った。それでも、歌うにつれ声も良くなってきたように感じた。終わると、拍手が多く鳴り続けた。多分同じ町内の人達が、大きな声で褒めたり囃してくれたことであり、ありがたいと思った。終わって、席に戻ると、横に座っていたsuさんが「今までで一番良かったよ」と云った。この言葉が、世辞であっても気持ちの良いものである。私の後の人達は、演芸会の常連で上手い人が多かったので集中して見たり聞くことが出来た。楽しい一日であった。  追伸 午後5時頃家に来訪者があったが、これも良かった。

梅干を作る

2019-06-12 20:35:49 | Weblog
 今年も梅の実が沢山なった。その実も例年のものに比べ大きく、収穫量も約12kgと例年の2倍ぐらいである。多分、肥料や、土の掘り返しなど小まめにやったことによるものと思う。毎年その梅を使って、妻は、梅酒や梅干など作っていた。この梅酒は美味しかったが、梅干しは、塩分が多く食べると顔が歪みそうなものばかりであった。最近は、減塩の梅干しが多く市販され、中には甘い梅干しも出回っている。何とか自分で減塩の梅干しが出来ないものかと思っていた。そこで今回採れた半分の6kg程を使い私が梅干しを作ることにした。

 ネットで調べると、「減塩の梅干しの作り方」がいくつかが載っていた。これらは、みな家伝として引き継がれ、その味は、文面から美味しさが伝わってきた。幾つかある中から2つの方法を真似て作ることにした。なお妻も、約6kgの梅を使い自分なりに減塩の梅干と梅酒を作っていた。私は、初めてのことで6kgの梅実を2kgと4kgに分け、2kgの梅は、失敗しても良いと思い、ネットの文面から割と簡単な方法で作ることにした。残った4kgは、ハチミツ入り減塩梅干しに挑戦することにした。このハチミツ入りの行程は、下漬け用と本漬け用の2行程を経て完成するもので時間的にも長くかかりそうな作り方であった。

 2kgの方の作り方は、砂糖500g、酢0.7カップ、塩1.5カップ使用するもので、これらは、我家にあったのですぐ取り掛かった。一晩冷水につけた梅を楊枝で蔕の部分を取り除き、3Lの瓶の容器に入れた。細かく云うと梅をよく拭き、瓶の底から丁寧に敷き並べ、その上から塩と砂糖をまぶしたあと、酢を満遍なく行きわたるように掛け、蓋をして冷蔵庫に入れた。これは、10日ほど経つと、梅酢が上がってきて全体を覆うようになり、そのまま2~3ヶ月すると美味しい梅干しができると記されていた。そしてハチミツ入りの方法は、ヘタを取るまで前記の方法と同じである。その後、下漬け用の作業に入る。梅4kgを丈夫なポリ袋に入れ、そこに塩320g、ホワイトリカー(焼酎)320gを入れ、出来るだけ空気を抜いて封する。これを冷蔵庫に保存し、時々袋を振ったり、向きを変えたりして10日間ほど置くと梅酢が上がってきて、梅酢の中に梅がある状態になる。

 今日の作業は、2kgと4kgに分けた梅を、瓶とポリ袋に入れて冷蔵庫に入れるまでである。今後は、10日ほど経ってから、ハチミツ入りは、第二の行程である本撞け用の作業に入る。妻も、別の方法で減塩梅干し作りを行っているので、どの様な梅干しが出来るか楽しみである。夕方冷蔵庫に入った瓶とポリ袋の梅を見ると、まだ塩や砂糖と分離した状態であったが、瓶の方は梅酢が出てきていて、最初入れたときより、1cm程梅酢が上がっていた。ポリ袋の方も、梅酢の量が増えて、梅も柔らかになっていた。これから見るのが楽しみである。 

合唱の練習始まる

2019-06-09 22:33:32 | Weblog
 8月4日(日)グランシップで、音楽の祭典(音楽の広場)が開催される。これは、真夏の一日、静岡から3000人で創る音楽祭を発信する一大イベントとなっている。今年で12回目となるが、ここ数年は連続して参加していて、私の一年のサイクルとなっている。合唱団員として参加するが、曲目のレベルは高く、これをマスターするのに毎年苦労してきた。今回の練習も、6月9日(日)から始まり、本番までに9回の練習を行うことになっている。これからの毎日は、この本番に向けての準備を優先することを考えている。

 今日の練習は、音取りが主であり、13時30分から17時00分までの長時間が組まれている。練習場所はグランシップ中ホール・大地で、合唱メンバー約300人が参加した。各パートごとに分かれ、私はテノール➁の席で、昨年一緒に歌ったMさんの横に座った。彼は、年齢も同じぐらいで、音楽以外の趣味や考え方が似ていて話しやすい人である。指導する先生は、昨年と同じ浅井先生と、今年から南条先生から引きついた唐木先生の2人で行うようになった。今日は、浅井先生が主体的に行ったが、彼は、二期会会員の声楽家で日本フィルハーモニー協会合唱団の正指揮者である。少し早口の所もあるが教え方は、分かりやすく丁寧であり、一面厳しいところもある。

 今回の合唱曲は、全部で7曲、その内、今日習ったのは歌劇「ナブッコ」より ”行けわが思いよ黄金の翼に乗って”と、歌劇「タンホイザー」より大行進曲 ”歌の殿堂をたたえよう”を原語で、そして、イギリスの有名な音楽祭「プロムス」でフィナーレに歌う”威風堂々”を日本語に訳したものを習った。この内「ナブッコ」は、数年前に習った曲であり、一からと云った感じではなかったが、難しく中々歯ごたえのある曲であった。何とか、周りの人に合わせて声を出したが、音程の狂いは何度か出したが、それでも、最後に通しで歌ったときは、初日としては良かったものと思った。その後、タンホイザーの曲を習ったが、これは骨のある曲で、最初の12小節ほどを学んだが、声を出すのがやっとで混声合唱の域には到底達していない状況であった。次回は、このタンホイザーを主体に学ぶことになると思う。そして「威風堂々」は、一度通しで合唱した。この曲は、何度か歌ってきた曲であったので、何とかなりそうな感じがした。

 時間の関係で、今日の練習は、この3曲だけであったが、最後に、昨年まで指導してくれた南条先生から挨拶があった。この音楽祭を最初から携わった人で、静岡にこの音楽祭を根ずかせた一人であると云える。彼には、感謝の気持ちはいっぱいである。今回は、一回目の練習であり、本番までの道程は大変であると思うが、きちっと練習するなら例年と同様、調和のとれた合唱ができるのではないかとの感触を得ることが出来た。

道路清掃の奉仕活動

2019-06-02 16:33:32 | Weblog
 静岡市は「道路サポーター」と云うボランティア制度があり、多くの人が参加している。我が町内でも、高齢者が主体になってこの活動に参加していて、私も昨年から参加するようになった。この制度がいつから出来たのかわからないが、この趣旨は、私たちの回りには行政機関や民間でも行わない空間があり、それを地域の人達が主体となって行う清掃活動である。私達が住む地域も、その空間と云える東名高速道路脇の並行道路や横断道路を清掃をすることであった。この活動に携わる人は、概ね70代~80代の地域の高齢者で、地域全体で30名近くが参加している。

 清掃活動は4月から10月の期間で、月一回、第一週の日曜日の朝6時に集まり行うことになっている。6月2日(日)は指定日で、東名高速度道路下の取り付け道路に集まった。私は、掃除用の熊手を持ち「静岡市道路サポーター」とネームの入った黄色いチョッキに帽子を被り参加した。まだ午前6時10分ほど前であったが、既に何人かは来ていて作業を始めていた。老人であり朝早いのは苦にならないようだ。私が行うのは、東名下の横断道路の清掃等で、雑草や人間が捨てたゴミ、それに、東名のり面から落ちてきた石などを片付けることであった。

 今日は、湿度も少なく晴天の清々しい朝になった。作業をしていると散歩や犬を連れた人が通るが、挨拶して私たちの活動に敬意を払ってくれる。その中に一人にラジオ体操で一緒になる人が通りかかり話しかけられた。その方が、この近くに住んでいるようだが、名前も分からないし素性も分からない。年齢は、私と同じくらいであると思われるが、これもこ容姿や、歩き方から判断しているだけである。その方は「いつもご苦労さんです。こうして奇麗にしてくれる皆さんには頭が下がります。私も参加したいが今は事情があって出来ませんが何時か皆さんと一緒に行いたいです」と云った。多分家庭的に何かあり参加できないようであったが、話してみると言葉の端端から、昔は社会的に立派な方であったと感じた。一緒に清掃作業を容姿している人が、「あの方は、むかし学校の校長先生をしていた方で、その後は、各地で公演活動などしていむかしたと聞いたが」と話した。その人の家庭内のことは分からなかったが人格者であると思った。

 掃除してゴミや雑草を市が指定したゴミ袋に入れ、近くで作業した3人で5袋のゴミ袋が満杯になった。それを東名脇の緑地公園脇に集積して置いた。その内に、各所に散らばって作業していた人達が集まり、リーダーからこれで作業は終わったことを告げられた。朝の清掃活動の一コマを記したが、人の温かさを感じた朝であった。