Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

大晦日のこと

2009-12-31 10:56:47 | Weblog
 強い冬型の気圧配置となって、風の強い一日となった。昨日のうちに庭の清掃、正月の注連縄の飾りつけ等外回りのことは終わらせたのでホッとしている。
 今日は犬の散歩を兼ね、父の墓の清掃をした。午前8時ごろであったが、お寺には何人かの人が、生花等を持って来ていた。
 その人達は時間をかけて丁寧に先祖のお墓を清掃している。丁度正月に里帰りしているのか、おばあさんが、2人の孫と思う幼児を連れて、会話をしながら生花を生けていた。純真そうな子供が墓前に手を合わす姿が、印象に残った。
 それ以外は概ね年配者であった。正月前の墓清掃とお参りであろう。私もいつもより丁寧に掃除し生花を供えた。この時期になると、どのお墓も生花と線香のゆらいでいて、ここにも大晦日の光景がある。
 家に帰ると、妻は忙しそうに、動き回っていた。我家も正月の準備等に追われていた。
 朝刊を見ていると、妻から「風呂場の清掃と庭に生ごみを入れる穴を掘るよう」催促された。
 午後からは町内の仕事があるので、その前にやった。風呂場は天井、壁を含めて、大掃除をしたし、生ごみの穴も3箇所も掘った。
 午後は町内行事として、浜辺で「初日の出」を迎えるための焚き木を浜辺に運搬する事になっている。
 元旦の朝、御来光を見に町内の皆さんが多く浜に集まる。
その時、暖を取るため焚き木を燃し、酒、甘酒、汁粉等を振舞う。その準備のためである。
 焚き木は、町内の木工場等なら廃材を分けてもらい、それをトラックに積み込み
浜辺にもっていく。その量は、2.5トントラックに満杯となるほどの量である。 それを浜辺で70~80mほど手運搬する。そして、焚き木をするための、穴を掘って、すぐ燃すことができるように準備する。10人の役員がこれに当たるが、これらの作業は年配者には相当重労働である。2時間ほどかけて終わったが、疲れが蓄積してきた感じである。
 その上家に帰ったら、妻に正月用の買出しにいくので、自動車を出してほしいと頼まれた。近くのスーパーでの買い物であったが、荷物を持っているとき、少し気分が悪くなった。風邪ではないが、目がくぼみ、身体がだるい。
 そのまま家に帰ったが、腰は伸ばせられないほどであるし、身体の節々が痛い。まだ午後5時を回ったころであったが、すぐに寝ることにした。
 この3日間は、私にとって、慣れない重労働が続いたための疲労だと思った。
 明日は午前5時30分に、役員として浜に行かなければならない。それまでには何とかしたい。
  

年末の一日

2009-12-29 22:20:15 | Weblog
 今年もあと3日となった。年内にやらなければと思っていることが、まだ沢山残っている。大掃除、庭木の剪定、親戚の見舞い、部屋の整理等数えると限がない。
 それでも年越しの金策のためではないので、気が楽ではあるが、落着いた気持ちで時を過ごすことはできないでいる。
 妻から「今日は天気の良いのは、窓拭きと、網戸の掃除をするように」言われ、まずそれをすることにした。
 私は、この作業を午前中に終わらせてしまって、午後は庭木の剪定をやる予定にした。剪定作業は半日では終わらない量であるが、できるだけやろうと思った。
 朝8時までに犬の散歩を終え、餅切りを行った後、合羽に長靴、ゴム手袋を付け、おもてに出た。
 まずすべての網戸を外し、庭木に立てかけた。それにホースで水をかけ、たわしで洗っていった。網戸は毎年洗っているが、埃は思ったより多く汚くなっている。 それを腰をかがめて洗っていく、最初はぎこちないが、やり出すと慣れてきて、上手く作業は進んでいった。しかし昨年までは、こうした作業でも何でもなくできたが、今年は腰が痛い。耐えられない痛みではないが、年を取ると、いろいろなところが痛くなる。
 午前10時頃になると、晴れ間から太陽がでて、網戸を乾かすには丁度良い天気となった。
 その後窓掃除に掛かった。これは妻との共同作業である。私が外側の窓を、妻が内側の窓を拭いていく。外側の窓は脚立に登って窓に水をかけ拭いていった。
 不安定な脚立の上での作業は、疲労が増す。それでも午前中に終わらせようと手を休めず進めた。終ってから昼食にするつもりでいた。
 網戸を元に位置に取り付けたのは午後1時30分頃になっていた。1時間ほどの昼食時間を取って、庭木の剪定作業をしようと思った。しかし慣れない作業で疲れたのか、テーブルに腰掛たまま、うたた寝をしてしまった。気がつくと午後3時ごろであった。テーブルから立ち上がろうとするが、腰が重く前かがみのまま、直立するまで少し時間が掛かった。
 それでも、剪定作業をやらなければならないと、おもてに出た。全部できなくても、榊の木、もちのき、山茶花、それに既に剪定したヒバの木に一部を剪定したいと思っていた。
 しかし日が暮れるのが早く、榊の木、槙の木の剪定しかできなかった。
 今日は、疲労困憊の状態である。夕食前に風呂に入り、後は今日購入したばかりの、地デジのテレビを見ながら過ごした。
  
 

 

餅つき

2009-12-27 23:37:20 | Weblog
 毎年12月の最終日曜日(今年は27日)は、三島の弟のところで親戚縁者が集まり、餅つきを行うことが恒例になっている。
 この習慣は30年以上続いていて、この日を楽しみに待つようになった。
 毎年40人から50人の人が集まり、そこには歴史を感ずるし、世代が変る様子を見える。
 私は、母と妻を自動車に乗せ午前9時30分に家を出た。途中瀬名の妹のところによってから三島に向かった。
 昨年までは動けた母も、今年は無理であり車椅子を積み込んだ。妹も蓮根や里芋、みかん等をトランクにいっぱい詰みこんだ。
 今年は、いつもの年より出発が遅くなったのは、町内の資源回収が午前8時からあり、それを済ませてから行くことになったからである。
 東名高速道路を通って、三島のインターからは、伊豆に向かう新しい道路を通って、箱根の入口の松並木のところへ出た。そこからはすぐ弟の家であり何とか11時前には着けた。
 そこには、私のきょうだい達が揃っていたし、新しく親族となった人も増えていた。
 2つの臼には、若い人達が、周りの拍子に合わせて、餅が搗いている。既に予定したもち米の半分以上は搗きあがっていた。
 遅くなったことを詫びながら、仲間に入ったが、昨年と同じ人がいる反面、新しい人も増えてきていることがわかる。それに子供達の成長は早く、その成長に驚かされた。
 みんなの周りには、酒類は勿論、おでんや、猪鍋、とろろ、生ハム、取立てのわさび、漬物、それにみかん等の果物等が出ていた。これも縁者の皆さんが持ち寄ったもので、それを食べながら、米をふかし、餅を搗き、それを女の人が板餅にしたり、大福や鏡餅等を作っていく。それを、小さな孫達が室内の運び、室内では家庭の名前をつけ分けて並べていく。
 この作業も誰がとは決めてないが、自然に担当ができ、無駄なく流れ作業が出来ていた。
 我家は、妻が大福用の餡を作っていったし、妹も蓮根やみかん、漬物を出していた。
 私は以前のように搗き手の主役でなく、掛け声だけの脇役になったが、威勢をつけるよう、酒を呑んで盛り上げた。
 餅つきは若い人達が残ったもち米を力強く搗いていった。午後の1時30分にはすべての餅が搗き終わった。
 その間は母は車椅子に座って、だれかれとなく話したり、餅つきの様子を見ていた。
 途中、皆で写真を撮った。一番高齢者の母を中心にして、揃ったメンバーは50人近くいた。その中で私は4番目の高齢であることが分かった。
 午後4時ごろまで雑談していたが、板餅や鏡餅、持ち寄ったものを持って帰っていった。
 最後まで残った、きょうだい夫妻、弟の子供達、それに孫達と一緒に、近くのすきやき店で食事をした。三島を出たのは午後7時を回っていたが、今日の母は楽しそうであった。
 

 
 
 

S学苑「名曲をうたう」講座

2009-12-26 22:33:50 | Weblog
 今年最後の「名曲をうたう」講座があった。前回は風邪を引いてしまい、出席できなかったので今回は何としても出たいと思っていた。
 今年の風邪は、長引くのか、まだ本調子でない。少し寒さを感ずると咳き込むことがある。しかしここで発声練習をしたり、歌うといろいろなことが発散できるし、爽快な気持ちになる。
 特に発声練習は、出そうもない領域の声まで行うので、高音の挑戦ができるし、先生の指導も分かりやすい。それを実行することで、出せる音域が広がっていくような感じる。
 今日は個人レッスンがないので、持参した楽譜集から、生徒のリクエストで何曲かを合唱した。中に知らない曲もあったが、躊躇することなく声を出した。
 自分では分からなかったが、先生から「風邪声ですね」と言われた。それが分かるほど悪い声になっているのかと思ったが、自分としては声は出ている感じであった。
 この時期は11月末の「おさらい会」も終わり、一番リラックスして声が出せる時であり、腹の中から声を出して歌った。
 その後今日の課題曲である「めぐる季節」と「オ・ホリーナイト」を先生の指導で丁寧に合唱した。。
「めぐる季節」作詞 吉元由美 作曲 久石 譲で20年ほど前に作られた現代的音楽である。2部合唱曲であり、初めて聞いたが、歌いこなすには、少し難しい感じであった。しかしテンポもいいし好きになりそうな曲である。今後歌い続けていくとのこと、得るところが多い曲になりそうだ。
「オ・ホリーナイト」は先日の「おさらい会」で独唱した曲であり、再度歌えることをありがたいと思う。
 この曲に出会ったのは、一昨年の、この時期に初めて聞いた。その時私に合っている曲と思い「おさらい会」で歌った。しかしまだ不安定な歌い方であった。
 特にこの曲の最後の部分の高音「ラ」の声は、声がかすれ歌えなかった。何とかごまかして歌ったが、今回歌ってみて、何か工夫するなら出そうな感じがした。
 この曲も今後課題曲として歌っていくとのこと、挑戦して行こうと思う。
 終わった後、友人4人で5階のコーヒー店で雑談したが、音楽に関する話で終始した。3~4年前には、考えられなかった自分がいることを感じた。
 この時期午後5時ともなると、ネオンが点灯して夜の景色になる。駅前の人の流れも、正月を迎える慌ただしさが感じた。私も師走の町を通って家路を急いだ。
  
 
 

年賀状の投函

2009-12-25 22:33:00 | Weblog
 12月25日までに投函すれば、年賀状は元日に配送できると郵便事業会社(?)がコマーシャルで宣伝している。
 今年も25日の最終日まで、年賀状書きに追われてしまった。毎年のことであるが、この時期は年賀状で気が焦らされる。今年こそは、ばたばたしないように、12月20日を目標に進めていたが、突発的な事もあって、今日まで掛かってしまった。師走はいろいろと忙しく、中々計画通りには行かないものである。
 妹から頼まれたものも含めて、午後2時ごろまでに、N郵便局に持っていった。
 数人が、投函場所に並んだが、余り混んいる様子はないし、年賀葉書も数十枚を纏めて出していく人ばかりで、100枚以上出すような人は少ないようだ。
 最近の若い人は、インターネットで年賀を行うことが流行っているらしく、はがきを出すという風習が少なくなっているらしい。これも時代の流れで、より便利な方法になるのは、止む終えないことであると思う.
しかし私どもには、その切り替えが出来ないでいるだけだ。
 取りあえず、予定した枚数は、出すことができホットしている。
 そこで年賀状について考えてみた。それは先輩や友人に、元気でいることを伝える便りであったり、相手の人が健やかに新年を迎えてほしいとの願いを、賀状にしたためることだと思っている。
 こうした風習は外国ではクリスマスカードを贈る等のことはあるらしいが、年賀状は日本独特の文化であり、良いことである。
 年賀状を書きで、今も守っていることは、裏面は筆で絵手紙風に絵具を使って書き、表面は墨を磨って筆で書くようにしていることだ。この作業は年齢を重ねてくると、負担を感ずるようになってきた。
 現職時代は、余り負担を感じないで書くことができた。それも現在の倍近くを書いていた。退職を期に、極力減らしてきたが、これ以上は難しいような気がする。だからと言って、最近の年賀状のようにパソコンからプリントアウトしたものを、出す気にならない。当分の間は今の形を続けて行きたいと思う。
 私は筆を持って書くようになったのは、年賀状以外はない。
 それは、小学生の高学年となって年賀状を出すようになってから、同じスタイルでやってきた。いま筆でものを書けるのは、年賀状を筆を使って書く習慣ができたお陰であると思っている。そうした習慣を付けてくれた亡き父に感謝している。
 
 

母の居る介護施設で

2009-12-24 20:05:53 | Weblog
 母は週3回デーサービスのため、N介護施設に通っている。その母が「私がいるとき、一度介護施設に来て歌を歌ってほしい」と言われていた。
 先日担当者が家に来たとき「12月に慰問したいが、いかがですか」と話すと「12月24日のクリスマスの日に来てほしい」ことを言われた。
 クリスマスの日であり、それに関わる歌と、関連するトークを用意して、この日に臨んだ。
 このN介護施設は我家から、500mほどのところにあり、デーサービスを主体にした施設である。家庭的雰囲気があり、母は好んで行くとは言えないが、嫌がることなく通っている。
 しかし最近老化も進んできていて、みんなに迷惑を及ぼしていないかと、心配になることもあった。そんなことから、私のほうから希望して、今回の慰問することになった。
 午後2時から一時間ほどの時間を頂いたので、それに合わせて伺った。丁度母は、テーブルを挟んで、みんなと雑談していたが、私を見ると喜んで私を迎えてくれた。陽気な母であり、心配していることが杞憂であったと思った。
 室内は、クリスマスということで、飾りつけはしてあり、そんな雰囲気が感じられた。
 介護者の主任と思える人から、今からのスケジュールが話された。
 それは、私の歌と、その後介護者によるフラダンス、そしてクリスマスケーキと、みんなにプレゼントがあることを話していた。
 職員の何人かは、サンタクロースに衣装を身に付け、いよいよ始まるといった感じであった。
 私の歌は、先日T介護施設で歌った内容と概ね同じである。模造紙に書いた歌を、黒板に貼り付け、それをみんなで歌うようにして進めた。
 その反応から、ここにいる人は、しっかりした感じの人が多いことが分かる。
 賛美歌から童謡、黒人霊歌など、トークを交えながらの1時間ほど歌ったが、時間が過ぎるのが早いように感じた。
 しかし母は私が歌うことが、気になってしょうがないのか、ときどき前に出てきて、床に置いた模造紙をテーブルの上に置くような仕草を繰り替えした。やはり息子が失敗しないか気になってしょうがない様子であった。
 歌い終えると、ヤット普段の柔和な顔になった。
 その後は、介護者によるフラダンスが披露された。この日のため、何度か練習したのか、慣れた感じの踊りで上手かった。
 終わった後、テーブルにデコレーションケーキやコーヒーを出し、サンタクロースに扮した人から、クリスマスプレゼントがみんなに振舞われることになっていた。
 この施設の責任者から以後まで一緒に居てくださいと言われたが、フラダンスを見て帰ることにした。車の中で選曲した歌が、よかったのかと反省した。
 

葬儀に参列して

2009-12-23 21:47:50 | Weblog
 K先生の葬儀が午前1時30分からI葬祭所で行われた。昨夜の通夜は250人近い人の参列者があったが、今日も斎場に入れず、通路にもあふれる様に多くの人が、見送った。多分300人以上の人が集まったものと思う。
 「あすなろ会」からはT会長のほか6名の生徒が参加したが、他にマジック関係者だけでも10名以上の方が列席していた。
 先生は多芸な方で、マジックのほか、尺八、民謡、祭り塾、ダンス等のクラブにも入っていて、その全てにリーダー的役割を務めていたと聞いた。
 明るく、陽気で、そして気配りの人であった。その人徳に私も魅かれたのであるが、世のため、人のためにと言った、意識を持ち、行動できた人であったと思う。
 社会的高名な方の葬儀に参加したことがあったが、それは同じ組織であったり、利害関係者が参加するような大きな葬儀を見てきたが、一線を引退して、ボランティア活動として、生きた人の葬儀でこのように多くの参加者があったのは、初めてのような気がする。
 先生は私より1歳年上の方で、まだこれから奥さんと余生を楽しみたいと思っていた年齢である。どちらかと言えば身体ががっちりしていて、健康体に見えた。
 しかし病はその身体をむしばみ、気が付いた時は、1年10ヶ月の余命であったと聞いた。
 この1年10ヶ月を私は見てきたが、先生はそのことを分かっていたのではないかと思った。しかし外にあっては普段どうりの振る舞い、弱音をはくような生き方はしなかった。それは真似の出来ないことのような気がした。
 そして家庭にあっては、奥さんと4人の子供さんに恵まれ、多くのお孫さん達に囲まれた生活だったと聞いた。
 早すぎる死であり、後顧の憂いを残しながらの死であったと思う。そして私達にも、もっといろいろなことを教えてほしかった。
 先生は、太平洋戦争で父親を亡くされている。母と3人の子供を残しての戦死であったと聞いた。その長男として、母やきょうだいを助け、苦労して70数年を生きてきた。その苦労が先生の人格を作り、人のためとか、和を大切にしようと言った生き方を生み出したものと思う。
 同世代を生きた私との違いは、太平洋戦争のとき、父が外地から帰ってきたか、こなかったかの違いが大きかったのではないか。先生の生きた人生を思いながら、そんなことを考えていた。先生のご冥福をお祈りします。
 
 

K先生の死

2009-12-20 17:49:09 | Weblog
 「あすなろ会」会長のTさんから電話があった。K先生が12月19日亡くなったということであった。
 暫らく沈黙のあと「通夜が22日午後6時からA葬祭場で行い、葬儀は翌23日10時30分から行うことになった。出来るだけ多くの人が参加してお見送りをしたい」との連絡があった。私は通夜、葬儀とも出席しますと行ったが、予期していたこととは言え、その死を受け入れるまでには、相当の時間が掛かった。
 K先生とは9月17日H施設に慰問に行ったのが最後であった。この施設の慰問は先生が決めたもので、そのようなことは今まで余りなかった。
 そのときの先生の様子は、余り元気がなかった。それも夏の暑さが感じられる時期であったので、私は勝手に夏バテが続いていると理解していた。
 この施設には先生の母親が、入っていて、それを見舞ってから、私達に合流し、施設入居者にマジックを披露したことを思い出す。
 その帰りに、先生からみんなに紙袋に入ったマジックの小道具を貰った。各人が違った小道具であったが、先生は、その場で、扱い方を教えてくれた。
 その各々の小道具は、簡単に手に入るようなものでなく、金銭的にも高価なものであった。
 その時が、一緒に慰問に行くことが出来た最後となった。
 今思うと、先生は自分の命が尽きることが近いことを感じていて、その時が最後の慰問となることを悟っていたようであった。それ故母親との別れや、私どもへの、形見の品を置いていったのではないかと思う。
 それ以降は、会うことは無かったが、家で静養していると聞いていた。
 ある時、Tさん「私も見舞いに行きたい」と話したことがあったが、Tさんは「最近は見舞いに行っても、本人が会うことを断っているので様子を見よう」と言った。それは11月中旬であった。
 生徒から人望のある先生であり、15年前、マジックの教室の開設を立ち上げ、介護施設等を回わることを考えた時、10名近くの生徒が集まり、賛同した。
 その時のメンバーが現在まで続いていて、慰問活動を行っているが、先生の意思をついで、現在も続けているのは、その人徳を慕っているからであると思う。
 私がこの会に入ったのは、3年前であったが、先生の教え方やメンバーの明るく親切な雰囲気は、他にない温かさを感じて、現在まできた。
 これも先生の温かさによるところが大きかったと思う。
 年齢は私より1~2歳上であるが、人間の大きさを感じた。これからいろいろのことを教えて頂こうと思っていた矢先であり、強い悲しみと同時に残念な気持ちが残る。
 先生の冥福を祈ると共に、意思を大切に守っていこうと思う。
                      ≪12月19日連絡を受けて≫ 
 
 

年末のターゲットゴルフ

2009-12-19 22:08:23 | Weblog
 今年一番の冷え込みとなった。自転車で犬の散歩をしたが、朝7時の気温は4度で、風が切る様な冷たさであった。しかし青空が広がっていて、日中は暖かくなると思った。
 先日同じ町内に住むYさんから、19日はターゲット・パードゴルフ(略してPゴルフと言う)を市営のスポーツ広場で行うので、午前8時までに、Yさんの家の前に集まるように言われていた。私が入っているPゴルフの同好会は10名ほどの少ない会であるが、各地域でこうした会が出来ていて、S市でも高齢者に推奨するスポーツとして、力を入れている。
 午前8時までに犬の散歩を済ませ、Yさんの車で市営のスポーツ広場に行った。このスポーツ広場にはテニスコート場やグランドゴルフ場も併殺されており、今後も開発して、総合スポーツ広場に作り上げていく構想があるらしい。
 山間の丘陵地に作られた施設は、木々に覆われた環境の良いところにある。
 Pゴルフは普通のゴルフと同じように18ホールで競うもので、ハンデも、技量によって決められている。正味2時間ほどの競技であり、適度の運動にもなるし、前半と後半との間の休憩時間は互いに持ち寄った果物や菓子等で会話するのも楽しい。
 月一回の定例Pゴルフを楽しんでいるが、今日は、今年最後のPゴルフであり、幹事から「今回の景品は奮発したので、優勝を目指して頑張って下さい」と言われると、肩に力が入るし、意識するものである。私はハンデが17であり、技量はないが、優勝もないとはいいがたい。そのような気持ちにさせた。
 メンバーの10名は、2組に分かれて、スタートした。風は微風が吹いているが、余り影響することはなさそうである。
 このスポーツを紹介すると、羽の付いたボール(シャトルボール)をゴルフのアイアン(PW)で打つもので、風の影響を強く受け易い。それを計算に入れ打つのであるが、フェアーウエーが狭いので、OBが出やすい。その上、笠を逆さまにしたようなアドバンテージホール(AB)に入れるための技術が要求される。それが出来ない人は地面に86cmの輪がありそれに入れると1罰打を加えることになる。
 私には、まだその技量はないが、今日は風の影響もないし、OBを出さないよう注意してプレーすることにした。それでもOBは3打叩いたが、それは少ない方であった。
 その結果前半を36のスコアー、後半を37、全体で73と今までで一番良いスコアーが出た。
 因みにパープレーは54であり、19オーバーである。
 この分では優勝するのかと思った。しかし計算された結果、私よりハンデが多い人が良いスコアーで回り、2位となった。まだこのPゴルフを始めて、半年ほどにしかならないものが、ハンデがあるからと優勝を意識するとは、少し甘く考えていないかと、自分を思った。
 
 
 

 

年賀状書き

2009-12-18 21:53:46 | Weblog
 一日を年賀状書きに充てた。予定では12月20日までには書き上げ出すつもりでいたが、年末はいろいろなことがあって、一日中集中して書くのは、今日が始めてである。
 今後も予定があって、集中して書く日は余りない。この調子ではとても20日までに書けそうにない。それでも空いている時間を使って、早く書くようにしたいと思っている。
 現在までに出来ているのは、葉書の裏面に書く「迎 春」の言葉と水仙の花の輪郭及び水仙の花を詠んだ俳句も書いてある。
 一応裏面の下書きは終わっているので、水仙の花に色付けすることが、これからの作業となる。
 6枚ほどを見本として、色付けしてみた。2枚は水仙の花の色を白色のものと黄色のものを描いたもの、他の2枚は葉の色を緑色のものと薄墨色のものにしたもの、後の2枚は、背景を付けるかものと、付けなしのものを書いた。
 6枚の各々に一長一短があり、判断が中々つかなかったが、考えた末、2種類の色付けした水仙の花の年賀状としようと思っている。それは白い水仙の花に、葉を薄墨色で彩色するものと、白い花に緑色の葉を描き、背景を薄茶色でぼかすものである。
 前項は、花に凛とした感じは出るが、色彩が地味であるところが難点なこと。後項は、色彩に明るさはあるが、落着きがない感じである。版画としては、前項の方が良いと判断できるが、新年の挨拶として、色彩感が乏しいのは、何処か引っかかるものを感ずる。そこで、相手の人の年齢等で分けて出そうと思っている。
 今日は6時間ほど書いたが、私自身絵心はないし、絵を描くことなど年賀状の時だけである。どうしても長い時間集中出来ず、何度も休みながら書いている。現在100枚ほどしか出来上がっていない。
 この様子では表面もあり、まだ4日ほど掛かりそうである。
 書いていると、妹から電話があった。母のことを心配しての電話であったが、そのついでに「年賀はがきを持って行くので、私の分も書いてくほしい」と頼まれた。
 妹は今忙しくて、年賀状どころではないらしい。そこで、裏面は私のもの(水仙の花)にして、2種類の内色彩の明るい方のものを、妹に渡そうと思っている。
 この分では年賀状が元旦に配達可能な12月25日までに出すには、相当集中して書かないと間に合いそうにない。他のことは後回しにしても、年賀状書きに集中しょうと考えている。