Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

ツインメッセでの研修(Ⅰ)

2011-02-27 23:32:11 | Weblog

 先週東京で研修を受けたが、それに関連する研修が静岡ツインメッセであった。東京では自分をブレークスルーする研修であったが、それを一歩進んで「人生を情熱的に生きる」ため探求する研修である。この講座は地方都市の静岡でも行なうとのことであったので、東京での研修中に申し込んだ。この講座は1月30日から始まり、10回のセッションを行い、5月29日に修了することになっている。既に2回は終わっていたが、3回目の2月27日から参加することにした。何故早く参加しょうと思ったのかと言えば、実社会の中にあっても、学んだことを忘れさせないためにも、継続して行こうと思ったからである。 この研修に娘は最初から参加していたが、私が途中から参加することに直ぐ了解してくれた。驚くほど娘も変ってきていることを感じた。

 会場は静岡のツインメッセであり、我家からバスで5分ほどの近距離にある。午後1時から始まり午後4時までの3時間であり、15分ほど前に会場に着いたが、席には誰も座ってなかった。その内に人が集まってきたので私は前列から2列目の真ん中付近に座った。直ぐ娘が来て、「最初だから分からないことがあったら、何でも質問するように」と言って、離れたところに座った。この研修は横の人とテーマごとにシェアするので、友達同士とか、親子などは別々のところに座るようになっている。 私の横には50代の女性が座った。見渡すと50人近くの人が来ていて女性の方が多いようであった。 前面のホワイトボードには、今日のセッションの意図は「人生というゲームを愛する可能性をもたらす」と書いてあった。 漠とした言葉であり、そこから何の連想も出来なかった。講義は始まったが最初は頭がクリーンな状態で聴けなかったので質問もした。又何人かの人が意見を述べる中で段々理解するようになった。とは言え脳内皮質での理解であり、真の理解とは言えない。     

 講義の中で「全ての愛する可能性を創造していく、そして生き延びる分野を手離すことが必要である」 この言葉はどうしても理解できなかったので質問した。「私がここに来たのは、家族への愛を貫きたいと思ったからです。しかし可能な全てのことに愛を持てと言う言葉には、現実には出来ないと思う。 この講座の前提である人生としてのゲームを目的をもって、優雅に楽々とプレーすることと矛盾するように思うが」と質問した。これに対する答えてくれたが、完全には解消できる答えは得られなかった。私が怪訝な顔をしていたので、講師も「これから分かってきますから」と言った。 これからの講義にも何とかついていこうと思った。


「名曲をうたう」から

2011-02-26 21:46:06 | Weblog

 S学苑の講座「名曲をうたう」は毎月第2、第4土曜日午後2時40分から行なわれている。今日は先生から個人レッスンを受けることになっている。このような日はうきうきした気持ちになる。歌は作詞石川啄木、作曲越谷達す之助の「初恋」にしようと準備した。この歌は何度か口ずさんでいて好きな歌であり、多少自信はあるが、譜面を意識して歌ったことはなかった。そのため午前中はピアノで弾いたり、インターネットでその曲をダウンロードして聞いてみた。私がアカペラで歌っている「初恋」は自己流である。それを少し練習したからと言って先生の前で正しく歌う自信はなかった。

 昼食を食べてPM2時ごろ家を出た。前回はピアノの発表会の日と重複してしまい休んだので一ヶ月振りである。教室に入ると一組(PM1時から2時30分)で教えたことがホワイトボードに書いてあった。ドイツ歌曲の「野バラ」の原語の一部が書かれていた。今日は2組でも「野バラ」を原語で歌う練習が有りそうだ。 2組の講座が始まり、最初は発声練習があった。この発声練習は高音の「シ」まで声を出す。そのときはそれに付いて行くが、一人で歌うときはその高さの声は出ない。それでもこの高音を練習することで昔に比べ音域が広がっていることを実感している。 それが終わるとドイツ歌曲ウエルナーの「野バラ」を原語で歌う練習をした。 この練習は私がいなかった前回もやっていたようで、他の生徒は原語で上手く歌っていた。私も誤魔化しながら何とか歌った。  

 その後5人が先生の個人レッスンを受けることになっていて、私は3番目に呼ばれた。「初恋」の歌詞を一部先生に渡し、その伴奏で歌った。高音の「ファ」は少しかすれたが何とか最後まで歌えた。 その後先生の評価を聞いたが「この譜面は貴方には少し高いようですから、一音下げた楽譜を持っていますのでこれで歌ってください」と言って、その楽譜で再度弾いてくれ私は歌った。そのほうがはっきりとした声で歌えた。先生曰く「気持ちよく歌っていますね。しかし楽譜とは違った歌い方になっているところが何箇所かありました。このレッスンは楽譜通りに歌うよう心掛けてください。次回もこの曲を歌ってください」こんなことを言われた。先生は私の音域がバリトンであるので、その音域の方が声に力があると思い一音下げたものと思った。次回は今より楽譜に忠実に歌おう。

 終わった後、SAさんとKIさん、それにYAさんから食事に誘われた。駅ビルの6階のすし屋に入った。取り留めない話であったが、コミュニケーションが取れてよかった。今日は自動車を置いてバスで帰った。


「あすなろ会」ボランティア

2011-02-25 21:09:55 | Weblog

 「あすなろ会」はマジックの会である。10名ほどのメンバーがボランティアのため組織されたもので月に1~2回活動している。今日は我家の近くにあるSU介護施設に行くことになっている。この施設は最近出来たばかりのもので長期滞在とデーサービスを行なっていた。スタッフは一生懸命にやっているが、小規模でありボランティアの人は来ていそうもない。私は犬の散歩でこの前を通る。そんなことから話したところ是非お願いしたいと頼まれた。 「あすなろ会」の会長に話したところ、日の設定とそことの窓口となって決めてくれるよう頼まれた。そして今日のマジックボランティアが実現した。

 「あすなろ会」のメンバーはの内5人が参加してくれた。男性は会長以下3名、女性2名であった。私は集合のPM1時の15分ほど前に着いたが、既に男性のMAさんが見えていて、準備をしていた。MAさんは静岡北部で15kmほどの遠方から来てくれた。「慣れた道でないので早めにきたが分かりやすく迷うことなくこれた」と言ってくれた。 他の3人も時間までには来てくれた。

 会長からは一番最後に演技してほしいことを言われた。その器でないと固辞したが「貴方が紹介者でありやってほしい」と言われその言葉に従った。持ち時間は各人10分ほどで演技してと言われたが、最後で調整するため20分ほどの時間でも出来るようネタは準備してきた。 PM2時になり別施設にいた長期滞在者も見え全部で16名ほどであった。小さな施設でありこれが一番集まった状態だといった。マジック、傘回し、南京玉簾を皆さんが演技した。上手く演技には拍手と驚きの声が起きた。最後に南京玉簾を全員で行なった(演技者3人と声出し2人)がその前が私がマジックを演技した。時間は15分ほどであった。トランプ、松竹梅、シルバーボールそれに今回初めて行なう、ドラゴンチューブ(D・C)なるマジックを披露した。このD・Cは一昨年年末に亡くなったKATOU先生から譲ってもらったもので、何とかものにしたいと思っていたマジックである。これは二重になった四角な空筒からいろいろなものを出すという標準的マジックである。昨夜は解説書を読みながら、その手順を学び繰り返したが、中々シックリはいかなかった。本番は失敗を覚悟で取組んだ。 結果は大きな失敗もなく上手くいった。まだ工夫をすることはあるが何とか演技した。

 最後は会長から挨拶をするように言われ、「今日はこのような場所を用意していただき有難うございました。みなさんの喜ぶ顔を拝見できて嬉しく思います。いつか又呼んでいただければありがたいです。皆さんも元気でお過ごしください」こんな言葉で締めくくった。


T介護施設のボランティア

2011-02-24 23:35:34 | Weblog

 今日はT介護施設で歌のボランティアがあった。毎月1回行っているが、以前は準備として半日程をそのことに当てたが今回はその余裕がない。午前中の少しの時間そのことに当てた。今までに模造紙に書いた歌詞の中から、丁度今の時期にあった曲の数曲選んでいった。選びながら曲を口ずさんで見ると滑らかに歌が出た。今日は春雨のような雨が降っていて、こうした時は喉が潤って声も出るようである。

 そして選曲は20曲ほどになった。それは施設に入っている誰もが歌ったことがあるような、歌いやすいものを選んだ。しかし今回はいつものように歌にまつわるエピソード等を調べておくことが出来なかった。少し不安もあったがPM1時20分にはT介護施設を訪問した。会場に入ると椅子が並べられていて準備は出来ていた。模造紙に書いた歌の順番などを決めていると、車椅子の2人のおばあさんが見え、私の名前を言って待っていたことを話してくれた。今まで自分の名前を言ってくれた記憶はなかったが、呼ばれて嬉しい気がした。その内に会話の好きなおばあさんが話し始めた。「私は先生(このように呼ばれている)と同じ年に生まれました。主人を平成18年に亡くし、それまでいた岐阜県可児市から、娘が嫁いできている静岡に来て、この施設に入っています。歌が好きで先生が来るのを楽しみにしています」とはじけるような明るい表情で話してくれた。

 PM2時から始まったが、今日は50人近くの人が見えていた。男性の1/3ぐらいが見えていた。女性に比べ男性はどこか目立たない感じであったが、それでも最近多くなってきていることは嬉しく思った。 男性がもしリクエストしてくれたら軍歌も歌おうと数曲用意してきたがそのチャンスはなかった。最初は「ふるさと」を皆で歌った。「叱られて」「ねむの木の子守唄」「遠くに行きたい」「このひろい野原いっぱい」「早春賦」「母さんのうた」などを合唱した。ここに入っている人は高齢者であり顔に生きてきた過去が見えるような気がした。そしてふと先日も研修のことを言いたくなった。それは「世の中を不満を持って生きる人と、いろいろの困難に会いながら、これが人生と割り切って前向きに生きている人がいます。先日受けた研修で、生まれながらに顔に大きなハンデをもって生まれた人が、それを感じさせないで明るく生きようとしている姿に私は感動しました。後者の生き方をしたいものです」と話をした。  それともう一つは「母さんの歌」の時は特攻隊員が前線基地の「知覧」から飛び立っていったが彼らが残した遺書のほとんどが、母に送った手紙であったことを話した。 話は聞いた何人かが泣いていた。


OB会役員と月例部会

2011-02-23 22:19:45 | Weblog

 毎月第4水曜日は鉄道OB会の月例部会を行なわれる。この時期には来年度の役員を決めなければならない。そのことで頭を悩ませる。 今回も副支部長のOさんが「18年間も役員をやってきたので、ここで辞めさせてほしい」ことを言っている。それに事務局長のNAさんもメールで別の人に代わってほしい旨伝えてきている。 2人には留任するよう言ってあるが、これまで目ぼしい人に当たってきたが、未だ承諾てくれた人はいない。それでも今日の月例部会の前に少しでも良い方向に進展させたいと次期事務局長候補とIさんと会った。彼は同じ町内に住んでいて、町内の役員もしている。以前からこのことは何度も話してあるが、今日PM2時家に来てもらい再度打診した。      彼は長男であり、年老いて病弱の両親が浜名湖の近くで生活している。両親を呼びたいと考えていること。そんな状況を知りながらも、それでも鉄道OB会のため人肌脱いでくれないか話した。

 鉄道OB会は全国組織として活動しているが、国鉄の時はそれなりに存在感があった。しかし現在は各JR会社に分かれ、その上そうした活動の目的も薄くなった。言うなれば健康、友人、生き甲斐を共有するOB会となっている。こうしたことを目的としたものは地域の中に存在し、活発に活動している。それ故何のための鉄道OB組織かと言ったことを言う人が多くなっている。それ以外の理由からも最近組織の減少の傾向は続いている。                               しかしだからと言って潰してよいことにはならない。そのような状況では自分から進むで役員をする人はいない。それでもIさんを説得した。それに考えて見るとIさん以外適任者はいないようだ。2時間近く話し会ったところ、Iさんから「一度事務局長のNAさんと話をさせてほしい」と、このようなところまでいった。 「そのようにしてください」と言ったが彼が考えてくれていることをありがたいと思った。どうか良い方向に傾いてくれればよいと思う。

 PM5時からの月例部会には三役を含め8人ほどが集まった。3月3日の地区幹事会、それに4月1日発行の「静岡支部だより」の原稿依頼等のこと、そして4月14日の平成23年度の支部の総会が話されたが役員改正のことは説得中として余り話さなかった。


YAさんの葬儀

2011-02-22 12:22:02 | Weblog

 研修中の19日携帯電話に妻からのメッセージが入っていた。「WAさんが亡くなりました。通夜は20日で、出棺は21日9時15分、葬儀は13時から静岡の光増寺で行なうことになっているが、出棺までに帰れますか」こんなメッセージであった。直ぐ妻に電話してその詳細を聞いて、状況は判った。WAさんは我家の前にある家であり、この葬儀は出席しなければならないと思った。妻は母の介護があり出席できないため電話してきたものである。20日は研修があり帰れないが、21日朝新幹線品川駅7時10分ひかりに乗れば、静岡駅8時10分には着く。そうすれば出棺までには光増寺に着くことが出来そうである。そこで五反田のホテルを朝6時20分に出て、品川から新幹線に乗ることが出来た。光増寺は、家から自動車で10分ほどのところにあり、9時ごろには着いた。既に本堂では読経済み、出棺の準備をしていて何とか間に合った。その後は荼毘から、本葬まで皆と共にした。

 YAさんのことは17日午後我家の前に救急車が停まり、YAさんがタンカーに乗り救急車に乗り込んだのを家の中から見ていた。それは奥さんと会話しながらであったので、たいしたことではないものと思った。まさかこのようになるとは思いもしなかった。YAさんとは10年ほど前はよく話したが、ここ5~6年は会うと挨拶ぐらいするが無口になり、ある面無表情になった。私が会社を退職したと、同じ頃YAさんも会社を辞め家にいるようになった。そのことから私と同じ年頃ではないかと思っていた。しかし享年62歳であった。今日初めて知ったが長い間肝硬変に侵され、早期退職せざるをえなかったこと、その後は身体の回復に努めていたが、回復することなく亡くなってしまった。体調のことを考えると、道で会っても人と楽しく会話することが出来なかったことが今分かった。

 後に奥さんと社会人となった男の子が残ったが、気丈に振舞う遺族に涙が注がれた。今回町内から葬儀に参列したのは12名ほどであったが、男性はENOさん、SUさん、YAさん、SAさんそれに私であり、後は女性であった。YAさんとは町内の班がちがっていたが参列したのは男性では私だけであった。 生前余り故人とは話をしなかったが、遺族はよく知っていたので喜んでくれたと思った。初七日から精進落としまで町内別班の人達と一緒に過ごしたがそれによる違和感は感じなかった。終わって帰ったのはPM3時ごろであったが、今日は人の命の儚さを考えさせられた一日となった。         2月21日のことを記す。


ある研修に参加して(Ⅳ)

2011-02-21 02:04:08 | Weblog

 20日の研修は自分に成果のある内容であった。このことは筆舌に表わしがたいが、一口で言うと「人間誰もが過去を背負い生きている。その過去を取り除いて未来に興味を持って生きていく」ことであった。 人間は継続している不満によって決めるあり方と生まれ育った強い手札のハザマの中で生きている。  そのことで押しつぶされそうであるが、それを断ち切って、新しい器を作り、過去のしがらみのない生き方が出来るということである。そのことによって新しい人生を始まることが出来ると予感した。

 それは自分に繋がる社会への信頼であり、愛情ある行動であると理解した。ここに至るには講師とそのことを考えた参加した仲間のお陰である。この感覚は今まで味わったことのない新鮮なものであった。 この研修を通じて自分をさらけ出すことによって見えてきたものがあった。それを言葉にすると感動があり涙があった。そして強く生きることを学んだような気がした。

 この日の最終講義を聞いた後、紹介者が入っての話となった。後ろを見ると多くの紹介者の中に娘の姿があった。 今まで娘の顔をまともに見ることが出来なかった私は、それを真直ぐ見ることが出来た。 それは性格の優しいよい子に見えたし、誰にでも自慢の出来る娘がいた。 そして参加者がこの講義を受けて発見したことを、壇上に立って一人ひとりが発表すrことになった。 皆さんの発見にも感動したが、私も壇上に立って話した。その言葉は自然と出た言葉であった。それは「家族への愛を貫く」こんな言葉であった。普段はとてもいえない言葉であったが、それが自然と出た。この言葉の重さを噛み締め、今後生きたいと思った。

 最後に一番感動したことを記す。FUさんという30代の女性のことである。彼女は生まれながらに、顔に大きなケロイドを持って生まれた。それ故何度か手術した後が残っていた。それでも隠し切れない後が残っていたが、隠すことなく凛としていた。参加者が読んだように、彼女は母に書いた手紙を読んだ。「私が10歳ぐらいになった時、母のタンスの中から私が生まれたときの日記を見つけた。直ぐにも見たい、生まれたばかりの赤子(私)を病院側は病弱だからと言って合せてくれなかった。何日か経って母の元につれてきた私を見て、絶望の悲しみに沈んだ。そして母は赤子と一緒に死のうと思った。しかしどうしても一緒に死ぬことは出来なかった。そして役場に生まれて14日目(最後の日)に出生届を出した。その後母の愛を一心に受けて育った。私は顔のことで恥ずかしいと思ったこともないし、死のうと思ったことも一度もない。これからの人生を勇気を持って楽しく生きて行くので、お母さん心配しないでほしい」このような手紙であった。彼女は泣きながら読んだ。これを聞いて私は自分の考えの小ささに恥じた。


ある研修に参加して(Ⅲ)

2011-02-20 02:53:20 | Weblog

 2日目は挙手して宿題の手紙を読むことから始まった。私は手を挙げなかった。今日は多くの人が挙手するようになって、30人近くが自分の手紙を読んだ。その全てに言えることは紹介者への感謝と、自分を変えようとする気持ちが伝わってきた。 その後講師から、最終日、紹介者が来てくれる人はいますかと聞かれた。私は挙手すると先生が指名してくれ話したそれは『紹介者は私の娘です。最終日は来ると言っています、そして娘とのことを話した。1月、長い間疎遠であった娘から突然電話があり、私を嫌っていたことを謝り、親密な親子関係を築きたいと言った。そのことで私も研修を受けることにしたが、娘は「次はお兄ちゃんにも受けてほしいね」と話した』こんなことであった。 私は息子とも疎遠であり、今一番気になっていることである。それを代弁するような話で、娘の心に打たれた。

 私は、常々自慢めいた話「いいかっこうし」をよくする。それは良くないと思いながら言葉が出ている。そのことは反省しているが、それはDNAによるものなんだと思っていた。しかし講義を通じて、子供の頃の成長過程において、内にある自分を覆い隠すために行なっている詭弁であったようだ。 それに負けまいと思う気持ちや、不満に思うことにより起こる相手への否定等はその代償として親しさや満足感を失っていることであった。それは自分を生き生きと過ごすという大きな代償を失っていることに気がついた。

 そして自分が生まれ育った過程において覆い被せている気持ちの変遷を考えた。私も生まれたときは母の愛情を一心に受け育った。しかしその過程で考えを変える衝撃ことがあった。それにより「意固地な人間」が芽生えたようだ。そして数年が経ったとき、又衝撃的ことがまた起こった。それは意固地な人間を覆い被せるように「優しい人間」になろうとした。そして数年経ち思春期の頃、世の中で生きていくために「頑張る人間」という考えが覆い被せたものと思う。これは自分を分析したものである。 これは長時間考えて出した「手札」である。これを過去からの事象を当てはめると納得する。故に外見上の頑張り屋は、その芯である意固地人間が時どき出るのではないかと思った。

 以上のことは、人間を形成する段階で、過去を覆い被せてきたことが、日常の生活の中で、時と場合によりその覆い被せた人間が出てくる。「いいかっこうしい」もそのように人間形成の中から出てきたように思った。 人間が衝動的に出る態度や態度は、覆い被せてきた性格が出たことによるものと思った。・・・・・これは人間が持っている「強い手札」であると解説した。               このことを私は疑問を持ちながらも少し理解してきた。 ホテルに帰えり、私の衝撃的に出た言葉によって傷ついた妻に20日の朝手紙を書いた。   


ある講習に参加して(Ⅱ)

2011-02-19 07:40:20 | Weblog

 この講習は一切メモを取らないで、講師とのやり取りで始まった。2人の講師は40代と思える男女で、2人とも大きな声で説得力がある話をする。男性は長身の方でスーツ姿が似合うダンディーの人で、女性は可愛いい顔をしていて、均整の取れた美形の人であった。 最初は女性が話し出し、それをホローする形で男性が少し話す、そんなことで進んでいった。 思うに女性が主講師で、男性は先輩講師として、あまり話さないが女性講師が困ったようなとき話した。主導するのは女性講師でARAさんと言った。 この女性は大きく抑揚のある声で話し始めた。私は最初カルト宗教的説法ではないかと身構えて聞いていたが、その誤解は直ぐ解けていった。

 メモしないので正確にはわからないが、話の中で、「自分を変えることは、あたかも自転車に乗れない子供がある一瞬に乗れるようになるように理解出来るようになること」 それに「タマネギのように皮一枚ずつ剥し、その芯を考えさせる内容であること」そして「これは自分を探求する研修であること」を話していった。この研修は3時間を単位としてテーマを解説し、それを隣りの人と話し合い自分の考えを纏めていく。そして30分の休憩の間も考えて、次の時間で挙手し皆の前で発表することになる。そのような形で進んでいくが、最初の頃は、自分のことには極力触れず、友人とか、組織の人間関係等で誤魔化そうとしていた。しかしそれを掘り下げていくと、自分の核となる身内との関わりをテーマにしないと、見透かされている感覚になる。誤魔化そうとしている自分が分かってきた。

 最初に聞かれたことは、ここに来た目的であった。「私の近くに、行動、言動、相手への配慮等、素晴らしい人がいる。そのような人に一歩でも近づけたいと思ってくることにした」と答えた。 しかしその後講義が進み、過去を未来に引きずっていることをテーマにした話になった。 それは家族の絆に絡む本質的ことであった。 ここでも何とか誤魔化そうとしたがそれが無理であることが分かった。 そして初日の終りに、講師から宿題が出た。明日の朝までに今回このセッションに紹介してくれた人に手紙を書いてください。そして最後の日に紹介者に来てくれないか聞いてきて下さい」こんな事を言われた。

 ホテルに帰り、娘に電話して、3日目のPM7時までに来てほしいことを頼んだ。娘は二つ返事で「行くよ」と答えてくれた。そして私に様子を聞いた。 静岡からであり来てくれないと思っていたので、彼女の変化に驚くと共に涙が出るほど嬉しかった。 それから2時間ほど掛けて「親愛なるYOさんへ」として、今の気持ちを書いた。 概要はこの研修に紹介してくれた娘への感謝と、過去の謝り、そしてこの研修によって変っていく自分を見てほしいことを手紙にしたためた。


ある研修に参加して(Ⅰ)

2011-02-18 23:15:51 | Weblog

 私は2月18日~22日までの「トランスフォームした人生を生きる」ため講習を受けるため東京に来ている。70歳を過ぎた私にとって、そのようなことが必要なのかとの疑問があったが、娘からの後押しもあって受けることにした。この講習は毎日がAM8時30分からPM11時までの長時間を3日間行い、一日置いて22日はPM7時から10時30分までのイブニングセッションが予定されている。このため17日は東京に前泊した。

 このような講習を受けよう背景には娘の存在があった。彼女は6年前に家を出て生活している。それは父親に対する嫌悪からか、それ以降は会うことも話すこともなく年月が流れた。このような不自然な状態を寂しく思いながらもどうすることも出来なかった。そんな折1月下旬のある日、午後11時ごろ、突然彼女から電話があった。内容は「お父さんを嫌っていたことを謝りたい。そしてよい親子関係をつくりたい」こんな話しであった。それまでに彼女も葛藤していたものと思うが、そのことを友人に話し、上記の講習を受けることになった。その受講中私に電話があったものである。それを契機に会話が出来るようになり、私の閉塞していた空間に光が差しこんだような気持ちになった。そして勧められて私も受けることにした。

 その講習はR・エデュケーション(株)米国で設立された世界的企業であり、独自の教育手法により個人、企業、組織等に教育訓練プログラムやカリキュラムを提供する企業である。そのすべてのプログラムの土台が、今回受講するB・Tコースであり、参加者の人生の質、人とのかかわりや、自分の家族、仕事への満足感といった大きな分野に建設的、永続的なシフトをもたらすような具体的デザインされているものであった。 その中で私は家族との信頼関係、社会での人間関係の構築を学ぼうと思った。そこで事前に送られてきた、この講義を通じて達成しようとしていることは何ですかとの質問に、                                                  1.回りの人との人間関係を築くために自分を変えたい。                          2.成人した子供達は家を出て生活しているが、会うこともは話すことも出来ない。それには育てる過程に於いて理不尽に厳しくしたことが原因であると思う。その信頼関係を築きたい。        と記して送った。

 ホテルでは4時間ほどしか寝れなかったが、18日AM8時ごろ五反田にある会場に向かった。そこには50数名の参加者が集まってきていた。周りを見渡したが20代から50代ぐらいの人はいたが、70歳代は私だけで他には居そうもなかった。それでも勇気を持って真ん中近くの前列から2列目に座った。