Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

愛犬を病院へ

2015-04-28 23:07:33 | Weblog

 我が家の愛犬も今年5月には14歳になる。甲斐犬は敏捷で勇敢な犬である。日本犬では秋田犬に次いで2番目に天然記念物に指定されるほど数の少ない希少犬である、明治に入ってから人間に飼われるようになったが、それまでは野生犬で南アルプスの山中に群れを組んで生息していた犬である。それ故野生の本性を未だ持っている。しかし人間の云うことを良く聞き、特に飼い主には忠実な犬である。我家では、長い間甲斐犬を飼っていて、これで3代目となる。

 しかしこの冬ぐらいから、精悍さが衰え、今まで誰かが来ると吠えていたのに、そうしたことも少なくなった。朝夕の散歩は喜んでいくが、それも500m程で、それ以降は急に歩く速度が遅くなる。最近の散歩の距離も1.0km~1.5kmに短くしている。最近昼間は犬小屋で寝ている時間が長くなり、それでも散歩のときは飛び上がって喜びを表わす。食欲はあり、身体も痩せるようなことはないが一度動物病院に連れて行こうと思っていた。

 4月28日(火)午後SBSのカルチャー講座から帰ってから行きつけのF動物病院に連れて行った。距離は1kmほどのところにあり、家を出るときは元気にリードを引張って行った。しかし途中から私の後からゆっくり付いてくるようになった。しかしそこが動物病院であることが分ると、足を踏ん張って入ろうとはしなかった。一年ほど前に、この病院で手術を受けていて、それを覚えていたのだ。何とか病院に入れたが落ち着きがなかったが直ぐ獣医の診断を受けた。そこで狂犬病のワクチン接種とフィラリア予防の薬、それに血液検査をお願いした。この血液検査は毎年やっていて、何か悪い数値が出るのか心配であった。

 獣医に犬の症状を言うと「人間の年齢なら80歳ぐらいですので犬も弱くなります。後ろ足が少し弱くなっていますね。しかし背中も丸くなっていないし、食欲もあり、体重も13kgと昨年と変わっていません。血液検査の結果を見て判断しますが、まだ確りしているように見えます」と云った。待合室で10分ほど待つと看護師が、血液検査の結果を教えてくれた。「数値の中でALTの値が高いですが、昨年より下がっています。それ以外は特に悪い数値はありません」少し安心した。ALPは肝臓の数値であり、4~5年前から高くなっていて気にしていたが、元気なので良いと思っていた。やはり高齢による動作が緩慢になったが、それに肝機能も影響したのか? 私も若い時、呑みすぎで肝臓が悪かったことがあったがウコンを呑むようにして直した。犬にもウコンを呑まそうと思う。


ミステリーツアーに参加して(4)吉野ケ里遺跡

2015-04-25 23:57:21 | Weblog

 今日はツアーの最後の日である。疲れも溜まってきたが何とか最後まで楽しみたい。この日のヒントは『日本の古代を感ずる観光地』とあった。そのことが吉野ケ里遺跡であることは直ぐ分った。7~8年前、九州で同窓会があったが、その時筑紫野市に泊まった。その近くの吉野ケ里遺跡があり訪ねたかったが、都合で行けなかった。静岡にも同じ弥生時代の登呂遺跡もあり、古代の人達の生活を比較するためにも行きたかった。このツアーで行けることが楽しみであった。

 原鶴温泉からバスで45分ほどで吉野ケ里遺跡に着いた。ここは佐賀平野と云うのか、広い平地が広がっていて登呂遺跡の5倍ほどの遺跡群があった。広いため管内を定期的にバスが走っていてバスに乗って見ることもできる。ツアー客には高齢の人もいて、全部を歩いてみる人は少なかったが、私達は歩いて回ることにした。この遺跡は濠が掘られ、そこには柵が廻らされ、また矢杭が打込まれ外敵からの侵入を防ぐ構造になっていた。九州のこの地は玄界灘に近く中国、韓国から侵略もあったと予想されたし、または地区の邑からの侵入もあったと思われる。そうした防備はできていて、西洋におけるポリスのような構造になっていた。その中にも区分けて幾つかの柵が施され、王(統治者)の住み処や、邑重臣の集会所もあり、分業された邑の生活も見てとれた。

 また驚いたのは、その一角には墳墓群があり、中には甕棺に収まった遺体も多く見つかった。そこには矢で刺されたのか、穴が空いた骨や、頭部がない遺体もあった。また柵の外には畑や森林があり、そこで作物を採ったり、狩りをしたりしていたことが分る。しかし静岡の登呂遺跡では柵も発見されていないし、濠も見つかっていない。同じ2000年ほど前の弥生時代であるが、生活様式は相当の違いがあるように感じた。特に外敵からの侵略を受ける弥生時代の吉野ケ里の人達を想像したとき、生きることの厳しさを感じた。しかし登呂遺跡では、人骨も濠も見つかっていない。それはまだ発見できないのかもしれないが、住民の長閑な生活が想像できた。

 1時間30分ほどの吉野ケ里遺跡の散策は、弥生時代も外敵から民を守ることの厳しさを感じさせられた。その後バスに乗り博多駅に着いたのは午前11時30分頃であった。福岡市(駅は博多と云う)は人口150万人の九州一の大都市である。新幹線も、飛行場も近くにあり、交通の要衝である。駅に着くとホットした。幾つかのみやげを買い12時32分のぞみ号に乗った。以前ならあまりきついとは思わなかった3泊4日の旅行は疲れた。列車の中では寝て過ごし静岡に着いたのは17時46分であった。終

 

 


ミステリーツアーに参加して(3)中津・日田

2015-04-24 22:52:49 | Weblog

 朝8時にホテルを出た。今日のヒントは『テレビで話題の〇〇城と伝統的建造物が並ぶ街並み』であった。津和野にでも行くのかと思ったが、そうではなく、また関門橋を通って九州に入った。バスは福岡県から大分方面に向かい県境の山国川を渡ると中津であった。昨年大河ドラマ「黒田官兵衛」であったが、これが「テレビで話題の城」のことで中津城であった。黒田官兵衛この地に城を構え、中津12万石の領主として13年間を過ごしたところである。しかし黒田官兵衛は姫路の印象が強く、中津の領主として長くいたことは、今まで知らなかった。

 中津城に上る前に近くを散策した。そこは寺町と云ったが、そこに「合元寺」があった。この寺は外壁が朱塗りで血のような色になっていた。黒田家が中津に来る前の領主は宇都宮鎮房であった。彼も九州征伐のとき豊臣秀吉に付いて戦ったが、伊予国への転封を命ぜられる。それを拒否したことなどで、秀吉の命により宇都宮鎮房は黒田勢によって中津城で誅殺された。その家臣団40数名は合元寺に待機していたところを黒田勢が攻め、斬り合いの末、全員が討ち取られた。この血が壁に染み込み、塗り直しても滲むため朱塗りの壁にしたとのことであった。戦国の世とは言え厳しい現実を物語っていた。黒田官兵衛は、その後宇都宮氏の怨念に苦しんだと聞いた。その後福澤諭吉が長崎に遊学するまでの幼少青年期を過ごした家を訪ねた。彼も幕末に志士として活躍した高杉晋作、坂本竜馬と同じ世代であったが、幕府の旗本として西洋を見聞している。それ故攘夷には組しなかった。その後明治政府に誘われたが断わり、一民間人として多くの人材を育てた。

 次はバスに乗り日田を目指した。「伝統的建造物が並ぶ街並み」とは天領地日田であった。その途中に「青の同門」を通ったが、15年ほど前にも来た時とイメージは違っていた。今はその横に道路が通り全体に整備された印象であった。そこから日田まで1時間ほどで着いた。最初に行ったのは酒蔵のあるK酒造であった。この地は水がきれいであり、美味い酒が出来るとのこと、私も一本の清酒を購入した。この一角は古い建物が並び、そこを散策した。歩いていても町全体が裕福のような感じを受けた。

 「今日の宿は、美肌の湯の温泉で寛いでください」との添乗員の話しから、地図から幾つかの温泉地探し想像したが着いたのは、聞いたこともなかった原鶴温泉の泰泉閣であった。この温泉は筑後川沿いにあり、旅館も数軒しかない温泉地であった。この泰泉閣は第43回植樹祭で天皇・皇后陛下がお泊りになった宿であった。湯量は豊富であり、ジャングル湯と云ったか、いくつかの湯船があり満喫できた。そしてここに来る前に近くの「香山昇龍大観音」をお参りしたが、これも旅館の経営者が建立したものであった。

 


ミステリーツアーに参加して(2)萩、長門

2015-04-23 21:30:52 | Weblog

 ホテルを出てバスに乗り込んだのはAM9時40分ごろであった。どこに行くかと思ったら、再度関門橋を渡り本州に入った。山口県は山の多いところで山道を通って萩に出た。今日の行く先ヒントに『歴史のある港町と産業遺構そして詩人の世界を感ずる記念館』とあった。明治維新を主導した萩の志士たちを訪ねることは分ったが、詩人の世界を感ずる土地は分らなかった。萩に着くと直ぐ浜崎地区を散策した。ここは関ヶ原で敗れた毛利輝元が中国地方の大大名から萩の領主に転地されてから400年の歴史がそのまま残しているところであった。北前船の寄港地として栄えたと云ったが、毛利氏の貧しさは想像できた。

 次に行ったのは、萩の反射炉であった。韮山の反射炉と比較しても小さく荒廃著しいものであったが、ここにも長州が明治維新を主導して痕跡があることを感じた。そして萩のメインである松陰神社、松下村塾、伊藤博文生家などを散策した。そこは日本のどこにでもある光景であったが、なぜこの地に吉田松陰が生まれ、それに続く多くの志士達が育ち、江戸幕府を転覆させるエネルギーがあったのか考えた。しかし、その疑問に答える何も出てこなかった。微かに感じたのは、関が原で敗れた毛利氏のDNAが蓄積しエネルギーとなったのでないか?

 そこからバスに揺られ着いたのは、童謡詩人 金子みすずが生きた長門市であった。日本海に面した港町で、午後の四時ごろには、人通りはなく活気は感じなかった。その路地通って100m程のところに金子みすずの生家が記念館として残っていた。そこには26歳の若さで亡くなった天才童謡詩人の息遣いを感ずるところであった。金子みすずは、20歳のころから童謡を書き雑誌に投稿した。それを見た西條八十は「若き童謡詩人の中の巨星」と称賛された。しかし生きているときは脚光を浴びることもなく、死後歌集が世に出たと聞いた。

 今日は晴天であり、バスからの眺めは、新緑も鮮やかであったが、道路も混む様子はなく、並行して走る山陰本線も単線で3両ほどの車両にはお客もあまり乗っていなかった。ここから角島の灯台を見に行った。この島は離島であったが、3程前に道路で繋がった。その延長は分らなかったが1.5km程あったように感じた。まだ新しさが残る道路を通って島の灯台に出た。西洋式灯台と云ったがその周りは公園として整備されていた。しかし日本海の青さは素晴らしいと思った。島から本州に戻ったところにホテル西長門リゾートはあった。ここが今日の宿であった。海の臨む夕日美しさと露天風呂が印象に残った。

 


ミステリーツアーに参加して(1)下関・門司

2015-04-22 23:27:51 | Weblog

 Hツアー会社が企画した「海辺の温泉と港の夜景に癒されるミステリーツアー4日間」の国内旅行に妻と参加した。この旅行は、行く先が分らないまま行くツアーで、事前に示す簡単なパンフレッドの写真とそこに書かれた微かなヒントから場所を想定しながら行く旅行であった。不安もあるが、自分が推理した場所が当っていると喜び、外れると残念な気持ちになるが、これも楽しいものに思えた。私は初めてであるが、妻はこうしたミステリー旅行を楽しんでいるようで、事前に幾つかの場所を想定し勉強してきたようだ。今回のツアーは37名が参加で、三島、静岡、浜松等の各地から集まった。若い人は皆無であり、概ね60代から70代の高齢の男女であった。

 最初の日の行程は、静岡駅11時29分発のこだま号に乗り、乗換えて、某新幹線駅で降りバスに乗り、某土地を散策し異国情緒あふれる港のホテルに泊まるとなっていた。2日目以降も多少のヒントが書いてあったが、私には皆目わからなかった。その旅行の行程を追いながら印象に残ったことを記すことにした。

 ≪新幹線を降りたのは小倉駅16時22分であった。ここからバスで関門橋を通って下関に出てバスを降りた。歴史的場所なら、源平合戦が行われた壇ノ浦が近くにあり、それに関連する施設でも廻るのかと思った。しかし、そうではなく関門海峡地下道を通って九州側の門司に抜ける片道のウオーキングであった。こうした行程は想像ができなかった。夕食をレストランで食べたのは夕方6時ごろであり、すぐ近くの門司港レトロ地区に建つホテルが今夜の宿であった。ここは、門司駅から門司港駅まで線路が繋がれ、この門司港は明治から大正時代にかけ九州地区の貿易の拠点として栄えたところで合った。当時を思わせる西洋式建物が点在していて、異国情緒があふれる雰囲気を醸し出していた。

 夕食後、このレトロ地区を散策した。既に人通り少なく淋しい感じの道を歩いた。その一角に建築家 黒川紀章が建てた、31階建ての門司港レトロ展望室があり、そこに登ることにした。既に夜9時近くであったが、その展望台には10名ほどの人がいて夜景を見ていた。驚くような夜景ではなかったが、関門海峡を挟んだ下関側の灯りは、水面に映えて綺麗に感じた。案内所で赤間神宮の方向を聞くと、眼下の下関側の灯りの中で 余り強い灯りでなかったが、こんもり茂った木立の中に赤間神宮の朱色の微かに見えた。この赤間神宮はまだ行ったことがなく、このツアーで行けないかと思ったが行程は組まれていなかった≫


今日の二題

2015-04-21 22:57:05 | Weblog

 午前中は大谷ゴルフ場でゴルフコンペが計画された。このコンペは「年輪会」と云い70歳以上の愛好者のためのコンペであり、友人のISさんと参加した。そこに駿河TBGの仲間のTAさんも友人WAさんと参加することを知り、4人で回ることになった。TAさんは、最近ターゲット・バード・ゴルフ(TBG)を始めたばかりであるが直ぐ上手くなり、きっとゴルフの経歴は長いものと思っていた。その彼と廻ることも楽しみになっていた。また彼の友人のWAさんは、彼より上手いとの話を聞いていた。しかしこのコンペはダブルぺリアで行なうため、良いスコアーが必ずしも上位とは限らない。

 私達は1番からのスタートで2番目に打った。ここは大きな谷がありOBの出やすいところで、それを注意して打った。しかしグリーンをオーバーしダブルボギーのスタートとなった。しかし最初であり何とかなるものと思った。しかしTAさん、ISさんは互いに競って前半は4オーバーの31で回ったが、私は11オーバーと全然ダメなスコアーとなった。以前は4オーバー位で回っていたが、練習不足から已む負えない数値であった。後半はISさんも崩れ、WAさんは筋肉痛で途中リタイアした。こうなるとTAさんの一人舞台となり、トータル63とのことであった。私のスコアーはトータル78と、この大谷ゴルフ場での最低なスコアーとなった。

 コンペの打上げ会はクラブハウスで行うことになっていたが、私は打上げ会には参加せず、午後1時より行なう、音楽のカルチャー講座の昼食会に行った。ゴルフ場を出るとき12時45分であり時間的に窮屈であったので、講師のYAさんに少し遅れることを伝えた。家に帰り自転車に乗り換えフランス料理店に行った。時間は1時10分になっていたが何とか食事には間に合った。今回は静岡、沼津で開講しているカルチャー講座の生徒が集まり生徒は20名が席についていた。その内男性は6名で同じテーブルに着いた。最初に男性の一人がブロードウエイのミユージカルについて話した。関心のある人には良いが、私は料理を前にして話しは耳に残らなかった。ワインを飲みながら聞いていた。

 大部分の人は、ワインを飲まなかったが3~4人は飲んだ。私のグラスに注がれたワインは直ぐ終わった。そこで数人と話してボトルを注文した。料理は美味いし、ワインを飲むと心地よい気持ちになった。少し饒舌になっていることが分ったがとまらなかった。私にとっては程よい酔いかげんである。すると普段とは違ったくだけた会話も出来て場が和んだ。これは人間関係に必要なコミュニケーションだと思った。家に帰ると急に睡魔に襲われ2時間ほど仮眠した。ISさんが来たことを聞き起きると、ゴルフは準優勝であったことを聞いた。


母の一周忌

2015-04-19 20:05:32 | Weblog

 早いもので、もう母の一周忌を迎えることになった。亡くなったのは昨年4月25日であったが、一周忌の法要は、菩提寺の帝釈寺で午前10時から行うことにした。連絡したのは母のきょうだいと私のきょうだいだけであったが、甥や姪を含めて26名が集まった。この準備のため昨日までにお墓の清掃、生花の取替、引出物の購入、直会の準備等慌ただしく進めた。そして今朝は9時10分に家を出て、お寺に行った。喪主として早めに出たつもりであったが、既に瀬名の妹夫妻、三島の弟夫妻は来ていた。そして午前10時までには26名が揃った。

 一周忌の法要は、本堂の位牌安置室で母の位牌は正面に置かれ祭壇ができていた。お経は般若心経、修証義等であったが、弟はそれを暗唱できるし、その家族も弟の影響で大きな声で読経した。それが住職の読経に共鳴し、大きな声となって聞こえた。40分ほどの読経の後、住職が話した。尊い話のようであったが、肝心のところは思い出せない。しかし覚えているのは「曹洞宗では忌中は、亡くなってから49日までを云い、喪中は三周忌までを云う。それ故三年間は喪に服してください」と云った。これは少し長いような気がしたので覚えた。

 その後、お墓に行って皆で線香を上げた。お墓で、手を合わせると亡き両親と、ここにいる親族との繋がりのえにしを考えさせられた。そして世代は変わっていくことを・・・・・そこから直会会場の料理屋に行った。この料理屋は寿司が主体であったが、入口前に書かれた、利用者名は、五件ほどあり、流行っていることを感じた。通された部屋はテーブル席で30人ほどが使える部屋であった。献杯の後、母を忍んで会話をしたが、母のきょうだい達は、母の小さかった頃のことを話し懐かしんだ。親戚が集まるのはこうした時でしかないが、母はそれを作ってくれた。

 直会の後、浦和市から来た従弟のSIさんを市立病院まで送った。これは母の弟が入院していて「再度出直してくるのも大変なので、お見舞して行く」とのことで送った。家に帰ると、きょうだいや甥や姪が来ていて、仏壇の前で弟の読経に合わせて皆で合奏していた。この家で育った私のきょうだい達は、それぞれが家族を連れ、22名の顏が揃った。いつもは静かである我家も賑やかな時が流れた。そして1時間ほどして三々五々帰って行った。母の一周忌は、母を祀ると共に、きょうだい達を合わせてくれたのだ。


ボランティアで歌う

2015-04-17 21:04:43 | Weblog

 介護施設での歌のボランティアは、4月17日午後2時からである。このボランティアは既に7~8年行っていて気楽に出来そうであるが、いつもこの日が近づくと、上手く乗り切れるか不安な気持ちになる。それ故事前に3~4時間は準備に費やす。今日も朝食後8時ごろから4時間ほどかけ準備した。歌詞は100曲ほど模造紙に書いてあるが、その中から4月に合った曲を選び、曲にまつわる話しなど調べていく。こうしたことは今まで繰り返してきたことであるが、忘れっぽくなったのか予習しないと話ができないことも多くなった。

 今回選定した曲は「故郷」「富士山」「春の小川」「春よこい」「早春賦」「花」「若葉」「ねんねのねむの木」「この広い野原いっぱい」「青葉の笛」「朧月夜」「みかんの花咲く丘」「この道」「四季の歌」「砂山」「浜辺の歌」「琵琶湖周航の歌」「からたちの花」「白い花が咲くころ」「今日の日はさようなら」以上20曲を選んだ。このうち「故郷」と「今日の日はさようなら」は毎回最初と最後に歌うものと決めている。一時間で歌う曲は概ね14~5曲であり、余裕を持って、20曲を選定していく。

 今日も30数人の施設利用者人が集まってくれた。中には初めての方で不安そうな顔をしていたが、慣れてくると声を出して歌ってくれた。また音程が外れた人や、良く分らない言葉を出して歌う人もいるが、ここでは大きな声を出すことに意義がありよいと思っている。今日話したことの中から2つのことを話す。1つは「故郷」を歌う前に、私の故郷のことを話した。「それは父が外地に出征しているとき、住んでいた東京で空襲が激しくなった。母は私と2人の妹を連れ、父の実家の清水に帰ることを決めた。その時の苦労や、昭和20年7月7日清水が大空襲に会い山の方に逃げたことなど」話した。施設の皆さんも昔を思い出したのか、4~5名の方が泣いていた。

 また「青葉の笛」を歌う前に話したことは、「この歌は、一の谷の源平合戦で命を落とした2人の平家の武将のことを歌ったもので、一番は16歳の武将平敦盛が源氏の武将熊谷直実に討たれたときの話、二番は、平清盛の子平忠度の話で、武将であり歌人でもあった忠度は、京の都を追われ西国に逃げる前に引きかえし師匠の藤原俊成に創った歌を託し、自分はまた京都に戻れるか分らないが、いつかこの歌を披露してほしいと言い残して一の谷に向かった。彼も、この合戦で首を刎ねられるが、この歌は勅選和歌集「千載集」に詠み人知らずとして選ばれている。悲しい歌だはあるが、日本人の心が読める」こんな話であった。皆さん聞いてくれ大きな声て歌ってくれた。


トイレの改修

2015-04-16 20:06:38 | Weblog

 家を新築してから25年が経つ、その間幾つかの部分改修はしてきたが、ここに来て水回り関係が悪くなっているのが目につく。その中でトイレは水漏れもあり、これ以上放置できないところまできている。建てた時は水洗トイレの便利さも享受でききたが、最近はタンクの水漏れや電気設備の老朽化などあり、そろそろ取り替え時期だと思った。また4月19日は母の一周忌で親戚が集まることから、それまでには更換することにした。

 この一ヶ月間は、幾つかのメーカーの展示場を回って見てきたが最近のトイレ設備は驚くほど進歩をしている。中には、そこまでする必要があるのかと思えるものもあり、値段の差も大きい。そこで中位の値段の便器に取り換えることにした。施工業者に直接頼む方法もあったが、知人に信用できる業者もいなかったことから、ホームセンターに行った。ここは製品の販売から、施工管理、施工まで行うと言われ、そこに頼んだ。注文したのは4月2日であったが、中々混んでいたのか催促して4月16日午前9時に施工業者が来ることになった。来たのは40代になったばかりの若い親方と2人の作業員であった。その親方は「午後3時ごろまでには新しいものが使用できるようにしますから」と云って始めた。

 30分ほどして古いトイレは取り除かれ、床をきれいに拭いた後、その上に12mmほどのべニア板を張り付けた。今回のトイレ改修で経年劣化している床タイルの張替えもお願いしてあった。しかし施工業者は「床タイルを取り外すと3側面に張ってあるタオルも落ちてしまう。側面のタイルも張り直すと、一日では完成しない」と云われた。そこで床タイルの上にべニア板を張り付け、その上にフロアー材を張ることにした。その高くなった縁に円を1/4に切ったコーナー材を取り付けた。しかし使って見るとつまずきそうであった。そこで、長めのテ-パーが付いたコーナー材にするよう頼んだ。その親方は、それに合った材料を探しに出かけていった。

 私は午後12時30分より「駿河TBG」の例会があり、妻にそのことを伝え出かけた。午後4時ごろ帰ってくると既にトイレの改修工事は終わっていた。直ぐトイレの出来具合を確認すると、そこには長いテーパーの付いたコーナー材が施され、新しいトイレも出来あがっていた。その業者はトイレの使用方を妻に説明して午後2時ごろ帰って行ったとのことであった。うるさい施主だと思ったかもしれないが希望を聞いてくれ納得いくものに仕上げてくれた。業者の選定は悩むところであるが、今回の業者には良い印象を持った。


A病院で検診を受けて

2015-04-15 21:31:38 | Weblog

 近くのS病院で毎年定期検診を受けていた。2年ほど前になるが、健診結果を聞くと「特に悪いところは無いが、年々血小板の数値が下がっているのが気になります。紹介状を書きますからSA総合病院で見てもらってください」と云はれた。直ぐA総合病院で検査すると、その原因がピロリ菌によるものではないかと云われ、毎日四錠の飲み薬を2週間飲んだ。そのことにより血小板の数値は上がり正常値とはならなかったが下限値に近い数値となった。またピロリ菌はすべて除去できた。

 これで終わりかと思ったが、医師は、経過を見たいので、2か月後にまた来てくださいと云った。その通り行くと血液検査をし数値が安定していることが分った。しかし医師は再度3か月後に経過を見たいので来るようにと云った。それ以降は4カ月ごとに行っている。確かに血小板の数値は、多少の上下はあるものの正常値に近い状態になっているが、それでも経過を見る必要があるのか、その後も医師の言われるままに行っている。

 4月15日は6回目の検査実施日である。指定された9時00分~9時30分の間に病院に行くと、先ず採血するようにと云われた。このことは今までと同じであったが、今日は採血担当者がまだ若い看護師であった。年齢を重ねると血管が細くなって、表面からは見えにくくなってきた。前回のときは採血をやり直したことがあった。そんなことから、採血のとき上手くいくか心配になる。今回も、右腕から採血すると云われたが中々血管に針が刺さらなかった。その内に痛みを覚えたので云うと、若い看護師から年配の看護師に変わり、次は左腕から採血した。まだ慣れない若い看護師は何度も謝ったが、彼女がトラウマにならないか心配になった。そこで「私は全然大丈夫だったから、これから頑張ってね」と笑ていった。

 その後ソファーで1時間ほど待つと、K内科の表示板に私の番号が出た。診察室に入ると医師は「この2か月間どうでしたか」と聞いた。「体調は良かったし普段と変わらない生活をしていました」と云うと、「血小板は概ね、これでいいですね。それと前回聞いた身体が痒くなるのはどうですか」と云った。「時どき痒くなるので、その時は処方してくれた付薬を塗っています」と云うと、「それでは、今回もその薬を出しますね」と云い診察は終えた。この病院に来たのは、血小板の数値が下がったことから来たが、身体が痒くなることとの因果関係が分らない。再度予約して1ヶ月後に行くことになった。しかし何故かすっきりしない。