Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

弔辞の原文を書く

2011-12-28 16:02:13 | Weblog

 12月中旬以降〇〇支部の鉄道OB会員が4人亡くなっている。寒さが厳しくなっているこの時期、乗り越えることが出来なかったものと思う。その一人TOさんが12月25日86歳で亡くなり12月28日通夜、29日葬儀が洞慶院で行われることになった。ご遺族から鉄道OBの弔辞を頼まれた。TOさんは私の大先輩であり、2年間ほど一緒に仕事をしたが、詳細についてあまり知らない。そこでいろいろの方に話を聞いて弔辞を纏めることにした。

 弔辞 『故〇〇〇〇さんのご霊前に、東海鉄道OB会を代表して謹んでお別れのことばを申し上げます。貴方は国鉄静岡鉄道管理局施設部時代の昭和55年から2年間ほど上司としていろいろご指導していただきました。私より一回り以上離れた大先輩でしたが、国鉄改革を進めた時期で合理化計画が矢継ぎ早に打ち出され、労使がぎくしゃくした関係が続いたとき、総務課課長補佐として、その矢面に立って処理していました。そのテキパキとした対応を羨望の眼差しで見ていたことが思い出されます。その後私は現場に出ましたが、1年ほどして国鉄を退職され、関連会社に入られれました。気骨のある、面倒見の良い上司であったとの印象です。

 あなたは昭和18年鉄道省の地方組織である静岡管理部の保線事務所に採用されました。昭和19年には太平洋戦争の日本本土空襲が激化し、静岡も空爆により鉄道にも被害が出る惨状の中で、第一線で線路を守ってきました。その後昭和20年に終戦、24年には日本国有鉄道となり、静岡保線区の事務掛として職務に精励されました。その中にあっても現状に甘ずることなく、法政大学の通信教育を受け卒業すると言った努力家でもありました。その後は昭和33年静岡鉄道局施設部総務課に籍を置き、鉄道財産の管理等の業務に従事しました。その間静岡保線区、浜松保線区で現場管理者を経験し、昭和53年総務課の要員係長、総務課長補佐で手腕を発揮し、昭和57年3月55歳で国鉄を退職し関連会社の〇〇建設にて総務課長として会社発展に尽力されました。

 この間昭和30年には静岡市羽鳥に住む奥さんの〇〇さんと結婚し2人のお子さんにも恵まれ、現在の大岩本町で充実した家庭を築いていました。順風満帆な人生であったと思います。仕事以外でも、趣味の、弓道、書道、写真、陶芸、墨絵など手がけ。展覧会等で賞をもらいと喜んでいましたね。また鉄道OB会や静岡保線区のOB組織の「静保友の会」では幹事として、組織の発展に尽くされました。5年ほど前「静保友の会」に出たときは、元気な姿で私達を歓迎してくれたことは鮮明に覚えています。その時は知りませんでしたが、平成2年に最愛の奥さんを亡くしていたことを知り、そうしたことを顔に出さず生きてきたことを思うと胸が詰まります。これからは我慢することもいりません。奥さんと天国でゆっくりくつろいでください。〇〇〇〇さん、ありがとうございました。さようなら』

                                             平成23年12月29日  東海鉄道OB会〇〇支部 支部長  〇〇〇〇