Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

会報の原稿を書く

2013-05-30 23:15:24 | Weblog

 四半期にごとにOB新聞「支部だより」を出している。次号は7月1日付けであるが、原稿の骨子は「OB会総会の様子」「ゲスト出演のアトラクションの様子」「OB会員の作品展示会」などを掲載する予定である。それを纏める。

 1.平成25年度OB会総会の様子                                                                                  4月22日(月)「平成25年度鉄道OB会〇〇支部の総会」が会員52名が出席、来賓としてJR東海静岡駅長、(株)ジェイアール東海ツアーズ静岡支店長、ホテルアソシア静岡社長、東海鉄道OB会静岡地方本部事務局長の臨席をたまわり、ホテルアソシア静岡4階のカトレアの間で行った。冒頭平成24年度の亡くなられた17名に黙祷し哀悼の意をささげた後、支部長から平成24年度を振返ってと、平成25年度取組の概要が話された。平成24年度は、概ね計画した活動ができ、会員の減少も7名と最小限に抑えられた。平成25年度取組は平成24年度の取組を継承しつつ、きめの細かい活動を目指すこと。その中でもインストラクターの活用、高齢者の病気や孤立感をなくす様な配慮を行っていくことの話があった。来賓として出席したJR東海静岡駅長からは、JR東海の現状について話された。その概要は、平成24年度は順調に推移し乗客が対前年度より増え増収が見込まれること、また中央新幹線(リニア)もルートの確定等順調に進んでいる。それに安全対策として巨大地震に対する線路、高架橋等の補強に鋭意取り組んでいること等の話があった。議題に入り、平成24年度活動及び決算報告、平成25年度活動方針及び予算について審議され、承認された。なお平成24年度の活動報告及び平成25年度活動方針の骨子は「〇〇支部だより」第32号に掲載しましたので割愛します。 

 2.アトラクション                                                                                              OB会総会のあとの懇親会で、ゲストとしてお招きした「〇〇レディースコーラス」29名の合唱が披露された。この合唱団は36年近い歴史があり、静岡を代表する合唱団であり、4月7日静岡音楽館AOIで行われた「おかあさんコーラス静岡大会」で優秀賞を獲得、関東大会出場が決まっている。会場に響き渡る澄んだ歌声に皆さん会話をやめ聞きほれていました。歌は日本歌曲から「浜辺の歌」「この道」等30分近い演奏でありました。

 3.会員の作品展示会                                                                                          総会に並行して、隣りの会場で会員の皆さんの作品展示会を開きました。この作品展には28名(女性5名)の参加と83点の作品が出展され、内容は絵画、写真、書道、工作、クリスタルガラス、ひょうたん等多岐にわたるもので、趣味の域を脱し芸術性の高い作品も多くありました。会員の才能を実感する内容でしたが、こうした作品展は、今までマンネリ化し活力が乏しくなったOB会の起爆剤になることを期待しています。なお出展者と作品は下記の通りです。                                                                                            


梅雨入りして

2013-05-29 22:25:08 | Weblog

 昨日の5月28日静岡でも梅雨入りしたと発表されたが、今年はいやに早いなと思った。私の感覚では6月10日ごろが梅雨入りし、中休みもあるが7月中旬に梅雨が明けると云った感じを持っていた。このように早い梅雨入りでは計画が狂ってしまう。先日友人と話し6月上旬の梅雨前にゴルフコンペをやろうということになった。その日は6月5日と7日であり心配になった。楽しみにしているが、これも雨で中止になるかもしれない。そして今は寒いので長袖に半纏を羽織って、パソコンの前に座って、庭木を見ながらいろいろ考えていた。

 今日晴れたら伐った庭木の整理をしようと思っていたが、これができなくなった。それは後日に回せばよいが、思うに5月に入って雨が降った日は少ないようだ。確か菩提寺の坊さんに来てもらい庭木を伐採することのお祓いをしたのが5月17日であったが、それ以降は降ったと云う印象がない。それ故、その後は時間を見つけ、少しづつ木の枝を切ってきた。それ故込み合った庭木も空間が出来すっきりした感じになった。しかしその中で一番の大木の桧はまっすぐ伸びた幹と先端の葉は残すのみである。この桧の先端の幹と枝を伐ってしまうと、木の生命はなくなる。50年近く我家を見守ってきた桧を伐っていいのかと考えていた。

 その伐った幹を材木として活用するなら良いがその予定はない。葉や枝と共に焼却場に運ぶなら全てはゴミとして処理されるが、それでいいのかとの思いが残る。然らば何か活用できないかとも考えた。思いつくのは製材して棚などにするとか、いつかやりたいと思っている彫刻の材料として取っておこうかと思った。しかしその後のことは思いが廻らない。伐採すると決めながら、まだそんな思いがあり悩んでいる。

 窓越しに見る樹木は、しとしとと降る雨に嬉しいようである。すっきり伸びた桧の先端の葉にも鈴なりの種(玉)を付けていた。それも緑色の玉となって、雨に打たれ安堵しているように見える。その他の木々も雨に濡れ新緑は鮮やかに輝いている。そして今までは葉の中に蕾を微かに見せていた紫陽花は急に幹が伸び花が大きくなっていた。今年の花付は悪いように思っていたが、丸く咲いた花は白みがかった色で咲いている。花の色は土壌に影響されると云うが、この花も少しずつ赤みを帯び青に近い紫色に変身する。雨の中で変化する紫陽花の花はこの時期の主役である。そんなことを思いながらそとを見ていた。


「ジョニー」と呼ばれて

2013-05-28 23:20:37 | Weblog

 S学苑の歌の講座「UTAの旅」があった。私は時間ぎりぎりの午後1時30分に教室に入った。YA講師は私をジョニーと呼んで迎え入れてくれた。私がきょとんとしているとYAさんが「貴方は今日からジョニーと呼ぶことにしました。いいですね」何のことかわからず、口ごもっていると「この教室の男性はみんな愛称で呼んでいますが、貴方はジョニーに決めた」と云った。咄嗟のことで「分りました」と応えた。この教室に通い初めて4回目であるが、他の4人の男性にはカタカナの愛称がある、それはレーニン、サニー、アニー、トニーと云った。そうした名称で言っているため、私は未だに男性の名前を知らない。

 このジョニーと云った名称が良いことをYA講師は言っていたが、頭に入れることが出来なかった。しかし私はこの名称を気に入った。それは、この教室で歌う「ジョニーへの伝言」は好きな歌である。YA講師は「この歌は恋人に振られた女の歌で、ジョニーは悪い男であるが、貴方はそのようなことはない人だと思う」を言った。しかし振り返れば、若い時は自分もこの歌のジョニーのような人間ではなかったかと思った。この教室は、YAさんの醸し出す雰囲気から明るく楽しい時間を過ごしている。

 今日は生徒全員が自己紹介したので、皆さんの名前と本人が結びつけようと自分なりに纏めてみた。最初は女性からで、NISさんは私が知っている山田さんに似ていて姉妹ではないかと思った。しっかりして明るい人である。WASさんは、白髪で品のある人で、幸福な人生を送っている感じの人である。NAGさんは、カンツオーネが好きな人で、独唱したら良いのではないかと思う。YAMさんは、美しい声で音楽を楽しんでいる。リーダーの素養のある人だと思う。YOSさんは品があり、それでいてみんなのために努力する人である。WAKさんは、身体は小さいが、誰からも好かれる人である。以前何処かで見かけた人と思うが未だに分らないでいる。

 次は男性である。レーニンさん、ユーモアに富んだ人で皆を笑わせる。歌うことを楽しんでいる感じの人である。サニーさんは、音楽を楽しんでいるが、機知にとんだ話は皆を楽しくする。アニーさんは、胸が厚くスポーツマンと云った感じの人である。音楽も然ることながら話も面白い。トニーさんは、身長も高いし、博学である。歌も上手いが会話も楽しい。以上が10名の生徒の印象である。皆んな良い人ばかりで私をスムースに仲間に入れてくれた。生徒は概ね私と同じ年齢であろうと思うが、そのメンバーを若いYA講師が上手くリードしてくれ、楽しいひと時を過ごすことが出来ている。ありがたい、次回は日本平ホテルで昼食会を行うとのことである。


グランシップから

2013-05-27 23:49:50 | Weblog

 先日グランシップから郵送で封書がきた。そこには「今年も8月に真夏の音楽祭「音楽の広場」が行うが、合唱団員として参加されたい」との打診であった。昨年は用があり参加出来なかったが、その前年は参加し感動を味わった。そこで今年は参加しようと申込んだ。そして今日、そのスケジュールと合唱曲(オペラ局)の楽譜が届いた。合唱曲はA-4 46ページに書かれた譜面と原語が書かれていた。その内容はワ-グナー作曲の歌劇「ローエングリン」より婚礼の合唱、歌劇「タンホイザー」より入場行進曲とヴェルディ作曲の歌劇「アイーダ」より凱旋行進曲の3曲であった。

 以前「アイーダ」は日本語での合唱はしたことがあったが、原語では初めてとなる。それに「ローエングリン」「タンホイザー」を歌うのは初めてである。私はテナーで歌いたいと思っているので、その部分を最初から追ってみた。高音は何とかなるような気がしたが、原語(ドイツ語とイタリア語)で歌うとなると2か月 6回の練習で出来るか心配になった。心配であるが決めた限り8月4日(日)の本番までに何とか歌えるようにしたいと思う。そこで3曲についてインターネットで聞いてみたが、聞くとよく聞きなれた曲であり、少し安心した。直ぐテープに吹き込んだ。

 グランシップの大ホール・海は3000人を収容する多目的会場である。静岡のようなところに、この会場を満員にするイベントは少ないような気がする。しかし「音楽の広場」は満員の観客が見え盛大に行われる。聞いた話であるが、静岡でこのイベントを行うのは、100年以上続いているイギリスの音楽祭「BBCプロムス」が市民参加により確か一週間ぐらいの期間実施されていて、世界的音楽祭になっている。それを模し静岡から発信する「BBCプロムス」に匹敵した音楽祭にしようとの試みがあると聞いた。まだ今回で6回目であるが、静岡はアマチュアの音楽愛好者の多くそうした雰囲気を感ずさせる。

 本場の「BBCプロムス」は国威発揚の愛国歌として歌うエドワード・エルガー作曲の「威風堂々」を歌うのが定番となっている。それに対比して静岡の「音楽に広場」では山部赤人の長歌「不二の山を望む歌」をホルスト作曲の「木星」を歌う。これは万葉の時代、田子の浦から富士山を眺めその雄大さを詠んだ歌である。この力強い歌を私は好きだ。そして3つのオペラの合唱曲を暗譜で歌うのを目標にして出ようと思う。 


ヒバと桧木

2013-05-26 22:11:26 | Weblog

 昨夜までは母38℃台の熱を出しベットで寝ていた。解熱剤も2回使用したが、すっかり弱った顏にしていたが今朝は36℃台になった。まだ食欲はないがこのまま熱が下がってくれればと思っている。風邪ではないようで、疲労からと思う。今日は先日菩提寺の住職に来てもらい、庭の木を伐るためのお祓いをしてもらったが、伐るときは、義弟が都合が良い時に一緒に行うことになっている。それまでの間に私が出来るところはやろうと、のこぎりを持って庭に出た。その中で一番大きい桧木の枝打ちをすることにした。この木は10m程の高さになっていて、二階の棟瓦の高さと同じぐらいになっている。桧の樹形は概ね三角錐になり日陰を作っているが、その枝を梯子に登って伐った。

 伐採しようと思ったのは、木が大きくなり過ぎたこともあるが、大木となった庭木をいつまで剪定することが出来るか考えたとき、今が限度かと思ったからである。お祓いしたとはいえ50年近く前、父が育てた木を伐っていいのかとの思いはついて回った。3時間ほどかけて垂直に伸びた2本の枝を残し他は全部伐った。今まで影になっていた玄関の前が明るくなったように思えた。しかし最後の枝まで切らなかったのは、義弟が来るまで残して置こうと思ったからである。

 我家には1年半ほど前まで10m程の木が2本あった。1本はこの桧木であるが、もう一本はヒバの木であった。このヒバの木は平成23年9月台風15号で斜めに傾いでしまい、その時考えたすえ伐ることにした。切り口を見て中に洲が出来ていたことから、伐ったのが良かったと納得した。この2本の木は同じヒノキ科の木である。両方とも建築資材として競ってつかわれてきたが、桧木は床柱等目立つところに使われ、ヒバは、抗菌性、耐水性があるため、床の骨組材とかにつかわれる。しかし強度、硬度等は非常に近いので、同様な扱いを受けている。しかし使いやすさ、木目の綺麗さでは桧木が好まれている。

 この2本に木が、互いに競い合い我が家の庭の形を作っていた。その2本がこの1年半ほどの間に無くなることは一面寂しいが、木も次の世代に変わっていくことを感じた。以前にも記したが、ヒバは別名「あすなろの木」と云う。いつかは桧木になろうと思っているところが好きだった。その競い合っていた2本の木は、我家からなくなる。しかしこの桧木は、毎年多くの実を付け、それが桧木の根元で新しい芽が芽吹いている。これが2世として育ってくれるものと思う。


母 熱を出す

2013-05-24 23:53:28 | Weblog

 今朝母を起こしトイレに座らせた。その時身体が少し熱いことを感じたが、額を手で触るとそれほどでもなかった。朝食は普段通りに食べたが、何となく元気がなかった。今日はデーサービスの日であり午前9時ごろ迎えの車が来て出かけた。正午過ぎたころであったが介護施設から電話があり、「昼食は食欲がなく、喉が渇くのかお茶をコップ2杯ほど飲んだ。熱を測ると37.4°でしたが、家ではどうでしたか」と連絡があった。「朝は普段通り食べたし、熱も測らなかったがないように思った。今から病院に連れて行くにも始まるのは午後3時ごろからであり、少し様子を見てください。」こんな会話をした。

 午後3時頃であったが電話があり「熱は37.5°あり下がっていません。お風呂にも入れませんでした」こんな話であった。「すぐ迎えに行きますから」と云って電話を切った。迎えに行くと母は車いすに座って寝ているようであった。介護師がきて「元気がないので心配してました」と云ったが、たくさんの利用者がいることから、風邪などを心配しているようであった。そのまま掛かりつけのSUG病院に行った。

 午後3時30分から診察が始まる。まだ20分ほどあったが、既に2人の患者が待っていた。そのまま車椅子に座らせ待合室で待った。受付の人が毛布を持ってきてくれた。母は元気なく目を閉じていたが咳などすることもなく、疲れている様子であった。体温を測ると38.5°と上がっていた。30分ほどして母は医師の診察を受けたが、医師が云うに「風のような症状はまだないが、予防のため風邪薬と解熱剤を出しておきましょう。それに旅行をされたとのことであり、疲れているかと思いますので、よく休養を取らせてください」と云い、薬を処方してくれた。

 家に帰り、直ぐ解熱剤を呑ませベットで寝かせた。夕食時母の熱を測ると、35.6°と平熱になっていて、表情も出てきた。薬を飲ませお茶を多めに飲ませたが、夕食は食べないのとにした。その後、直ぐまた眠ってしまった。高齢な母ではあるが、21日~22日にかけて伊豆長岡で行った「きょうだい会」に一緒に行った。その翌日も修善寺の「虹の里」を回った。こうしたハードスケジュールが身体に堪えたのかもしれない。今後は「きょうだい会」の方法を考え直さなければならないかと思った。無理のない「母を囲んでのきょうだい会」を考えようと思った。 


株価暴落

2013-05-23 23:06:02 | Weblog

 株を初めたのは50歳ぐらいの時であった。満期の預金が〇〇〇万円ほどあったので、それを株に投資した。今も良く分らないが、その頃はもっとわからなかったが、駅前の〇〇證券に行ってHIT株を購入した。それは満期になった金額の全てを当てた。その株が1割ほど上がったので、証券会社の担当者に売りたいと云うと、この株は「2割以上は必ず上がるからまだ待ちなさい」と言われた。しかしその一週間後に暴落が始まり、1年後には1/3ほどになってしまった。その時もう株には手を出すまいと思った。

 それから10年ほどして会社を退職したときも株価が上がっている時であった。その時凝りもせず退職金の15%程度を株に投資した。最初の半年ほどは〇〇万円ほど儲けた。しかしり-マンショック等で株価が下落したことや3.11の震災等で株価は1/4ほどになり全ての株は塩漬け状態になっていた。それがアベノミクスへの期待から株価が上がりはじめ、株価は買った当初の1/2ほどになった。しかし5月23日午後の暴落で売るに売れなくなった。

 今回の株価の下落は、何が原因なのか。安倍総理は景気回復に「3本の矢」の実行を掲げ、18年近く続いたデフレから2%/年のインフレ目標を目指し政策を打ってきた。金融緩和策、財政出動等行ってきたが、未だ実体経済が良くなっているとは言えない状態である。これから「第3の矢」である民間投資を喚起する成長戦略が6月にでも出ようとしている時である。そんな中で「気」だけで株価は上がってきた。円安も進んで、輸出業者は利益が出てきたものの、成長戦略が実行されない限り景気回復を実感はない。こんな状況下で株価だけが急激に上がってきた。それも暴落する前の株価の急上昇は、私でもおかしいと感じた。

 しかし経済についての知識が乏しい我々には、危うさを感じながらも株価が上がることを喜び、売ろうという気持ちにはならなかった。そして株価が急暴落した。少額な投資とは言え、こうした時どうしたらよいか、その知識すらない。じっと我慢をしていてこれより下がらないことを願っているだけである。平均株価が7000円台の最悪の時期と比較するなら、売ればよいのであるが、乏しい知識からは、バブルがはじけたわけでもなく、特に急落するような悪い要素は無いように思う。この株価暴落を考えるとストレスが溜まる。どうもこの急落は中国の景気に陰りが出てきたことを察知し、某機関投資家が売りに転じた。それにつられ多くが投資家が追従したことのようだ。そんなことで株価が暴落するとは、やはり株は素人が手を出すものでないのか?


きょうだい会(2)

2013-05-22 21:10:54 | Weblog

 朝6時ごろ、末弟がベットで動くので目を覚ました。彼を起こしトイレに連れて行った。その後朝風呂に入ろうと「庭園風呂」に行ったが、この時間誰も入っていなかった。朝の光が湯面で輝き、貸切の露天風呂で打ち湯を浴びたり、湯船に長く入った。何とも贅沢な感覚になった。ここの浴槽も露天風呂の瀧も湯量が豊富で芯まで温まった。8時の朝食を食べた後も部屋でごろごろしていた。妹達は売店に行って買い物をしたようでその品定めをしていた。チェックアウトの10時近くなって、これからどうするかの話になった。私は午後5時には別の用があり、それまでに静岡に着かなければならないこと、それ故午後2時には末弟を送ることを話した。それまでの時間を修善寺の虹の里に行くことになった。

 自動車で30分ほどで「虹の里」に着いた。以前2回来ているが、20年近く前であったので、以前の面影はなく、別の施設の様に思えた。末弟は車の中に残り、母を車椅子に乗せて、館内を回った。以前来たときはミニ蒸気機関車もなかったし敷地面積も狭かったような気がした。受付で車いす用園路マップを渡され、それに沿って散策した。しかしこの園内は斜面がきついところや通行不可の所もあった。バラやシャクナゲの花は斜面の上や下りたところにあった。丁度花は咲いていたが、車いすを押しての散策は私が行った。急な坂もあり、そこの上り下りは大変な重労働であった。背中まで汗をかき、足も棒になった。

 日本庭園を中心に歩いたが、藤棚は既に終わっていたが、この小道は以前の面影が残っていた。夏目漱石が修善寺の菊屋旅館に逗留していた時の庭などが移築されているところも記憶にあった。時間を見ると既に12時30分ほどになっていた。そこから急斜面を上って出口に出た。ここで昼食を食べてからでは遅くなるので、そのまま自動車に乗って末弟の家を目指した。途中「持ち帰り寿司」の店があったので、そこで7人分の寿司を買い求めた。末弟の家には奥さんもいてそこでみんなで昼食を食べた。弟はここに来ると安心するのか気持ちよさそうにベットで横になっていた。午後2時過ぎに末弟の家を出て三島の弟のところに寄ってから、静岡に帰って来た。

 瀬名の妹を降ろして、そのまま我家に向かった。家に着いたのは4時45分ごろであった。母と妻を降ろして、そのままOB会事務所に向かった。今日は月例部会が5時から計画してあった。しかしその時間に間に合いそうになかったので、携帯電話で遅れることを伝えた。到着したのは5時を10分ほど過ぎていた。すぐ会議は始まり、6時30分には終わった。そのまま家に帰り、直ぐ犬の散歩で登呂遺跡公園を歩いた。疲れたのか9時には寝た。


きょうだい会(1)

2013-05-21 23:18:41 | Weblog

 母と妻を自動車に乗せ家を出たのは午前11時少し前であった。瀬名の妹からは「まだ家を出ないのか」と、何度も催促されたが、行く前にやることがあって、この時間になった。1~2ヶ月に一度行うようにしている「母を囲んでのきょうだい会」は今日である。きょうだい達も各々が忙しく、一ヶ月ほど前に調整してこの日に決まった。しかし昨日確認のためきょうだい達に電話すると三島の弟が、明日は都合が悪いという。そして「21日にやることを初めて聞いた。この日は、はずすことが出来ない用事が入り行けない」という。悩んだ末、改めて別の日にと考えたが、妻に話すと「私が代りに行くから」と云ってくれた。妻はこの間に奈良を散策する予定であったが、それをキャンセルした。

 瀬名の妹を乗せ、三島の弟のところに着いたのは12時30分ごろであった。そこから函南の末弟のところに行った。末弟はベットに寝ていたが、その顔は柔和な顔に見えた。テーブルの上には、奥さんが置き書きしてあり、薬のこと、末弟の症状等のことが書いてあった。遅れて川崎の妹が自動車で見えた。「家が分らず道に迷った」と云った。昼食はいつものように、近くの中華店「陸茶坊」の個室に入った。母と末弟が車いすのため、事前に予約するとこの部屋を用意してくれる。妻はこの店は初めてであったが、美味しく満足したようであった。この店を出たのは午後2時30分ごろで、常宿となっている伊豆長岡「山田屋」に向かった。

 「山田屋」は、老舗旅館で、山の斜面に建っている旅館で、広い敷地は中にあり、山の側道を走り、上の平地に出た。そこに駐車して、いつも使っている部屋「扇雀」と「吉野」に入った。いつもは母と妹達が「吉野」、弟達と私が「扇雀」の間であったが、今回は妻と私と末弟が「扇雀」には行った。この旅館は2部屋ともベットがついていて、身体が不自由な母と末弟のため用意してくれていた。この旅館のよいところは、自動車から車椅子を使って部屋まで行けるし、廊下も靴が使えるところである。全員が「扇雀」の間に集まり、夕方の6時ごろまでテーブルを囲んだ。夕食前に「庭園風呂」に入ってから、個室で夕食を食べた。

 料理も良かったしビールも美味しかった。いつもいる三島の弟がいないので、ビールは私だけであった。料理を食べるとご飯はもう入らなかった。しこ詩末弟に呑ますと身体が柔らかになったような気がした。9時ごろ部屋に入ってから、末弟を風呂に入れた。部屋にある風呂で、いつもは三島の弟と一緒に入れたが、私一人では浴槽には入れられず、椅子にすわり、浴槽のお湯で身体を洗った。弟は痩せた身体であったが、足の自由が効かないため、体重を支えると腰にきた。ベットに寝かせると疲れが出て、そのまま夜10時に寝た。


狂犬病の予防接種

2013-05-20 23:53:30 | Weblog

 3月下旬だったが、市の動物指導センターから狂犬病予防注射日程の書いたハガキが来た。内容は4月から5月にかけ各地区を巡回するので予防接種を受けるようとのことであった。家の近くに来る日は4月7日の駿河区役所の駐車場であり手帳に書き、忘れないようにしていた。しかしその日は用があり出来なかった。そこで再度探したところ今日(5月20日)のエスポット静岡南店駐車場がこの近くでは最後であり、忘れないよう決められた時間の午前10時30分から11時までの間に犬を連れて行くことにした。小雨が降っていたが自転車に乗りリードに繋げ出かけた。

 距離にして片道2km×2=4kmほどの距離であったが、初めての道であり、犬も怪訝そうな表情をして付いてきた。飼っている犬は誰もが「一番かわいく、よく云うことを聞く犬だ」と思うが、私もこの甲斐犬(モモ)は従順で頭のいい犬だと思っている。平成13年5月生まれであるので12歳になる。人間に当てはめると60歳ぐらいのメスの老犬であるが、私にはそのような老犬には見えない。私が退職した8年ほど前は、毎朝10kmほどの距離を犬を連れウオーキングをしたが、その頃は私の前に出てリードを引張った。そして今約2kmの道を自転車に並走して走ってきた。雨は降ったり止んだしていたが傘はささずにぺタルを漕いだ。

 我が家の犬(モモ)は、私を見ると尻尾を振って身体を寄せてきて従順であることを表情を見せる。それにいつも癒されるし、番犬としては最高の犬だと思う。今は口の周りは白いものが目立つようになり、老犬になったことは分るが、普段の散歩では、力強くリードを引張って行く姿は老犬を感じさせない。それも一日2回の散歩で4kmほどは走ったり歩いたりする。均整が取れた体形は若い時と変わらないような気がする。ときどき会う人から犬を褒められるがそれは私のことのように嬉しい。

 エスポットの駐車場には、雨の中何人かの人が犬を連れて予防接種を受けに来ていた。犬は敏感に注射されることを知り尻込みしたり、動揺を見せる犬がいる。しかし我家に犬(モモ)は普段と変わらず尻尾を上げ静かにしていた。係員に「首を両手で抑えてください」と言われ、そのようにしていると尻に予防接種の注射を打った。中には嫌がり、興奮する犬もいたが、モモは私の顔を見ていて何の動揺も見せなかった。帰りは少し疲れたようであったが、休まず自転車に付いてきた。