Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

雨間の資源回収

2010-02-27 12:15:34 | Weblog
 第4土曜日は町内の資源回収日である。わが町内は、新聞、雑誌、ダンボール等の資源を、町内で回収して、廃品業者に持っていってもらうようにしている。
 その集積場所は、町内に10箇所ほどあり、住民の各々が、当日の朝、集積場所に資源を出すようにしている。それを各区長、班長それに役員が廃品自動車に積み込むようにしている。そのことにより、多少の収益金が町内に入る、それを町内に還元することにしている。 こうした作業を行うことで、住民の連帯感と奉仕の精神が養われる。このことは町内として自慢できることではないかと思う。
 この作業は、天候に左右され、雨が降ったときは、中止して翌日の日曜日に行うようにしている。故に実施する日は、回収時間(朝8時)の一時間ほど前に「今日は資源回収日です」と拡声器を持って自動車で周り、そのことを町内の皆さんに知らせる。
 しかし今朝の天気予報は、雨となっていた。昨日も雨の一日であったが、今日もすっきりしない雨模様である。低気圧が次から次ぎへと通過していてが、その合間に少し青空が見えることもあった。
 実施するか、中止するかは、町内会長が判断して決めるが、その決断は大変だ。午前7時から8時30分ぐらいの間雨が降らなければよいが、降った場合は、苦情も来るし、受取る側の回収業者も困ることになる。
 今日の空模様は、朝7時ごろはあがっていた。しかしその30分ほど前までは雨が降っていたし、以後2時間ほどは雨が降らなければよいが、その保障はない。今はあがっているが、その状態がどれだけ続くか分からない。そう思っているとき「今日は資源回収日です」との拡声器からの声が聞こえてきた。町内会長は決めたんだなと思いながら、 私も役員として、8時前にみんなが集まる最初の集積場所に行った。路面は濡れていたが、近隣の人達が、新聞等資源を出してある。役員も区長、班長も集まってきていた。
 3台の回収車が来て、それに集まった町内担当者達(区長、班長、役員)が資源を積み込んでいく、最初の場所が終わると、次の集積場所に自転車で向かい、同様な資源の積み込みを行い、そして次へ場所に行く。全部が終わるまで、20分ほどが掛かったが、何とか雨間をぬって資源回収作業は終わった。
 ホッとしていると雨がポツリポツリと来た。良かった何とか雨間に資源回収が終わらせることが出来た。その後町内会長の家で、奥さんが労をねぎらいコーヒーを出してくれた。
 会長が「今日は綱渡りをするような心境だったよ」と言ったが、その心境が分かる。
 
 
 
 

久しぶりのマジック

2010-02-25 16:45:05 | Weblog
 今年に入って始めて介護施設でマジック慰問を行った。1月の慰問は私の都合で欠席したので2ヶ月ぶりである。私のような浅学のものは少し休むと忘れたり、手がぎこちなくなり、上手くいかない。 このため昨夜は2時間ほど練習した。 解説書を読みながら、やって見たが、日付が変わる時間になってもまだ自信が持てなかった。そこで今朝早めに起き練習して、何とか数種類のマジックは、演技が出来るようになった。
 私達は「あすなろ会」と言うマジック仲間の会で、老人ホーム等を慰問している。昨年暮れ、この会の先生であるKさんが亡くなり、残ったメンバーは先生の意思をついで、今後も慰問活動を続けていくことになるが、Kさんに代わりT会長のもと、互いに助け合いながらやっていきたい。
 マジックの技術を維持、継続していくのは、大変で、新しいものを、取入れたり、訓練することが必要である。今回はそうしたことは出来なく。今までに披露したものばかりであったが、マスターするのに思いのほか時間が掛かった。
 今日の慰問箇所は半年ほど前にいった、E介護施設である。静岡インター通りに面した処にあり、看板で直ぐ分かった。
 集合時間の12時30分には、メンバー6人が集まった。室内に入ると、広いスペースのワンフロアーの部屋があり、デーサービスで来ている人が、グループ毎に食事を取っていた。
 その場所を通って3Fの部屋に通された。ここは仕度場所として確保してくれたところである。私はそのままの服装で行うので、あまり時間は掛からないが、他の人は衣装を替えたり、出し物の準備等で1時間は直ぐ経ってしまう。
 T会長から今日の出場順位が言い渡された。いつもは、経験が少ない私が最初に行うのが常であったが、今回は違って5番目であった。なぜそのようにしたかは、分からなかったが、聞きもしなかった。
 6人で約一時間のマジックショーを行うもので、私も10分内に纏めるよう言われた。5つほどの題材を用意してきたので、その範囲で時間調整しようと思って臨んだ。
 しかし後半に行うのは、熟練した演技力がある人が、やるものと思っていたので、そのことだけで緊張した。
 最初は緊張のあまり、動作がぎこちないのが、やっていて分かった。それは見ている人にも分かるもので、反応がない。焦る気持ちが先行して演じているものが、面白くないものに見え、自分自身も盛り上がってこない。
 10分の時間は、納得できない内容であり、5つの内3つの題材を行うだけで終わってしまった。最後はみんなが拍手してくれたが、不完全燃焼であった。
 まだ未熟であり、後半に演技する力はない。しかし会長が後半に指名したことは、よい経験になった。それに耐えられる力を付けなければならない。

 
 

 

鉄道OB月例会から

2010-02-24 19:36:54 | Weblog
 退職後、鉄道OB会支部役員として4年間が過ぎた。この支部の月例会は毎月第4週の水曜日に支部事務室で行われることになっている。ここには、支部3役のほか、地域でOB会を支えてくれる幹事が集まることになっている。そこで情報の交換、今後の進め方等が話し合われてきたが、最近は、あまり目新しい話は少なく、集まる人も少なくなってきている。多い時は10数名が集まったが、最近は10名未満のケースが多い。
 1月の月例会で、始めてN支部長から、体調不良から、今期で退任したい旨話があった。2期4年の任期を務めてきた、温厚で人望な人である。
 何とか、もう一期務めてほしいとの思いもあったが、止む終えないと思った。
 その折、N支部長から、私に引き継ぎたいことの話があったが、即固辞した。
 その理由は母が高齢であり、一人では置けない状態であること。その負担の大部分を妻に頼ってきたが、母は現在も、上手く歩けず、いつ寝たきりになるかも分からない。それに認知症もすすむはずである。
 そうした時、妻だけに頼ることは出来ない。私の負担も多くしなければならない。そうしたことを考えると、支部長の重責は担え切れないと思い、別の人にお願いしたいことを話して別れた。
 一ヶ月が経ち、今日の月例会は、午後5時からであるが、あまり気乗りしない会であった。しかし欠席するわけにも行かずが出席した。
 今回の議事は、3月4日に開かれる、地区幹事会議の内容についてと、その時開催する救命講習会「AEDの取扱い」のこと、及び4月24日に開催する予定である支部総会の内容が話し合われた。
 その話の最後に支部長から、私に次期支部長を受けてくれるよう再要請があった。始めは固持していたが、どうも全体の空気は、私に受けろとの雰囲気である「直ぐ返事は出来ないので、少し時間をくれ」と答えを引き伸ばした。しかし3月4日の地区幹事会議までには、はっきりしなければならない。帰りの自動車の中で、何か大きな断る理由がない限り、断り切れないことを感じていた。
 困難は予想されるが、今まで生活出来たのも、鉄道という職業に付けたことによるものであり、その恩恵も、あまた受けてきた。それに報いるため、鉄道OB会のためにやることは、労苦と考えてはならないのではないかとの、思いを持つようになった。
 家に帰って、その旨妻に話すと、黙って聞いていたが、気持ちは「分かったよ」と言っているように感じた。この一週間ぐらいの内に何人かの友人に会い、協力をお願いしたいと思っている。
 
 

静グリーコンペから

2010-02-23 14:30:01 | Weblog
 静グリーとは、男声合唱団のゴルフコンペの名称である。合唱の練習には、あまり参加していないが、ゴルフコンペとなるとアドレナリンが出て、誰にも負けたくないとの気持ちが
湧いてくる。だからと言って、合唱に手を抜いているわけではない。何故か練習日には、
別の用と重なり欠席することが多い。しかし、6月には20周年の発表会があり、みんなの目の輝きが違ってきた。その時足手纏いにならないようしなければならないといつも思っている。
 今月のゴルフコンペは、市内のショートコースで行うことになった。午前9時スタートであり、15分ほど前にはゴルフ場に着いた。受付で名前を記載すると、既に7人のメンバ-が記入してあり、練習場で球を打っていた。いつもそうであるが、このメンバーは、集まるのが早い。定刻より早くても、遅れたような錯覚をしてしまう。きっと礼儀正しい人ばかりで、紳士が多いせいではないかと思う。
 今回は10名が揃った。9名は静グリーのメンバーであるが、その内のYさんがお孫さんを連れて来たので、2人は一緒に回ることにした。
 そのお孫さんは18歳と言ったが、現在高校3年生で、後は卒業式を迎えるばかりである。家にいたので、Yさんが連れてきたといっていた。
 私は2組目のスタートで、YOさん、KOさん、KAさんそれに私の4人でコースに出た。YOさんはメンバーでは最高齢者の75歳であり、体力の衰えはあるものの、時々よい球を打つ、前半はそれが出て、5ホールほどはオーナーを続けていた。
 KOさん、KAさんは、私より若いが、球を飛ばすと言うより手堅いゴルフをする。
 それに引き換え私は、最近球を引張るくせが直らなず、スランプが続いていた。そこで昨日この練習場で2箱修正しながら打った。そこで何とか感触が掴めたような気がした。
 それはアウトサイドインになって打っていたのを、インサイドアウトになるよう、左肘を開けないで打つ(レフティー)ことに心掛けた。これは練習場では上手くいった。しかし本番は散々の出来になってしまった。
 球がシャンクするし、左右に散らばり、全然ダメである。KAさんからは「最近スランプですね」と慰められたが、変に反応してしまう。
 アウトは諦め、インからは、引張る癖が出る元のスイングに戻した。これを直したいことから、スイングを変えたが、本番ではまだまだ使えないことが分かった。
 後半の結果は従来の良いときと同じようなスコアーの6オーバーで上がったが、何の収穫は感じなかった。
 ゴルフは身体にしみ付いた正しいスイングをしない限り、よい結果は出ない。このことは分かっていたが、再度同じようなことをやってしまった。
 同僚から「年が年なのだから、現状維持が成長の証と言ったが、そうなのかもしれない。しかしもう少し上手くなりたいとの気持ちを棄てることは出来ないでいる。
 
 

毘沙門天大祭

2010-02-22 19:49:24 | Weblog
 あさ7時前、まだ寝ていたが、市内に住む娘から電話があった。「急にお腹を刺すような痛さがあり、歩くことも出来ない」と妻に話していた。「緊急医療センターに電話して、直ぐタクシーで病院に行くように」と話していが、私も心配で、何をしたらよい、咄嗟に出てこない。そうは言ったが心配で、妻は直ぐ済生会病院に行くと言っている。
 今日は富士の毘沙門天大祭の最終日であり、妻も行くつもりでいたが、私だけで行くことにした。妻を病院で下ろし、詳細のことが分かったら電話してくれと言って、毘沙門天に向かった。
 この富士の毘沙門天大祭はだるま市として知られ、群馬県の高崎、東京都の深大寺のだるま市が日本三大だるま市と言われている。
 五穀豊穣、商売繁盛、家内安全などの縁起物として人気があり、県内外からたくさんの人で賑わうところである。
 私は南幹線道路から、清水で国道一号線に入った。平日と言うのに、直ぐ長い渋滞に巻き込まれた。急ぐことはないが、停まったり、走ったりを繰り返して、由比漁港横を通るまでに1時間ほど掛かった。その時妻から電話が入り「娘は、CTスキャン等撮ったが、異常はなく、流行性インフルエンザ(感冒)であると医師から言われた。入院する必要もない」と言い、安堵したような声が聞こえた。
 私もホッとして、車の運転だけに集中するようにした。その後も10分ほど渋滞は続いたが、東名高速道路と交差する部分を抜けると渋滞は解消された。丁度この交差部分で道路工事をしていたことによる渋滞であった。後は順調に走り、吉原駅の駐車場に車を置き、歩いて毘沙門天に向かった。最終日と言うことで、混雑すると思っていたが、正午頃の時間であり、そうではなかった。露天商が軒を連ねる通りを1km程歩いて、毘沙門天境内に入った。この境内も、所狭しと仮説のテントを並び、だるま小屋が何列も軒を連ね、威勢のよい声が聞こえ、客寄せをしていた。その一軒の店に、昨年の達磨を見せて、号数を聞くと、6号であることを教えてくれた。そして帰りにここで買うようにと、まける値段まで教えてくれた。
 今まで毎年来ているが、いつも同じことをして参拝する。まず古いだるまを返納し、線香を購入、香を焚いて無病息災を念ずる。その後本堂の前に進み、賽銭を奉納し、家内安全を願う。そして新しいだるまを購入する。今年のだるまも、交渉して相当まけてもらうことが出来た。縁起物であり、如何にまけさせるかが、ご利益の大きさにあると聞いた。
 帰りは露天で買った弁当をもって、富士川緑地公園に行き、ベンチに座って食べた。風が冷たかったが、腹が空いていたのか美味しかった。

兄弟会の旅館予約

2010-02-21 11:17:30 | Weblog
 私は5人兄弟(男3人、女2人)の長子で、現在は母と一緒に住んでいる。
父は平成8年に亡くなったが、兄弟たちは各々家族を築き、子供達も成人して独立していった。だからと言って楽になったのではないが、これからは余生を楽しく過ごしたいとの思うのは誰しもである。
 それに高齢な母には、子供として孝行したいとの思いがあり、母を連れての兄弟会を、温泉で行うようになったのは、5年ほど前からである。
 その後一年に2回ほどと決め、定期的に近くの温泉地で行き、ゆっくり会話して過ごすことが、みんなの楽しみになった。
 行く先も箱根とか、伊豆等であたが、前々回(5月31日)は末弟の子が福井市内に転勤で行っていることから、みんなで母を連れ芦原温泉に行った。自動車での長旅であったため、体力がない母は、疲れてしまい、行きがけに寄った東尋坊では、ぐったりしてしまい、「直ぐ家に帰りたい」と愚図って困らせた。
 それでも温泉に入って、孫のH君に会ったことから、元気になり、楽しい一時を過ごした。
 しかしみんな高齢になった。一番若い末弟も元気にしていたが、子供達が独立して間がない2年ほど前に、60歳を前に病気になった。現在リハビリに努め、小康状態を保っているが、みんなそう言う年齢になったのだ。ほかの兄弟達も身体的にはいろいろ言うところが出てきたと言う。
 それに母もいつまでも、一緒に旅行が出来るとは限らない。そこで今回の温泉旅行は、私どもには高嶺の花と思われる、伊豆長岡の一流旅館を、予約することにした。
 みんなの都合のいい日を聞いて、3月30日から翌日にかけ泊まることにした。丁度この時期は桜も咲いて、いい時期であると思ったからである。
 この旅館は三養荘と言い、某財閥の別荘であったのを旅館としていると聞いた。広い庭があり、外からは、その佇まいが、分からないような旅館である。
 以前兄弟会でこの脇を通ったとき、一度こうした高級旅館に泊まってみたいと、話したことがあったが、そのままになっていた。
 今回インターネットで、調べたところ、リーズナブルな値段で利用できることが、書かれていた。そこには驚くような値段から、私どもでも手が届くような値段まであった。
 そこで最低に近い値段の部屋を2部屋申し込んだ。サービスはあまり期待してないが、そうした環境の中で、リッチな気分になるのも、いいものだと思う。母と兄弟の6人なら、気取ることもなく楽しめそうな予感がする。
 
 
 

 

母の抜糸

2010-02-20 13:24:28 | Weblog
 私ども夫婦が南九州を旅行していた2月10日の夕方8時ごろ、妹のところに預かって貰っていた母は、転んで左目の上を裂傷する怪我をした。緊急で県立病院に行き、数針縫う怪我であったが、骨粗鬆である母は、用心のため全身CTスキャンをしてもらい、骨には異常がないことが分かった。
 その後の流行性感冒の感染では大変な思いをしたが、今は概ね良くなった。
 しかしその時打った打撲で、肩など触ると痛そうにしているし、抜糸もしなければならないため、近くのK整形外科に行った。
 母は、この病院へは、10年ぐらい前まではよく行っていたが、病院の院長先生が亡くなったこともあり、その後は行かなくなっていた。
 その後息子さんが病院を継ぎ行っていた。最近評判が良いとのことを聞いていたことから、母を連れて行った。
 行くと看護士さんたちが、母のことを覚えていてくれていて、親しく話しかけてきてくれたが、母はよく覚えていないらしく、「どなたさんですか」と怪訝な顔をする。認知症が進行して忘れてしまっているらしい。
 若い医師も少し母のことを知っているらしく、「お幾つになりましたか」と気さくに母に話しかけてくれた。
 状況を話して、目の上の裂傷したところの、抜糸と、それに両肩が痛そうにしているので見てもらいたいことを言うと、
 その傷口を見ながら「まだ抜糸するには早いので、今日は消毒しておきます。抜糸は来週来たときにしましょう」といい、肩のレントゲンを取った。
 怪我をしたとき、行った病院で、CTスキャンを撮り、異常がないことは分かっていたが、再度見てもらった。
 医師が言うに「ひびとか骨折はないようだが、骨が変形して、いたいのだと思う。塗り薬とシップ薬を出しておきなしょう。それと骨を強くする注射をしたほうがよいと思うので、一週間に一度ぐらいは通ってきてください」とのことであった。
 また通うことになりそうであるが、近いし、早く診察してくれるので、あまり苦にならない。
 まだ40才になったかどうかの、医師であったが、丁寧な対応には好感が持てた。先代の先生が亡くなってから、一時期患者が少なくなった時期もあったが、きっと流行るのではないか。
 それにしても、最近の母は、老化が進んできている。歩くことも、段々困難になってきたし、再度転ぶようなことがあったら、骨折して、寝たきりになることが心配である。
 私もようやく、体調が戻りつつあることを感じた。
 
 

流行性感冒の感染

2010-02-19 18:14:48 | Weblog
 18日から今日にかけ、流行性感冒に感染して苦しんだ、いや未だ苦しめられている。それでも昨日よりだいぶ良くなったようだが、最近知る限り、この苦しみは始めてのような気がする。下痢と嘔吐を繰返し、腹にガスが溜まり、食欲が全然なくなった。
 昨日近くのS内科病院に行って、診察してもらったところ、医師から「最近この地区で流行っていて風邪で、患者に半分以上は同じ症状であること。このような症状は、代表的ものは、ノロウイールスによって起こるもので、それ以外のウイルスでも、呼吸器系の炎症で発熱・頭痛・のどの痛み・咳などの症状があらわれるもの」と教えられた。「よく水分を取って薬を飲んで安静にしていてください」と言って4種類の薬をくれた。その後もひどく、寒気はするし、直ぐ寝込んだが、どうもこの感染は母が16日前に感染してきたらしい。
 母は下痢や嘔吐を繰返し、元気のない様子で過ごしていたが、それで分かった。
 しかしそれをピークに母は快方に向かっていったが、それに引き続き、妻は17日正午あたりから「お腹が痛みだし、下痢気味なので、今から寝るから、昼食と夕食は、コンビニで買ってきて済ませるよう」に言われた。
 それは母からうつされたもので、旅行中に母を妹にところに預かってもらっていた間に、風邪で病院に行ったが、その薬を飲んで妻は寝た。相当苦しそうだ。
 翌朝目を覚ますと、私も吐き気がして、熱を計ると38℃近くあった。私の平熱は35℃ぐらいであるから、私にしては高い数値である。
 直ぐ前段に記したS内科病院に行ったのは、午前10時ごろであった。医師の診断を受け、薬をもらってきた。食後に飲むようにとの、処方箋にあったので、食欲はなかったが、みかんと味噌汁を飲んでから薬を飲んだ。
 正午ごろ、そのまま寝ようと思っていると、急に吐き気がして、胃に入った全てのものを吐いてしまった。寒気はするし、頭が痛いので、布団をいつもより多く掛け、電気の湯たんぽを入れて寝た。
 私の今までの経験から、トンプクを飲むと、熱は下がるし、いろいろな症状は良くなっていた。そこで、トンプクを一錠飲んだ。
 この日は、母も妻も流行性感冒で寝ている。一家全員が床に臥しているのは、初めてではないか。夕方目を覚ますと、妻が「おかゆでも食べないか」と言ったが、とても食べたいという気持ちにならない。
 そのまま寝続けて19日になった。この間何度か下痢で起きたが、朝になって、少し元気が出てきた。朝食でおかゆを食べ、薬を飲んで再度寝た。夕方になって何とか、起きれるようになったので、少量のうどんを食べた。
 新型のインフルエンザでは、厚労省をあげて、ワクチンの接種を呼びかけ、家族もみんな受けた。しかしそれ以外のノロウイルス等は感染力が強く、蔓延するらしい。まだ直った訳ではないが、我家では大変な感冒であった。

介護施設でのボランティア

2010-02-17 22:26:52 | Weblog
 2月16日、家の近くのT介護施設で歌のボランティアにいった。どのような内容にするか考えたが、春を待っている感じの曲、特に童謡を多くした。それと先日の南九州の旅の内、印象に残った、知覧の特攻隊のことから、軍歌を、数曲選んだ。
 これは悲惨な戦争はあってはならないとの思いで、歌いたいと思ったからである。
 因みに歌は「たき火」「冬景色」「春よこい」「早春賦」等、それに軍歌は「同期の桜」「戦友」等である。
 午後2時からであるが、その30分ほど前に介護施設に着いた。前回の1月は、介護施設の都合で中止しているので、2ヶ月ぶりである。いつも聞いてくれる人達が来てくれるか、心配していたが、見た顔の人が集まってきてくれた。
 施設の担当者が、お茶を持って来てくれたが、その時「皆さんが歌いたくてうずうずしていましたよ」とお世辞のような言葉を言った。それが仮に世辞であっても嬉しいものだ。
 今日はいつもより多くの人が来てくれたような気がした。数えたわけではないが、40人以上は来てくれた。それもいつもは少ない男性が、今回は1/3ぐらいはいた。
 その中に、私にいつも軍歌を歌ってくれと言っていた、Yさんもいる。年齢は80前後であり、以前は普通に歩き、元気であったが、最近は杖が離せなくなっていた。少し弱くなった感じの人である。
 あいさつで「今日の後半で、軍歌も歌いたい」と言うとことのほか喜んでくれた。
 私は模造紙に歌詞を書いて、ホワイトボードに、マジックハンガーではり付け、みんなで歌えるようにしている。
 歌うことは、健康のためにもよいし、リハビリにもなる。だからみんなと一緒のア・カペラの合唱になる。普段あまり歌わない皆さんが、少しずつ明るくなるのは、嬉しい。
 そして軍歌を歌うことにした。その前に知覧で見てきた、特攻隊員の「遺書」のことも話した。「彼らは日本の国土と家族を守るため、外道とも言える米国艦隊に飛行機と共に突込み玉砕していった。そして敗戦となったが、その彼らの玉砕に上に今の繁栄があると思う。
 こんな話をすると、何度か胸を突き上げるものがあり、声が震え、言葉に詰まったが、時間をかけて話した。そして歌った。
 私が涙を堪えて歌っていると、先ほどのYさんは目を真っ赤にして涙していた。ほかの男性もそうであった。彼らは昔を思い出し、それにこの歌をダブらせていたのだと思う。
 歌い終わると、前にいた90才近い女性が、「女に生まれてよかった」と言って笑った。これが硬い雰囲気を和ませてくれた。
 ここにいる女性も「銃後の守り」として戦争を経験している。今から65年以上前にあった戦争を忘れないためにも、今回歌ったことは良かったと思う。
                             2月16日のことを記す。
 

母の様子

2010-02-16 22:27:18 | Weblog
 旅行中預かってもらった、瀬名の妹達のところにいる母を迎えにいったのは、14日午後6時頃であった。この間母は、2人の妹(瀬名と川崎)が見ていてくれていた。
 妹達は、私の直ぐ下の子であり、2人は年の差も少なく仲が良い。よく電話で話しあっているようで、一緒に外国旅行にもいっている。
 母は、その実の娘と一緒に居るので、さぞや楽しい時をすごしたと思っていたが、会うと元気がない。そのうえ右目の上に包帯を絆創膏で留めてある。
 妹達が言うに「2月10日の夕方玄関のところで転んで、土間に横になっていた。その時目の上から出血していたし、メガネが壊れていた。直ぐに救急医療の県立病院に行き、頭のCTや、骨折等を調べたが、それ以外は異常はなかった。その時出血したところを2針ほど縫った。次の日も、吐いたり、下痢があったので、近くの病院に行ったら、風邪とのことであった。薬をもらって飲んでいるが、今は大体直ったようだ」と話してくれた。
 瀬名の家はバリアフリーがしてないし、少し目を離した空きに、転んでしまったらしい。そんなことで、妹達は、母を連れて外に出ることもできず、ズート介護していたとのこと。91歳の母が怪我をし、風邪まで引かせてしまったと、恐縮していたが、いろいろ大変であったようだ。
 その後、家に帰ってきたが、どうも、以前の元気がなく心配であった。翌朝(15日)起きると、少し元気そうにしていたので、デーサービスに行かれせた。
 迎えの介護士さんには、何かあったら連絡してくれるように言ったが、そのまま一日過ごして帰ってきた。
 その日の夕食は、うどんの鍋物であったが、いつもと同じように、食べていたが、急に気持ち悪いといって、食べたものを吐いてしまった。まだ本調子ではないと、その夜は薬を飲ませ早めに寝かせた。
 朝(16日)妻が見に行くと、まだ寝ていたので起こしたが「下着を替えたが、まだ下痢が止まらないでいる」と言っていた。
 朝食は、お粥にし食べさせようとしたが、食欲がないと言って食べない。それでも起きてテレビを見ているので、薬を飲ませて様子を見ていた。
 いつもは元気な母であるが、今は余り言葉を言わないし、静かにしている。転んだ時、捻挫をしていて数箇所が、黒ずんでいたが、そうしたことが原因なのかもしれない。
 それでも夕食は、量は少なかったが、食べたので、少し安心した。
 風呂に入れ、早めに寝かせたが、老人であり、ちょっとしたことでも、回復は遅い、骨折でもしていたら、大変なことになると、改めて思った。