Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

秋の剪定

2009-10-31 19:53:11 | Weblog
 庭の金木犀は、花を落とし緑の葉だけになった。いま花を付けているのは、山茶花だけだ。この山茶花もまだ咲き出したばかりで、薄桃色の一重の花を、ところどころに付けている。11月になったら木全体に花に包まれて見ごろになるだろう。
 今日は風もなく、温かい秋の日差しが差し込む静かな一日となった。11月にに入ったら、選定作業を行う予定であったが、天気予報では寒気が入ってきて、寒くなると伝えている。昼食を食べた後、思い立って剪定作業をすることにした。
 体力的に丸一日剪定作業をすると、腰痛が出たり、疲れが残るので、何日か掛けて行うことにした。その最初に日である。
 先日の台風18号の時、強い北東の風を受け、ヒバの木が倒れるのではないかと思うほど揺れた。直径30cmほどある幹が10cmほど傾ぎ、地面が盛り上がるところを見た。そのとき暴風雨の中で一本の太い枝を切落とした。
それで木が倒れなかったものと思っている。しかしそれがため、こんもりと茂っていたヒバの木は、北東の一部が欠けたアンバランスな木となっていた。
 最初にこの木の剪定を行うことにした。
 この木は我家の庭木の内一番高い木であり、8m以上ある。枝ぶりの幅も5mほどになっている。
 この木は、昨年も剪定したが、勢いがあり、春には枝葉が成長して、こんもりしと茂った樹形になっていた。
 脚立を伸ばして、3.4mほどの梯子にして、木に登った。今まで何度か剪定しているので、その切り口を足場にして木に先端を1mほど摘めた。中の枝も全体の半分以上切った。樹形を気にしながら、梯子を降りたり登ったりして切っていった。
 鋸も、手入れが悪いためか、切れなくなっている。切落とした枝は、2mから2.5mほどあり、それを1m程度に切って、塀の内側に積んだ。ここで枯れるのを待って、市の焼却場にもって行くつもりである。
 まだ、小枝を剪定したいところがあるが、今日は妻がいないので、明日にでも、妻に見ていてもらって、小枝を剪定しようと思う。
 その後、青桐の枝を切った。この青桐も道路に面したところにあり、この一週間ほどの間は枯葉が道路面に落ちていて気になっていた。
 青桐に枝の大部分を切ると、幹だけの木が残る。その切り口は、サルノコシカケの様なこぶになっていて、異様な感じのする木になった。このこぶは父が生きている時からあるもので、そのこぶを残すことが良いのか分からないが、私が剪定するようになってからも同じようにしている。
 時間は、午後4時を回っていた。まだ他の木を剪定する時間はあったが、今日はここまでにし、続きは明日以降にすることにした。
 犬小屋の前に甲斐犬のモモが、散歩を催促するような目をして私を見ている。
 

 

ノクターン作品9-2

2009-10-29 22:32:49 | Weblog
 月二回のピアノ教室へは、未だ厭きもせず通っている。レッスン日は第2、第4土曜日であるが、その日が近づくと、特に練習に力を入れる。それによって上達することはないのであるが、先生から事前に指定された曲を弾いて合格すると、次は少し難しい曲が指定され、それをピアノ教室で評価を受ける。
 毎日少しづつ練習していれば、よいのであるが、切羽詰らないと腰をあがないのは、昔から変らないでいる。
 生徒は幼児から私のような人間もいる。
 小さな子供や、才能がある人は上達も早いが、頭が固くなった人間は、比較ができないほど差ができる。
 個人レッスンであり先生が指導する時間は30分であるが、私の前後に習っている子供(小学校低学年)は、始めた時は大体同じ頃であったが、持っている練習本は、私が持っているものより、数段上の練習曲になっている。
 これは頭の柔軟性や呑み込みの速さが全然違うので、最初から比較する対象ではないと思う。
 今習っている練習曲は、もう3ヶ月ほど弾いているが、先生から合格の言葉が聞けないでいる。それでも落ち込むこともなく楽しくやっている。
 先日(8月下旬)先生から「来年6月ごろ、発表会を開くことに決めたので、その時弾く曲を決めておいて下さい」と言われた。
 それ以降、持っている練習曲集から、どの曲にするか考えて2曲ほど弾きたい曲を先生に伝えると「既に他の生徒が弾くことになっている別の曲を選んで下さい」と言って私レベルに合った曲を集めた曲集を貸してくれた。
 しかしどの曲もしっくりこないので、ユー・チューブで調べて見た。その中にショパンの曲で「ノクターン作品9-2」があり、この曲を弾きたいとの願望を強く持った。そこで先生に相談すると「そのような難しい曲に挑戦しても、きっと上手く弾けないと思う、あなたのレベルにあった曲を弾くことが上達の道ですよ」と教えられた。自分のレベルもわきまえず、高望みしたことを反省した。
 そこで、先生が貸してくれた本の中から「千の風になって」か「宵待草」にしようかと思っている。
 今日たまたま楽器店に行くと、「ノクターン作品9-2」が入っている練習曲集があった。中を見ると私が弾くには無理な曲だと思った。しかしこの本を買ってきた。発表会では、無理かもしれないが、自分だけで、ゆっくり弾くならよいのではないか。
 帰ってから、この曲の主旋律だけで弾いてみたが、何とかリズムになっている。この曲を聴くと、心が洗われるような曲である。いつかこの曲を正確に弾けるよう
にしたいと思う。それを目標に練習しよう。

 

母の定期診断

2009-10-28 14:22:01 | Weblog
 母はまだ父が健在であった15~6年前、体がギシギシと痛んだ時期があった。顔の形相が変るほどで、痛かったと思う。それが一年近く続いたが、それが元で背中がまがってしまったが痛みも治まったような気がした。それ以降は年々身体は小さくなっているように思うが、大きな病気もすることなく現在91歳となった。
 この間老齢による、認知症状は出ているものの、身体的には、あまりいうところはないと思っている。しかし時々身体がふらふらするといって、調子がわるそうな表情をすることもあった。そのようなことがあっても、通常は、明るく元気である。そして年一回の定期診断は欠かさず受けてきた。
 今日はデーサービスの日でないので、行きつけのS医院に、定期診断に行くことにした。犬の散歩を兼ね午前8時前に診察券を出しにいくと、既に何人かが待っている。受付が始まり、診察券を出して、母の診察に来ることを伝えると、受付嬢が「今日は混みますから早めに連れてきてください」と言った。すぐ家に帰り、母を自動車に乗せS医院に行った。言われたとおり病院の駐車場は満車の状態であった。
 やむなく、隣接している薬局に車を置いて、病院に入った。
 この時期はインフルエンザの予防接種があるのか、マスクをした患者が多く見えていた。出がけに妻から「病院には、インフルエンザの患者も来ていると思うので、マスクをするように」と2つのマスクを渡された。
 受付に行くと、体温計と母の問診表を渡され、書くように言われた。
 母の状況から、私が知りうるところだけを、代筆して出した。
 30分ほど待っていると、呼ばれ診察室に通された。定期健康診断であるので、まず看護士から身長、体重、血液検査、尿検査、胸部レントゲン検査、心電図等を測ってくれた。私も一緒について回ったが、ぐずることもなく看護士の言うことに機嫌よく従っていた。
 そして医師の診断を受けたが、後日結果が出る血液検査を除いて、診断結果を説明してくれた。胸部レントゲンは前年度のものと、今回のものが張られ、その様子は、私には少し違うように見えた。それは肺の面積が小さくなったように見えたので、そのことを医師に聞くと「背中の曲がりが大きくなり、その上に応角膜が上がった状態で撮影されたので、違うように見えるが、昨年に比べて異常なところはありません」とのことであった。それ以外も異常は無かった。
 この診察で、毎月薬を貰う、血圧と認知症の薬も出してもらった。まだ血液検査の結果は分からないが、ホッとした感じである。怪我でもしない限り、まだ元気でいてくれそうだ。
 帰りに近くのマートに寄り、母の好きなバナナを買って帰った。


 

ふれあい広場

2009-10-26 21:47:55 | Weblog
 我が町内の社会福祉協議会(社協)は、誇れるような活動はしていないが、会長以下スタッフは、試行錯誤しながら地域のために取組んでいる。私もその一員として行動しているが、その中でも独居老人の慰問や地域住民のコミュニケーションの場として「ふれあい広場」なる催しを行っているのが、主な行事である。
 この「ふれあい広場」は、地域の高齢者に集まって頂き、会話を通じて、互いに協力や、連帯を深めようとするのが趣旨である。
 この集会が10月26日町内の公民館で行われた。
 今回は第2回目のふれあい広場であるが、前回に習って「菓子作りと輪投げの集い」として、町内に回覧で参加者を募ったところ、40名の参加者があった。
 前回は30数名であったことからも、皆さんの関心もあり、これを基に浸透していくことを願っている。
 今回も町内在住の、和菓子のK先生にお願いして、みんなで自作の菓子作りをして、それを食べながら自由な会話を楽しもうというものである。 
 それに誰もが出来る、輪投げ大会も併せて行い、健康増進の一助となればとの願いも兼ねた計画である。
 午後1時30分に開催時間には、冷たい雨が降るなか、申込まれた全員が集まった。見れば女性が大部分であるが、男性も何人か参加したことはありがたいことである。町内で行うこうした会は、女性が多く、これを盛り上げるのも女性である。しかし独居老人を慰問すると、男性も少なからずいる、その人達はあまり外に出るのは好まないようである。こうした人にも来てもらいたいと思っている。今回は菓子作りということで、男性にはあまり興味がもてない催しであったが、それでも数人が参加したことはありがたい。今後は男性の参加しやすいものにしていきたい。 しかしこうした時の女性のパワーは、いつもながら感服する。
 和菓子は季節に合わせて「もみじ」や「柿」の菓子を作るもので、K先生の指導のもと、一人ひとりが和菓子を作っていく。料理好きの女性でも上手くいかないようで、手より口がよく回り、悪戦苦闘している。いわんや男性の作品は、作ったものが何なのか分からない和菓子となった。
 それでも、自作のものを茶菓子として、お茶を飲んだが、その美味しさは格別である。会話は2組ほどのグループになって、盛り上がったが、始めて来た人がその会話に入ってくれるか心配であったが、皆さん年の功そうした光景はなかった。
 その後は、輪投げに興じた。事前に社協のスタッフが思考を凝らした輪投げであり、笑いの中で、有意義な2時間を過ごすことが出来た。
 核家族化と高齢化が進む中で、このような取組は、まだ緒についたばかりであるが、これからも工夫をして地域の皆さんが一体となれるような活動にしていかなければならないと思った。

多忙な土曜日

2009-10-24 23:49:45 | Weblog
 手帳を見ると今日の予定が欄に入らないほど入っている。その予定はどれも切れないような事ばかりである。
 妻からは、自分の趣味ばかりやっているからと言うが、それも全然当たっていないことでもないので、黙っている。
 母は91歳で、認知症も出ていて、一人にしておくことが出来ないことから、そのときは妻に見てもらっている。
 今日の予定は、列挙すると、午前8時から町内の資源回収がある。これは町内役員として休むわけにはいかない。
 その後、午前9時からターゲット・バード・ゴルフの大会が有度山山腹の市営のスポーツセンターである。資源回収が終わりしだい、自動車で会場に行った。このメンバーは10名であり、初心者である私は、休めなかった。2時間ほどプレーして、終わり次第、みんなに断って先に帰ることにした。時間は11時10分前であった。
 家に帰り、着替えをして、午前11時30分までに、駅南のT会館に行った。今日行われる、鉄道時代の現業職場のOB会に出席するためである。この会も副会長をしていることから、やめるわけにはいかなかった。
 この会の最盛期は100人以上が集まったが、今回は24名しか集まらなかった。どうも最近の傾向として、先輩、後輩といったつながりが薄くなったような気がした。しかし懐かしい人達と話が出来たことは有意義であった。酒は飲むまいと決めていたが、進められて少し飲んでしまった。この会も午後2時には終わった。
 この後は午後2時40分から始まる、S学苑「名曲をうたう」に出席するため、駅ビルに向った。まだ少し時間があったので、6Fの喫茶店に入って水を飲み、酔いを醒ました。そして時間にS学苑の教室に入ったが、11月28日に行う「おさらい会」の仕上げ練習として、今日は全員が指定した曲を歌うことになった。
 順番が来て「オ・ホリー・ナイト」を歌った。しかし少し酔っているのか、声がかすれてしまった。練習とは言え、酒が入っていると、上手く歌えないことが分かった。カラオケの時は酔っていても上手く歌えたが、声楽曲はダメなんだ。
 S学苑は4時20分には終わった。その後は午後6時30分から始まるD合唱団の練習に参加することにしているが、まだ少し時間があるので、数人の友人と喫茶店でコ-ヒーを飲んで、時間をつぶした。
 一度家に帰り、合唱練習をする、安東の生涯学習センターに行った。
 合唱の練習は、12月上旬に開かれる静岡県芸術祭合唱コンクールで歌う曲を中心に練習した。教える先生も間近に迫ったコンクールのため、厳しさが増してきた感じである。終わったのは午後9時であった。
 家に帰りすぐ風呂に入ったが、鏡に映る自分の顔を見て、疲れている様子が分かった。明日妻はハイキングに行く。私が家で母を見て、留守番をすることになっている。ゆっくり休もうと思う。

先生の病気

2009-10-23 21:38:51 | Weblog
 マジックのクラブ「あすなろ会」のK先生から「10月23日は空けておいてくれ」と言われたのは、夏の暑さが強い8月18日であった。 そのとき先生は、あまり元気がなかった。それでも涼しくなれば元気になると思っていた。
 それ故、今日のH老人ホームでのマジックの慰問にも、誘ってくれたのだと思った。「あすなろ会」の会長が慰問を計画するが、先生からすることは、今までなかった。
 今日の慰問メンバーは先生と、会長のTさん、副会長のSさん、それにHさんと私の5人であった。
 私は近所に住むSさんと一緒に、自動車で本通のK先生の家に向かい、正午少し回った頃には着いた。
 その車中でSさんから、K先生は体調が悪く、今日一緒に行くことが限度で、マジックが出来ないような状況であることを聞いた。
 そして2ヶ月ぶりに先生に会った。現在寝たり起きたりの生活で、病状は進んでいるように見えた。
 足取りも弱々しい印象であったが、それでも車に乗り込んだ。
 K先生の病気は、みんなはっきり言わないが、困難な病気であるらしい。1年半ほどの間、入退院を繰り返していたが、それでも月1回以上行っていた、慰問には出席してくれた。
 それも8月までで、9月は体調を理由に休まれた。そして今回のH老人ホームには一緒に行くことになった。
 この老人ホームは、静岡中心から北へ15kmほど行ったところにあり、近くに緑の山と清水の流れがある、恵まれた環境の中にあった。広大な敷地に150人ほどの居住者がいる施設で、それ以外にデーサービスも行っている。老人福祉が充実したホームであると思った。ここに働くスタッフも若く、よく気がつく優秀な人達が多いと感じた。
 私達が着くと先生は、この施設に入っている97歳の母親を見舞った。先生の親がここに入っていることは始めて聞いた。そこから帰ってきたのは15分ほどしてからであった。
 先生に「お母さんにも、マジックを見てもらったらどうですか」と言うと、先生は「母に来ないようにといった」と言う。先生も自分の弱った姿をみんなの前で見たくないのかもしてない。
 私達は午後2時から3Fのロビーで、マジックを行なうことになっている。
 始まる前の30分ほどは、今日の出し物の練習を行うが、その間先生は苦痛な表情をすることもあったが、ポイントポイントでアドバイスをしてくれた。 始まると先生は座ってカセットテープを担当してくれた。私もあまり緊張することなく演戯することが出来た。一時間の演技が終わった後、先生から、今まで使っていたマジックの道具を皆さんに分けてくれた。現在の先生は、手がしびれて、使うことが出来ないからと言うことであるが、先生の心情を思うと、心が痛い。
 
  

年輪会コンペ

2009-10-22 14:32:04 | Weblog
 市内大谷にゴルフのショートコースがある。このコースは18ホールで、パー3が17ホール、パー4は1ホール、トータルパー55の設定されたコースである。 距離も2020ヤードほどあり、歩いてまわるとアプローチの練習にはなるし、よい運動にもなる。その上家から自動車で5分ほどの距離にあり、気が向いたときには、よく練習に行っている。
 このゴルフ場で、年輪杯コンペが開かれた。これは高齢者を対象にしたコンペで毎年5月と10月、定例的に開かれ、今回5回目を迎える。
 私は今年の5月に続き参加した。高齢者とは言え、長いゴルフ歴を持っている人が多く、パープレーでまわる人もいるレベルの高いコンペである。
 今日は秋晴れで、風がない良い天気となった。
 朝8時15分にゴルフ場に集まることになっていたので、余裕を持って15分前に着いたが、既に30数名の人が集まっていた。年齢は分からないが、60代~80代の人のようだ。女性も4人が含まれていた。
 全部で10組のメンバーが決められていて、出発ホールは1番、8番、13番に分かれた。私の組はTさん、Yさん、Sさんの4人で8番からのスタートである。
 4人は面識がなく始めての人である。会話から年齢も私よりも、少し上の感じであった。
 スタートして直ぐ、会話の中でSさんがマジック仲間の「あすなろ会」のメンバーのSさんの旦那さんであることが分かった。奇遇なことと思ったが、その後は楽しく回ることが出来た。そして驚いたがSさんはゴルフが上手く、このゴルフ場では名前が知られた人であることが分かった。
 今日のSさんは4オーバーの59でホールアウトしたが、いつもの調子ではなかったと言った。最後の2ホールをボギーとしたことが響き、ベスグロ58を逃した。非常に残念そうであった。
 私も上手いSさんに引きずられてか、このコースでは初めての66で回ることが出来た。Yさん、Tさんも私より少したたいたが、60台では回った。
 最近は本コースに行っても電動カートがあり、歩くことが少なくなった。それに比べ、このコースは自分でクラブバックにクラブを入れ、全コースを歩いて回る。これは程よい疲労感と体を動かしたと言う充実感がある。
 コンペはダブルぺリア方式で行うため、誰が優勝したかは、スコアーだけでは分からない。
 クラブハウスで昼食を食べながら、その集計されるのを待った。これを待つ時間は長く感ずる。Sさんは隠しホールによっては、優勝のチャンスがあるし、私にもチャンスが0と言うことではない。
 20分ほど待って、順位を書いた紙が回ってきた。残念であったがSさんも私も
優勝とは、ほど遠い内容であった。しかしスコアーだけでいけば、私は34人中12位と言う成績であった。今日は収穫のあるコンペであった。

3つの柿の実

2009-10-21 10:06:35 | Weblog
 庭に4本の柿の木がある。1本の渋柿で、3本は甘柿である。渋柿は昨年剪定を強くしたのが原因なのか、柿はならなかった。この柿は毎年直径3cmほどの小さな実をたくさん付ける。秋が深まり葉が落ちると赤く実った鈴なりの柿は、木全体を赤く染める。その木は我家の門柱の横にあり、自然の中で映えた風景をつくってくれる。それをもいで、干し柿にしたこともあったが、あまりに小さく種が一個に5~7ほど入っていて、とても食べるところがない。そこでそれ以降は、そのまま木に成らして、熟し鳥が食べてなくなるまで、それを観賞できた。しかし今年は、実は一つもなく、いま紅葉して葉が落ちている最中である。
 そして3本の甘柿は、春多くの花をつけた。今年は多くの実を付け豊作になるものと思った。上手く育てようと、花の咲いたときには、蔕虫除去の薬剤を散布したり、元肥をやったりして、実が成長する前に落実しないよう努力してきた。
 しかし柿の実が成長する過程で、多くの実が落ちてしまった。その状況を見る度に、何故なのかと思い、また別の農薬を散布した。しかし止まらなかった。
 秋になり、少し色付だした時には、3本の甘柿で20個ほどの柿しか残っていなかった。
 その柿も、赤く色付く前に鳥達がきて、くちばしでつついて熟すのを促していく。柿は、完全に熟す前に、鳥に促されたため、実は柔らかくなるが、自然に熟すのとは違って、まだ実の中は黄色い状況であり、それを鳥は食べていく。
 食べ残された柿の実を見ながら、何故我家の柿はこうなるのかと、他家の実った柿を見ながら思った。
 その柿も紅葉しだし、少しずつ落葉しているが、まだ葉を残している。
 その柿の木を、いま窓越しに見ている。その柿の木の中に、隣の家の影になっている枝に3つの柿がなっている。その部分は柿の実も色付きも薄く、現在も硬い感じで、食べられるような状況ではない。
 その3つの柿の実が残っているものの、鳥達は来ないようである。
 それを観察していると、既に鳥達に実を食べられた柿の枝は、紅葉が始まり、落葉しているが、その3つの実を付けている枝の部分は、まだ葉の緑が濃く、落葉する気配はない。
 私は思う、柿の木が落葉する時は、実が熟し収穫されたり、鳥達に食べられたりしたら、木も安心して冬から春の新緑に至るための準備の行動を起こすものと。
 しかしまだ、実を付けている枝は、その実が熟してなくなるまで、守っているのではないか。そんなことを思う。
 こんなことを書いたが、昨夜妻と話したことで、心が晴れないでいる。
 

手筒花火

2009-10-19 15:34:25 | Weblog
 我家の玄関先に「手筒花火」の筒がある。先日の登呂祭で使った、使用済みの「手筒花火」を貰い受けたものである。
 その時『「手筒花火」は縁起物であるから、家の前に飾っておくと良いですよ』と言って私にくれた。我が町内に配られた、大小5本ほどの「手筒花火」の中から大きいものを貰った。
 そういえば、何処かに家の前に「手筒花火」が置いてあったのを見たことがあったが、そうした理由からであることが分かった。
 家に持って帰ると妻は怪訝な顔をして、玄関に置かれたら困ると言った顔をしたが「これは縁起のいいものでだから」と言って置くことを承知してくれた。
 とは言え、話を聞いただけであったので「手筒花火」について調べた。
 それによると起源は戦国時代、武器として使われていた火薬が、江戸時代になると戦もなくなり、その必要性も少なくなった。
そこで花火として使われるようになった。その記録が残っているのは、「宮中秘話」でその中に慶長18年8月、徳川家康が駿府で花火を見学したとの記述がある。この時の花火は「立花火」と言い、節を抜いた竹筒に火薬をつめ、噴出すもので、手筒花火の原型であったと思う。
 その後徳川の砲術隊が、三河岡崎にこの技術を持ち帰り、三河、遠州で、手筒花火が盛んになったと言う。
 この花火の歴史は300年引き繋がれ、五穀豊穣、無病息災、家運隆盛、武運長久の神に念じ、若者の手造りにより大人への門出、勇気の証として発達し、その製造放揚の技術が脈々として今日まで伝承されている。
 歴史的には後発となったが、登呂遺跡での登呂祭も弥生時代の稲作に感謝しての
五穀豊穣の祭であり、手筒花火が祭のメインイベントとして実施されてきている。
 それに手筒花火は、歴史的には、駿府(静岡)で徳川家康が始めて見たことから受け継がれていることからも、登呂祭にリンクするものと言える。
 そしてこの手筒花火も静岡葵区郷島の若者が作ったものである。自らを浄化させ、神社等へ奉納する煙火として、伝承されて来ているもので、放揚する人自身の手で作られる。よって「孟宗竹を取り出し」「節抜き」「油抜き」「縄巻き」「火薬の仕込み」「火薬の詰め込み」「ハネ」(噴出後にドンと音を出すハネ粉という火を詰め底を土で押える)「口切り」まで行い完成させるものである。
 この浄化した若者が、五穀豊穣、無病息災、家運隆盛を願って作った手筒花火が、縁起物として扱われる所以である。
 郷島は静岡の北の山間が迫るところある。ここの若者が手筒花火を伝承し盛んになっていくことを願っている。
 

 
 

現職時代の懇親会

2009-10-18 11:15:18 | Weblog
 静岡の繁華街にあるK会館でJR新幹線施設関係者の懇親会があった。
この会は現職者とOBが懇親を深める会であり、技術者が主体の会である。
これは国鉄時代からあったものであるが、国鉄改革や鉄道組織の改正等で、中断したこともあったが、昨年新しい形で再スタートした。
 この懇親会は、現在の新幹線が進めていることや、乗り心地状況や、利用状況等が現職の方から話され、OBからは外から見た新幹線等、立食での、リラックスした雰囲気で話し合った。
 午後4時から始まる懇親会場に10分ほど前に着いたが、50名近くのメンバーが集まっていた。
 以前私も現職時代こうした会を開催したが、OBの出席者が多く、全部で100名以上の人が集まった。それに比べ少ない感じであった。
 このことは、JRに生まれ変わったことが、国鉄時代に退職した人の一部に同胞との感覚が少なくなったのか、または高齢になり、出てこれない原因があるのかもしれない。
 そういえば、見渡すと私と同年輩以上の人はわずか2人であった。それだけ現職から遠くなっていることを感じた。私自身現職の時から17年が経過しているので、現職者は知らない人が多くなっていた。
 現職を代表してU所長が挨拶に立った。内容は「新幹線の安全・安定輸送と乗り心地の改善は進んでいる。しかし昨年の景気後退によって減少した顧客は、一年経った現在も90%ほどしか戻っていない。このことは国の政策によることが多いので、技術的にはどうしようもないことである。先日8月11日の地震や、10月8日の台風18号の対応は、迅速で的確に行い、新幹線の遅れを3時間以内に収めることが出来た。これは新幹線を守ると言う社員の意識の現われかと思う。また災害に強い新幹線を作ってきたのは、OBの皆さんが築いた技術が継承できていることであると思う。今後も外部からいろいろとアドバイスをお願いしたい」こんな話であった。
 現職者の人と話しをしたが、優秀な人材が育っているとの思いを強くした。
 途中で司会者から「何か一言」と促されて前に出て話した。「私が現職のとき、連続降雨量350mm時雨量98mmの降雨があった。その時道路等では土砂崩れ等の被害が出て、不通になる箇所があった。しかし新幹線は列車に影響するような被害は出さなかった。それは先輩達が築いた防災技術はすばらしかったからであったと思った。現職の皆さんもその技術を継承して、より安全な鉄道を築いていってほしい」このようなことを話した。
 2時間ほどの懇親会は、旧知の人達との話に終始し、あっと言う間に過ぎた感じであった。
 2次会にと誘われたが断り、午後6時30分から始まるD合唱団の練習に参加するためバスで会場に向った。    10月17日のことを記す。