Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

春の嵐

2014-03-30 17:42:03 | Weblog

 3月末になって思いもよらない風邪に悩まされている。現職時代風邪で休んだこともないし、引いていても出勤してきた。そして昨年2月ごろ風邪で病院に行っが一日ぐらい寝て直った。しかし今年は小さな風邪も入れて3回も引いた。それだけ体力が弱っているのかと思ったが、3回目の風邪は熱は38度ほどで高熱ではなかったが、鼻水と咳が続き、節々が痛く感じた。これは初めてであった。今回の風邪は3月25日ごろから鼻がムズムズし出したが、寝て過ごすようになったのは28日からであった。医者には掛からないが今日で3日間寝て過ごしている。

 その中でも昨日から今朝にかけて一番大変であった。咳が出て、それが落着くまで10分近く掛かる。しかし寝返りなどうつとまた咳が出た。このようなことは今までになかった。朝食は起きて、お粥を食べたが、これは美味しく食べられた。その後はまた寝床に入ったが、また咳が続いた。起きているときは鼻水が出て、寝ると咳が止まらない。この様なことは今まで経験していなかった。それでも咳が止むと直ぐ睡魔に入った。それから何時間ほど経ったのか分らなかったが、強い雨音と風で目が覚めた。もう夕方になっているのかと思った。お腹が空いてきたので、起きると妻が「昼食時起こしたが、寝ていたのでそのままにした」と云って、作った雑炊を再度煮込んで食べた。時間を見ると午後3時を回っていた。

 遅い昼食を食べてからテレビと新聞に目を通したが、頭の痛さは少なくなっている感じであった。まだ鼻水と咳は段発的に出たが、このまま様子を見ることにした。まだ外は春の嵐が吹いていた。この春の嵐が過ぎると春の暖かい気候が定着すると云われている。季節が代わる節がこの嵐であるようだ。そんなことを思いながら庭に水たまりを見ていた。我家の愛犬も、犬小屋に湿っているので、軒先の大き目の空のプランタン(40cm×60cm×40cm)に入っていた。ここには横殴りの雨が微かに入ってしまうが、それでも冷たくないのか、すました顔で私を見ていた。

 風邪を引いてから、朝の散歩は行かなくなったので、犬もストレスが溜まっている。私を見る目もどうして散歩に行かないのかと云っているように感じた。このまま雨が上がり、風邪の症状も軽くなるなら、久しぶりに夕方散歩に連れ治行こうと思う。いま午後5時を廻った。雨も風もなくなって静かになった。微かに竹が揺れているだけである。一羽のキジバトが、庭で餌を探していた。


P菌の検査結果を聞く

2014-03-28 22:14:17 | Weblog

 朝起きると咳は止まっていたが、喉に違和感があった。それでも今日はSA会総合病院に行かなければならなかった。前回血小板が少なくなった原因が、ピロリ菌が災いしているのでないかと医師から言われ、一週間連続して呑み薬を飲んだ。その結果は1ケ月ほど経った検査結果で改善に向かっていると医師は言った。そして完全に除去されていることは、それから1ケ月ほど経った今日再検査して分ることになっていた。風邪で頭が重いが検査結果を聞きに指定せれた午前10時から10時30分の間に訪ねた。

 指定された〇内科に行くと、直ぐ採血してくださいと云われ、採血室に行った。ここも混んでいたが30分ほどで採血した。この結果からP菌がいなくなったかわかると聞いた。その後、〇内科のソファーに座っていたが、中々呼ばれない。2階には各病室があり、その前にソファーが並んでいて患者が腰かけていたが、その数が段々少なくなっていった。12時を回っても呼ばれなかった。採血から一時間ほどで結果が出ることから、時間がかかっているのだと思った。その後表示板に私の番号が出て診察室に入った。

 医師の前に座ると、医師は言った「まだP菌は完全には除去されていませんね」医師は少し考えて「再度へリコバスター・ピロリ除去に別の品名の薬を出してみましょう。この薬も連続して7日間朝夕呑んでください」と云いピロリ菌がまだ残っているグラフを見せた。そこには前回は改善した数値であったが、今回の数値は前々回とほぼ同じ数値であった。前回も中々強い薬であったが、今回も同じような強い錠剤であるらしい。医師からは「薬を飲んでいる期間は酒を呑まないように」と告げられた。そして再度4月11日に来るようにと云われた。

 その後母の病棟に行って見た。すると妹が食事を与えていた。母は目を覚ましていて妹が差し出すスプーンに口を開け食べていた。これなら昼食を完食できそうな感じがした。私も風邪を移してはいけないと、早めに帰った。風邪の影響か体調はすぐれない。午前中は疲れたので家に帰って直ぐ寝た。何とか夕方までには風が直ってほしい。しかし咳は出るし熱も38度と上がってきた。身体の節々が痛くなってきた。この状態では母に風邪を移してしまうと考え、自動車の送り迎えはするからと云い、妻に母の夕食を食べさせてくれるよう頼んだ。

 


熱を出す

2014-03-27 12:02:02 | Weblog

 3月27日は午前中音楽サークルの講座があった。風邪で体調は良くなかったが前回と前々回休んでいるので出席した。何とか声を出したが、喉が痛く思いきった声は出せなかった。終わったあと寒気がした、風邪の症状が出ていると思い、そのまま家に帰った。熱を測ると37.5度あった。マスクをしていたので分らなかったが、内側は水鼻がいっぱい付いていた。昼食を食べてから直ぐ寝た。午後5時ごろ起きると咳も少なくなっていた。何とか動けそうであったが、このような状況で行くべきか考えたが代わる人がいないので、しっかり防備してから母の夕食の介助に出かけた。

 病室には母が一人で寝ていた。起こして薬や食事、お茶等を与えた。しかし食欲はなかった。最初の一口は何とか食べていたが、何口か食べるとその後は口から出してしまった。怒りたい気持ちを抑えて与えた。看護師が来て「食べないならそこでやめてください」と云った。食事は10%ほど食べたところであり、何とかもう少し食べさせたかったが止めた。その後お茶を与えた。とろみを付け、黒ミッを入れ飲みやすくして与える。これは時間が掛かったが何とか呑んだ。90CCほどは呑んだ。未だ点滴をしているので、この食事量でもよいのかもしれないが、家に帰ったら点滴はないし、とても必要な栄養は取れないと思った。

 母は食事中両目をつむって、口を動かしていた。瀬名の妹が昼食を与えているが。その様子がメモ帳に残っている。それによると今日も概ね完食していた。寝ることもなく口を開けて食事を催促したと書いてあった。それに比べ夕食事は食べなかった。看護師が云ったが「高齢になると、昼間起きて、夜寝るというサイクルが崩れ、長くなることがあるので、気にしないで食べるときに食べさせ、眠い時は与えなくていいです」と云った。

 食台を片付け、外に出ると雨が降っていて急に寒さを感じた。風邪をこじらしてはならないと思い、帰って直ぐ薬を呑んで布団を3枚掛けて寝た。喉が痛いのは朝から続いいて、風邪をこじらせないことを願った。熱を測ると37.8後になっていてまた咳が出始めた。

 


午後の行事から

2014-03-26 23:40:30 | Weblog

 今日は一日雨が降る天気となった。午前中は家でOB会の月例部会の資料作りに当てた。それは4月21日に行う鉄道OB会支部総会の準備のためのものが主であったが、思ったより時間がかかった。何とか午前中に済ませ、昼食後妻を済生会病院に送り、そのまま静岡駅近くで行う音楽サークルに参加した。会場の準備もあり早く行く予定でいたが、着いたのは午後1時55分頃であった。既に全員が集まっていた。この音楽サークルは一年ほどの中断があったが、今年1月から再開し今回で3回目である。まだ以前のようなエネルギーは感じないが落ち着きを取り戻し、次のステップに進んで行く予感がした。

 終わったあと、午後5時から始まる鉄道OB会の月例部会に支部事務所に行った。平成25年度最後の月例部会であり、支部3役は全員出席するものと思っていたが、副支部長の2名が欠席し7名が集まった。総会を控え役員が意思統一する月例部会であったのに残念である。別途彼等に伝えることにするが、組織を守ることの大変さを分ってほしい。今回決めるのは総会に添付する資料や平成26年度活動方針、次期役員の人選、規約の改正等のことであった。

 活動方針は既に前月の月例部会で示してあり異論はなかったが、次期役員の人選は難航した。結果として決めたが説得が大変であった。規約改正は、大きく改正する心算である。今まで幾つかの改正点が指摘されていたが、基本を直さず一部修正できた。今回担当する副支部長の意見を入れ抜本改正となった。その素案をもとに審議したが、これだけで30分以上費やした。また4月発行の「支部だより」ゲラ刷りを示し意見を求めた。これも幾つかの修正個所があったが纏まった。その他幾つかのことを話しがあり午後6時30分には終わった。まだ4月の総会を控え終わった訳ではないが最後の月例部会はいつもと違った感慨があった。

 母の病院に向かったのは6時30分を回っていた。夕食は6時ごろから始まるので遅くなったが、病室へ行くと看護師が母に食事を与えていた。「薬は飲みましたが、食事はまだ手を付けたばかりです。後はご家族にお願いしてもいいですか」と云った。私が代わって食事を与えようとしたが眠たそうなまなこをして食べようとしなかった。右手を首の後ろにつけ、顔を安定させ何とか食事を与えた。約一時間ほど掛かったが全体の半分ほどしか食べなかった。家に帰ったのは9時近くであった。

 


病室が変わる

2014-03-25 22:45:41 | Weblog

 母の病室が南病棟から北病棟に代わった。この連絡を受けたのは、昨日午後4時ごろ看護師からの電話で知った。妻が受けると「治療の主体が右足の腫瘍ですので、25日から外科の病棟に移ります。病棟は北館の4階の〇〇〇室です」このような電話であった。未だ点滴を受けているし、足の傷の状態も包帯をしているので分らない。以前は足の痛さがあったのか、時どき顔をしかめることがあったが、最近はそれがなくなっていた。良くなっているのかと思っている矢先このような電話であり、何故なのかと頭を廻らせた。

 毎日瀬名の妹が昼食時に母のところに行っているが、最近は、妻も在宅介護となったときのことを考え、介助方法等を教えてもらうため、病院に午後1時30分ごろ行くようになった。この時間帯は看護師が着替え等行うことになっているからである。昼食を食べてから妻を病院に送って行き、私はそのままS学苑で行うカルチャー講座に行った。終わって家に帰ったのは午後3時30分ごろであったが、まだ妻は戻っていなかった。家に入らず庭にいると妻は10分ほどして戻ってきた。母の介助をした後バスで帰って来たので疲れた様子であったが、北病棟に移って母の様子を話した。今度の部屋は個室で静かだったが、今までの4人部屋に慣れたえる母は寂しく感するのでないかと云った。

 夕食時は私が行った。母に来たことを話したが嬉しい表情はしなかった。と云うより目が見えないのかと思うほど無表情で時々唾を出していた。環境が変わったことは分るのか、不安そうな顔をしていた。熱は36.7度と平熱になっていたが、食欲は余りなかった。嚥ー3の食事は1時間ほどかけて50%ほど食べ、お茶も50ccほど呑んだがそれ以上は口から出してしまった。看護師が来たので足の傷の状態を聞くと「血液には菌がなくなりましたが、腫れはまだ引かないので点滴と塗り薬で様子を見ています。まだ分りません」と云った。

 食後母は直ぐ寝てしまった。南病棟にいた時は4人部屋であり、同じような症状の人がいて、中には大きな声を出す患者がいて大変だと思っていたが、そこには解放感もあり、外の景色も見えた。母は会話することは出来ないが、気持ちが落ち着いたときは言葉にならない独り言をいいリラックスしていることもあった。しかし個室に入ると周りからの遮断され、外の景色も見えない。慣れるまではまだ時間がかかりそうだ。


総会の会場下見する

2014-03-24 20:24:50 | Weblog

 今日退院予定であった母が、、右足の点滴箇所が腫れが引かず未だ入院治療を受けているし、点滴も外れていない。3日前看護師に退院の目途をを聞いたところ「まだ分らないが足のけががまだ酷いので近日中ではないと思う」と云った。そんなことから、今日は平成26年度鉄道OB会総会の会場の下見することにした。これは毎年総会のときアトラクションを行なうが、今回は日本舞踊のAさんにお願いしてあり、会場を下見してもらうことにした。事前にホテル担当者に連絡し、午後一時ホテルアソシア一階のロビーで会った。

 2月の月例部会で、総会時のアトラクションを話し合ったとき、鉄道OBの奥さんで日本舞踊を教えている人がいることを聞いた。その方はAさんと云い、地域でボランティア活動している方であった。面識はないが若い時国鉄に勤務していて同僚だった国鉄職員と結婚して家庭に入った。子育てが終わったあと趣味であった日本舞踊を習うようになったと聞いた。連絡を取ると直ぐ承諾してくれ、3月24日に会場を見ることになった。午後1時前であったがロビーに行くと和服の女性がソファーに座っていた。その方に話しかけるとAさんであった。年齢は分らないが私と同等か先輩のような感じであった。

 小柄な方であっが背筋がピンとしていて、言葉使いも柔らかであった。フロントで案内のBさんを呼んでもらい会場である4階のカトレアの間に向かった。この会場は昨年の総会の時も使った部屋であった。Aさんは舞台のこと、テーブルの配置等Bさんと話していたが「このような舞台で踊るのは嬉しい」と話していた。その後控室なども見て納得した。

 その後2階の接待室で3人でお茶を飲みながら話したが、Aさんは国鉄時代管理局の総務部にいた方で、OB会員をよく知っていて〇〇さんは元気ですかとか、昔の話をし懐かしんでいた。私は面識がなかったがその話から、私より少し先輩で、明るい方であり、男社会の国鉄にあってはきっと持てたのでないかと想像した。また案内してくれたBさんもJR東海からの出向者であった。最初見たときはプロパーの営業マンと思うほどホテルの接客仕草が身についていた。しかしここに来る前は、電車の運転士であり、運輸関係の仕事をしていたと云った。年齢は30代後半と云った感じであった。出向して一年経たないが完全にホテルマンとなり切っていた。終わったあと、妻を病院に迎えに行った。


つがいのウグイス

2014-03-23 16:46:03 | Weblog

 春分の日も過ぎると草花の息吹が感じられるようになった。あさ庭先でウグイスが、まだホーホケキョと鳴けない声がした。春先山の中でウグイスが鳴く声を聞くことはあるが、庭先で聞くのは稀である。我家の近くに高さ6m程の東名高速道路の築堤ある。この斜面に針葉樹の樹木が多くあり、人も近ずけない林になっている。多分その中にウグイスの巣があり、そのウグイスが我家の庭にも来ているものと思っていた。

 朝食を食べていると、東側に面した窓越しに鳥が来ていた。最初は何の鳥か分らなかったが、スズメと同じぐらいの大きさで、スマートに見えた。色は深緑に茶色が入ったような色をしていた。その鳥はヨウゼンカズラの幹が斜めになっているのをパイプ(φ16mm)を柱を立て、傾がないようにビニールテープで縛ってある。そのビニールは端が裂け糸状になっていたところに一匹の鳥が来てその裂けたビニールテープをくちばしでほぐし、何処かへ運んでいた。1分~2分するとまた飛んできて裂けたビニールをまた何処かに漏っていく。この光景は昨日もそうであったが、今日も来ていた。何という鳥なのか分らずにカーテン越しに見ていた。妻に聞いたが、その鳥が何の鳥なのかわからなかった。

 朝ラジオ体操を兼ねて犬の散歩するのが最近の常である。散歩の後、庭を箒で掃いた。このときウグイスがホーホーと近くのこずえで鳴いていたが、その場所は確認出来なかった。そのまま雑草取りなどして庭にいたが、ふと見上げると2匹の鳥が頭上の電線に停まっていた。それはビニールテープの端をちぎって持っていった鳥であった。警戒心が強く、直ぐ木の中に入っていった。暫くするとそのあたりからホーホーホーホケキョと鳴いた。そこでビニールテープの端をつまんでいた鳥がウグイスであることが分った。

 その後ヨウゼンカズラのところに行き見るとビニールテープはほぐされ細くなり、パイプは支柱としての役は立たなくなっていた。ウグイスは、ホーホケキョと鳴くのはオスがメスをひき寄せるときの鳴き方であり、縄張りに入ってくる別のオスには低い声でホーホケキョと鳴くと聞いた。いま聞いた声は高い綺麗な声であった。狭い庭ですが何処かにウグイスの巣があるのかもしれない。春告鳥のつがいがきて、雛を孵すことを思うと気持ちも明るくなった。


菩提寺で法話を聞く

2014-03-21 17:44:48 | Weblog

 菩提寺では、毎年春と秋の彼岸供養会を行う。何年前から行なうようになったのか思い出せないが、先代の住職が亡くなった以降、今の住職になってからではないかと思った。この供養は同じ宗派の近隣のお坊さんにも来てもらい供養会を行う。1ケ月ほど前に案内の手紙がきていたが、返信するのをうっかり忘れていた。一昨日お墓参りに行ったとき、住職に話すと「今からでもよいですよ」と受付けてくれた。午前10時に菩提寺に行くと200人ほどの檀家の人が見え、僧侶は7人ほどがいた。昨年の彼岸供養の時とほぼ同じぐらいの人であった。

 供養会のあと住職が話したが≪彼岸とは「かの岸」つまり向こう側の岸のことで極楽浄土の世界である。私共が生きる現世(此の岸)は迷い、苦しみ、欲望、怒りの世界です。私どもは先祖達はすべて極楽浄土の世界にいるものと想像するが、誰しも極楽浄土に行くことは出来ない。現世において「波羅密多」(菩薩の様な行いをする)ことが大切である。俗世においては大変であるが、人間すべて菩薩の化身であり、俗世にあっての菩薩の行いをしなさいと教えている。仏教の基本「般若波羅密多心経」はまさにこのことを教えた教本です。そして彼岸に行けず迷っている霊を彼岸に行けるよう供養するのもこの法要≫とも話した。

 50分ほどで彼岸法会は終わった。その後静岡用宗の高僧の法話があった。法話と云ってもあまり堅苦しい話しではなく「仏教用語の四有(衆生輪廻転生する過程のサイクル)や六曜(先勝、先負、大安等)、塔婆(空、風、火、水、地)のことを説明した。そして人間のサイクルは7の倍数で動いている。人間の成長もこれによる。そして地球規模でのサイクルは7×8=56年で変わる。言うなれば地球が56年の周期で変わると話した。その話によると2013年が周期の変更点で、56年前は第2次世界大戦が終結(1945年)から東京オリンピック(1964年)ごろまでの時代と同様な事象があるだろうと云った。この間朝鮮戦争もあったが、いざなぎ景気もあって繁栄した。このような時代が来るのでないか」と話した。仏教では輪廻転生すると云うが、世の中もサイクルで動く話であった。

 終わったあと、塔婆をお墓に納め帰った。今日は三島の弟も家族を連れ墓参りと母の見舞に来ることになっている。家に帰ると既に弟家族が来ていて、仏壇の前で「般若心経」を読経した。孫たちも正座して手を合わせていた。「般若心経」をいつか覚えたい。


介護施設でボランティア

2014-03-20 21:48:37 | Weblog

 一日中雨が降っていた。この時期の雨は春に近づくための雨だと思うと嫌な感じはしない。午前中は居間で午後に行く介護施設「でのボランティアの準備をしていた。準備と云っても選曲した曲にまつわることなど話すが、その復習していた。これは今まで何度もやってきたことで、そのことを思い出す程度のものである。一冊のファイルにとじた中から今回選曲した歌のことが纏めてあるところを読んでいたに過ぎない。他人が見たらのんびりしているように見えたのか、妻から用事を頼まれた。「食材を買いたいが、雨が降っているので自動車を出して」とのことであった。

 雨の日のマートは混み合っていたが、早めに買い物を済ませ正午前には帰って来た。そして午後1時には模造紙に書いた30曲ほどの歌詞を持って介護施設に向かった。一階の部屋は既に簡易の舞台と椅子が並べられていて、直ぐ施設利用者が介護師に付き添われて集まってきた。見慣れた人達であるので、自然と挨拶し合う気楽な空間が出来た。この施設は6階建ての特別養護老人ホームであり、利用者は各階に個室を持ち、各階毎の行き来は少ない。この歌のボランティアで集まり互いに話しができる。私もその中に入り利用者と雑談していると担当者から「皆さんが集まりましたので始めてください」と云った。時間は午後1時50分であった。

 40人以上の人が集まってくれた。その中に103歳のOさんがいないのが気になったが、そのまま始めた。何度もやっているのでトークも慣れてきてスムースに最初の歌「故郷」を合唱した。大部分の人は知っている方ばかりであるが、何人かは新しく入った人がいた。その中の一人の男性が、目を赤くして歌っていた。きっと故郷のことを思いだし涙したと思った。今日は春が近づくころに歌を中心に歌った。「春よ来い」「春の小川」「ひなまつり」「早春賦」「若葉」等であった。そして「赤い靴」「青い目をした人形」「叱られて」なども歌った。午後3時までであったので70分ほどで15~6曲歌った。

 終わったあと最前列に座っている93歳のNさんが握手を求めて来た。その後前列の6人に私から握手をした。その中に車いすに座り、顔を膝に付けて聞いたくれるAさんがいた。彼女はパーキンソン病なのか話すことも出来ない人だと思っていたが、その手に握手した。その時は黙ったままであったが、後で横に座っていたBさんが「Aさんは喜んでいたよ」と話してくれた。ここに来るとこうしたコミュニケーションが取れることがいい。


退院後の打合せ

2014-03-19 23:08:53 | Weblog

 未だに右足の包帯も痛々しく、微熱も続いているが母の退院予定日は3月24日になっている。私は無理ではないかと思っているが、退院後の打合せを病院で行うことになった。退院後在宅で介護するとなると、いろいろ打ち合わせることが多い。今回で3回目であるが、前回(3月17日)のとき、次は我家で行うとしていたが、昨日ケアーマネージャーから連絡があり、都合で病院で行うことになったと聞いた。

 今日は春の彼岸日である。お墓の掃除もしなければならないと思い、午前中は菩提寺のお墓に行った。この時期はどのお墓も清掃し生花と線香の香りが漂っていた。先日川崎に妹が来て墓参りをしたので生花はまだ良い状態であったので、その中の数本を残し新しいものに替えた。春分の日には、親戚に人が来るので、これな安心だ。家で昼食を食べたあと病院に出かけた。先ず母のところに行ったが寝ていた。起こさないで、瀬名の妹が昼食時の様子をメモに残してあったので見た。そこには「熱は37.0度で食事は概ね全て食べた。お茶も150ccほど呑んだ。今日は良かった」と記してあった。

 午後2時から母の病棟の面会所で関係者7人で打ち合わせた。その席で病院側から退院予定の3月24日はまだ治療が続いていて入院がもう少し後になることを聞いた。その日は未定でも、準備を進めることにした。入院する前の介護はそれほど大変だとは思わなかったが、これからの介護は寝たきりで、かつ半身不随である。家族の介護では不安もあり出来だけ介護サービスをお願いすることにした。打合せには、病院の看護師、ケアーマネージャー、訪問看護、訪問介護、訪問入浴、備品担当の人に入って貰った。いろいろの意見も聞いて一週間の介護スケジュールは出来た。あとは主治医の往診をお願いするが、それは私が直接医師にお願いすることで打合せは終わった。ただ退院日は病院側から別途知らせることになった。

 あとは各々と契約し在宅介護サービスを受けることになるが、母の様子が心配である。夕食時また母のところに行った。目を覚ましていたが、熱があるのかほほが少し赤くなっていて元気はなかった。最初に薬にとろみと黒蜜を入れスプーンで呑ませようとしたが出してしまった。その後は何とか呑んだが、食事はとろみや、黒みつ、ミルクを入れたが一口か二口呑んだ後は口を開かなかった。それでも妻が作ったコーヒーを与えるとこれは60ccほど呑んだ。熱を測ると37.6度あった。昼は良かったのに夕方はまた熱が出て元気がなくなる。右足の傷の状態も分らないし、これではいつになったら良くなるか心配になった。