Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

熱海での「きょうだい会」(2)

2012-02-29 22:23:06 | Weblog

 昨夜は12時前に寝た。部屋はカーテンを閉め暗かったので、起きると7時30分を回っていた。末弟を真ん中にして寝たが、彼は、はぐっしゃり寝汗を掻いていた。カーテンを開けると外は雪が降っていた。それは大粒の雪であった。チェーンは持っていないし困ったが、熱海で雪が積もることはまずなかったので、自分なりに昼ごろには溶けるものと思った。

 8時ごろには朝食を食べた。妹がフロントに行き、チェックアウト時間を11時から12時にして貰った。この雪では車を動かすことは無理だからである。昼食もここで食べ、午後1時以降に宿を出ることにした。それまでゆっくりと部屋で休んだ。昼食を食べるころになると雪は止んで、真っ白な雪景色はだんだん少なくなっていた。私は午後6時に静岡で人と会うことになっていたが、午後1時に出れば十分間に合う時間であった。しかし熱函道路が閉鎖されていることは考えていなかった。私の車と三島の弟の車に分散して宿を出て、最初に熱海駅で川崎の妹を降ろした。そこから熱海梅園のところまで来ると、道路が渋滞していた。そして熱函道路に入るところにバリケートがしてあり、交通整理員が手を振り、右の回るよう指示していた。そこで聞くと、熱函道路は、雪のため交通止めになっていた。

 道路交通の情報がないため、再度宿に戻ることにした。フロントで警察に聞いてもらうと熱海から西に向かう道路はすべて交通止めとなっていて、開通の見通しは立たないとのことであった。カーラジオからの情報も警察のものと同じで、見通しは分らなかった。そこで道路管理者の熱海土木事務所に電話した。「ただいま除雪車が出て除雪を行っているが、現時点では開通時期は分らない」と言った。しかしねばり強く話していると「一時間後に再度電話をかけてください。その時点で状況が変わっていたら教えます」とのことであった。一時間後電話をすると「熱函道路は未だ閉鎖されたままだが、伊東から亀石峠を通っての道路は、今日中に開通見込み」との情報を得た。日が暮れてからの開通は考えにくいので、明るいうちに解除されるのでないかと思った。弟と話して、伊東まで行くことにした。

 熱海から伊東は渋滞の連続であった。丁度午後4時30分ごろ,亀石峠に入る道路を左折すると、やはり交通止めになっていた。そこの車を店屋の駐車場に入れ、交通整理員に聞くと「4時30分でチェン規制となりました。よってチェーンを巻いてある車はOKです」とのことであった。暗くなると道路は凍結する恐れがあることから、思い切って走ることにした。前に走った轍から、はみ出さないようにし、速度を落として走った。緊張した運転であったが、無事越えることが出来た。その途中には何台かの車が動けなくなっていた。やっとのことで静岡に家に着いたのは夜の8時少し前であった。


熱海での「きょうだい会」(1)

2012-02-28 22:16:17 | Weblog

 熱海で、母を囲んでの「きょうだい会」を行うことを決めたのは2月上旬であった。しかしその頃母は風邪を引き、2月9日には救急で済生会病院に入るほど悪化したが、点滴等して、何とか持ち直した。そんなことで旅行は中止することを意識したが、その後少しづつ快方に向かったことから今日行うことにした。この「きょうだい会」は、高齢の母と子供たちが1泊2日で近場の温泉で過ごし、母との思い出をつくることを目的としたもので、7年ほど前から実施してきた。しかし最近は末弟の病気(歩行が困難になる)を併発していることから、皆で末弟を励ますことも合わせて行ってきた。

 きょうだい達も60代から70代となり、年齢的の健康を維持することが大変な年代となったが、未だ一人も欠けることなくに、生きていることは、有り難いこと思っている。母ときょうだいで6人であるが、川崎から静岡間に各々が所帯を持ち住んでいる。互いに連絡を取り、28日正午ごろに、川崎から列車で来る妹を熱海駅で迎えて、昼食を食べることになった。私は午前10時30分に母と自動車で家を出発した。途中瀬名の妹を乗せ清水から東名高速道路を通り、熱函道路から熱海に入った。三島の弟には函南の末弟を連れて来てもらい、熱海駅に着いたが、駅前が混雑していて、川崎から来た妹に会うまで苦労した。これで6人が揃って昼食場所を探した。この地区の地理に詳しい三島の弟がすし屋に案内してくれた。そこへ行くまで道路が渋滞して難儀したが、腹が空いていたのか、ここの寿司は美味く感じた。

 そこから今夜泊まる「KAの湯」は、海が見渡せる高台にあり、見晴らしの良いホテルであった。今までは母のみが車いすで、室内に入ったが、今回は末弟も車いすに乗らなければならないほど病気は進んでいた。一番若い末弟が、この様になったことは耐えがたいが、ほかのきょうだい達が、皆で守ろうとする行為はありがたいと思った。母は妹達が、末弟は弟と私が身の回りの世話をした。夕食後は、今までトランプを行うのが常であったが、今回は末弟のことを思い、やらなかった。寝る前と夜明け前にトイレに連れて行った。あまり言葉を言わなくなったが、末弟は喜んでいるものと思う。

 こうしたとき、母が認知症になったことをありがたいと感じた。もし母がしっかりしていたら、末弟のことを考え思い悩んでしまった事だろう。今でも末弟と一緒にいると、母は急にしっかりして、末弟を注意することがあったが、少し話題が違ったりすると、そのことを忘れ明るい感じになり、良く笑った。そして「あなた達は私が産んだ子供で、みんないい子だ」というが、子供達の名前は出てこない。きょうだい達も各々が家庭を持ち、人には言えない悩みがあると思うが、そうしたことを敏感に感ずる母でないことを良いことだと思った。


墓参り

2012-02-27 16:28:47 | Weblog

 母の呼ぶ声で起きたのは6時前であった。直ぐトイレに連れて行き、その後風呂に入らせた。着替や朝食を食べさせ、終わるとデ-サービスの自動車が来た。朝の時間は経つのが早く、もう9時ごろであった。 先日妹が来て、生花と香花を持ってきてくれた。最近は一週間に一度程のペースで墓参りをしているが、父が死んだ16年前には、毎日のように行っていた。しかし私自身それをこなすことが大変になった。そこで前記の通り、生花が枯れない程度の間隔で行こうと思っている。

 バケツに入っている生花と香花を、2つに束ねて、午前10時ごろ犬を連れて出かけた。少し寒さは感じたが、風もない。早足で歩くと、かすかに汗ばむような状態であった。菩提寺のTA寺まで1.8km、往復3.6kmほどの距離であるが、一日5km歩くことを目標にしているため、登呂遺跡を一周(2km)してから向かった。月曜日ということもあって、人はあまりいなかったが、犬の散歩をしている人が数人かいる他は、弥生時代の胴着を着て観光客に火起こし等実演している人がいるだけであった。それでも遺跡整備は今年度が最後であり、田んぼの畔等の整備なのか、ユンボ等機械が数台入っていた。まだ整備が終わったわけではないが、後一ヶ月でどれだけ変わるかは想像できる。木が伐られ見透視が良くなったが、私は以前の杜が茂る登呂遺跡の方が良いように思う。

 そこを南下していくと、菩提寺まで15分ほどで着いた。一週間ぶりであり、生花は悪くなったと思っていたが、24日に強い雨が降ったことから、花立や水鉢にはまだ水が残っていて、生花等は葉は萎んでいたが、まだ替えるには勿体ない感じであった。その中の良いものを数本残して、新しい生花と香花に加えて、花立てにたてた。お墓全体を清掃し、線香を焚いたが、この時期生花等の持ちが良く、どのお墓にも生花が活けられ、きれいになっていた。この墓地には60代のご夫婦と思われる墓守さんがいて、朝の早い時間に清掃してくれる。生花の悪いもの等は、取り去っていってくれる。多分今朝は来てくれたのかもしれない。

 午前11時ごろは、墓参りをする人もいなく、居るのは私だけのような気がした。その後菩提寺の正面に出て、本堂の前えて手を合わせた。何時もは墓参りをした後は、そのまま北方向に歩いて帰るところであるが、和尚から以前言われた「墓参りの時は、本堂正面で手を合わせてから、行ってください」と言われたことを思い出し前記のようなことをした。こうした行為は人がいたり、忙しい時はしないが、今日はついその気になった。本堂前は植木も整備され、芝も茶色であるが綺麗に刈り込まれ落ち着いた空間が広がっていた。そこから早足で家に着いたのは11時30分を回っていた。


母のきょうだい会

2012-02-25 21:48:07 | Weblog

 母は7人きょうだい(男2人女5人)の長女である。長男は11歳の時早世しているので、6番目に生まれたmaさんが当主として、母の実家を継いでいる。この7人きょうだいも次女(KIさん)は3年前に亡くなったし、昨年10月には7番目の5女(YOさん)も亡くなった。YOさんは私より4歳上の叔母さんに当たるので、姉のように私をかわいがってくれた。その死も、直前まで元気で、母のところにも良く来て、母を元気付けていた。しかし病院でカテーテルを入れているとき亡くなった。医師のミスではないかと思えるような死に方であった。その主人のKUさんは、一人になり寂しそうであることから、きょうだいみんなで慰労してやろうと、3女のHIさんが音頭を取り、宮竹の家に集まることになった。

 この話は昨日HIさんから電話があり「2月25日午後3時ごろ、きょうだいが宮竹の家に集まるので、母を連れて来て」と頼まれた。私は「あす午後は用があるが、午後5時ごろには行きますから」と応えた。母は長女であるが、高齢ゆえ歩くこともできないし、認知症も進んでいるので、私が連れて行くことにした。用と言うのは、第3土曜日の午後は、S学苑の「名曲をうたう」の講座があり、どうしても行かなければならない。それ故終わってから行くことにした。

 講座が終わり、午後4時40分ごろに家に着いた。そのまま母を自動車に乗せ、HIさんの家に向かった。家の門を入ると自動車が3台ほど停まっていて、既に宴席が始まっていて話し声が聞こえた。そこに母を連れて行くと皆は「良く来てくれた」と喜んで母に話しかけてくれた。母も喜んんでいたが、きょうだい達の名前が出てこないで、会話にはならない話しをして懐かしさを表現しようとしていた。以前は母の音頭で、きょうだいが集まるようにしていたが、そうしたことはできなくなった。認知症が進んでいることを改めて思った。

 この席にはHIさんとその旦那さんと子供3人、4女MIさんと子供1人、次男MAさんと亡くなったYOさんの旦那さんと子供1人と私達2人の12人が集まった。奥さんを亡くしたKUさんも、以前のような饒舌ではないが、娘さんも来ていて落ち着いた感じにとれた。会話は子供のころのことや、これからの生き方、子供や、孫たちのことで、いつ尽きることなく続いた。食卓には多くの食べ物があった。母はそれを黙々と食べていた。HIさんが「後、うな丼を取ってあるから、あまり食べないように」と言ったがそれでも食べていた。最後にうな丼が出た。母はそれを半分ほど食べたが、それ以上は食べれなかった。夜の9時ごろ解散となったが、今日はきょうだいとその子供たちが集まって賑やかな会となった。


確定申告

2012-02-24 23:17:35 | Weblog

 年金生活者がどうして確定申告をしなければならないのかと思うことがありますが、会社を退職してからは毎年行っている。最初のころは、説明会場に行って税務署員に聞きながら3日ぐらいかけて申告書を書いていたが、3年ほど前からはe-TAXを使ってパソコンで行うようになった。便利であるが、一年に一回だけであり、パソコンの画面が出し、申告書作成するまで、まだ時間がかかる。しかしそれでも手書きの時に比べ大幅に短縮することが出来た。昨年も同じ2月下旬であったが、この時期になると重い腰を上げ、またやらなければならないとの思いになる。

 今日は平成23年度の確定申告をeーTAXを行うことにした。しかし昨年やったことは概ね忘れている。パソコンの前に座る前に、昨年やった資料を見てみた。そこには私が手書きした枠の中に住基カードのパスワード(暗証番号)、住基カードの電子番号(e-TAX用)パスワード、利用者認識番号、暗証番号が一表に纏めていて、「これは忘れないよう覚えること」と書いてあった。備考欄には「e-TAXは申請書に入力してから、住基カードをパソコンに繋げる」とメモしてあった。今思うと昨年は、このパスワードが思い出すことに苦労したことがうかがえた。

 パソコンを開いて、先ず国税庁ホームページを出した。そこから「確定申告書等作成コーナー」まで行き着くまで試行錯誤であった。やっと平成23年分の所得税の申告内容確認票にたどり説いた。そこからは昨年やったと同様のやり方で票を埋めていった。しかしまだ保険等の控除等の通知が来ていないものがあったので、今日中に完了することはできなかった。今日は、まず一年前に出した申告内容確認票が出すことが目的であったので、取りあえずここまでにし保存してパソコンを閉じた。そしてまだ通知が来ていない、地震保険料控除とか、ユニセフ、中央募金会等への募金の明細を送ってもらうよう電話を入れた。この様なことをしても、納税額はあまり変わらない。

 今年は東日本大地震等で手続きが遅れているのか、控除の通知が遅いようだ。この分では通知が来るのは来週であり、それから入力しようと思う。ここまで来ると後は入力するだけであり気が楽になった。私の様に年金生活者は入力は簡単であるが、会社経営者や自営業者は、概ね税理士等に頼んでいるとのことであるが、その資料の整理等で、この時期はこのことに集中させ大変の様だ。


難航したOB月例部会

2012-02-22 21:43:04 | Weblog

 鉄道OB会〇〇支部の月例部会が午後5時から事務所で行われ役員7名が集まった。2月の月例部会は、次年度の役員を決めることが主目的となった。この月例部会を前にして、5~6名の支部長候補者に会った。しかし脈のあるような話は聞けなかった。その中でも副支部長のSU氏、事務局長のNA氏は了解を得られていないが、候補として絞った人間である。しかし彼らは、その任に着くことに頭を立てに振らなかった。

 今日の月例部会で役員改正の話をどのように持っていくか考えた。SU氏は、今までの言動を見て、まず受ける要素は薄い。それは行動が直線的で、柔軟性にやや欠けるところがある。しかし年齢的には私より1期後輩であり、外見的には妥当と思える人材である。NA氏は、支部活動を長く携わり、年齢的には私より6歳下であるがOB会運営は熟知していて、実務的には最適であると思った。しかし年齢が若いがため、次々期支部長候補の人選が制約されることから、月例部会ではまずSU氏に話し、その後NA氏に話しを持っていくことにして、会議に入った。

 月例部会での一連の話をした後、次期支部役員の話しをした。私は母の介護、妻の病気等から今回で支部長を降りたいこと。次期支部長としてSU氏を推薦することを話した。しかし彼は自分のやりたいことを理由にして、受けないことを言明した。彼とは事前に3回ほど話したが、かたくなに拒んでりたので、今回の話を聞いてダメだと思った。そして彼は「OO副支部長ではどうか」と振った。OO氏は私より4歳ほど年齢が高く今までの言動からやる意思がないことは分っていたが、その答えは理解するにほど遠い話しであった。それを確認することもやめた。そこでNA氏に話を持っていった。彼も「自分にはなる資格がない。それに遠隔地に住んでいるので、物理的に駄目だ」と言って、受ける素振りは見せなかった。彼には4回ほど事前に話したがその域を出なかった。

 時間にして1時間ほど議論したが、平行線であった。しかしこの役員の中から次期支部長を出す以外ないことは明白である。議論の中で私に「もう一期やってくれないか」との話があった。家庭をこれ以上犠牲に出来ないことを伝えたが理解する人はいないようだ。近日中に再度役員が集まり話しをしようと思うが、積極的に自分がやろうと言う人間はいない。これではOB活動は停滞するのは目に見えている。役員の誰かが「そんなに一生懸命にやることはない」との意見があったが、これが彼らの本音なのか。


犬の散歩で

2012-02-21 17:13:51 | Weblog

 今朝7時に起きたが目覚めは良かった。昨夜は0時ごろ母をトイレに連れて行った。その後は母のベットから出ないようにして寝た。そのようにしても、何時もはトイレに行きたいときは私を起こす。しかし昨夜はそのような事がなかった。最近は風邪も治ってきたのか、機嫌のよい時が多くなった。しかし足は長い間寝ていたので弱くなったと感ずる。一時は脱水症状を起こし、このまま弱くなってしまうのかと思った時があったが、何とか持ち直してきたようだ。

 今日は母のデーサービスの日だ。9時ごろ朝食を食べていると、電話が鳴り、5分ぐらいで迎えの自動車が来た。母を連れて行くとホッとした気持ちになる。9時30分ごろ、また電話が鳴った。出ると「〇〇不動産(株)のMOですが、先日依頼があった原稿が出来ましたのでどのようにしたらいいか」とのことであった。私から「直ぐ取りに行きます」というと、「今なら支社長もいますので来てください」と言った。犬(モモ)の散歩を兼ね、自転車で出かけた。〇〇(株)は1kmほどのところにある。モモの散歩の距離にしては少なすぎるので、別に原稿を電話で依頼したMIさんのところに依頼文を持って行くことにした。

 会社の方向はいつもの散歩コースと違うので、モモは怪訝な表情をして自転車に付いて走ってきた。会社一階の駐車場の脇の手摺に犬のリードを繋いで、3階の事務室に行った。直ぐ応接間に通され、支社長とMOさんから、「800字より少し長くなりましたが」と言って原稿を見せられた。「それは写真で調整しますから」と言ってサーッと読んで見た。平易の文章で分りやすかったので「ありがとうございました」と言って受け取った。それに支社長のOB会入会も頼んであったので、そのことを言うと、「それを貰うのが目的だあったのですね」と言って笑った。受け取って会社を出たとき、清々しい気持であった。

 一階の入口からモモの様子を影から見ると、まだ来ないかと言った顔をしてこちらを見ていた。私が分ると尻尾を振って喜んだ。次はそこから500m程離れたMIさんのところに行った。彼はこの地区の町内会長をしていて忙しい人であるが丁度いた。依頼文を渡すと「丁寧なことをしてありがとうございます。期日には間に合わせます」と言った。ここまで来ると、寄りたいところがあった。それは母のYO病院である、以前は皮膚が痒くなり、定期的に通っていたところであるが、最近は痒いと言わなくなった。しかし背中や、脇の下に赤い斑点が出来ていた。その薬を貰いたかったからである。MIさんのところから700mほどの距離にあった。受付けで「後で診察券を持ってくるが薬を貰えますか」と言うと承諾してくれた。薬をもらい帰ったが、これだけの距離(約4km)を走るとモモも満足した様子に見えた。


静岡での「うたごえ喫茶」

2012-02-20 20:30:26 | Weblog

 静岡センチュリーホテル4階で午後2時より第2回目の「うたごえ喫茶」は開かれた。昨年10月に開かれた第一回目の時は参加するつもりであったが、何かに理由で行けなかった。その状況を聞いたのは、以前「名曲をうたう」で一緒にいた2人から、「一回目のうたごえ喫茶に行ったがよかったので、次回は、行きませんか」と誘われた。その時「一緒に行きましょう」と話した。しかしその後連絡もないし、案内も来なかった。先日センチュリーホテルに行った折り、フロントで聞くと、4階に案内された。そこで直ぐ申込んだ。

 その後2人に電話すると「すみませんが、今回は都合が悪く行けなくなった。」との返事であった。今日は指定席になっていたので午後2時ギリギリに会場に入った。席は円形テーブルになっていて、全体で12~13ほどのテーブルには満席状態であった。一テーブルが10名であるので130名ほどの人が入っていた。その内男性は30名ほどであった。私の横にも男性がいたが、年齢は同じぐらいの人であった。その方は良く歌詞を知っていて、歌集を見ずに歌っていた。話すと市外から来ていて、各地区で行う「うたごえ喫茶」に出入りしているようであった。ソングリーダーとも親しく話していた。

 この企画は新宿のうたごえ店「ともしび」が行っているもので、全員に歌詞が配られ、ソングリーダーとピアノ奏者が舞台でリードし、それをみんなで合唱する。2時間を前半、後半に分け、中間に休憩15分ほど挟んで20曲近い歌を歌い続けた。2冊の歌集には600曲ほどが載っていたが、リクエストした20曲ほどは概略歌えるものばかりであった。数曲歌ったところで、ソングリーダーから「シュワジヴェチカ(娘さん)を歌いますが、男性の方舞台に上がって歌いませんか」と声をかけた。となりの男性に「上がるましょう」と言われ舞台に立った。総勢6人の男性が舞台で出てきて、リードして歌った。

 私も最初は遠慮して歌っていたが、誰も知らないし、”恥はかき捨て”と思い大きな声を出した。その声がソングリーダーにわかったのか、『「オー・ソーレ・ミオ」を、一番は日本語で、二番はイタリア語で歌いましょう』と歌いだした。この時は更に大きな声を出して歌った。高音は裏声になったが歌った。周りの人とはあまり話すこともなかったが、皆さん最後まで大きな声で歌っていた。まだ私が20代のころは「うたごえ喫茶」が盛んで、新宿の「ともしび」とか「カチューシャ」等の音楽喫茶に行って歌ったが、その時のことを思い出した。帰りに隣の男性が「次は6月ですね。その時も一緒に歌いましょう」と声をかけてくれた。40数年ぶりの「うたごえ喫茶」は新鮮であった。 


「OB会」の次年度体制を話す

2012-02-19 16:50:13 | Weblog

 朝9時過ぎHA町内会長に電話して、午後4時頃に会う約束をした。これは鉄道OB会のことで相談に乗ってもらうためである。彼は鉄道OB会の先輩であり、今までも困った時には知恵を拝借させてもらった。「T・B・G大会」が終わってから、HAさんを乗せてAPITA一階の喫茶店で会った。鉄道OB会のこととは、次年度の体制についてである。私は今年度末で支部長を降りるつもりでいる。高齢の母の介護が予想以上に大きくなり、その上妻が介護等で病気になったことからで、私自身今まで以上に家事に協力しなければならない。

 このため昨年11月ごろから、次年度の支部長候補者に打診してきた。一番適任と思っていた副支部長のSUさんに支部長を受けてくれるよう打診した。しかし彼は、何度説得しても受けるとは言わなかった。2年前、彼に副支部長を頼んだとき、引き受けてくれたが「副支部長はやるが、支部長はやらないから」と言って次期支部長になることを拒んだ。それで副支部長の就任であった。そのことは頭にあったが、一番の適任者であることには間違いない。

 そこで12月以降、他の何人かに当った。しかし何らかの理由をつけて、受けることはなかった。そこで再度SUさんを説得することにした。その仲介者としてHAさんにも入って貰うことにした。この3人(HA,SU、私)は国鉄時代鉄道教習所で学んだ先輩後輩であり、HAさんを呼んだ。それとHAさんは今年で町内会長を降りることになっている。家庭的にも余裕が出来たことから、状況によってHAさんが支部長になって貰うことも考えていた。

 しかしHAさんは「今になって支部長を受けるつもりはない」との強い意見であった。そこで、SUさんの説得に動くことを頼んだ。直ぐ電話して、SUさんにも来てもらい3人で話した。話しは回りまわって、SUさんが最適任者であり次期支部長をやるよう2人が話した。しかし彼は受けるとは言はなかった。そして今まで候補に挙がっていなかった、OOさんとか、SIさんの話を出して説得してみると言う。これは自分が受けないことへの意思表示であると思うが、この話は、SUさんが話すことにした。しかしとても無理と思える話である。4時間近く話したが、結論は出なかった。行程的に2月22日の定例部会で結論を得たいことから、その席で現状を話し、適任者を指名し、支部役員の了解を取ることにした。既に夜の8時30分を過ぎていたが気が付かなかった。既に外は闇夜になっていた。      2月18日のことを記す。


2月の「T・B・G」大会

2012-02-18 23:18:48 | Weblog

 「T・B・G」とは、ターゲット・バード・ゴルフのことで、羽子板の羽のような羽が付いたボール(直径4cm程)をゴルフクラブで打ち、傘を反対にしたようなホールに入れるもので、如何にして少ない打数で入れるか競う。一般のゴルフと似たようなスポーツであるが、フィールドも小さく、長い距離を移動することもなく、高齢者にも向いたスポーツと言える。最近競技人口も増えていて、私が入っている「駿河T・B・G」のメンバーは14名になり、月ー回有度山スポーツセンターのコースで大会を行うことにしている。

 この幹事役は四半期ごとに変わり、1月からは私を含む3人が、幹事になった。この幹事は景品等の準備や、メンバーの把握、当日の集金等行う。昨日は景品等の準備をし、今日は皆より早くスポーツセンターに集まることにした。正午過ぎ3人が自動車に相乗りしてT・B・Gコースに向かった。幹事としての準備もあるが、一ヶ月ぶりの練習も兼ねていた。私は前回優勝しているので、今回はハンデ2であり、このメンバーでは一番少ないハンデになった。しかしこの1か月間は何の練習していないので、前回のスコアーがフロックと言われないようやろうと思っている。

 今日のメンバーは2人が休んで12名であった。しかしこのメンバーは一ヶ月に数回練習している人ばかりであり、技術的実力は私よりズート優れている人が多い。午後1時にメンバーは4組に分かれスタートした。私はENOさん、KAさんの三人で回った。ENOさんは喜寿を過ぎた年配者であるが、小技のうまい人で、何度か優勝した人である。またKAさんはこのメンバーでは断トツの成績を上げた人で、誰もが認めた実力者である。前回は何をやっても上手くいった私であったが、今回は出だしが悪く、3ホール終わった段階で、KAさんに5打差引き離されていた。風も強くOBも出たし、我慢のゴルフであった。しかし前半の9ホールは33のスコアーであった。前回のスコアーには適わなかったが、まあまあの出来であった。因みにKAさんは30、ENO さんは36であった。後半に入っても、良くわならなかったがスコアーは同じ33で上がった。トータルで私が66、KAさんが64、ENOさんが75であった。私にしては、概ねうまくいったと言える。しかし前回に比べOBが多く出たのは、いただけなかった。順位はハンデを入れて7位であった。

 皆さんはこの一か月間に相当上達していた。断トツの強さと思っていたKAさんでも、4位であった。今回の優勝はトータル53の、2アンダーの人であった。その彼は前回65であったので12スコアーを伸ばしたことになる。このT・B・Gは、練習も然ることながら、その日のツキが大きく左右するスポーツであると思った。