よしなしそこはか

心に映り行く由なし事をそこはかとなく書き作れば
高血圧、上腸間膜動脈解離との付き合い方を記します。釣り情報もね!

上腸管膜動脈解離 ~集中治療室にて~

2016-12-23 17:59:50 | 健康
入院時は腹部みぞおちの激痛ですでに食欲はなくなっていたので、絶飲食による空腹は苦痛ではありませんでしたが、血圧降圧剤の副作用からか微熱と頭痛が最初に襲ってきました。

気分転換に寝返りを打ちたいところですが、動くと看護師さんに制止されてしまいます。
アイスノンで後頭部を冷やすと幾分か頭痛が軽減することが分かって、定期的に冷たいものに交換してもらいました。

入院した3月31日は、岡山県の大学に入学した次女の生活準備のため、家内は新幹線で帰途につき移動中でした。
動脈解離の診断からICUに入るまでの寸暇に携帯電話で連絡を取った際も駅構内もしくは車両の中だったと思います。
兵庫県に住む両親への連絡も新幹線の中から取ってくれたらしく、老齢の両親には状況を理解することが難しかったようです。

そして家内は東京駅から病院に直行で来てくれました。

夕方に妻が到着したときは点滴三種類、バイタル測定センサ二種類をつながれて既に身動きの取れない状態で、待ち構えていた主治医が病状と治療方針、入院予定を説明してくれました。

幸い酸素吸入などで口は塞がれていなかったので、シフト勤務で次々と交代する看護師さんとの会話が唯一の楽しみでした。。
三日目からはFM放送を差し支えない音量で流しっぱなしにしてくれたおかげで、世の中の状況から遮断されることはありませんでした。
四日目からは特別な計らいで、循環器内科の病棟からカード式テレビを借用していただき放送を楽しむことはできました、二時間以上連続して視聴すると疲労がたまって不快を覚えました。
テレビを見るなんて体力を使っている意識はありませんが、このような状況では体力を奪われたのでしょう。

七日目、上腸間膜動脈の解離箇所の変化を確認するため、造影CT検査を受けました。
血流を悪くしていた偽腔は若干ながら小さくなり、悪化傾向はなく一般病棟への移動が許可されました。


主治医から受けていた当初の説明では、

・この病気は発症部位が珍しく、年間症例二例程度しかない。
・間接原因として高血圧症が考えられるが直接原因は分かっていない。
・解離部位が元通りに修復されることは期待できない。
・悪化傾向がみられた場合は血管外科にて切開手術が必要となる。(当病院では施術不可のため転院となる。)

ということであったので、偽腔が減少していたことは非常に嬉しかったです。
一般病棟への移動に際して、看護師さんの補助をいただきながら立ち上がる練習を行いました。が、
頭で考えている動作の記憶と、一週間寝たきりだった身体の鈍重さには大きなギャップがあって、筋力は想像以上に減退していて膝と大腿部に力が入らないのです。

数回繰り返すと血液を足全体に奪われたのか強烈なめまいが襲ってきました。
それでも回復に向かって前進していることがこの上なく達成感がありました。
不謹慎でしょうが、ICUでの完全看護は居心地が良かったことを付け加えておきます。。。



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上腸間膜動脈解離 ~原因の考察~

2016-12-23 17:47:44 | 健康
私のケースでは上腸間膜動脈解離の発病時は49歳。

祖父の代から高血圧の体質を遺伝的に受け継いでおり、15年前に初めて降圧剤の処方を受けて以降、血圧管理が必要な状況でした。

収縮期血圧(上)よりも拡張期血圧(下)の数値が高いまま推移する傾向がありました。
また心因性の血圧上昇が起こると拡張期血圧が高いまま続くこともわかっていました。

15年前はデータセンター会社で運用業務の責任者を行っており、不規則な睡眠や障害発生などに起因した過度な緊張状態が継続する仕事内容であり、睡眠障害による体の不調を感じ始めた時期でした。
ある年末年始休暇中、勤務先データセンターにホスティングされていた政府系Webサイトに対して、中国国内のIPから断続的にDDoS攻撃を受けるトラブルがありました。
送信元アドレスは時間を追うごとに増加してゆき止まるところを知らず、Webサイト側のアドレスを移行してもすぐに判明して攻撃対象となる状況となっていました。
この時も一週間ほど監視ルームに泊まり込み十分な睡眠時間を取ることができないまま、攻撃の傾向性を解析しながら最終的には当該サイト向け中国発信のサブネットを全断させる制御を行う英断を行ったりしました。
またある時は有名Eコマースサイトの運営サーバで大規模障害が発生し、代替サイトの準備と切り替え、サーバベンダからの保守サポートへの立ち合い、運営会社の経営者を交えた定期進捗報告会議のファシリテートなど、この時も一週間以上特別態勢で対応にあたり体力・気力の限りを消耗する状況でした。

次第に勤務中も睡魔が襲って業務を続けることができなくなり、朝の出勤時も寝過ごしてしまうことが多々あり、睡眠障害であることに気づきました。
当初は旧友の内科・泌尿器科の友人医師に相談し、漢方の「柴胡加竜骨牡蛎湯」を処方してもらい服用しておりましたが、根本的な環境改善と自身のキャリア設計のため、外資系IT機器ベンダへの転職を決意しました。


新展地では営業支援職として大口の再販業者に対して、アカウントサービスという位置づけで技術情報の提供や品質保証業務の支援を行いました。
また前職では130名を超える社員・業務委託・派遣社員に対するピープルマネージメントを行っておりましたが、心労の原因の一つであったこともあり、転職時はIndividual Contributor(部下なし)として貢献することを前提に入社しました。

営業支援職とはアカウントサービス以外にも支援の名のもとに何でも担当する「よろずや」に他ならず、時には根本原因調査のトレースや報告書の作成、全国各地に品質問題に対する謝罪訪問、大規模製品リコールの交換プログラムのリード、等 対象の顧客も前提である大口顧客を超えて、社内横断的に立ち振る舞う機能を求められる変動要素の多い仕事でした。

この時も睡眠障害やイライラが止まらなくなる症状が発生し、対症療法を求めて心療内科を受診することにしました。
その結果「適応障害」と診断され、精神安定剤、睡眠導入剤を処方してもらい、三か月の休職期間を取って自宅療養しました。

復職後も大規模なリストラプログラムが走って、担当顧客数が倍増した時など同様な心因性の症状が発症し、「気分障害」という診断を受け、薬の処方量を調整しながら再び自宅療養を行う日々となりました。

ここで適応障害と気分障害の差異は、、

適応障害とは、発症の原因が環境にある場合を示し、気分障害は自身の気分調整に障害がある場合を示すとのこと。
明確に診断することは難しいらしいが継続的に症状が続き、環境要因が好転しても改善が見られない場合は気分障害と診断されるそうです。


心療内科と精神安定剤(デパケン、デパス)、睡眠導入剤(グッドミン)とは約10年間の付き合いとなります。

自分の体調と休息の取り方にも徐々に慣れて三年半前から外資系ストレージベンダに転職し、サポートパートナー向けの営業支援職を行っています。
現在のこの会社でも2015年3月頃から、所属する組織が国内法人の営業部門配下からUS本社のパートナー担当部門配下に大きく異動する変化があり、上司がシンガポール人、アメリカ人に変更となる変化が始まりました。
二週間に一度の進捗報告会議は時差を勘案しての深夜の電話会議となり、コミュニケーションはすべて英語へと変わりました。

加えて2016年3月、US本社での業績不振のあおりで全社的なリストラプログラムが実行され、元上司と同僚が会社都合退職、同僚が他部署に異動となり、彼らの担当業務を一手に引き継がざるを得ない状況が発生しました。
正確に血圧の推移は測定しておりませんが、この一年間血圧上昇や不整脈の認識はあったので、徐々に血管に負担をかけていたのではないかと考えられます。

そして娘の合唱団の卒団式で、極度な緊張を直接原因として血圧が上昇し動脈解離を発症したと考えられます。



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上腸間膜動脈解離 ~集中治療室に緊急入院~

2016-12-23 17:36:07 | 健康
つづき~

仕事を終えて午後に二次病院へ通院。

予定時刻より早めに通院して昨日とは別の内科当番医に問診・触診を受け、CT検査を受けました。
ここからが急転直下のジェットコースターでありました。

造影CT検査を受け、画像処理が完了すると診察を受けた内科医ではな循環器内科医から呼ばれました。
待合室で絶対安静のため車椅子に乗るよう指示されました。嫌な予感が漂います。そして医師から、、

「上腸間膜動脈という大動脈から枝分かれし、小腸から結腸、膵臓を栄養する動脈があって、分岐部から5cmの部位に解離が認められます。」

と告げられた。続けて、、

「解離が進み閉塞されて血流が確保できなくなると小腸以下の壊死が始まり、最悪死に至ります。」
「この後すぐに集中治療室(ICU)に入院し、三週間程度の血圧管理と非凝固剤投与、絶飲食による緊急処置を行います。」
「ご家族にすぐに連絡して入院準備を整えてください。」

ここまで驚きや狼狽、絶望感などは全くなく、まるで他人事のように淡々と事実を受け止めている自分に気づいていました。
むしろ激痛の原因がわかり合点がいった感覚が強く、そのあと追って、、

「仕掛中の仕事をどうするか、人事的な手続きをどうするか、家族は連絡して入院手続きを代わって行うことができるか」

という現実的な「やることリスト」が頭に浮かんできました。が何もできません。

まさか入院になるとは予想もしておらず、着替えや洗面道具など何の準備もないまま登院し、そのままの格好でストレッチャに乗せられて天井を仰ぎ見ながら集中治療室に運び込まれる自分を優待離脱したかのように客観的に見ていました。

集中治療室の中に入ると、4-5名の看護師に非常に手際よく検査着への着替えを済ませてもらい、各方面への連絡をままならないまま携帯電話の電源を切りました。例外的に主治医から家内へ直接症状の説明を行ってもらいましたが、連絡手段はその場で途絶えました。

主治医から治療方針の説明があり、

・これから一週間は点滴のみで絶飲食となること、
・血圧降圧剤と非凝固剤で完全管理し絶対安静とすること、
・そのためベッド上での寝返りも禁止、
・排尿はバルーンを入れて量を管理する、

と矢継ぎ早に目的とともに告げられました。
全身を医師・看護師に託した治療がこうして始まりました。

~つづく~



上腸間膜動脈とは、、、(引用;Wikipedia)

(英:superior mesenteric artery; SMA)は腹部にある動脈の1つであり、通常、腹腔動脈の下方で腹大動脈の前面から生じる。上腸間膜動脈は十二指腸の下部から横行結腸の3分の2までの腸と膵臓を栄養している。



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上腸間膜動脈解離 ~通院から判明まで~

2016-12-23 17:18:13 | 健康
つづき~

自力でクルマを運転して帰宅した後のこと。

仰向けの状態では痛みが増すので俯せにうずくまって何とか就寝しましたが眠りは浅く十分に睡眠がとれません。
翌朝、近所の掛かりつけ内科医を受診し、血液検査、尿検査を行ったが動脈解離には結びつけることはできず、痛みの箇所から類推して消化剤と整腸剤、痛み止めが処方されました。これは2016年3月28日(月曜日)でありました。

翌日、午前中にお客様先への訪問予定が入っていたため、痛みを携えつつも出社し予定通りに時間の打ち合わせを終了しました。
ただし痛みのためか血液の状態が悪化していたためか、めまいを伴うようになり午後お休みと取って、再度内科医を受診しました。
もう一度血液検査を行ったところ、(正確に記憶しておりませんが)白血球値、CRP値、Dダイマー値が上昇しており、その場で二次病院への紹介状を準備していただき入院設備のある地域の大きなに行くことになりました。

バスと電車を乗り継ぎ向かいましたが、かなり続々と寒気がしていたのでこの時点で微熱があったと思われます。

この病院では当初内科に掛かりましたが、同じく問診だけでは動脈解離には至ることができず、

「せっかく二次病院に来たのだから精密検査を実施しましょう。内視鏡が良いですか? それとも造影CT 検査が良いですか?」

という選択が迫られ、「造影CT検査」を選択したのが本当に幸運だったと後になってわかります。
いつも非常に混雑している病院ではありましたが奇跡的に翌日のCT検査に予約することができ、この日は原因不明のまま腹痛を携えて帰宅することにしました。これは2016年3月29日(火曜日)でした。

私には中学生時代に学習塾で知り合って、今も続いている内科・泌尿器科の医師の友人がおり、痛みで寝付けない真夜中に状況を説明してアドバイスを求めていました。
彼曰く「胃腸の潰瘍や炎症であれば血液検査である程度判別可能であるし、膵臓や肝臓の急性疾患でも判別可能である。痛みは最大のサインであるから夜中に増した場合は、遠慮せず救急車を呼んで二次病院を指定して掛かるべき」とのことでした。

この痛み。定量的に図ることができず、我慢してもよい痛みかそうでないかは判断が難しいです。

我慢できない痛みではなかったので二次病院の開院時間まで待ったうえで、外来窓口に電話で状況を伝えました、残念ながらその場では「予定通りCT検査を受けてください」というものでした。

~つづく~


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上腸間膜動脈解離 発症

2016-12-23 16:32:04 | 健康
何の前触れもなく2016年3月27日(日曜日)の夕方、上腸間膜動脈解離を発症しました。

その後の入院、職場復帰、闘病記を順次記していきます。

この病気の直接的な原因はまだ分かっておらず、公的な二次病院においても症例は年間2例程度とのことでした。

このページにいらっしゃった方の家族・友人・同僚・知人で類似した病名に遭遇し、情報を必要とされている方のお役に立てれば幸いです。



~○~○~○~

その日は高校三年生の次女が十年間続けてきた、地域の少年少女合唱団の定期演奏会が開催され、高校卒業とともに卒団する最後のレセプション(卒団式)が団員とその家族によって催されました。
私も埼玉県の県立高校(男子校)に通っていた時期、同じように合唱団(グリークラブ)に所属し学生指揮者を務めていたので、「合唱」との付き合いは親子二代続いていることになります。

卒団式ではこれまで指導に当たってくださった先生諸氏のパフォーマンスがあったり、パートごとに演目を決めて演奏発表する習わしがあったが、次女の発案により今回は卒団生とその父兄も入って、合唱団で歌い継がれてきた曲目を一緒に演奏する試みとなりました。
団員の両親も合唱好きである確率は高く、そこそこ練習すれば楽しんで演奏できる良い提案でした。

私も二週間前から休日を利用して卒団生とともに音取りや練習を行い、緊張しながらも楽しみに当日に臨みました。
参加する父兄はみな緊張感が高まり、口々に「食べ物が喉を通らない」や「手汗が止まらない」と固い笑顔で言っていました。
そのプレッシャーが伝播しはじめ自分も血圧と心拍数が上昇していることはよく認識しておりました。

そして演奏。♪遠い空の下で

指揮・伴奏の若干の乱れはありましたが、先生各位の顔に驚きや微笑みを見て取ることができて、何とか最後まで丁寧に歌うことができました。
「終わってよかったね」とか「まだ足が震えてる」とか何とも言えない達成感で各自席に戻っていきました。

その直後でした。

卒団生の父兄に食事と飲み物が振る舞われ、満足感とともに談笑しながら二口三口進めたときでした。
経験したことのない腹部が硬直するような激痛が、みぞおちの深い部分で起こり、座った姿勢で食事を続けることができません。
冷汗が止まらず腹を伸ばした状態で掌を当てていても一向に収まる気配はありません。
あと少しで娘の卒団の挨拶が始まるし、上座に席をいただいていたので部屋から退出することもはばかられます。
何とか我慢しながら堪えることができ休憩時間までやり過ごしていました。

高校二年生当時 合唱団全体のリーダーを務めた娘もこれまでの思いと後輩への期待を語り、涙々のうちに幕を閉じました。
痛みに慣れてきた私はクルマを運転して家族を乗せ帰途に就きました。

本当はこの段階で救急車をお願いするべき状況だったとおもいます。

発症時、49歳8か月でした。

~つづく~

合唱団がレコーディングに参加した作品へのリンクを記します。

冨田勲イーハトーヴ交響曲 ISAO TOMITA SYMPHONY IHATOV [Blu-ray]
日本コロムビア