
客車の大型化や車体の鋼体化に伴う編成重量増加に対応するために登場した
蒸気機関車である。
昭和3年~5年にかけて97両が製造された。
本形式は諸外国の蒸気機関車を参考に設計された、国産唯一3シリンダー機である。
3シリンダー機とは、通常の左右のシリンダーの他に車体中央にもう一つシリンダーを
設けた機関車のことである。
仕組みは左右のピストン棒の先端に取り付けられた連動大テコと車体中央の
台枠とピンで固定された連動小テコの2つのテコの働きによって、
左右のシリンダーの動きから、中央シリンダーの動きを生み出すものである。
メリットしては、トルクの変動が抑えられ、動輪の空転も減り、軌道に対しての
負荷がかかりにくいこと、低速域での牽引力が大きいこと、シリンダーブロックが
重たくなるため、ボイラーを大きくしても重心が高くならないこと、
シリンダーの排気回数が増え、ボイラー内の通気性が上がり、石炭の不完全燃焼を
起こしにくいことなどである。
デメリットは、パーツ数が多く整備が難しいことと、その整備が適正に行われ、
部品同士の連動を維持しなければならないことである。
特に大小連動テコの部分は、この機構で最も負荷のかかる部分でありながら、
連動させるタイミングに狂いが許されない重要な部分で、ここを適切に維持できる
保守技術が必要とされた。
本形式は設計陣が、今一つ3シリンダー機の構造について理解が出来ていない部分があり、
台枠の強度不足による亀裂の多発、連動テコの剛性不足による変形とそれによる
第3シリンダーの動作不良、または起動不能などのトラブルが多発した。
特にメタル焼けが発生しやすかった第3シリンダーは、レール幅の狭さに起因する
スペースの無さから、注油するのに想像を絶する困難が伴う(走行中にメタル焼けを
起こした際、台枠の中に入り込んで注油するという正に決死の作業もあったという)など、
手のかかる機関車であり、保守陣には特に嫌われたという。
しかし、適正に整備された本形式は走行時の振動が少ないこと、運転台が広いこと、
ボイラーの蒸気の上がりのいいこと、牽引力があることから乗務員からの評価は
高かった。
特に乗り心地の面では後に登場するC59やC62よりも良かったと伝えられている。
運用としては、主に東海道・山陽本線の特急や急行の牽引を担当した。
超特急「燕」では箱根越え(丹那トンネル開業前は現在の御殿場線経由で運行されており、
山北から補助の機関車が連結されていた。速度を維持するため、走行しながら
補助機関車を切り離す離れ業もやっていた)の補助機関車として、
また丹那トンネル開通・沼津電化後は、沼津以西の牽引機として運行された。
昭和9年には流線型の世界的なブームにあわせ、梅小路機関区(今の梅小路蒸気
機関車館)に所属していた43号機を流線型に改造している。
主な改造内容は、前頭部を斜めに切り、車体全体と炭水車を流線型のカバーで覆う、
運転室の密閉化と炭水車との間に幌を取り付けるといったものである。
完成当初はチョコレート色に塗られ、すっかり変わった外見と共に異彩を放っていたが
塗装はすぐに黒色に戻されている。
流線型ブームでは空気抵抗の軽減による速度向上が標榜されたが、当時の100km/hに
みたない速度では、その効果は薄く、むしろ、機体周辺の空気の流れを適正化して
煙が纏わりつかないようにすることと、通過駅などで乗客に及ぼす風圧を軽減させることを
目的としたという。
同機は昭和12年に梅小路所属の本形式の特急運用が無くなるまで、「燕」の名古屋~
神戸間の牽引を担当した。
その外見から利用者からは好評を博したが、運転席が密閉されたことにより、
ボイラーの熱がこもりやすく、機関士からは「蒸し風呂機関車」といわれて
評判は悪く、カバーの取り外しなどに手間がかかり、整備時間は本形式の通常型の
倍の時間を要したなど、ただですら手間のかかる機関車に、更に余計な手間がかかるという
悪循環が加わり、特急運用撤退後は、外せるカバーについては撤去されている。
昭和15年以降、本形式と同水準の牽引力と速度を維持できる通常の2シリンダー式
蒸気機関車C59形が登場すると、特急運用を失った。
元々、本線向けで設計された本形式は、当時としても大柄で、東海道・山陽本線以外に
転用ができなかった。
しかし、すぐに戦争に突入して機関車の需要が逼迫し、本形式も駆り出されること
になった。
これにより、本形式は、はからずも寿命を延ばしたが、元々、複雑極まる
構造であった上、酷使と整備不良から、戦後になると運用を離脱する車両が
相次いだ。
結果、国産の大型蒸気機関車としては最も早い昭和24年~25年にかけて
全機が廃車となった。
廃車後は45号機が国鉄吹田教習所で教習機として使われた後、鷹取工場に放置されていた。
昭和37年に鉄道90周年事業で大阪・弁天町に交通科学館(現在の交通科学博物館)が
開館した際に保存されることになり、前年の昭和36年に動ける状態にまで
復元され、記念走行を行った。
その後、梅小路蒸気機関車館に移設され、本形式現存唯一の機体として保存されている。
この他に57号機が浜松工場で教習用にボイラーを切開した状態で展示されていたが、
新幹線開業に伴う、工場の拡張の際に解体されている。
また、昭和24年に廃車となった分の炭水車のうち32両分は糖蜜専用貨車
タキ1600形に改造された。
これは石炭庫を取り払い、下部の水槽をタンクとして利用したもので、
旧運転台側で2両を永久連結して1両として扱ったものである。
車番は「タキ16××前+タキ××後」と表記された。
こちらも概ね昭和30年代中頃までに廃車されている。

動輪部分のアップ。

運転台。今の目で見ても、結構、広めの運転台である。

キャブ横の展示台から前部側を臨む。
蒸気機関車である。
昭和3年~5年にかけて97両が製造された。
本形式は諸外国の蒸気機関車を参考に設計された、国産唯一3シリンダー機である。
3シリンダー機とは、通常の左右のシリンダーの他に車体中央にもう一つシリンダーを
設けた機関車のことである。
仕組みは左右のピストン棒の先端に取り付けられた連動大テコと車体中央の
台枠とピンで固定された連動小テコの2つのテコの働きによって、
左右のシリンダーの動きから、中央シリンダーの動きを生み出すものである。
メリットしては、トルクの変動が抑えられ、動輪の空転も減り、軌道に対しての
負荷がかかりにくいこと、低速域での牽引力が大きいこと、シリンダーブロックが
重たくなるため、ボイラーを大きくしても重心が高くならないこと、
シリンダーの排気回数が増え、ボイラー内の通気性が上がり、石炭の不完全燃焼を
起こしにくいことなどである。
デメリットは、パーツ数が多く整備が難しいことと、その整備が適正に行われ、
部品同士の連動を維持しなければならないことである。
特に大小連動テコの部分は、この機構で最も負荷のかかる部分でありながら、
連動させるタイミングに狂いが許されない重要な部分で、ここを適切に維持できる
保守技術が必要とされた。
本形式は設計陣が、今一つ3シリンダー機の構造について理解が出来ていない部分があり、
台枠の強度不足による亀裂の多発、連動テコの剛性不足による変形とそれによる
第3シリンダーの動作不良、または起動不能などのトラブルが多発した。
特にメタル焼けが発生しやすかった第3シリンダーは、レール幅の狭さに起因する
スペースの無さから、注油するのに想像を絶する困難が伴う(走行中にメタル焼けを
起こした際、台枠の中に入り込んで注油するという正に決死の作業もあったという)など、
手のかかる機関車であり、保守陣には特に嫌われたという。
しかし、適正に整備された本形式は走行時の振動が少ないこと、運転台が広いこと、
ボイラーの蒸気の上がりのいいこと、牽引力があることから乗務員からの評価は
高かった。
特に乗り心地の面では後に登場するC59やC62よりも良かったと伝えられている。
運用としては、主に東海道・山陽本線の特急や急行の牽引を担当した。
超特急「燕」では箱根越え(丹那トンネル開業前は現在の御殿場線経由で運行されており、
山北から補助の機関車が連結されていた。速度を維持するため、走行しながら
補助機関車を切り離す離れ業もやっていた)の補助機関車として、
また丹那トンネル開通・沼津電化後は、沼津以西の牽引機として運行された。
昭和9年には流線型の世界的なブームにあわせ、梅小路機関区(今の梅小路蒸気
機関車館)に所属していた43号機を流線型に改造している。
主な改造内容は、前頭部を斜めに切り、車体全体と炭水車を流線型のカバーで覆う、
運転室の密閉化と炭水車との間に幌を取り付けるといったものである。
完成当初はチョコレート色に塗られ、すっかり変わった外見と共に異彩を放っていたが
塗装はすぐに黒色に戻されている。
流線型ブームでは空気抵抗の軽減による速度向上が標榜されたが、当時の100km/hに
みたない速度では、その効果は薄く、むしろ、機体周辺の空気の流れを適正化して
煙が纏わりつかないようにすることと、通過駅などで乗客に及ぼす風圧を軽減させることを
目的としたという。
同機は昭和12年に梅小路所属の本形式の特急運用が無くなるまで、「燕」の名古屋~
神戸間の牽引を担当した。
その外見から利用者からは好評を博したが、運転席が密閉されたことにより、
ボイラーの熱がこもりやすく、機関士からは「蒸し風呂機関車」といわれて
評判は悪く、カバーの取り外しなどに手間がかかり、整備時間は本形式の通常型の
倍の時間を要したなど、ただですら手間のかかる機関車に、更に余計な手間がかかるという
悪循環が加わり、特急運用撤退後は、外せるカバーについては撤去されている。
昭和15年以降、本形式と同水準の牽引力と速度を維持できる通常の2シリンダー式
蒸気機関車C59形が登場すると、特急運用を失った。
元々、本線向けで設計された本形式は、当時としても大柄で、東海道・山陽本線以外に
転用ができなかった。
しかし、すぐに戦争に突入して機関車の需要が逼迫し、本形式も駆り出されること
になった。
これにより、本形式は、はからずも寿命を延ばしたが、元々、複雑極まる
構造であった上、酷使と整備不良から、戦後になると運用を離脱する車両が
相次いだ。
結果、国産の大型蒸気機関車としては最も早い昭和24年~25年にかけて
全機が廃車となった。
廃車後は45号機が国鉄吹田教習所で教習機として使われた後、鷹取工場に放置されていた。
昭和37年に鉄道90周年事業で大阪・弁天町に交通科学館(現在の交通科学博物館)が
開館した際に保存されることになり、前年の昭和36年に動ける状態にまで
復元され、記念走行を行った。
その後、梅小路蒸気機関車館に移設され、本形式現存唯一の機体として保存されている。
この他に57号機が浜松工場で教習用にボイラーを切開した状態で展示されていたが、
新幹線開業に伴う、工場の拡張の際に解体されている。
また、昭和24年に廃車となった分の炭水車のうち32両分は糖蜜専用貨車
タキ1600形に改造された。
これは石炭庫を取り払い、下部の水槽をタンクとして利用したもので、
旧運転台側で2両を永久連結して1両として扱ったものである。
車番は「タキ16××前+タキ××後」と表記された。
こちらも概ね昭和30年代中頃までに廃車されている。

動輪部分のアップ。

運転台。今の目で見ても、結構、広めの運転台である。

キャブ横の展示台から前部側を臨む。