在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
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5月19日(土)「高野山とハンセン病問題」フイールドワーク

2012年06月18日 12時08分57秒 | Weblog
ハンセン病回復者支援サポーターズ「虹の会おおさか」の高野山フイールドワークがありました。
案内は社団法人和歌山人権研究所の矢野治世美さん。テーマに関心が強かったのか、世界遺産である「高野山」とハンセン病のフイールドワークに20人以上の参加がありました。
高野山駅に11時集合し、バスで移動。一之橋近くの「禿法師(とくほうし)」(ハンセン病者)墓石群、阿弥陀堂、

重い刑に処せられた人が石子詰めにされた「蛇柳供養塔」前を通って中の橋へ、
さらに進むと参道左手に「高麗陣敵味方戦死者供養碑」が建っています。文禄・慶長の役で、戦死や病死した人々を供養するために、慶長4年(1599)、島津義弘とその息子忠恒によって建てられた供養碑です。この供養碑の特徴は、味方の軍兵だけではなく、李氏朝鮮・明国など、敵方の戦死者供養をも行なっていることにあります。
供養碑に記されている内容は次の通りです。

    慶長二年八月十五日於全羅(道)南原表大明国軍兵数千騎被
    討捕之内至當手前四百廿人伐果畢
    同十月朔日於慶尚(道)泗川表大明人八萬餘兵撃亡畢
     為高麗國在陣之間敵味方閧死軍兵皆令入佛道也

    右於度々戦場味方士卒當弓箭刀仗被討者三千餘人海陸之間
    横死病死之輩具難記矣 薩州島津兵庫頭藤原朝臣義弘 
    慶長第四己亥歳六月上澣 同子息少将 忠恒  建之 


奥ノ院から近い場所に「愛生園・光明園大師講慰霊碑」があるのも訪ねて、線香をそれぞれ供えて手を合わした。
当日資料にある1965年9月8日「朝日」によると「・・愛生園に収容されているハンセン氏病の全快者89人が高島重孝園長に引率されて10日高野山に集団参拝する・・・」とある。集団外出は初めて、高野山金堂でハンセン病療養所物故者追悼法会。以後も団体参拝は、続いた。岡山の西大寺市宝琳寺住職向井雅章大僧正と高野山の好意により実現した」という。
その後、昼食会場で精進料理をおいしく頂き、午後は、壇上伽藍(金堂・根本中堂・鎮守明神など)に移動した。また、当日資料の「大阪朝日」(1937年3月26日)によると、「大塔落慶法要を目ざし 大阪からレプラ群 大慌てゞ防止策に苦心」との記事がある。「・・・大阪府住吉管内に屯している浮浪患者十九世帯約六十名が大挙押しかけ物乞ひする車などを用意し準備中であると大阪府からの報に県衛生課はスワ大変と二十五日県下各署に管内への立ち入りを取り締まる一方、県内在住らい患者約百二十名(自宅療養)についても十分監視し“観光和歌山”を汚さないようにと通牒を発し・・・」とは、ちょうど、1937年2月の節分の日に「我孫子観音」で物乞いに集まった病者が検挙されるという事件直後のことである。大和川河川敷・その周辺で生活をしていた(故郷に住めず、やむなく)人たちだと推測できる。
高野参詣道(町石道・・大門付近、不動坂・・女人堂下の不動坂)添いの山中2ケ所に禿法師の居住地があったらしいが、1921年5月25日「大阪朝日」(和歌山版)には天幕を張って暮らしていた35名の患者を大阪府西成郡外島保養院に送ったとある。
1909年に第3区:2府10県連合立ハンセン病療養所「外島保養院」の収容の実態をする機会となった1日でした。大阪との関連に思わず案内の矢野さんの話に聞きいった。
西高野街道は堺の大小路が起点だが、どのくらいかけて高野山に移動したのだろうか?

さらに、奥ノ院近くの転軸山山麓に参詣道の患者を収容したと1931年4月24日「大阪朝日(和歌山版」にある。金剛寺より建物と敷地を寄付して52坪の敷地、間口6軒奥行割間の収容所を建築、先ず女4名、男14名を収容したとある。レプラ患者を発見次第同所へ一時収容するはず・・・との記事だ。
世界遺産となった高野山に外国人も多く訪れる時代である。隠れた民衆史を忘れてはいけないと思う。

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